ジョシュ・トランク監督 『クロニクル』 超能力と高校生の青春と
アメリカでは動画サイトから話題になって大ヒットを記録した映画。すでに輸入版のブルーレイ(たぶん字幕なし)などで日本でも観ている人も多いようなのだが、9月27日から2週間限定で料金1000円均一で上映されている。残念ながらブルーレイのプレーヤーを持ってない私みたいな人は、劇場へ観に行ったほうがお得かも。
監督のジョシュ・トランクはこの『クロニクル』の成功で、リブート版『ファンタスティック・フォー』に抜擢された。脚本はマックス・ランディスという、ジョン・ランディスの息子さんだとか。
主人公アンドリュー役のデイン・デハーンは、どこか『ギルバート・グレイプ』のときのディカプリオを彷彿とさせるところがある。

You Tubeなどの動画サイトでは様々な映像が溢れている。カメラを手に日常を撮ることが普通になっているからこそ、今まで見ることのなかった自然災害の映像や、様々なハプニングなども記録されるようになってきた。そのなかには本当にあったことなのか、作られた映像なのか判然としないものもある。『クロニクル』もそうした投稿映像の雰囲気で始まっていく。超能力が題材となっているが、あくまで現実世界のできごととして、擬似ドキュメンタリー作品として撮られている。
この映画は『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のようなPOV(Point of view)方式が選択されている。POV方式の主観映像は自分が主人公になったような臨場感はあるが、制約も多い。主人公がカメラを持つことから視点がかなり限定されるし、主人公自身の顔を映すとなれば『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』みたいに極端なアップになるか、主人公を鏡の前に立たせるなど無理をしなければならない。
しかし、『クロニクル』では主人公の使う超能力によって、そうした制約から自由になっていく。主人公はカメラを念力で浮遊させ、自分からちょっと離れた位置からでも自分を撮影することができるように成長する。クライマックスあたりはそうしたPOV方式も放り出され、防犯カメラの映像などを散りばめたりもしているが、ほとんど自由なカメラワークになり擬似ドキュメンタリーとしての枠組みも曖昧にはなるのだが、もはやコントロールの効かなくなった超能力が暴走するラストはそんなことも忘れて釘付けになるだろう。

『クロニクル』では超能力が描かれるが、その超能力をたまたま身につけてしまうのは普通の三人の高校生であり、『クロニクル』は彼らの姿を追った青春映画でもある。“クロニクル”には「年代順に記録する」という意味があり、この映画も事の起きた後に残された様々な映像で再構成されたものである。
この映画の世界では主人公たちに超能力はあるけれど、世界を破滅に導く“悪”は登場しないし、彼らが急にスーパーマンになったりもしない。彼らが最初に記録したのは念力でボールを相手にぶつけるという他愛ない遊びであり、女子高生のスカートめくり程度のいたずらにとどまっている。飛行能力を覚えたときも、彼らがすることは大空での立体アメフトくらいで、それだけで充分に満ち足りてしまい、次には海外旅行を望むという感覚もごく普通の高校生の感覚から離れない。
ただアンドリュー(デイン・デハーン)には問題があった。彼は哲学や社会問題にも関心があるいとこのマット(アレックス・ラッセル)や、政治家を目指す人気者のスティーヴ(マイケル・B・ジョーダン)と違い、超能力がなければカメラで日常を撮影するのが好きな冴えない高校生なのだ。加えて病気の母親と飲んだくれで暴力的な父親がいて、学校でも家でも居場所がないのだ。だからアンドリューはほかのふたりと違い余計に超能力にのめり込む。
アメリカのスクールカーストで言えば、最下層のナードに位置するアンドリュー。彼は超能力のおかげでマットとスティーヴとも仲良くなり、一時は超能力を使った手品で人気者になったりもするのだが、不用意に大きな力を得たことでその力に溺れていく。食物連鎖の頂点にいるような捕食者は、餌であるほかの生物を殺すのに罪悪感を抱かないなどという考えに支配されるようになる。そこに母親の死と父親の横暴が後押しをして暴走をしてしまう。
超能力を得たからといって彼らがヒーローにならず、あくまでリアルな高校生の日常を描いていくのがいい。『クロニクル』の世界はわれわれの現実世界と地続きなのだ。擬似ドキュメンタリーから始まるこの映画は、日常に接する部分の描写を連ねていくから、クライマックスのアンドリューの大立ち回りも絵空事というよりは、もしかしたら世界のどこかではあり得るかもしれない映像として感じられた。結末のもの悲しさも彼らが普通の高校生だと知っているからだろう。
物語はいじめられっ子超能力者の最後の爆発という意味で『キャリー』を思わせるし、制御の効かなくなったアンドリューとそれを止めようとするマットとの闘いは、『AKIRA』の世界観を実写で見せてくれるものだった。スーパーマンやスパイダーマンみたいなコスプレキャラではなく、ごく普通のジーンズとTシャツ姿の若者がふわりと宙に浮く姿は奇妙な感覚だ。

監督のジョシュ・トランクはこの『クロニクル』の成功で、リブート版『ファンタスティック・フォー』に抜擢された。脚本はマックス・ランディスという、ジョン・ランディスの息子さんだとか。
主人公アンドリュー役のデイン・デハーンは、どこか『ギルバート・グレイプ』のときのディカプリオを彷彿とさせるところがある。

You Tubeなどの動画サイトでは様々な映像が溢れている。カメラを手に日常を撮ることが普通になっているからこそ、今まで見ることのなかった自然災害の映像や、様々なハプニングなども記録されるようになってきた。そのなかには本当にあったことなのか、作られた映像なのか判然としないものもある。『クロニクル』もそうした投稿映像の雰囲気で始まっていく。超能力が題材となっているが、あくまで現実世界のできごととして、擬似ドキュメンタリー作品として撮られている。
この映画は『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のようなPOV(Point of view)方式が選択されている。POV方式の主観映像は自分が主人公になったような臨場感はあるが、制約も多い。主人公がカメラを持つことから視点がかなり限定されるし、主人公自身の顔を映すとなれば『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』みたいに極端なアップになるか、主人公を鏡の前に立たせるなど無理をしなければならない。
しかし、『クロニクル』では主人公の使う超能力によって、そうした制約から自由になっていく。主人公はカメラを念力で浮遊させ、自分からちょっと離れた位置からでも自分を撮影することができるように成長する。クライマックスあたりはそうしたPOV方式も放り出され、防犯カメラの映像などを散りばめたりもしているが、ほとんど自由なカメラワークになり擬似ドキュメンタリーとしての枠組みも曖昧にはなるのだが、もはやコントロールの効かなくなった超能力が暴走するラストはそんなことも忘れて釘付けになるだろう。

『クロニクル』では超能力が描かれるが、その超能力をたまたま身につけてしまうのは普通の三人の高校生であり、『クロニクル』は彼らの姿を追った青春映画でもある。“クロニクル”には「年代順に記録する」という意味があり、この映画も事の起きた後に残された様々な映像で再構成されたものである。
この映画の世界では主人公たちに超能力はあるけれど、世界を破滅に導く“悪”は登場しないし、彼らが急にスーパーマンになったりもしない。彼らが最初に記録したのは念力でボールを相手にぶつけるという他愛ない遊びであり、女子高生のスカートめくり程度のいたずらにとどまっている。飛行能力を覚えたときも、彼らがすることは大空での立体アメフトくらいで、それだけで充分に満ち足りてしまい、次には海外旅行を望むという感覚もごく普通の高校生の感覚から離れない。
ただアンドリュー(デイン・デハーン)には問題があった。彼は哲学や社会問題にも関心があるいとこのマット(アレックス・ラッセル)や、政治家を目指す人気者のスティーヴ(マイケル・B・ジョーダン)と違い、超能力がなければカメラで日常を撮影するのが好きな冴えない高校生なのだ。加えて病気の母親と飲んだくれで暴力的な父親がいて、学校でも家でも居場所がないのだ。だからアンドリューはほかのふたりと違い余計に超能力にのめり込む。
アメリカのスクールカーストで言えば、最下層のナードに位置するアンドリュー。彼は超能力のおかげでマットとスティーヴとも仲良くなり、一時は超能力を使った手品で人気者になったりもするのだが、不用意に大きな力を得たことでその力に溺れていく。食物連鎖の頂点にいるような捕食者は、餌であるほかの生物を殺すのに罪悪感を抱かないなどという考えに支配されるようになる。そこに母親の死と父親の横暴が後押しをして暴走をしてしまう。
超能力を得たからといって彼らがヒーローにならず、あくまでリアルな高校生の日常を描いていくのがいい。『クロニクル』の世界はわれわれの現実世界と地続きなのだ。擬似ドキュメンタリーから始まるこの映画は、日常に接する部分の描写を連ねていくから、クライマックスのアンドリューの大立ち回りも絵空事というよりは、もしかしたら世界のどこかではあり得るかもしれない映像として感じられた。結末のもの悲しさも彼らが普通の高校生だと知っているからだろう。
物語はいじめられっ子超能力者の最後の爆発という意味で『キャリー』を思わせるし、制御の効かなくなったアンドリューとそれを止めようとするマットとの闘いは、『AKIRA』の世界観を実写で見せてくれるものだった。スーパーマンやスパイダーマンみたいなコスプレキャラではなく、ごく普通のジーンズとTシャツ姿の若者がふわりと宙に浮く姿は奇妙な感覚だ。
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