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李相日監督 『許されざる者』  人間の持っている業

 1992年のクリント・イーストウッド監督作品のリメイク。監督は『悪人』『フラガール』の李相日(リ・サンイル)。主役には渡辺謙。共演は佐藤浩市、柄本明、柳楽優弥、忽那汐里など。
 試写会にて鑑賞。公開は9月13日から。

李相日監督 『許されざる者』 “人間はどこまで許されるのか。”

 李監督はあるイベントでこんなふうに語っている(このサイトから引用しました)。
 

 クリント・イーストウッド監督の作品に共通している 「人間の姿」 というものを、僕は19、20歳くらいの頃に映画館で初めて体験したのですが、当時はまだ 「何か衝撃は残ったけれども、その正体は何なんだろう?」 というところまで読みきれませんでした。それを実感するまでに、人として10年、20年という時間がかかりましたし、何本か映画を作っていく中で、ようやく 「人の姿や人のあり方、どう人間が生きていくべきか」 ということの尻尾のようなものを感じ取れる映画作りに向かってきたからこそ、「『許されざる者』 をやりたい」 ということになったと思うんですね。 (下線は引用者)


 オリジナル版の『許されざる者』は傑作の誉れ高い作品だ。私も劇場公開された際にそれに接したが、その傑作のどこをどう評価すればいいのかということになると途方に暮れていたような気もする。この新版『許されざる者』は、李監督がクリント・イーストウッドの撮ったオリジナル版をどのように観たかということがわかる映画になっていると思う。
 監督である李相日は、アダプテーション脚本も担当している。李監督がこの映画をつくるために脚本のどこを変更したかは、オリジナル版の解釈の仕方を表しているはずだ。物語はオリジナルをほぼ踏襲しているが、舞台は幕末の北海道へと移り、主人公の十兵衛は幕府軍の残党という設定だ。そして十兵衛は北海道の奥地へと逃げ、アイヌの妻と暮らしていたことになっている。
 和人(日本人)に支配されるアイヌという民族の存在が重要だろう。李監督は在日コリアンである自らの存在と、アイヌの存在を重ね合わせているところもあるようだ。この映画のなかでも、北海道にもとから住んでいたアイヌは、後から現れた和人の屯田兵などに武力で虐げられている。屯田兵に反抗的な態度を示したアイヌの若者は、たまたま通りかかった十兵衛(渡辺謙)に助けられるのだが、十兵衛は無謀な抵抗をして命を無駄にしようとするアイヌのほうをたしなめる。
 同時に李監督は、町の権力者である一蔵(佐藤浩市)には「生き残った者が正しい」とも語らせている。十兵衛や金吾(柄本明)はたまたま幕府側について敗れたわけだが、たまたま政府側だった一蔵たちは官軍の名のもとに権力を手中にしているのだ。在日として生きている立ち位置は複雑だろうが、やはりアイヌという虐げられる側に対する思い入れもあるのだろう。それでも「生き残った者が正しい」という言葉を強く否定する印象はない。最後に生き残ってしまうのは、十兵衛とアイヌの混血児である五郎なのだから。
 別に李監督は「生きねば」とか「生きろ」とか言いたいわけではなく、誰かを断罪したいわけでもないだろう。ただ現実のありのままの姿を見つめているということだと思う。もともとオリジナル版も勧善懲悪の図式では描けないようなものだったわけだけれど、李監督はそんな人間の姿を先ほどのイベントでは「人間の持っている業」という言葉で語っている(オリジナルよりも「人間の持っている業」というものを追ったと語っている)。これこそが「この正体は何なんだろう?」という疑問に対する李監督なりの回答なんだと思う。

『許されざる者』 アイヌとの混血児と演じた柳楽優弥

 「人間の持っている業」などというと重苦しいイメージだが、この映画は痛快な時代劇でもある。特にラストの十兵衛と一蔵の対決は、敵地に乗り込む任侠もののようでわくわくさせる。十兵衛はそれまでほとんどやられてばかりでいいところがなかったが、金吾の死で覚醒した後の渡辺謙の表情は鬼気迫るものがあった。銃を抱えた一蔵の手下たちとの戦いは“人斬り十兵衛”と言われた男と、人を殺すことの覚悟ができていない普通の人間の差を見るようで圧巻だった。(*1)
 ラストは北海道の大地に昇る鮮やかな朝日の姿だった。オリジナル版の美しい夕陽と対になるのだろう。李監督はそれに何を込めたのだろうか?

 ちなみに上のスチールはアイヌとの混血児を演じた柳楽優弥。エンドロールが出てくるまでまったく誰なのかまったくわからなかった。

(*1) 李監督版では“人斬り十兵衛”と呼ばれた過去も描かれる(オリジナル版には台詞で触れられるだけ)。このエピソードでは、十兵衛は自ら望んで“人斬り”をしていたわけではなく、討伐隊にしつこく追われて仕方なくやったことだとわかる。十兵衛は彼の持っている業により“人斬り”となって生き残ることになる。

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Date: 2013.08.31 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

テレンス・マリック監督 『トゥ・ザ・ワンダー』 “祈り”としての映画

 テレンス・マリックは“生きる伝説”などと言われる。20年もの沈黙の前に撮った『地獄の逃避行』『天国の日々』の2作品が決定的なインパクトを残していたからだ。1998年の『シン・レッド・ライン』で映画界に復帰を果たし、この作品は第6作目。
 出演はベン・アフレック、オルガ・キュリレンコ、レイチェル・マクアダムス、ハビエル・バルデム。撮影は『天国の口、終りの楽園』『ツリー・オブ・ライフ』のエマニュエル・ルベツキ。アメリカの大地もモン・サン=ミシェルも美しいが、オルガ・キュリレンコがとてもきれいに撮られている。『オブリビオン』では、ほかのキャラクターに泣き所をさらわれたオルガ・キュリレンコだったが、この映画は寡黙すぎて印象が薄いベン・アフレックよりも彼女の映画になっている。

テレンス・マリック監督 『トゥ・ザ・ワンダー』 オルガ・キュリレンコが美しい

 公式サイトでは「愛の移ろい」などと要約しているが、物語はほとんどない。ニール(ベン・アフレック)はマリーナ(オルガ・キュリレンコ)とフランスで恋に落ち、アメリカへと呼び寄せるものの結局は別れる。しばらく友人のジェーン(レイチェル・マクアダムス)とも付き合ってみるものの、その後やはりマリーナを呼び戻すことになるが……。おおよそこんな筋があることはわかる。それでもこの映画では登場人物たちが会話するシーンもまれだから、なんとなくわかるという程度だ。それぞれのエピソードは現在進行形というよりは、過去から振り返ったイメージみたいなもので成り立っているからだ。描かれていることは具体的だが、説明的なものがなく唐突な断片で構成されるから抽象的にも感じられる。
 前作の『ツリー・オブ・ライフ』は、天地創造とか宇宙の誕生みたいな部分が唖然とさせたが、地上に戻ればそれなりにわかりやすい物語があった。ちょっと頑固者の父親のせいで家族がきついのもわかるし、子どもに対して語りかけるような場面も丁寧に描かれていた。それでもやはり『ツリー・オブ・ライフ』は難解な部分がある映画だと思うが、『トゥ・ザ・ワンダー』は『ツリー・オブ・ライフ』以上に観客を困惑させる映画かもしれない。

 この映画が物語の体を成していないのは、出会いにしても別れにしても、「出会いの高揚感」あるいは「関係が崩れつつあるときの絶望感」みたいなもののイメージによって表現されていくからだ。たとえば幸福の絶頂にあるイメージとすれば、アメリカの雄大な草原の上をくるくると回りながらふたりが戯れる、そんな映像が美しい音楽とともに流れていく。逆の絶望的な場面でも同様だ。ニールとマリーナは結婚するものの、うまくいかずカトリック教会の神父(ハビエル・バルデム)に救いを求めるが、そこでも対話がなされるわけではなく、ふたりが苦しんでいるというイメージがあるだけだ。
 対話はほとんどないと記してきたが、モノローグはある。登場人物それぞれがイメージの集積である映像をバックに独り言をつぶやく。しかもこのモノローグは『天国の日々』における少女の状況説明的なナレーションとは異なり、「何が真実なの?」「なぜふたりの愛は永遠でないの?」「なぜ愛は憎しみに変わるの?」という問いなのだ。監督・脚本のテレンス・マリックは、『トゥ・ザ・ワンダー』で何を表現しているのか?

テレンス・マリック監督 『トゥ・ザ・ワンダー』 バルデム演じる神父は神に語りかける

 重要な登場人物のひとりである神父のモノローグを参考にするとわかりやすいと思う。神父も常に心のなかでつぶやいている。「信者をどこに導くべきか?」「なぜあなたは姿を現さないのか?」など。もちろん、ここでの“あなた”とは神のことである。神父のつぶやきはすべて神に向けられている。つまり“神との対話”なのだ。
 登場人物たちのモノローグも同様なのだと思う。「なぜふたりの愛は永遠でないの?」といった問いは、愛した相手に向けられているわけではない。神に対して向けられているのだ。登場人物たちもそれぞれに“神との対話”に勤しんでいるのだ。
 
 では、“神との対話”とは何だろうか?
 『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎、大澤真幸の共著)ではこんなふうに説明されている。(*1)一神教では世界のすべての出来事の背後に、唯一の原因があると考える。その原因とはGODである。GODは人格神であり、言葉を用いる存在だ。日本のような多神教の世界では、自然現象のそれぞれに神がいると考えるために、唯一の責任者のような存在はいない(一神教ではGODが唯一の責任者だ)。また仏教は因果法則によって世界を説明するが、法則には人格性がないから、法則とは対話できない(ブッダとは対話できたとしても)。ひるがえって一神教の場合には、GODとの対話が成り立つ。先ほど挙げたような人生における疑問を訴えてもいいし、日々の感謝をしても構わないが、GODへの語りかけを繰り返す。(*2)こんなGODとの不断のコミュニケーションこそが、“祈り”と言われる。
 だから『トゥ・ザ・ワンダー』は、テレンス・マリックの“神との対話”を映像化したものであり、“祈り”を表現したものなのだと思う。映画評論家の川口敦子によれば『ツリー・オブ・ライフ』の弟の死や、『トゥ・ザ・ワンダー』に描かれている出会いと別れは、テレンス・マリックの伝記的事実に拠っているのだとか(『キネマ旬報』8月下旬号より)。そうであるとすればますますこの映画がごく個人的な“祈り”としてあるということは明らかだと思う。
 ただ残念なことに、映画館の観客は他人の“祈り”にそれほどの関心があるとは思えないのだ。ちょっと観客が置きざりにされた感は否めないような……。なんだかんだ言っても、すでに撮影を終えているという3本の新作も観てしまうとは思うが。

(*1) 『ふしぎなキリスト教』は批判も多い本だが、わかりやすくてためになる部分もある。“神との対話”について論じているのは橋爪大三郎

(*2) 一神教のなかでもキリスト教はユダヤ教やイスラム教と比べれば戒律が厳しくない。キリストが説いたのは“隣人愛”といった精神論みたいなものだから、明確な指針には程遠い。だからより一層“神との対話”というものが重要になるのかもしれない。


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Date: 2013.08.17 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

福士蒼汰主演 『江ノ島プリズム』 ちょっとチープでちょっと切ないタイムトラベル

 福士蒼汰を主役に据えたアイドル映画である。(*1)妙に彼の裸が登場するのもファンサービスなのは明らかだし、フィニイ・アプローチという名目でシャンプーをさせたりするのも単にシャワーシーンを入れたかったのだろう。そういう意味でアイドル主演の青春映画の側面もあるのだけれど、タイムトラベルものとして楽しい映画だ。
 脚本は小林弘利と吉田康弘。監督は脚本も兼ねている『キトキト!』吉田康弘。その他の出演者は野村周平、本田翼、未来穂香など。

『江ノ島プリズム』 三人の幼なじみ。左から野村周平、福士蒼汰、本田翼。


 修太と朔とミチルは、幼なじみでいつも一緒だった。身体が弱い朔が心臓発作で亡くなるまでは……。
 その2年後、修太(福士蒼汰)は朔の葬式に行き、形見分けとしてタイムトラベラーになるためのおもちゃの時計をもらう。修太は冗談半分でその時計をつけて過去へのタイムトラベルを願うと、そこには2年前に死んだはずの朔(野村周平)の姿があった。そして、その日は朔が心臓発作で亡くなる前日だった。

 タイムトラベルものが人気なことの理由のひとつは、誰でも一つや二つの後悔を抱えているからだろう。この映画でも、修太は朔の死を悔やんでいる。2年前、留学するために日本を離れることになるミチル(本田翼)からの手紙を朔へ渡したこと、たまたま朔の自転車を借りてしまったこと、この2点が朔の死を導いたと修太は感じているのだ。朔はミチルを見送るために無理をして駅まで走り、心臓発作を起こしたからだ。修太は自分が手紙を届けなければ、あるいは自転車を借りたりしなければ、朔は生きていたのではないか、そんな後悔を拭い去ることができずにいた。だからタイムトラベラーになったチャンスを活かし、過去を変え、朔を救うために奔走する。


 ※ 以下、ネタバレもあり。

『江ノ島プリズム』 右がタイム・プリズナーとなった女学生を演じた未来穂香。

 『江ノ島プリズム』は全体的には『時をかける少女』からの影響が大きい。まだ恋愛からはほど遠い3人の関係は筒井康隆の原作に似ているし、ミチルが世話焼きで母性的な存在なのも原作を意識しているのかもしれない。また、『江ノ島プリズム』がアイドル映画であるのは、原田知世というアイドルを生んだ大林宣彦版の映画(1983年)を受け継いでいるとも言えるし、自転車の故障が重要な役割を果たすのは細田守版のアニメ(2006年)を感じさせる。そのほかにも様々なタイムトラベルものの作品への目配せが楽しませてくれる(個人的には『ふりだしに戻る』のジャック・フィニイへの言及にくすぐられた)。

 タイムトラベルの瞬間は、このジャンルの映画では見せ場とも言える。たとえば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では改造したデロリアンがその役目を果たしたし、アニメ版『時をかける少女』では、少女はかけるというよりも、空を跳び頭から転げ落ちることで時空を跳び越えることになる。この映画ではタイムトラベルのための装置はおもちゃの時計なのだが、それは必ず江ノ電のなかで使用され、江ノ電がトンネル入り、そこから出ることで時間を移行するという設定になっている。
 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という有名な描写にもあるように、トンネルの向こう側は別世界というイメージは一般的に共有されているだろう。この映画でも、江ノ電でトンネルを抜けることが時間をさかのぼる装置の役目を果たしている。おもちゃの時計と同様にかなり子供っぽくてチープな装置だが、湘南を舞台にした作品だけにそれなりの必然性もあるし、予算が少なくてもちょっとした工夫でSFをやってしまおうという心意気はいいと思う。ちなみに福士蒼汰は“仮面ライダー”シリーズの出身らしいが、「仮面ライダー電王」では電車型のタイムマシンが登場するらしいから、そのあたりのパロディでもあるのかもしれない(時計の構え方は仮面ライダーの変身ポーズみたいだし)。

 さて物語の主眼は、朔を救うことができるかどうかにある。修太は何度も時間をループして過去を変えようとする(だからこの映画はループものでもある)。しかし過去を変えることには危険も伴う。加えてこの映画が『時をかける少女』の影響下にあることからも、結末に関してはある程度予想がつくかもしれない。その結末があまり愉快なものでないとしても、それは抱えていた後悔を拭い去るための決断だ。それによって別の後悔が生じたとしても、自ら選び取った分だけの納得があるのかもしれない。

(*1) 映画館の観客には、福士ファンと思わしき女性以外にも、中学・高校くらいの男子グループも見られた。TVドラマやCMなど活躍している本田翼ファンや、時に囚われた古風な女学生を演じた未来穂香ファンにもアピールするアイドル映画なのだろう。

福士蒼汰の作品など

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Date: 2013.08.13 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『ペーパーボーイ 真夏の引力』 変態たちのひと夏の経験とこの映画のいびつさ

 監督は『プレシャス』の成功でちょっと脚光を浴びたリー・ダニエルズ。出演はザック・エフロン、ニコール・キッドマン、マシュー・マコノヒー、ジョン・キューザックなど主役級が集まっている。

リー・ダニエルズ監督『ペーパーボーイ 真夏の引力』 懐かしい感じの映像がいい


 物語は死刑囚ヒラリー(ジョン・キューザック)の冤罪疑惑から始まる。新聞記者ウォード(マシュー・マコノヒー)はその疑惑を追って、新聞配達ペーパーボーイをしている弟ジャック(ザック・エフロン)がいる地元に帰ってくる。そこへ死刑囚ヒラリーと手紙のやりとりなどを交わして婚約したという女シャーロット(ニコール・キッドマン)が現れる。果たしてヒラリーは無実なのか? 一方で、ジャックはシャーロットに夢中になるが……。


 物語の発端をまとめればこんなふうになるが、これにあまり意味はない。監督のリー・ダニエルズは物語を伝えることがヘタなんだと思うが、『ペーパーボーイ 真夏の引力』も物語を追ったとしてもよくわからないだろう。
 リー・ダニエルズの出世作である『プレシャス』は一部では評価されたようだ。しかし誰にでも明らかだと思うが『プレシャス』のよかった点は本筋のプレシャスのエピソードではなく(こちらはほとんど退屈)、プレシャスを虐待する母親が漏らす告白の部分なのだ。作品の意図としては、劣悪な環境に生きるプレシャスが教育を通して希望を見出す姿を描くことに主眼があったはずだ。それなのに母親役を演じてアカデミー助演女優賞を獲得したモニークの素晴らしさもあって、虐待する側の複雑な感情のほうが観る者に訴えかけてしまうという妙な映画になっているのだ。
 この『ペーパーボーイ』にもそうしたいびつな部分がある(この監督の味なのかもしれない)。死刑囚の冤罪だとか、ジャックのひと夏の恋とか、黒人への人種差別とか、そんな筋は途中からどうでもよくなっていく。この物語自体は、成長したジャックが過去を振り返って小説に記したものだ。(*1)ジャックは「あの夏の出来事をまだ整理できない」など語るのだが、映画を観終わった客も同じ気持ちになるんじゃないだろうか。筋はそっちのけで変なキャラクターたちを描くほうへ焦点が移行してしまうからだ。


※ 以下、ネタバレあり。


『ペーパーボーイ 真夏の引力』 面会室でのニコール・キッドマンの大股開き


 『ペーパーボーイ』の登場人物はいちいち癇に障るようなキャラクターばかりだ。舞台は1969年のフロリダで、夏の暑さが伝わってくるような映像はとてもいいのだが、キャラクターたちの暑苦しさと相まって映画そのものもうっとうしい印象だ。フロリダのイメージといえば雨の降らないピーカンの天気だが、死刑囚ヒラリーの住む沼沢地はそんなイメージを覆すような恐ろしい場所だ。アメリカにもこんな場所があったのかと驚かせる。ワニやヘビが当たり前のように顔を出し、ほとんどアマゾンの奥地のようにしか見えない。そこに住んでいる人間たちもどこかの部族民みたいに見える。
 4人の主役たちは、そんなキャラのなかでもさらに際立っている。ジョン・キューザックの今までにない悪役ぶりもよかったし、年増好きのチェリーボーイ=ザック・エフロンはどこか古臭いイメージもあるようで、アラン・ドロンみたいな青い目が印象的。
 また、“ビッチ”キャラを嬉々として演じるニコール・キッドマンも頑張っている。刑務所の面会室で大股開きをやってのけたり、放尿シーンなんかもある。ラストではヒラリーに殺されてしまうが、イスに座ったまま足も口もだらしなく開いたまま死んでいるのはダッチワイフに見える(ヒラリーは彼女をバービー人形扱いしていたし、意図的なものと思える)。ニコールの役はビッチとして登場し、ダッチワイフへとさらに堕ちていくのだから、その頑張り具合もわかるというものだろう。
 久しぶりに見て驚いたのはマシュー・マコノヒー。かなりの二枚目としてデビューしたはずだが、いつの間にこんな役をやる役者になったのか。二枚目ぶりは変わらないが、途中で明らかになるウォードの性癖にはちょっと驚く。黒人好きのゲイで、しかも超ド級のMなのだ。この映画の見所はマシュー・マコノヒーのやられっぷりにあると言ってのけることもできるだろう。
 しかし、それぞれのキャラは立っていても、『プレシャス』での母親の告白ほどに迫ってくるものはなかった(特段『プレシャス』自体を褒めるつもりもないが)。どのキャラクターもそれなりに変態チックで退屈することもないのだが、まったく共感することもできないし、ジャックではないけれどもこの映画をどう整理していいのか困惑するような感じも残るのだ。

(*1) ちなみに映画では、ジャックを育てた黒人メイドであるアニタが、この原作小説について語るという枠組になっている。なぜかアニタは自分が体験したこと以外の、たとえばジャックとシャーロットとのベッドシーンにまでナレーションで説明を加えようとする。このナレーションがうるさすぎるきらいはあるし、ジャックとアニタの信頼関係はわかるとしても、なぜこの原作小説が黒人のアニタに捧げられるのかは映画を観る限りではわからない(アニタのキャラは唯一まともな存在ではあるにしても)。監督のリー・ダニエルズが黒人だからかもしれないが、やはりどこかいびつなところがある。

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Date: 2013.08.06 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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