『さよなら渓谷』 真木よう子、7年ぶりの主演作
これまでにも『横道世之介』『悪人』『パレード』など、その作品が何度も映画化されている吉田修一作品の映画化。監督は『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』『まほろ駅前多田便利軒』の大森立嗣。主演は真木よう子と大西信満。
昨日のニュースでは、この『さよなら渓谷』がモスクワ国際映画祭で審査員特別賞を受賞したと伝えられた。

小説の映画化となるとどうしても映画には不利な部分があるようだ。先に小説を読んだ者からすれば、すでに物語は完成しているわけで、読者の頭のなかで再構築された物語と新たに生まれた映画との齟齬が目立つことになる。『華麗なるギャツビー』でも『横道世之介』でも、そういう部分はあった。だから映画から入った者のほうが、かえってすんなりその世界に入り込めるということはあると思う。そんな場合でも、原作小説は映画を観た後で、まるでそこに映画では不明だった謎の解答が記されているかのように読まれるのではないだろうか。だとすれば、やはり映画は不利な気もする。映画は原作に対して大きな負債を抱えているようなものなのかもしれない。
映画版『さよなら渓谷』では、小説では中盤で明かされるふたりの関係は、予告などですでに知らされている。うらぶれた住宅に住むふたりが、実は「残酷な事件の被害者と加害者」だったのだ。映画版ではその秘密が暴かれる驚きよりも、被害者と加害者のふたりがなぜ夫婦のように暮らすようになるのかに重点がある。
※ 以下、ネタバレあり。

冒頭のシーンもそうだが、このふたりのベッドシーンでは常にかなこ(真木よう子)が上になっている。これは男に跨った真木よう子のパンツをスクリーンに大写しにさせるための設定ではなく、ふたりの関係性を示している。かなこと尾崎(大西信満)の関係は常にかなこの主導で進んでいるということだ。かなこに主導権がある理由は、尾崎はかなこに対し絶対的な負い目があるから。15年前、互いが大学生と高校生だったころ、尾崎はかなこのことをレイプしていたからだ。
レイプの被害者と加害者が一緒に暮らすということなどあり得るだろうか? 原作ではその過程はそれほど詳しく語られるわけではない。尾崎の回想と、ふたりを探る雑誌記者のインタビューという形でかなこの言葉が記されるが、現在に至るまでの詳細となると不明だ。原作では「二百万ほどの貯金など、三ヶ月も経たないうちになくなった。」と記される箇所を、映画ではじっくりと追っていく。
被害者と加害者の関係はかなり複雑なものになるだろう。(*1)原作ではその関係を雑誌記者が再構成していくが(尾崎の回想はあるが)、映画では物語を伝える媒介だった雑誌記者の存在は消えて、過去のふたりにカメラが密着する形で進んでいくのだ。
ふたりの関係を言葉で説明すれば次のようになるかもしれない。レイプ被害者となってしまったかなこにとって、その事件は絶対に人に知られたくない事実だ。新しい人と付き合ったとしても、その決定的事実がばれたら関係は崩れてしまう。常にそうした不安を抱えていかなければならない。ばれることの不安から逃れるには、事件の当事者(加害者の尾崎)と一緒にいるしかない。尾崎は当然その事実を知っているからだ。また、加害者の尾崎からすれば、自分でも認める通り絶対に許されない罪を犯してしまったわけだから、贖罪としては、許されない罪を抱えたまま被害者の前に額ずき続けるしかない。
映画ではその関係が生まれる瞬間を描こうとしているのだ。その意味で、この映画はチャレンジングな仕事に取り組んでいるし、その積極性は買うべきかもしれない。しかし、描く対象はあまりにやっかいだし、それに密着しすぎている気がする(この一連のシーンを演じる役者陣は大変だったと思う)。言葉で記す以上に、映画で役者が身体で表現するものは具体的だ。普通にはあり得ないような被害者と加害者の関係だからこそ、あまり対象に密着し過ぎずに、観客の想像で補うような部分を残しておいたほうが、かえって説得力が増したようにも思える。
上記のふたりの不思議な関係が成り立つまでのエピソードは、感動的な部分ではあるのだが、そのエピソードの描き方はラストとも合っていないようにも思えた。ラストでは「あの事件を起こさなかった人生と、かなこさんと出会った人生と、どちらかを選べるなら、あなたはどっちを選びますか?」と雑誌記者は尾崎に訊ねる。
かなこの本名は“水谷夏美”だ。レイプ事件の被害者である夏美は、事件のとき、先に逃げて無事だった友達の名前(かなこ)を名乗る。現在ある人生とは別の人生を始めるために、水谷夏美は“尾崎かなこ”という名前を選択したのだ。そんな「ほかの人生もあり得る」という偶有性が意識されるのは、現在から過去を振り返ったときだ。
映画ではそうした過去が回想的に挿入されるのではなく、ほとんど現在進行形のようになってふたりの長い長い地獄めぐりのような場面が続く。かなこが家に雑誌記者を招き入れてからは、時制は過去に移行してしまうのだ。そこでは現在から振り返るという視点が忘れられている(雑誌記者の姿も消える)。
だからすべてを知ったあとに忘れられていた雑誌記者が再び登場して、尾崎に訊ねる言葉が妙に唐突に感じられるのだ。原作では、現在の時点からかなこのインタビューなどで過去が呼び出された。現在と過去を行き来しながら、ふたりの物語が描かれるのだ。そんな構成だからこそ偶有性という問題も意識されるのではないだろうか。
(*1) 先日DVDが発売された『その夜の侍』でも、ひき逃げの被害者(の遺族)と加害者の関係が描かれている。もちろんこれは『さよなら渓谷』のレイプ事件ほど複雑ではない。加害者は人非人みたいな存在だし、男女の問題は絡まないから。それでもその関係は簡単に割りきれるものではない。『その夜の侍』でも簡単な図式では説明していないし、混沌としたままに表現しているところがよかった。
大森立嗣監督の作品
真木よう子の作品
大西信満の作品

昨日のニュースでは、この『さよなら渓谷』がモスクワ国際映画祭で審査員特別賞を受賞したと伝えられた。

小説の映画化となるとどうしても映画には不利な部分があるようだ。先に小説を読んだ者からすれば、すでに物語は完成しているわけで、読者の頭のなかで再構築された物語と新たに生まれた映画との齟齬が目立つことになる。『華麗なるギャツビー』でも『横道世之介』でも、そういう部分はあった。だから映画から入った者のほうが、かえってすんなりその世界に入り込めるということはあると思う。そんな場合でも、原作小説は映画を観た後で、まるでそこに映画では不明だった謎の解答が記されているかのように読まれるのではないだろうか。だとすれば、やはり映画は不利な気もする。映画は原作に対して大きな負債を抱えているようなものなのかもしれない。
映画版『さよなら渓谷』では、小説では中盤で明かされるふたりの関係は、予告などですでに知らされている。うらぶれた住宅に住むふたりが、実は「残酷な事件の被害者と加害者」だったのだ。映画版ではその秘密が暴かれる驚きよりも、被害者と加害者のふたりがなぜ夫婦のように暮らすようになるのかに重点がある。
※ 以下、ネタバレあり。

冒頭のシーンもそうだが、このふたりのベッドシーンでは常にかなこ(真木よう子)が上になっている。これは男に跨った真木よう子のパンツをスクリーンに大写しにさせるための設定ではなく、ふたりの関係性を示している。かなこと尾崎(大西信満)の関係は常にかなこの主導で進んでいるということだ。かなこに主導権がある理由は、尾崎はかなこに対し絶対的な負い目があるから。15年前、互いが大学生と高校生だったころ、尾崎はかなこのことをレイプしていたからだ。
レイプの被害者と加害者が一緒に暮らすということなどあり得るだろうか? 原作ではその過程はそれほど詳しく語られるわけではない。尾崎の回想と、ふたりを探る雑誌記者のインタビューという形でかなこの言葉が記されるが、現在に至るまでの詳細となると不明だ。原作では「二百万ほどの貯金など、三ヶ月も経たないうちになくなった。」と記される箇所を、映画ではじっくりと追っていく。
被害者と加害者の関係はかなり複雑なものになるだろう。(*1)原作ではその関係を雑誌記者が再構成していくが(尾崎の回想はあるが)、映画では物語を伝える媒介だった雑誌記者の存在は消えて、過去のふたりにカメラが密着する形で進んでいくのだ。
ふたりの関係を言葉で説明すれば次のようになるかもしれない。レイプ被害者となってしまったかなこにとって、その事件は絶対に人に知られたくない事実だ。新しい人と付き合ったとしても、その決定的事実がばれたら関係は崩れてしまう。常にそうした不安を抱えていかなければならない。ばれることの不安から逃れるには、事件の当事者(加害者の尾崎)と一緒にいるしかない。尾崎は当然その事実を知っているからだ。また、加害者の尾崎からすれば、自分でも認める通り絶対に許されない罪を犯してしまったわけだから、贖罪としては、許されない罪を抱えたまま被害者の前に額ずき続けるしかない。
映画ではその関係が生まれる瞬間を描こうとしているのだ。その意味で、この映画はチャレンジングな仕事に取り組んでいるし、その積極性は買うべきかもしれない。しかし、描く対象はあまりにやっかいだし、それに密着しすぎている気がする(この一連のシーンを演じる役者陣は大変だったと思う)。言葉で記す以上に、映画で役者が身体で表現するものは具体的だ。普通にはあり得ないような被害者と加害者の関係だからこそ、あまり対象に密着し過ぎずに、観客の想像で補うような部分を残しておいたほうが、かえって説得力が増したようにも思える。
上記のふたりの不思議な関係が成り立つまでのエピソードは、感動的な部分ではあるのだが、そのエピソードの描き方はラストとも合っていないようにも思えた。ラストでは「あの事件を起こさなかった人生と、かなこさんと出会った人生と、どちらかを選べるなら、あなたはどっちを選びますか?」と雑誌記者は尾崎に訊ねる。
かなこの本名は“水谷夏美”だ。レイプ事件の被害者である夏美は、事件のとき、先に逃げて無事だった友達の名前(かなこ)を名乗る。現在ある人生とは別の人生を始めるために、水谷夏美は“尾崎かなこ”という名前を選択したのだ。そんな「ほかの人生もあり得る」という偶有性が意識されるのは、現在から過去を振り返ったときだ。
映画ではそうした過去が回想的に挿入されるのではなく、ほとんど現在進行形のようになってふたりの長い長い地獄めぐりのような場面が続く。かなこが家に雑誌記者を招き入れてからは、時制は過去に移行してしまうのだ。そこでは現在から振り返るという視点が忘れられている(雑誌記者の姿も消える)。
だからすべてを知ったあとに忘れられていた雑誌記者が再び登場して、尾崎に訊ねる言葉が妙に唐突に感じられるのだ。原作では、現在の時点からかなこのインタビューなどで過去が呼び出された。現在と過去を行き来しながら、ふたりの物語が描かれるのだ。そんな構成だからこそ偶有性という問題も意識されるのではないだろうか。
(*1) 先日DVDが発売された『その夜の侍』でも、ひき逃げの被害者(の遺族)と加害者の関係が描かれている。もちろんこれは『さよなら渓谷』のレイプ事件ほど複雑ではない。加害者は人非人みたいな存在だし、男女の問題は絡まないから。それでもその関係は簡単に割りきれるものではない。『その夜の侍』でも簡単な図式では説明していないし、混沌としたままに表現しているところがよかった。
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