ニコラス・W・レフン 『オンリー・ゴッド』 カラオケを嗜む神
原題は『Only God Forgives』。訳せば「神だけが許したまう」だろうか。この言葉は「復讐するは我にあり」(ここでの“我”とは神のこと)と同様に、「神の領分に人間ごときが手を出すな」といった意味だろう。

舞台はタイである。主人公のジュリアン(ライアン・ゴズリング)はムエタイのジムを経営しているが、裏では麻薬取引に関わっている。ある日、ジュリアンの兄が惨殺されて発見される。その報せを受けて組織のボスである母親クリスタル(クリスティン・スコット・トーマス)もタイに駆けつける。ジュリアンはクリスタルに兄の敵討ちを命じられるが、一方で“復讐の天使”と呼ばれる元警官(ヴィタヤ・パンスリンガム)も動き出す。
この映画では、神は元警官のタイ人として顕現する。実際には神ではないのかもしれないが、“復讐の天使”と呼ばれるチャンは、とりあえず神の代理人として機能する。チャンはレイプ殺人の犯人であるジュリアンの兄を、被害者の父に殺させる。その上で少女に売春をさせていた父親を咎め、鉈のような武器で片腕を切り落とす。『オンリー・ゴッド』ではチャンこそが全能であり、司法を担うと同時に、刑の執行者でもある存在なのだ。
マタイの福音書には「右手が罪を犯すならば右手を切り落としなさい」とあるし、イスラム教では断手という刑罰があったはず。この映画では、人の手は余計ないたずらや暴力につながる忌むべきものとしてあるようだ。ジュリアンは父を殺した罪からか両手に血の跡を見るように掌を眺めたり、女とのプレイの際には椅子に両手を縛られたりする(女の股間に突っ込むのもその手だ)。そして、神(=チャン)によって許されない所業と判断された場合には、腕を落とされることになるだろう。

物語の単純さと比べ、表現方法はかなり奇抜なものだ。この映画でジュリアンが過ごすムエタイ・ジムの場面は、画面が赤の基調で統一されていて、ほとんど悪夢のなかにいるような印象で、次第に描かれているのが幻想なのか現実なのかあやしい状態になっていく。スローモーションが多用され、時間は延々と引き延ばされ、静かな狂気を思わせる。レフン監督はあるインタビューで『オンリー・ゴッド』をアシッド(LSD)に例えている。何げないシーンでも思わせぶりに描かれるのは、麻薬によって変容した現実を表現しているのかもしれない。
そんな世界を神(=チャン)はゆっくりと滑るように歩く。それでなくともスローモーションが多い映画なのだが、チャンの動きはあまりに悠然としていて通常のシーンでもスローモーションのように思えるほど。しかし対決のシーンなど、突然素早い動きも見せる。ジュリアンと拳を合わせたときには、ムエタイ仕込みのローキック、鋭い前蹴り、強烈なひじ討ちで完膚なきまでに叩きのめしてしまうのだ。
ジュリアンは母親を守れず、戻るべき場所を失う。亡くなった母親の腹を割いて、そこに手を差し込むという悪趣味な場面は、マザコン男の絶望(子宮回帰願望の不可能性)の確認としてある。そのあとジュリアンは神の軍門に下るほかない。というかジュリアンはこの映画でほとんど何もしていない。ジュリアンの暴力は幻想にしか見えないし、神と母親の両方に支配され、あちこち引き回された上、己の分際を知るということだろうか。
神(=チャン)はその絶対的な権力を人間に振るったあと、カラオケでその罪を浄化する。予告では「なぜこの映画が笑い飛ばされないのか理解できない」というコメントが紹介されているが、ほとんどユーモアすれすれのぶっ飛び具合であることは間違いなく、笑うよりも呆気にとられた。
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