ロバート・アルドリッチ『悪徳』と、その他のDVD新作について

悪徳 [DVD]



 蓮實重彦「オルドリッチを代表する1本となれば、『キッスで殺せ』や『ビッグ・ナイフ』をはじめとする初期の白黒スタンダードの硬質な作品」だと、著書の『映像の詩学』で記している。もちろんオルドリッチとはロバート・アルドリッチのことであり、『ビッグ・ナイフ』とは『悪徳』の原題である。しかし、この作品は日本では公開されず、90年代にWOWOWで放映されたことがあるだけとのこと。そんな作品がTSUTAYAでは先月からレンタルが開始となっている。

 『悪徳』はロバート・アルドリッチ監督の1955年の作品。ちょっと前に借りた『合衆国最後の日』(1977年)は、核爆弾を巡るテロリストと大統領の攻防という派手な映画だったが、この作品はまったく正反対な室内劇。
 冒頭にナレーションで簡潔に状況が語られる。「名前はチャーリー・キャッスル。職業は映画スター。悩みは地位の維持。彼は夢を売り渡したが、今も夢見る」と。ハリウッドの製作陣が本当にこんな連中だったとしたら恐ろしいと思わせるような内幕物。
 主人公は人気スターだが、会社に弱みを握られていて、つまらない映画ばかりに出ている。ハリウッドで地位を維持するのは大変だ。彼は友人の犠牲でなんとか今の地位を守っているが、そのために会社からは好きなように扱われている。妻はそんな夫を心配して、夫に会社と闘うことを求める。

 原作は戯曲で、この映画も一幕物の演劇のように、ほとんど主人公の邸宅のリビングだけで物語は進行するのだが、ラストの出来事は舞台の外部で生じる。このあたりは演劇的な手法をそのまま取り入れていて、見えない部分で起きていることを推測させるところがゾクゾクする。
 タイトルバックでは、主人公(ジャック・パランス)頭をかきむしり悩む姿がアップで映される。派手なアクションなどない心理的な葛藤劇なのだけれど、やっかいな相手を敵に回して、それでも「夢見る」ことを忘れることができずに闘い、そして敗れ去っていくジャック・パランスの顔がとてもいい。
 新作映画を観るのに映画館に通うのはもちろん好きなのだけれど、古い映画のほうが断然いいとなるとちょっと虚しくもなる。そんな気がした1本。

ある愛へと続く旅 [DVD]


 ペネロペ・クルスが老け役メイクで頑張る、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を背景にしたメロドラマ。矢継ぎ早に様々な出来事が起こっていく展開で、“壮大な予告編”(これは高橋源一郎がサドの小説について要約した言葉だったと思う)を観ているような気分にもなるが、ラストの意外な展開もあって楽しんだ。実話をもとにした作品が多いなか、正反対のメロドラマがかえって新鮮かも。冒頭のシーンが色彩感覚豊かでとても印象的。また、もうひとりの主役であるサーデット・アクソイの存在感もいい。


最愛の大地 [DVD]


 この映画も『ある愛へと続く旅』と同じくボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を題材にしている。ブラッド・ピット製作の『それでも夜は明ける』もかなり大真面目だったが、アンジェリーナ・ジョリーの初監督作品の『最愛の大地』も、戦争の悲惨さを描く大真面目な作品。女性監督らしく(?)戦争を題材としても、それにより敵と見方に引き裂かれる男女がテーマ。ドラマチックな結末だった。

フローズン・グラウンド [DVD]


 ジョン・キューザックニコラス・ケイジの対決を期待するも、ちょっとスカされた感じ。キューザックが連続猟奇殺人事件の犯人であることは明らかなのに、証拠がない故にケイジ=刑事は手を出せない。ケイジのイライラは観客のイライラでもあり、そうしているうちに証拠を握る女においしいところを持っていかれるという、スター共演にしては残念。

愛の原罪 [DVD]


 罪を犯した男と見守る女という『罪と罰』ふうのテーマ設定はいいし、サンダンス映画祭最優秀撮影賞(ミハウ・エングレルト)を受賞した撮影もいいと思う。それだけにラストがあまりに投げやりなのが惜しい。問題だけ出しておいて、解答がないクイズみたいだった(答えを推測できなくはないけれど)。主人公の若者はなかなかの二枚目。

天使の処刑人 バイオレット&デイジー [DVD]


 尼さん姿の少女がふたり、タランティーノ風の無駄口を叩きながらターゲットを暗殺する。無駄口の出来がタランティーノほどではないのは仕方ないとしても、それ以降がさっぱりだった。主役のふたり(シアーシャ・ローナンアレクシス・ブレデル)はとてもかわいらしいのだけれど、それだけでは……。
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Date: 2014.03.31 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『フルートベール駅で』 “叫ぶこと”と“悼むこと”

 監督・脚本のライアン・クーグラーは、この映画がデビュー作。製作には『大統領の執事の涙』で主役を演じたフォレスト・ウィテカー。主役は『クロニクル』にも出ていたマイケル・B・ジョーダン。その他の出演はメロニー・ディアス、オクタヴィア・スペンサーなど。

ライアン・クーグラー 『フルートベール駅で』 オスカーと娘のタチアナ

 何の罪もない黒人青年が白人警官に撃たれて死んだ、実際の事件をもとにした作品。町山智浩によると、同時期には黒人少年が自警団の白人に射殺される別の事件もあって、全米では大規模なデモも行われたとのこと。この映画に描かれる事件も、“黒人に対する差別”という文脈で話題になったのだと思われる。
 しかし、この映画『フルートベール駅で』では、人種差別を声高に訴えることはない。問題意識を煽るというよりも、殺された青年がどこにでもいるごく“普通の若者”だということを描いていくのだ。映画の冒頭、目撃者によって実際に撮影された映像で、事件の顛末は知らされる。2009年の元旦、フルートベール駅において、主人公のオスカー青年は死ぬことになる。
 映画はオスカー青年の最後の時間を淡々と追って行く。2008年の大晦日(つまり死ぬ前日)、その日はオスカーの母親の誕生日で、満ち足りた家族団欒の風景が見られ、夜が更ければ仲間とのカウントダウンのお祭り騒ぎが描かれる。年越しのイベントを別にすれば、ごく平穏な1日だったのだが、それは突然の事件で忘れがたい日になる。観客は、次の朝日を見ることなく死ぬ運命のオスカーの1日を追うわけで、哀惜の念を抱きながら見守ることになる。撃たれたときオスカーは「娘がいるのに……」と漏らす。娘を演じた子役のかわいらしさもあって、その無念さにはやはり涙を禁じえないだろう。

『フルートベール駅で』 オスカー青年は白人警官に捕まえられる。

 そもそも事件のきっかけに人種差別があることに間違いはない。マッチョな白人警官がオスカーを組み伏せたのはそういう意識からだ。ただ決定的な1発を放ったのは別の警官で、騒然とした捕り物にパニックとなって撃ってしまったようだ。実際の裁判でも過失致死となり、わずかな刑期で済んだものらしい。
 また、ニューイヤーのカウントダウンに電車で行くというのは母親の助言があればこそだし、敵対するグループに見付かるのも間が悪い挨拶がきっかけだった。善意や親切が必ずしも良い結果を導くわけではないという点では皮肉だが、それはありふれたことだ。とにかくこの映画では、人種差別が引き起こした事件というよりは、悪い偶然が重なった不運として描かれているのだ。
 監督・脚本のライアン・クーグラーは黒人だし、この事件が注目を浴びたのも人種差別という文脈だ。最後には、オスカーの死をメディアなどに訴えかける運動の実際の映像が使われているように、やはり人種差別に対する叫びが当然あるだろう。それは最近の『大統領の執事の涙』『それでも夜は明ける』でも同様だ。
 しかし『フルートベール駅で』は、方法論として事実に忠実に、もしくは、明確な善悪を決め付けずに描いたことで、どっちつかずな印象も強い。(*1)“人種差別の被害者としてのオスカー”と“どこにでもいる若者としてのオスカー”、そのどちらに重きがあるのか。換言すれば、人種差別を叫びたいのか、若者を悼みたいのか、そのあたりが曖昧なのだ。もちろん現実は曖昧なままなわけだけれど、監督・脚本のライアン・クーグラー自身どちらに傾くか揺れ動いているようにも思えた。『それでも夜は明ける』には、人種差別に対する主張を叫びすぎてしらけたが、こうした題材は立ち位置が難しいのかもしれない。

(*1) もし“普通の若者”の部分を際立たせるなら、遺族の悲しみや怒りを描いたあとに、遡って1日を追い、保育園で子どもと競争をする場面で終わらせてもよかったと思う。とりあえず「ありきたりな日常こそが奇跡」といった、これまたありきたりな意味合いになるかもしれないが、“普通の若者”の悲劇は強調される。

フルートベール駅で [DVD]


Date: 2014.03.26 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

三浦大輔監督 『愛の渦』 空回りする“高度なギャグ”

 監督は劇団「ポツドール」の三浦大輔。商業映画としては『ボーイズ・オン・ザ・ラン』に続く2作目とのこと。『愛の渦』は三浦大輔が脚本・演出をし、岸田國士戯曲賞を受賞した戯曲で、今回はその映画化作品。
 出演は池松壮亮、門脇麦、新井浩文、柄本時生、窪塚洋介、田中哲司など。
 私が鑑賞したのはサービスデーの夜だったが、客席は8割くらい埋まっていた。“着衣時間はわずか18分半”というエロに惹かれたのか男性のほうが多いようだったが、池松壮亮の人気なのか女性客の割合もそこそこだった。

三浦大輔 『愛の渦』 主催者の店長(田中哲司)はパーティの開始を宣言する。左手には店員の窪塚洋介。

 舞台は都内のマンションの一室で開催された乱交パーティ。午前0時を回ると、主催者らしき男性が諸注意を述べて、「それでは5時までお楽しみください」とパーティの開始を宣言する。
 集ったのは、男性4人と女性4人。すでにそれぞれシャワーも済ませ、バスタオルを巻き準備万端。目的は“乱交”と決まっているわけで、どんなにかいかがわしいやりとりが開始されるのかと思うと、意外とそうでもない。仕切り役がいなくなったパーティは、急に静けさが支配してぎごちない雰囲気。実際のそうしたパーティのことは知らないから、意外なこともないのかもしれないが、ほとんど裸になってはいても、心までがあからさまになるわけもなく、そこから先の交渉は普通の人間関係とさして変らないようだ。
 『愛の渦』は、“乱交パーティ”が題材とされていても、変態チックな行為を描くという趣旨ではないようだ。「そういう行為を見られるのは平気?」と女性が訊ねる場面がある。交渉のあと「いざ」ということになると、交渉の場であるリビングから階下のプレイルームに降りていくのだが、その場所は4つのベッドが仕切りなどなく並んでいて、自分たちの行為もほかの組の行為も当然晒されることになる。
 しかし、この映画では同時にそうした行為を捉える場面はほとんどない(カメラが渦のようにぐるぐると回りながら、絡み合う4組を捉える場面くらい)。また他人の行為を傍から眺める場面も、それほど強調されるわけではない。この映画は乱交そのものよりも、特異な場所に集まった人たちの会話劇のほうに主眼があるし、無口なニート青年(池松壮亮)と大人しくて地味な女子大生(門脇麦)、そんなふたりの視線のやりとりに物語は焦点化していく。(*1)

 ※ 以下、ネタバレもあり。ラストにも触れています。


『愛の渦』女子大生(門脇麦)はニートに視線を向ける。


 まずフリーター(新井浩文)がOL(三津谷葉子)を誘って階下へ向かう。次に会社員(滝藤賢一)が保育士(中村映里子)と消え、常連の女(赤澤セリ)と童貞(駒木根隆介)の関係が決まり、残ったふたりがニートと女子大生だったわけで、ふたりは自分たちでは何の行動もせずに何となく相手が決まり、プレイルームへ向かうことになる。実は女子大生は地味で大人しいけれど、性欲が強いらしく、行為の最中には誰よりも大きなあえぎ声で応える。無口なニートはそんな女子大生に惹かれ、乱交のためのパーティなのに彼女を手放したくなく、フリーターには「恋なんかしてんじゃねえよ」と毒づかれることになる。

 “乱交パーティでの恋”がテーマかと思うと、ラストではひっくり返されることになるわけだが、その前にもそれは予告されている。一部では相手の交換(スワップ)も行われ、2回戦も終わったころ、途中参加のカップルが登場する。このカップルはそれぞれ違う相手を求めて参加してきたはずで、「スワップによって愛を深める」などと言いつつ、彼女のほうがニート青年に跨って行為を始めると、彼氏は途中でふたりに割って入ることになる。
 彼氏は彼女を試すつもりで、乱交パーティへの参加を話題に出したのだろうが、彼女にはそれが通用しなかったわけだ。彼氏はそれを“高度なギャグ”だと語る。それがギャグとして成り立つには、彼女の側がそれを冗談として受け止め、ツッコミを入れなければならないわけで、この場合は真に受けてしまっていてギャグになっていない。
 “高度なギャグ”は、一度は相手に下駄を預けなければならず、相手の反応まで考慮の上で初めて成り立つものなのだ。間抜けなカップルは何度も肌を合わせていても、結局は互いのことをわかっていなかったわけで、だからこそ“高度なギャグ”は空回りする。

 ニートと女子大生の関係も同様だ。ニートは恋する気持ちで彼女を見ているし、女子大生がニートに送る視線も同様のものとも思えた。しかし、見つめ合うふたりの意味合いは、ラストのエピソードで変容する。交渉場でのニートの秘かな視線に応えるかのように見えた女子大生だが、実はあまりに一途すぎるニートが、彼女のスワップを邪魔するのを恐れていたのかもしれないのだ。身体は裸になっても、心まではあからさまにはならなかったわけだ。(*2)
 ラストでは、パーティを離れたニートと女子大生が喫茶店で互いに自己紹介をする。「加藤何某」と「鈴木何某」という名前は、ニートのほうは本名だろうが、女子大生のほうは偽名のような気もする。彼女は周囲の友達を腐す発言もしていたし、恋なんてことも糞みたいに思っているのかもしれず、見た目の地味さとは違って苛烈な何かを秘めている様子でもある。門脇麦が演じた女子大生は実はひどい女なのだろう。でも、その振舞いは恐らく無自覚で、ひどさを微塵も感じさせないような世慣れない雰囲気がよかった。あの場では、ニート青年は自分がフラれたことに気がつかなかったかもしれない。
 劇団「ポツドール」のことは知らないのだが、三浦大輔が監督した映画『ボーイズ・オン・ザ・ラン』では、漫画版やドラマ版のそれとは異なる終り方をしていた。ここでも主人公はひどくフラれることになるのだが、“惨めな男”というのが三浦大輔のモチーフなんだろうか。

(*1) 上記の文章では便宜的に名前を付けているが、映画のなかでは誰も自己紹介をしない。だから、誰がほかの誰に呼びかけるときも曖昧な呼びかけで、周囲の人物の視線が集まることで呼びかけている相手が理解されることになる。
 また、主役のふたりがほとんどしゃべらないのにも関わらず、この映画の中心にいるのは、ふたりの視線のやりとり自体がドラマとなっているから。

(*2) たとえばフリーター(新井浩文)なんかの振舞いを見ていると、単純で心もあからさまなようでもあるけれど、これは彼がコミュニケーション・スキルに長けているからとも思える。「恋なんかしてんじゃねえよ」というけんか腰の言葉すら、後段で“高度なギャグ”としてしまう機転もあり、そんな人は空回りすることも少ないのかも。


愛の渦 特別限界版 [DVD]


愛の渦 [DVD]


ボーイズ・オン・ザ・ラン [DVD]


Date: 2014.03.16 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

アカデミー賞作品賞 『それでも夜は明ける』 何だか後ろめたいような……

 『SHAME -シェイム-』スティーヴ・マックィーン監督作品。
 出演はキウェテル・イジョフォー、マイケル・ファスベンダー、ルピタ・ニョンゴ、ブラッド・ピットなど。
 アカデミー賞では作品賞と助演女優賞(ルピタ・ニョンゴ)など3部門で受賞した。

スティーヴ・マックィーン監督 『それでも夜は明ける』 アカデミー賞作品賞受賞作。 


 時代は、南北戦争も奴隷解放宣言もまだまだ先の1841年。ニューヨーク州で自由黒人としてヴァイオリン奏者をしていたソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)は、妻と子供と平穏無事に暮らしていた。ある日、二人の男に頼まれて演奏に出向くと、設けられた酒席が終わり目を覚ましたときには、首に鎖を付けられている。ソロモンは騙されて奴隷として南部に売られていく……。


 原題が「12 Years a Slave」であるように、ソロモンは12年の長きに渡って奴隷として過ごすことになる。この映画を観ると、公民権運動の歴史に親子のドラマを重ねて娯楽作にしていた『大統領の執事の涙』は、かなりぬるま湯だったという気がしないでもない。そのくらい奴隷の身分に陥ったソロモンの境遇は過酷だ。『大統領の執事の涙』においても、南部の黒人に対する扱いにケネディが「どこの国の話だ」などとつぶやく場面があった。『それでも夜は明ける』の時代は、さらに100年以上前のことだけに、その過酷さは信じられないくらいだし、いつまでも覚めない悪夢のようだ。肉が裂けるほどの鞭打ちとか、首吊りにしたまま放置されたりとか、奴隷はほとんど家畜のような扱いしかされていないのだ。この映画はアメリカにおいて黒人が辿った悲惨な過去をただひたすら映し続ける。

 たとえばこの時代に自由な身分の黒人がいたことなど、色々な部分でこの映画の資料的価値は高いと思うし、「普遍的な真理のもとでは奴隷制度は間違っている」という主張など、ぐうの音も出ない正論なわけで、それについては反論のしようもない。だが、一方でアメリカの暗い歴史を暴くことばかりに寄りかかりすぎた印象も強い。奴隷になったソロモンたちは主人の横暴にもただ耐えるばかり。(*1)ソロモン自身は「耐える気はない。生きるだけだ」などと言ってもいるが、状況的にはただ虐げられるばかり。とにかく生きて、ただ生きて、それでも生きて、永遠に続くかと思われた悪夢だが、ひとりの善意によって呆気なく終わる。劇映画としてのドラマツルギーなど無視していて、事実をもとにした映画とは言え、何とも安易な展開だと思う。また、プロデューサーも兼ねたブラッド・ピット演じる白人が滔々と演説を打つあたりもちょっとしらけ気味。

『それでも夜は明ける』 真ん中は助演女優賞に輝いたルピタ・ニョンゴ。

 『それでも夜は明ける』の結末には、奴隷から解放されたカタルシスはない。しかしカタルシスがない分、訴えかけるものはある。主人公ソロモンの立ち位置が重要で、彼は自由黒人から奴隷へと堕ち、再び解放される。ソロモンはかつて自分が自由だったときには、そのほかの黒人が奴隷となっていることに心を尽くすことはなかったわけだが、12年間の奴隷を体験した後ではその風景は違ったものに見えるだろう。パッツィーのような同胞を地獄に残して自由になったとして、元の生活を無邪気に享受することなどできないはず。ソロモンは自分だけ運よく助かってしまうわけで、そこにはどうしても“後ろめたさ”が生じる。そうした感情はソロモンをのちに黒人解放の運動に駆り立てることになったようだ。
 それと同じことで、この映画を観てしまったら、安穏としていられないような気分になるだろう(特にアメリカ本国ではそうだろう)。観客はソロモンと同じように奴隷となるような体験を味わったわけで、観終わったあとでは黒人に対する差別という問題に対してどうあれコミットしなければいけないような、そんな切迫したものを感じないだろうか。アカデミー賞もそうした心証が影響しないわけがない。そんな重要な映画を採算を度外視して製作したブラッド・ピットは偉いし、奴隷制に対する批判の声を挙げるためにもこの作品は評価しなければならない。そんな気持ちもあったのかもしれない。
 作品賞以外では3人の役者がアカデミー賞にノミネートされているが、実際に賞を獲得したのは、映画のなかで一番ひどい目にあったパッツィーを演じたルピタ・ニョンゴだというのも、そうした“後ろめたさ”からと考えるのは斜に構えた見方だろうか。とりあえず、こんなテーマの作品を差し置いて、テーマパークのアトラクションみたいな『ゼロ・グラビティ』に投票するのは憚れたのかもしれない。『ゼロ・グラビティ』を能天気に楽しんだ観客としてはちょっと複雑な気分ではある。

(*1) 虐げられる黒人たちの対応の仕方は、泣き暮らしたり、逆に農作業に精を出したりと様々とはいえ、あまり濃淡の差がなく一様にも感じられた(自由がない彼らが目立ちすぎても碌なことにならないのも確かだが)。それよりも黒人を抱える白人たちのほうが多彩で、それぞれ個性的な姿で描かれていた。特にマイケル・ファスベンダーの演じるエップスは、優秀な黒人奴隷のパッツィーを所有物として好きに扱うわけだが、同時に愛してもいて、どうしてもそれを認められないから彼女を罰するという屈折ぶりであり、こちらに興味を覚えてしまう。

それでも夜は明ける コレクターズ・エディション(初回限定生産)アウターケース付き [DVD]


SHAME -シェイム- スペシャル・エディション [DVD]


Date: 2014.03.13 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (1)

マシュー・マコノヒー主演作 『MUD‐マッド‐』 少年の成長物語?

 『テイク・シェルター』ジェフ・ニコルズ監督の作品。
 タイトルロールのマッドには『ダラス・バイヤーズ・クラブ』でアカデミー賞主演男優賞を獲得したマシュー・マコノヒー。少年役はタイ・シェリダンとジェイコブ・ロフランド。

ジェフ・ニコルズ監督 『MUD‐マッド‐』 アカデミー賞を獲得したマシュー・マコノヒーの主演作

 闇に乗じて家から抜け出し、ボートで川へと漕ぎ出すエリス(タイ・シェリダン)とネックボーン(ジェイコブ・ロフランド)。冒頭の様子では家出少年の冒険譚を想像させる。もちろんそういう部分もあるのだが、主人公エリスは別居の相談がなされているらしい両親と共に、川べりのボートハウスに住むことを嫌っているわけではない。むしろ住み慣れたそこを離れることは、愛し合うべき父と母との別離を意味するゆえに恐れてもいる。むしろエリスの冒険は、外部の世界ではなく、愛という未経験な領域だ。
 冒頭で少年たちが見つけるのは大洪水で木の上に流れ着いたボートで、そこに隠れ住む男マッド(マシュー・マコノヒー)とも知り合うことになる。エリスはマッドが孤島のような場所でジュニパーという女性を待っていることを知り、そこに理想の愛し合う男女の姿を見る。マッドは彼女のために人を殺し、そのせいで警察や殺し屋から追われていたのだ。世間的には犯罪者にすぎないマッドだが、エリスは壊れかけた両親の関係と比べ、また始まったばかりの彼女との関係のモデルとして、マッドとジュニパーの姿に希望を託すのだ。
 マッドを窮状から救うために、エリスは協力を惜しまない。しかし、計画は土壇場でジュニパーの裏切りによって失敗となる。エリスはジュニパーの裏切りには失望するが、それであきらめてしまうようなマッドにはさらに怒りを露にする。結局、理想の男女という幻想は崩れ去ることになる。

 ※ 以下、ネタバレあり。

『MUD‐マッド‐』 木の上のボート。マッドと少年たちはこのボートを川へと戻す。

 ネックボーン役のジェイコブ・ロフランドがリバー・フェニックスを思わせるからか、現代版『スタンド・バイ・ミー』などと宣伝されて“少年の成長物語”と括られている『MUD‐マッド‐』だが、エリスはマッドから何を学び、どう成長したのだろうか。マッドが年少者を教え導く存在なら、自らの犠牲でもって年少者に範を示しそうなもので、当然マッドの未来には破滅が待っているものと思っていたのだが、途中で物語は急展開する。
 エリスの失望と怒りは別の事態を生む。島に生息する毒ヘビに咬まれてしまうのだ。マッドは自らの危険も省みずにエリスの命を助ける。このエピソードは感動的ではあるけれど、エリスのマッドに対する失望は消えぬままのはずだ。最後にエリスとマッドとの間で会話が交わされるものの、事態を説明するほどの余裕もなくラストの銃撃戦が始まってしまう。
 一方、マッドとジュニパーのふたりはエリスの知らないところで、一瞬だけ視線を交わし合い互いの気持ちを確認しあう。ふたりの間に愛はあったのだろうが、破滅に向かうようなものではなく、相手の幸福のためなら身を引くという言わば現実的な形だった。エリスはそのことを知る由もなく、つまり理想的モデルの失墜を受け止めたまま、銃撃戦のなかでマッドは姿を消してしまうのだ。エリスが愛の失墜という現実に向き合っただけならば、ほろ苦さが残りそうなものだが……。

 エリスはボートハウスを追われ、母親と町中の家に移ることになるが、そこに失望の色合いは見えない。同じ頃、修繕したボートでメキシコ湾の広がりを目にしていたマッドは、父親代わりであるトム(サム・シェパード)と新天地へ向かおうとしている。
 意外にも明るい結末から見れば、この映画は“少年の成長物語”というよりも、愛に絡めとられピンチに陥ったマッドが、エリスの真っ直ぐな情熱により救済された物語。そんなふうに要約できるのかもしれない。エリスたちが発見する木の上のボートは、彼らの協力がなければ再び川に戻ることはなかったはずだし、同じようにマッドはエリスによって破滅の運命から逃れられたのだから。(*1)
 脚本の展開には都合のいいところも多いのだけれど、愛を希求するエリス少年の造形は魅力的だった。かなり限定された公開だけれど、一見の価値あり。

(*1) 前作『テイク・シェルター』での嵐が単純な自然災害ではなく、主人公に迫りくる内面の危機を表していたように、『MUD』の木の上のボートは、身動きのとれないマッドの姿とする解釈もできる。また、男をダメにする女ジュニパーとヘビの存在もどこか神話的な舞台設定とも言え、寓意性が豊かな作品だと思う。ジュニパーを演じているのはリース・ウィザースプーンで、およそ尊崇の対象とならない感じの面構えが似合っていたと思う。

MUD -マッド- [DVD]


テイク・シェルター [DVD]


Date: 2014.03.09 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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Author:Nick
新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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