李相日監督 『許されざる者』 人間の持っている業
1992年のクリント・イーストウッド監督作品のリメイク。監督は『悪人』『フラガール』の李相日(リ・サンイル)。主役には渡辺謙。共演は佐藤浩市、柄本明、柳楽優弥、忽那汐里など。
試写会にて鑑賞。公開は9月13日から。

李監督はあるイベントでこんなふうに語っている(このサイトから引用しました)。
オリジナル版の『許されざる者』は傑作の誉れ高い作品だ。私も劇場公開された際にそれに接したが、その傑作のどこをどう評価すればいいのかということになると途方に暮れていたような気もする。この新版『許されざる者』は、李監督がクリント・イーストウッドの撮ったオリジナル版をどのように観たかということがわかる映画になっていると思う。
監督である李相日は、アダプテーション脚本も担当している。李監督がこの映画をつくるために脚本のどこを変更したかは、オリジナル版の解釈の仕方を表しているはずだ。物語はオリジナルをほぼ踏襲しているが、舞台は幕末の北海道へと移り、主人公の十兵衛は幕府軍の残党という設定だ。そして十兵衛は北海道の奥地へと逃げ、アイヌの妻と暮らしていたことになっている。
和人(日本人)に支配されるアイヌという民族の存在が重要だろう。李監督は在日コリアンである自らの存在と、アイヌの存在を重ね合わせているところもあるようだ。この映画のなかでも、北海道にもとから住んでいたアイヌは、後から現れた和人の屯田兵などに武力で虐げられている。屯田兵に反抗的な態度を示したアイヌの若者は、たまたま通りかかった十兵衛(渡辺謙)に助けられるのだが、十兵衛は無謀な抵抗をして命を無駄にしようとするアイヌのほうをたしなめる。
同時に李監督は、町の権力者である一蔵(佐藤浩市)には「生き残った者が正しい」とも語らせている。十兵衛や金吾(柄本明)はたまたま幕府側について敗れたわけだが、たまたま政府側だった一蔵たちは官軍の名のもとに権力を手中にしているのだ。在日として生きている立ち位置は複雑だろうが、やはりアイヌという虐げられる側に対する思い入れもあるのだろう。それでも「生き残った者が正しい」という言葉を強く否定する印象はない。最後に生き残ってしまうのは、十兵衛とアイヌの混血児である五郎なのだから。
別に李監督は「生きねば」とか「生きろ」とか言いたいわけではなく、誰かを断罪したいわけでもないだろう。ただ現実のありのままの姿を見つめているということだと思う。もともとオリジナル版も勧善懲悪の図式では描けないようなものだったわけだけれど、李監督はそんな人間の姿を先ほどのイベントでは「人間の持っている業」という言葉で語っている(オリジナルよりも「人間の持っている業」というものを追ったと語っている)。これこそが「この正体は何なんだろう?」という疑問に対する李監督なりの回答なんだと思う。

「人間の持っている業」などというと重苦しいイメージだが、この映画は痛快な時代劇でもある。特にラストの十兵衛と一蔵の対決は、敵地に乗り込む任侠もののようでわくわくさせる。十兵衛はそれまでほとんどやられてばかりでいいところがなかったが、金吾の死で覚醒した後の渡辺謙の表情は鬼気迫るものがあった。銃を抱えた一蔵の手下たちとの戦いは“人斬り十兵衛”と言われた男と、人を殺すことの覚悟ができていない普通の人間の差を見るようで圧巻だった。(*1)
ラストは北海道の大地に昇る鮮やかな朝日の姿だった。オリジナル版の美しい夕陽と対になるのだろう。李監督はそれに何を込めたのだろうか?
ちなみに上のスチールはアイヌとの混血児を演じた柳楽優弥。エンドロールが出てくるまでまったく誰なのかまったくわからなかった。
(*1) 李監督版では“人斬り十兵衛”と呼ばれた過去も描かれる(オリジナル版には台詞で触れられるだけ)。このエピソードでは、十兵衛は自ら望んで“人斬り”をしていたわけではなく、討伐隊にしつこく追われて仕方なくやったことだとわかる。十兵衛は彼の持っている業により“人斬り”となって生き残ることになる。

李相日監督の作品

試写会にて鑑賞。公開は9月13日から。

李監督はあるイベントでこんなふうに語っている(このサイトから引用しました)。
クリント・イーストウッド監督の作品に共通している 「人間の姿」 というものを、僕は19、20歳くらいの頃に映画館で初めて体験したのですが、当時はまだ 「何か衝撃は残ったけれども、その正体は何なんだろう?」 というところまで読みきれませんでした。それを実感するまでに、人として10年、20年という時間がかかりましたし、何本か映画を作っていく中で、ようやく 「人の姿や人のあり方、どう人間が生きていくべきか」 ということの尻尾のようなものを感じ取れる映画作りに向かってきたからこそ、「『許されざる者』 をやりたい」 ということになったと思うんですね。 (下線は引用者)
オリジナル版の『許されざる者』は傑作の誉れ高い作品だ。私も劇場公開された際にそれに接したが、その傑作のどこをどう評価すればいいのかということになると途方に暮れていたような気もする。この新版『許されざる者』は、李監督がクリント・イーストウッドの撮ったオリジナル版をどのように観たかということがわかる映画になっていると思う。
監督である李相日は、アダプテーション脚本も担当している。李監督がこの映画をつくるために脚本のどこを変更したかは、オリジナル版の解釈の仕方を表しているはずだ。物語はオリジナルをほぼ踏襲しているが、舞台は幕末の北海道へと移り、主人公の十兵衛は幕府軍の残党という設定だ。そして十兵衛は北海道の奥地へと逃げ、アイヌの妻と暮らしていたことになっている。
和人(日本人)に支配されるアイヌという民族の存在が重要だろう。李監督は在日コリアンである自らの存在と、アイヌの存在を重ね合わせているところもあるようだ。この映画のなかでも、北海道にもとから住んでいたアイヌは、後から現れた和人の屯田兵などに武力で虐げられている。屯田兵に反抗的な態度を示したアイヌの若者は、たまたま通りかかった十兵衛(渡辺謙)に助けられるのだが、十兵衛は無謀な抵抗をして命を無駄にしようとするアイヌのほうをたしなめる。
同時に李監督は、町の権力者である一蔵(佐藤浩市)には「生き残った者が正しい」とも語らせている。十兵衛や金吾(柄本明)はたまたま幕府側について敗れたわけだが、たまたま政府側だった一蔵たちは官軍の名のもとに権力を手中にしているのだ。在日として生きている立ち位置は複雑だろうが、やはりアイヌという虐げられる側に対する思い入れもあるのだろう。それでも「生き残った者が正しい」という言葉を強く否定する印象はない。最後に生き残ってしまうのは、十兵衛とアイヌの混血児である五郎なのだから。
別に李監督は「生きねば」とか「生きろ」とか言いたいわけではなく、誰かを断罪したいわけでもないだろう。ただ現実のありのままの姿を見つめているということだと思う。もともとオリジナル版も勧善懲悪の図式では描けないようなものだったわけだけれど、李監督はそんな人間の姿を先ほどのイベントでは「人間の持っている業」という言葉で語っている(オリジナルよりも「人間の持っている業」というものを追ったと語っている)。これこそが「この正体は何なんだろう?」という疑問に対する李監督なりの回答なんだと思う。

「人間の持っている業」などというと重苦しいイメージだが、この映画は痛快な時代劇でもある。特にラストの十兵衛と一蔵の対決は、敵地に乗り込む任侠もののようでわくわくさせる。十兵衛はそれまでほとんどやられてばかりでいいところがなかったが、金吾の死で覚醒した後の渡辺謙の表情は鬼気迫るものがあった。銃を抱えた一蔵の手下たちとの戦いは“人斬り十兵衛”と言われた男と、人を殺すことの覚悟ができていない普通の人間の差を見るようで圧巻だった。(*1)
ラストは北海道の大地に昇る鮮やかな朝日の姿だった。オリジナル版の美しい夕陽と対になるのだろう。李監督はそれに何を込めたのだろうか?
ちなみに上のスチールはアイヌとの混血児を演じた柳楽優弥。エンドロールが出てくるまでまったく誰なのかまったくわからなかった。
(*1) 李監督版では“人斬り十兵衛”と呼ばれた過去も描かれる(オリジナル版には台詞で触れられるだけ)。このエピソードでは、十兵衛は自ら望んで“人斬り”をしていたわけではなく、討伐隊にしつこく追われて仕方なくやったことだとわかる。十兵衛は彼の持っている業により“人斬り”となって生き残ることになる。
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