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ホン・サンス監督 『次の朝は他人』とその他の作品/男と女と酒さえあれば

 去年「ホン・サンス/恋愛についての4つの考察」という特集で、一挙に4本が公開されたホン・サンス監督。最近、その4作品『よく知りもしないくせに』『教授とわたし、そして映画』『ハハハ』『次の朝は他人』がDVD発売となった。

 ホン・サンスの原点になった5本の映画について語っているインタビューがある。

   ロベール・ブレッソン 『田舎司祭の日記』
   カール・ドライヤー 『奇跡』
   エリッツ・フォン・シュトロハイム 『グリード』
   ジャン・ヴィゴ 『アタラント号』
   エリック・ロメール 『緑の光線』

 教科書的な名作ばかりだ。このラインナップを見ると映画の方法論に意識的な監督なんだろうなと推測される。そして、ラインナップの最後に『緑の光線』が挙げられているが、ホン・サンスの映画はエリック・ロメールの作品と比較されるようだ。男と女が登場してとりとめのない会話が繰り広げられる点ではたしかに似ている。
 この4作品も、ホン・サンスをモデルにしたような映画監督が登場し、先輩と昼から酒を飲んでいるとその先輩の知り合いの女性が現れて、その女性と一夜を共にすることに……。大まかに言えば、そんな話だ。処女作の『豚が井戸に落ちた日』では殺人が起きたりもするのだが、私が観たほかの作品もほとんど男と女が酒を飲むばかりなのだ。
 エリック・ロメールならもっとラブ・ストーリーらしいところがあるし、「六つの教訓話」シリーズなどもあるように教訓的な話としてまとめることもできるかもしれないが、ホン・サンスはもっと融通無碍な印象だ。話はラブ・ストーリーというよりlove affair(情事)を描いたものだし、倫理に反する行動があったとしてもそれを糾弾するような印象はなく、ごく普通の男と女の営みくらいにしか感じさせない。男は女を追いかけてばかりだが、女も不倫や二股に悩む様子もなくあっけらかんとしている。だからホン・サンスの映画にテーマ性など求めるとすればよくわからない映画になる。
 『よく知りもしないくせに』では、ファンに「なぜ理解不能な映画をつくるのか?」と質問されて、映画監督の主人公はこんなふうに答える。

「僕の映画にはドラマや事件はないし、教訓やメッセージもほとんどない。美しい映像もない。僕にできるのはこれだけだ。僕は頭を白紙にして過程に身をゆだねる。僕は何も発見しない。過程が僕に発見させる。僕はそれを集め1つの塊にする。その結果が理解されなくても仕方がない。」


 もちろんこれはホン・サンス自身の言葉ではない。それでもホン・サンス自身が脚本も担当しているこの主人公には自身の姿が投影されているだろう。つまり、これらはホン・サンスの映画論とも言えるのだ。こうした言葉はファンには「無責任に聞こえる」などと言われて理解されることもないのだが、主人公はさらに「すべての貴いものには代価がないと思う」と付け加える。これは映画という映像と音でできたものが、物語を伝えるための手段に堕することを否定しているのかもしれない。まあそんなことを考えなくても、これら4作品は男女のプライベートな部分をのぞき見るような楽しさがある。

ホン・サンス『次の朝は他人』 美しい横顔はキム・ボギョン

 この4本のなかで最も新しい『次の朝は他人』(2011年)は一番シンプルで、上映時間も79分と短く、モノクロだから色彩すらない。ここでは主人公の映画監督が先輩に会いに行き、たまたま空いた時間に昔の恋人と一夜を共にしておきながらも、都合よく「もう会えない」などと勝手なことをぬかしてみたり、今度は先輩に連れられたバーのママ(昔の恋人と同じ女優が演じる)ともねんごろになるものの、次の朝には適当な理由をつけて他人みたいに別れたりする。
 様々なものを削ぎ落として男女の関係があるだけなのだ。メタ的な映画に対する言及もなければ、海や山の美しい風景もなく、口説き文句もない。ゴダールは「男と女と車が1台あれば映画はできる」などと言ったらしいが、ホン・サンスにおいては「男と女と酒さえあれば映画はできる」のかもしれない。

よく知りもしないくせに [DVD]

監督自身のような主人公があちこちで罵倒されたりするのが楽しい。最後の海辺のシーンは『緑の光線』を思わせるような……。

ハハハ [DVD]

カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリ受賞作。『プンサンケ』に出ていたキム・ギュリも登場する。ちょっと色っぽい。

教授とわたし、そして映画 [DVD]

『トガニ』にも出ていたチョン・ユミがとてもかわいらしい。

次の朝は他人 [DVD]

ポスターの黒木瞳みたいな横顔(キム・ボギョン)が印象的なモノクロ作品。
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Date: 2013.07.31 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

綾野剛主演作 『シャニダールの花』 難解? 解釈の多様性?

 劇場の観客にいつも以上に女性が多いのは、今、最も旬と言える綾野剛が目当てだと思われるが、もちろん石井岳龍監督ファンの男性だって楽しめるだろう。主人公・大瀧(綾野剛)を取り巻く女優陣のタイプは様々で、美少女から大人の女まで登場するからだ。恋の相手役には頼りなげで眼鏡が似合うセラピスト・美月響子(黒木華)。ほかにも嫉妬深い大人の女・田村ユリエ(伊藤歩)、不思議系の菊島ミク(山下リオ)、まだまだ幼い美少女・立花ハルカ(刈谷友衣子)などが脇を彩る。この映画は植物学者役の綾野剛が貴重な花である“シャニダールの花”を愛でるように、その花を宿す女性たちを愛でるような映画になっているのだ。


 物語は限られた女性の胸に咲くという美しい花を巡って進む。(*1)その花は画期的な新薬の開発につながるとして驚くほどの高値で取引されている。植物学者の大瀧が勤務するシャニダール研究所では、胸に花が芽吹いた女性をケアしつつ、その花を育て上げ、満開に咲いた花を採取することを目的としていた。



※ 以下、ネタバレあり。


石井岳龍監督 『シャニダールの花』 主演の綾野剛と黒木華

 『シャニダールの花』は、観る人によって様々に異なる感想を生みそうだ。言い換えれば全般的にはよくわからないということでもあるのだが、あえてそんなふうにつくられているようにも思える。たとえば、“シャニダール”とはネアンデルタール人の遺跡が見付かった場所だが、シャニダールでは埋葬されたネアンデルタール人と一緒に花の化石が発見されたことから、その遺跡は死んだ仲間の死を悼むような心の発生を表すものだと説明される。しかし、それは唯一の解釈とは言えないようだ。映画後半で研究所の所長(古館寛治)が語る説では、ネアンデルタール人は花に寄生され絶滅したとされるからだ。
 ネアンデルタール人と花の関係が意味することが、違った解釈で語られるように、この映画で象徴的な意味を持つ女性の胸に咲く花(“シャニダールの花”)も、勝手な想像を膨らますことが可能だし様々な解釈がなされそうだ。人生において「花を咲かせる」と言えば、何らかの成功を意味する。限られた女性にしか咲かないのは、やはり限られた人しか成功には恵まれないということかもしれない。響子は大瀧と恋仲になると花を芽吹く。その大瀧に想いを寄せるユリエは、大瀧の行動にその花の成長も左右される。花がそれを宿す人の心の状態に影響を受けやすいというのも意味ありげだ。
 しかし一方で、花が咲くことに戸惑っている場合もある。ミクはせっかく芽吹いた花をうまく成長させることができないし、ハルカもその花が莫大な金になることを知って親の顔色を窺う様子も見える。そして、その花が満開になり、それを摘むことにより死んでしまう場合も多いのだ(研究所のなかでは秘密にされているが)。これは監督が語るように、その花が“エロスと死”を象徴しており、そんなところに注目すれば精神分析的な解釈で『シャニダールの花』を捉えることもできるのかもしれない。

『シャニダールの花』 植物学者の大瀧はユリエ(伊藤歩)の胸に咲く花を観察する
 
 物語は研究所の嘘(花を摘むことが死につながる可能性があること)が明らかになることで、大瀧と響子の関係に焦点が移る。大瀧との関係で花が芽吹いた響子だが、その芽は大瀧に切り取られてしまう。もちろん大瀧の意図は、花が満開になったときの危険から響子を守るためだ。しかし響子はせっかく咲いた花を最後まで咲かせることを望み、「自分の信じることしか信じないのね」と大瀧を非難して姿を消してしまう。この響子の言葉は、大瀧に対してだけでなく、観客に対しても向けられている。「自分の信じること」以外の可能性のほうへも目を向けろということだ。その意味で、この映画は解釈の多様性が明らかに意識されているのだ。
 だから最後の幻想的な場面も、ひとつの解釈のあり方として提示されている。それは花の種を生んだあとに植物状態のようになってしまった響子の解釈なのだろう。その解釈によれば、目覚めていなかったのは人間の姿をしていた今までのほうで、植物状態の今こそが目覚めた状態であるということ。つまり、人間の姿こそが夢だったのであり、その夢を見ているのは花そのものだったのだ。(*2)
 「胡蝶の夢」の話にもあるように、蝶の夢を見ていたのは荘周であったのか、それとも荘周こそが蝶に見られている夢だったのか、それはどちらでもあり得るということなのだ。

 石井岳龍監督は前作『生きてるものはいないのか』でも終末的な世界を描いていたが、この作品も終末的な匂いがあるし、静かな映像に激しいギターの音が合わされて、独特な狂気の世界を生み出している。

(*1) この設定は、肺の中で睡蓮が咲くボリス・ヴィアンの小説『うたかたの日々』を思わせる。だが、その後に明らかになるように、その花が実は人間に寄生するものだとすると、今度はマンガ『コブラ』「マンドラド」のエピソードを想起させなくもない。いろんな想像が広がる映画だ。

(*2) 胸に咲く花が妙になまめかしく肉感的に撮られているのは、それが人間と同等の存在として描かれていたからなのかもしれない。


シャニダールの花 特別版 [DVD]


石井岳龍(=石井聰亙)監督の作品
綾野剛の出演映画
Date: 2013.07.23 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)

ありふれた難病もの?『わたしたちの宣戦布告』と、その他新作DVDレヴュー

 TSUTAYAでは新作はまとめて借りると安い。ということで、TSUTAYAの新作の棚からセレクトしたものをまとめてレビュー。

『ダイ・ハード/ラスト・デイ』
 観る前から酷そうな予感。でも借りてしまう。やはり予想に違わぬ出来といったところか。

『言の葉の庭』
 新海誠監督作品。46分の中編。雨の場面の写実性がすごい。雨に濡れたウッドデッキとか、緑に囲まれた湖面の様子はアニメとは思えないほどリアル。それに比べ物語があまりに妄想的。

『クラウド・アトラス』
 突っ込みどころも多いが3時間充分に楽しんだ。1849年から2144年までの6つ時代のエピソードが同時平行的に描かれる。手記・音楽・映画・宗教が各エピソードをつないでいるが、輪廻があまり重要な役割を果たしてない気もする。わざわざ大物俳優たちに変装させて何役もやらせたのに……。


『わたしたちの宣戦布告』 ロメオとジュリエットは恋に落ちる

『わたしたちの宣戦布告』

 映画が観終わってから知ったことだが、ジュリエット役のヴァレリー・ドンゼッリこそこの映画の監督である。そして監督の現実のパートナーはロメオ役のジェレミー・エルカイムであり、最後に登場するのはふたりの本当の子どもであり、難病というのも事実のようだ。この映画は現実をもとにしてつくられているが、ドキュメンタリー的な手法はとられていない。自分たちの悲劇を追体験させるわけではなく、もっと客観的に映画として観客に提示することが意識されている。

 物語は、ロメオとジュリエットというカップルが出会い、アダムという息子が生まれ、そのアダムに難病が見つかるということに尽きる。まだ若い夫婦はその病気に対して、親など家族の助けも借りながら戦っていくことになる。どこにでも転がっていそうな難病ものの映画なのだ。
 ふたりは悲劇の主人公だが同情を買おうとはしていない。あくまで前向きである。ナレーションは状況を説明することはあっても、そのときの感情には触れず、やや客観的に事態を突き放して見ている。そして、ふたりがナレーションを交互に請け負うことで、ふたりの物語だということも伝わってくる。この映画はラブストーリーでもある。

 もう一度言うが、映画の題材としてはありふれている。もちろん現実にそんなことが自分に降りかかってきたとしたら、到底“ありふれている”などとは言えないような状況だ。主演を務めたふたりにもそれは同様だろう。素晴らしいのはそんな事態にもめげずにそれを映画にしたことではなく、その体験をありふれた難病ものにしなかったところだ。こうした題材がお涙頂戴的な退屈な作品になりがちなのは、わざわざ例を挙げるまでもないのではないだろう。

 芸術表現というものは“内容”と“形式”に分けて考えることができる。(*1)これは「何を伝えるか」と「いかに伝えるか」と言い換えることもできる。この映画は“内容”においてはありふれているけれど、「いかに伝えるか」という“形式”の部分で優れている。この映画はありふれた物語をうまく見せる点で成功しているのだ。
 『わたしたちの宣戦布告』では、音楽は主役のひとりだと言ってもいい。ミュージカルのようにふたりが歌う場面もあるが、音楽が台詞以上に“内容”を伝える役割を果たしているのだ。たとえばふたりの出会いはどこかのクラブでのパンクミュージックをバックに描かれるし、アダムに脳腫瘍と判明した場面では、ビバルディの「四季」が劇的な効果を生んでいる。
 ふたりはパンクを聴いて弾けるような若者であるが、何の因果かふたりの間にできた息子がごくまれにしかない難病を抱えるという悲劇の主人公でもある。そうしたことを説明的ではなく、情感を伴う音楽でもって感じさせるのだ。
 これらの場面では音楽が高まりより台詞も消える。しかし凡庸な言葉を連ねるよりも、音楽がより多くを伝えてくれる。出会いの場面ではシェクスピア劇の主人公たちに重ねた冗談から始まり、ふたりでクラブを抜け出し、何度もデートを重ね、やがて子どもが生まれるまでテンポよい編集で見せてしまう。また脳腫瘍が判明した場面では、その悲劇がふたりの周囲の家族たちに次々に伝えられ、驚きと悲しみが広がっていく場面を、やや過剰とも感じられるクラシックに合わせてうまく表現している。こんな場面を普通に描こうとすれば、よほどうまい役者が演じるなら別だが、妙に空々しく思えることも多いはず。しかし、この映画ではそうしたキモとなる重要な場面を、音楽と編集によってすんなりとそれを受け容れさせてしまうのだ。そして最後は厳しい現実に涙するよりも、何かに宣戦布告するような前向きな気持ちになるんじゃないだろうか。
 ちょっと褒めすぎたが、目立たない作品だが拾い物だと思う。ヴァレリー・ドンゼッリはこれが長編第2作目だというが、今後も楽しみな監督だ。

(*1) 「すべて芸術は絶えず音楽の状態に憧れる。」という有名な言葉は、音楽だけが“内容”と“形式”が一致しているということらしい。なるほど含蓄がある。

わたしたちの宣戦布告 [DVD]


Date: 2013.07.18 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『恋に至る病』とは何か? PFFスカラシップ作品

 木村承子監督・脚本。我妻三輪子、斉藤陽一郎、佐津川愛美、染谷将太出演。
 今「ぴあ」という名前がどんな影響力があるのかは知らないが、ネットが普及する前まで、雑誌『Weekly ぴあ』は一部の映画ファンにとっては必需品であった。「ぴあ」がその時映画館で観ることのできる作品の最新のガイドだったから。そして、PFF(ぴあフィルム・フェスティバル)は、ぴあの主催する自主制作映画の登竜門であり、映画サークルなどではひとつの高い目標として存在していたはず。園子温、橋口亮輔や矢口史靖など多くの映画監督を生んだのもPFFだ。この作品もPFFスカラシップ作品として製作されたものだ。去年劇場公開され、今月DVDがリリースされた。

『恋に至る病』 主役のツブラを演じるのは、かわいらしい我妻三輪子

 物語は、生物学教師のマドカと彼に首ったけの女子高生ツブラが性行為に及ぶと、互いの性器が入れ替わるという奇想天外な設定から始まる。
 大林宣彦の『転校生』なんかを思わせなくもないが、実はこれと同じ設定はグレッグ・イーガンのSF短編「祈りの海」にもある。イーガンの小説の場合は、別世界の性のあり方を描いたものだが、この映画ではツブラの妄想(の現実化)としてこの設定がある。「誰かが欲しい」ツブラが、対人恐怖症みたいで「誰もいらない」教師との関係で、不足を補い合うのだ。そして互いの恥ずかしい部分を交換し合うことで、ふたりは離れられない間柄になる。

 ツブラのキャラクターは、演じる我妻三輪子のすべて丸で描いたような容貌もあってマンガみたいだ。ツブラは誰にも覚えてもらえないからといって、永遠に腐りたくないために物を食べないという“不思議ちゃん”なのだ。“不思議ちゃん”の定義はともかく、昆虫好きのいじめられっ子みたいな教師マドカを好きになる時点でちょっと変わった女の子であることは確かだ。
 そんなツブラが理科準備室みたいな場所でなかば強引に性交渉を済ませ、ふたりの身体に異変が起きるまではあっという間。(*1)それらがコメディタッチな軽さで綴られて、忘れたころになってタイトルが登場する。ふたりは田舎へと逃亡するが、それまでのハチャメチャな展開と違って、そこからは意外と自主制作映画にありそうなテーマに落ち着いてしまった印象もある。

『恋に至る病』 エン(佐津川愛美)はツブラに想いを寄せる自分に戸惑う

 冒頭の教室シーンは、『恋に至る病』の人間関係をさらりと見せている。マル(染谷)の視線の先にいるのがエン(佐津川)で、エンが見つめるのがツブラ(我妻)、そしてツブラが一途に想いを寄せるマドカ(斉藤)が教壇にいるが、マドカは挙動不審で誰も見ようとしない。(*2)
 この映画の題名はツブラの病を指している。ツブラは恋に落ちるのではなく、寂しさを埋めるために恋をするに至る。病はほかの登場人物にもある。教師マドカは経験による学習からか欲望を切り下げ、かつて好きだったことさえ思い出せない。欲しいと思わなければ傷つくこともないからだ。エンは異性には不自由していないが、もう恋やセックスにドキドキしなくなり、退屈で仕方がない。本気になったと思うと相手は同性で自分でも戸惑っている。マルはこのなかではまともとは言えるけれど、やりたい盛りの童貞として健全な悩みに苦しんでいる。
 冒頭で魅力的な設定を用意したにも関わらず、それを忘れたかのような話になっていくのだ。結局のところ、行き着くのは田舎での4人の修学旅行みたいなものに留まっている。性器交換の顛末も曖昧だし、ラストにカタルシスがあるわけでもなく、ごく普通の日常が戻ってくるだけだ。でも若い監督である木村の意図したのは、そんなぐずぐずした若者の悩みのほうなのかもしれないとも思う。そんなものはすっきり片付くようなものではないのだから。
 緑豊かな田舎の夏休みの風景は、観ていても気持ちがいい。室内のシーンでもうまく外光を取り入れ(雪見障子の向こうから明かりが差してみたり)、いい画面をつくっているように思えた。撮影は『その夜の侍』では汗だくの暑い夏を撮った月永雄太

(*1) このシーンはあくまでかわいらしく、ツブラが描いた下手なマンガも加えて描かれる。
 木村監督はマンガも描けるようで、DVD特典にはツブラの絵とは異なり妙に完成度が高いマンガが付いている。

(*2) 登場人物は皆、「ツブら」「マドカ」のように、「円」に関係する名前になっている。


恋に至る病 [DVD]


Date: 2013.07.10 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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