前田司郎監督 『ジ、エクストリーム、スキヤキ』 “デボン紀”に留まる人?
監督・脚本には劇団「五反田団」の前田司郎。最近では『横道世之介』や『生きてるものはいないのか』の脚本も担当。小説家としても活躍しているのだとか。映画監督はこの作品が初めて。
出演は井浦新、窪塚洋介、市川実日子、倉科カナなど。音楽はムーンライダーズの岡田徹が担当し、挿入歌にはムーンライダーズの曲も流れる。

演劇のことは不案内だから勝手な思い込みかもしれないが、この映画は演劇的と思える台詞の応酬が多くを占める。海へのドライブというロードムービーの軸で、ありきたりのマンションや見栄えのしない街道沿いを移動しながら、意味のない会話が続いていく。前田司郎の書く会話は、「えっ?」と聞き返してみたり、オウム返しに答えたり、言葉尻を捉えてあらぬ方向へ話が進んでいく。劇中の男たちがそうであるように、いつまでもグダグダと同じところを行ったり来たりしているのだ。言い間違えや台詞を噛んだりもする。リアルな感じを追求するためかと思っていたら、劇中の会話はすべて脚本に忠実なものらしい。『横道世之介』でも似た雰囲気はあったけれど、自ら監督も務めるこの作品では、その辺の脚本の息遣いが一層反映されているようだ。
自殺未遂者を含む4人が海を見に行くというのは、『ペタル ダンス』によく似ている。ただ『ペタル ダンス』は4人が自殺の事実を共有している分、空気が重くて会話も弾まないが、『ジ、エクストリーム、スキヤキ』では自殺の事実は当人しか知らないから、表面上は他愛ない会話のやりとりになっている。
それでも死の臭いはひっそりと漂う。冒頭では井浦新演じる洞口の自殺が描かれる。また、洞口の友人・大川(窪塚洋介)との間には亡くなった友人の影があるし、大川の彼女・楓(倉科カナ)は先天性の病気で死を予期している。かと言って、それらが積極的な話題になることもない。それぞれ抱えているものはあるけれど、皆、それから目を背けるかのようにドライブに興じている様子だ。
※ 以下、ネタバレもあり。

冒頭の自殺のエピソードのあと、場面は変わってロードムービーとなっていく。(*1)たとえばルイ・マル『鬼火』みたいに、友人たちと最後のあいさつを交わし冒頭の自殺に辿り着くのかと推測していたが、それは違っていた。
その展開は途中のブーメランのエピソードで予告されている。大川が作った弓矢崩れの出来損ないのブーメランの初飛行、ブーメランは戻ることなく海のなかに飲み込まれて……。洞口はそれを見て「人生みたいじゃん。一度っきりで後戻りできない。美しいじゃん」と珍しく意味のあるまともな言葉を意気揚々と語る。次の瞬間、ブーメランは風を切って戻り砂浜に突き刺さるというオチ。(*2)
洞口がブーメランに託して語ったことは、自分の人生もそうありたいという願いだったわけだけれど、まかり間違って洞口は自殺しきれずに生き残ってしまう。美しく散ることも出来ずにこの世に戻ってきてしまった洞口は、それをきっかけに15年も仲違いしていた大川と連絡を取る。その結果が今回の旅となるわけだ。
洞口の自殺の原因はよくわからない。ただ洞口と京子(市川実日子)との会話でもわかるように、洞口は過去を引きずっている。京子曰く、洞口は未だ“デボン紀”のままなのだ。“デボン紀”とは、“ジュラ紀”とか“白亜紀”とかのあれで、京子はすでに“デボン紀”を卒業して現代を生きているわけだけれど、洞口は未だ“デボン紀”に留まっている。仕事も辞めてしまって、過去の楽しかった思い出は写真のなかには残っているけれど、先のことはまったく見えない。
主人公たちは40歳間近だろう(楓はちょっと若いような気もする)。とても青春時代とは言えないのだが、洞口も大川も堅実な生活を営んでいるわけではない。モラトリアムをこじらせているのだ。大川はジャングルを冒険する映画を撮りたいなどと愚にも付かない夢を語る。傍から見れば「いい大人が……」と失笑するところだろうが、大川本人ですらそれを本気にしていないようにも見える。
結局のところ、この旅をしたことで洞口や大川に何か変化があるわけではない。洞口に関して言えば、大きな変化(劇中では“大きな波”と呼ばれている)は冒頭の回想シーンですでに起きており、この旅ではそれを乗り越えたあとの凪のような状態なのかもしれない。『ジ、エクストリーム、スキヤキ』は美しい自死に失敗した後の、無様で時期はずれのゆるい青春ごっこなのだ。そのグダグタ感はそこそこに楽しいが、ちょっと身につまされるところもある。
多分もっと前向きで説教臭い映画にすることもできたのだろうが、それは回避している。前田司郎が原作と脚本を担当した『生きてるものはいないのか』では、合理的な説明もないままに次々と人が死んでいく。多くの死に様を見せることが意図したことなんだと思うが、その“死”に意味を持たせたりはしていない。この映画でもそうで、自殺やその失敗に過剰な意味はないのだと思う。何となく自殺して、何となく生き延びて、あくまで軽々しく「忘れられないことってあるよね」なんて語っているのだ。
それにしても、特別(エクストリーム)なスキヤキとは、何なんだろうか?
豚肉を煮たものをスキヤキと考えていた大川にとっては、一般的なスキヤキが特別なものになるのかもしれないが、ほかの人にはごく普通のスキヤキだ。洞口にとっては、今まで見せなかった料理の腕を振るったという意味では、ちょっと特別なスキヤキだったのかもしれない。
(*1) 予告ではなぜか洞口が幽霊のようにミスリードされているが、普通に観ればそうは思えないような……。
(*2) この場面、森田芳光『家族ゲーム』のヘリの音みたいに、ブーメランが風を切り裂く音だけで処理していてなかなかよかった。





出演は井浦新、窪塚洋介、市川実日子、倉科カナなど。音楽はムーンライダーズの岡田徹が担当し、挿入歌にはムーンライダーズの曲も流れる。

演劇のことは不案内だから勝手な思い込みかもしれないが、この映画は演劇的と思える台詞の応酬が多くを占める。海へのドライブというロードムービーの軸で、ありきたりのマンションや見栄えのしない街道沿いを移動しながら、意味のない会話が続いていく。前田司郎の書く会話は、「えっ?」と聞き返してみたり、オウム返しに答えたり、言葉尻を捉えてあらぬ方向へ話が進んでいく。劇中の男たちがそうであるように、いつまでもグダグダと同じところを行ったり来たりしているのだ。言い間違えや台詞を噛んだりもする。リアルな感じを追求するためかと思っていたら、劇中の会話はすべて脚本に忠実なものらしい。『横道世之介』でも似た雰囲気はあったけれど、自ら監督も務めるこの作品では、その辺の脚本の息遣いが一層反映されているようだ。
自殺未遂者を含む4人が海を見に行くというのは、『ペタル ダンス』によく似ている。ただ『ペタル ダンス』は4人が自殺の事実を共有している分、空気が重くて会話も弾まないが、『ジ、エクストリーム、スキヤキ』では自殺の事実は当人しか知らないから、表面上は他愛ない会話のやりとりになっている。
それでも死の臭いはひっそりと漂う。冒頭では井浦新演じる洞口の自殺が描かれる。また、洞口の友人・大川(窪塚洋介)との間には亡くなった友人の影があるし、大川の彼女・楓(倉科カナ)は先天性の病気で死を予期している。かと言って、それらが積極的な話題になることもない。それぞれ抱えているものはあるけれど、皆、それから目を背けるかのようにドライブに興じている様子だ。
※ 以下、ネタバレもあり。

冒頭の自殺のエピソードのあと、場面は変わってロードムービーとなっていく。(*1)たとえばルイ・マル『鬼火』みたいに、友人たちと最後のあいさつを交わし冒頭の自殺に辿り着くのかと推測していたが、それは違っていた。
その展開は途中のブーメランのエピソードで予告されている。大川が作った弓矢崩れの出来損ないのブーメランの初飛行、ブーメランは戻ることなく海のなかに飲み込まれて……。洞口はそれを見て「人生みたいじゃん。一度っきりで後戻りできない。美しいじゃん」と珍しく意味のあるまともな言葉を意気揚々と語る。次の瞬間、ブーメランは風を切って戻り砂浜に突き刺さるというオチ。(*2)
洞口がブーメランに託して語ったことは、自分の人生もそうありたいという願いだったわけだけれど、まかり間違って洞口は自殺しきれずに生き残ってしまう。美しく散ることも出来ずにこの世に戻ってきてしまった洞口は、それをきっかけに15年も仲違いしていた大川と連絡を取る。その結果が今回の旅となるわけだ。
洞口の自殺の原因はよくわからない。ただ洞口と京子(市川実日子)との会話でもわかるように、洞口は過去を引きずっている。京子曰く、洞口は未だ“デボン紀”のままなのだ。“デボン紀”とは、“ジュラ紀”とか“白亜紀”とかのあれで、京子はすでに“デボン紀”を卒業して現代を生きているわけだけれど、洞口は未だ“デボン紀”に留まっている。仕事も辞めてしまって、過去の楽しかった思い出は写真のなかには残っているけれど、先のことはまったく見えない。
主人公たちは40歳間近だろう(楓はちょっと若いような気もする)。とても青春時代とは言えないのだが、洞口も大川も堅実な生活を営んでいるわけではない。モラトリアムをこじらせているのだ。大川はジャングルを冒険する映画を撮りたいなどと愚にも付かない夢を語る。傍から見れば「いい大人が……」と失笑するところだろうが、大川本人ですらそれを本気にしていないようにも見える。
結局のところ、この旅をしたことで洞口や大川に何か変化があるわけではない。洞口に関して言えば、大きな変化(劇中では“大きな波”と呼ばれている)は冒頭の回想シーンですでに起きており、この旅ではそれを乗り越えたあとの凪のような状態なのかもしれない。『ジ、エクストリーム、スキヤキ』は美しい自死に失敗した後の、無様で時期はずれのゆるい青春ごっこなのだ。そのグダグタ感はそこそこに楽しいが、ちょっと身につまされるところもある。
多分もっと前向きで説教臭い映画にすることもできたのだろうが、それは回避している。前田司郎が原作と脚本を担当した『生きてるものはいないのか』では、合理的な説明もないままに次々と人が死んでいく。多くの死に様を見せることが意図したことなんだと思うが、その“死”に意味を持たせたりはしていない。この映画でもそうで、自殺やその失敗に過剰な意味はないのだと思う。何となく自殺して、何となく生き延びて、あくまで軽々しく「忘れられないことってあるよね」なんて語っているのだ。
それにしても、特別(エクストリーム)なスキヤキとは、何なんだろうか?
豚肉を煮たものをスキヤキと考えていた大川にとっては、一般的なスキヤキが特別なものになるのかもしれないが、ほかの人にはごく普通のスキヤキだ。洞口にとっては、今まで見せなかった料理の腕を振るったという意味では、ちょっと特別なスキヤキだったのかもしれない。
(*1) 予告ではなぜか洞口が幽霊のようにミスリードされているが、普通に観ればそうは思えないような……。
(*2) この場面、森田芳光『家族ゲーム』のヘリの音みたいに、ブーメランが風を切り裂く音だけで処理していてなかなかよかった。
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