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『さよなら渓谷』 真木よう子、7年ぶりの主演作

 これまでにも『横道世之介』『悪人』『パレード』など、その作品が何度も映画化されている吉田修一作品の映画化。監督は『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』『まほろ駅前多田便利軒』の大森立嗣。主演は真木よう子大西信満
 昨日のニュースでは、この『さよなら渓谷』がモスクワ国際映画祭で審査員特別賞を受賞したと伝えられた。

『さよなら渓谷』 真木よう子にとっては『べロニカは死ぬことにした』以来7年ぶりの主演作

 小説の映画化となるとどうしても映画には不利な部分があるようだ。先に小説を読んだ者からすれば、すでに物語は完成しているわけで、読者の頭のなかで再構築された物語と新たに生まれた映画との齟齬が目立つことになる。『華麗なるギャツビー』でも『横道世之介』でも、そういう部分はあった。だから映画から入った者のほうが、かえってすんなりその世界に入り込めるということはあると思う。そんな場合でも、原作小説は映画を観た後で、まるでそこに映画では不明だった謎の解答が記されているかのように読まれるのではないだろうか。だとすれば、やはり映画は不利な気もする。映画は原作に対して大きな負債を抱えているようなものなのかもしれない。
 映画版『さよなら渓谷』では、小説では中盤で明かされるふたりの関係は、予告などですでに知らされている。うらぶれた住宅に住むふたりが、実は「残酷な事件の被害者と加害者」だったのだ。映画版ではその秘密が暴かれる驚きよりも、被害者と加害者のふたりがなぜ夫婦のように暮らすようになるのかに重点がある。


 ※ 以下、ネタバレあり。


『さよなら渓谷』 かなこはベッドでも主導権を握る

 冒頭のシーンもそうだが、このふたりのベッドシーンでは常にかなこ(真木よう子)が上になっている。これは男に跨った真木よう子のパンツをスクリーンに大写しにさせるための設定ではなく、ふたりの関係性を示している。かなこと尾崎(大西信満)の関係は常にかなこの主導で進んでいるということだ。かなこに主導権がある理由は、尾崎はかなこに対し絶対的な負い目があるから。15年前、互いが大学生と高校生だったころ、尾崎はかなこのことをレイプしていたからだ。
 レイプの被害者と加害者が一緒に暮らすということなどあり得るだろうか? 原作ではその過程はそれほど詳しく語られるわけではない。尾崎の回想と、ふたりを探る雑誌記者のインタビューという形でかなこの言葉が記されるが、現在に至るまでの詳細となると不明だ。原作では「二百万ほどの貯金など、三ヶ月も経たないうちになくなった。」と記される箇所を、映画ではじっくりと追っていく。
 被害者と加害者の関係はかなり複雑なものになるだろう。(*1)原作ではその関係を雑誌記者が再構成していくが(尾崎の回想はあるが)、映画では物語を伝える媒介だった雑誌記者の存在は消えて、過去のふたりにカメラが密着する形で進んでいくのだ。
 ふたりの関係を言葉で説明すれば次のようになるかもしれない。レイプ被害者となってしまったかなこにとって、その事件は絶対に人に知られたくない事実だ。新しい人と付き合ったとしても、その決定的事実がばれたら関係は崩れてしまう。常にそうした不安を抱えていかなければならない。ばれることの不安から逃れるには、事件の当事者(加害者の尾崎)と一緒にいるしかない。尾崎は当然その事実を知っているからだ。また、加害者の尾崎からすれば、自分でも認める通り絶対に許されない罪を犯してしまったわけだから、贖罪としては、許されない罪を抱えたまま被害者の前に額ずき続けるしかない。
 映画ではその関係が生まれる瞬間を描こうとしているのだ。その意味で、この映画はチャレンジングな仕事に取り組んでいるし、その積極性は買うべきかもしれない。しかし、描く対象はあまりにやっかいだし、それに密着しすぎている気がする(この一連のシーンを演じる役者陣は大変だったと思う)。言葉で記す以上に、映画で役者が身体で表現するものは具体的だ。普通にはあり得ないような被害者と加害者の関係だからこそ、あまり対象に密着し過ぎずに、観客の想像で補うような部分を残しておいたほうが、かえって説得力が増したようにも思える。

 上記のふたりの不思議な関係が成り立つまでのエピソードは、感動的な部分ではあるのだが、そのエピソードの描き方はラストとも合っていないようにも思えた。ラストでは「あの事件を起こさなかった人生と、かなこさんと出会った人生と、どちらかを選べるなら、あなたはどっちを選びますか?」と雑誌記者は尾崎に訊ねる。
 かなこの本名は“水谷夏美”だ。レイプ事件の被害者である夏美は、事件のとき、先に逃げて無事だった友達の名前(かなこ)を名乗る。現在ある人生とは別の人生を始めるために、水谷夏美は“尾崎かなこ”という名前を選択したのだ。そんな「ほかの人生もあり得る」という偶有性が意識されるのは、現在から過去を振り返ったときだ。
 映画ではそうした過去が回想的に挿入されるのではなく、ほとんど現在進行形のようになってふたりの長い長い地獄めぐりのような場面が続く。かなこが家に雑誌記者を招き入れてからは、時制は過去に移行してしまうのだ。そこでは現在から振り返るという視点が忘れられている(雑誌記者の姿も消える)。
 だからすべてを知ったあとに忘れられていた雑誌記者が再び登場して、尾崎に訊ねる言葉が妙に唐突に感じられるのだ。原作では、現在の時点からかなこのインタビューなどで過去が呼び出された。現在と過去を行き来しながら、ふたりの物語が描かれるのだ。そんな構成だからこそ偶有性という問題も意識されるのではないだろうか。

(*1) 先日DVDが発売された『その夜の侍』でも、ひき逃げの被害者(の遺族)と加害者の関係が描かれている。もちろんこれは『さよなら渓谷』のレイプ事件ほど複雑ではない。加害者は人非人みたいな存在だし、男女の問題は絡まないから。それでもその関係は簡単に割りきれるものではない。『その夜の侍』でも簡単な図式では説明していないし、混沌としたままに表現しているところがよかった。

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Date: 2013.06.30 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

ラーマン版『華麗なるギャツビー』 豪華絢爛たるディカプリオのギャツビー

 バズ・ラーマン監督作品。主演は『ロミオ+ジュリエット』でもコンビを組んだレオナルド・ディカプリオ。原作はスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』であり、この作品は五度目の映画化。有名なのは1974年のレッドフォード主演のものだが、それですら一般的にはあまり評判がよくないらしい。さて、今回のラーマン=ディカプリオ版は?

バズ・ラーマン作品『華麗なるギャツビー』 


 物語は、語り手であるニック・キャラウェイ(トビー・マグワイア)が謎めいた人物であるギャツビー(ディカプリオ)について語るところから始まる。そして「「こんなものは絶対に我慢ならない」と考えるすべてを、そのまま具現化したような存在」(原作より)であったはずのギャツビーを、ニックがなぜ「偉大なギャツビー」と讃えるようになるのかが描かれる。



※物語は周知のものであるから、以下まとまりのない雑多な感想をいくつか。ネタバレもあり。


◆ ギャツビーの造形
 映画全体の雰囲気はレッドフォード版のほうがまっとうだと思うが、ギャツビーの造形という点で言えばディカプリオ版『華麗なるギャツビー』のほうがよかった。レッドフォード版のギャツビーはあまりに澄ましていて、ほとんど崩れることがない。一方、ディカプリオのギャツビーはレッドフォード版では見えなかった裏の顔も透けて見えるけれど、お茶会のシーンなど妙にかわいらしい部分がある。皇帝の甥だとか、殺人者などと噂されるギャツビーにそんな意外な部分があるからこそ、語り手であるニックも惹かれていくのだと思うのだ。
 あれだけ豪華な城を構え盛大なパーティを催して望むことが、かつて愛したデイジーとのお茶会なのだ。ささやかな願いじゃないだろうか。真っ白いスーツをあんなに着こなせるのもディカプリオならではだろうし、久しぶりのデイジーに恐れをなして雨の中を庭へと逃げ出して濡れ鼠のようになってしまう狼狽ぶりがいい。ギャツビーがとてもいじらしい人物と思える。幸福の絶頂といった感じの見つめ合うふたりの姿も含めて、とても楽しい場面だ。突っ込みどころも多いけれど、142分を飽きさせない。

◆ お祭り騒ぎと文学作品
 お祭り騒ぎは監督バズ・ラーマンの得意分野だ。豪華絢爛のパーティ場面では、ミュージカルをやりたそうにも見える。『ムーラン・ルージュ』もそうだが、処女作『ダンシング・ヒーロー』もミュージカル(というかダンスの映画)であり、とにかく楽しいのだ。しかし、『華麗なるギャツビー』は古典文学の映画化だけに、お祭り騒ぎだけに終わらせるわけにもいかない。
 ミュージカルは基本的にはお祭り騒ぎが盛り上がればいいわけだが、この作品ではそれは背景にすぎない。お祭り騒ぎはデイジーのための撒き餌みたいなものなのだ。だからお祭り騒ぎを盛り上げることだけに徹するわけにもいかず、騒ぎのなかにニックの文学的なナレーションが混じるのだが、それがちぐはぐな印象を与えているのかもしれない。

『華麗なるギャツビー』 ギャツビーの派手な登場シーン

 ラーマンは原作への思い入れが強いのか、原作の印象的な場面を忠実に映像化しようとする。湾の向こうの緑の灯火に手を伸ばす場面や、ニックがギャツビーに賛辞を贈る場面など。そのほかにもギャツビーの登場場面は、原作ではこう描かれている。

 彼はとりなすようににっこりと微笑んだ。いや、それはとりなすなどという生やさしい代物ではなかった。まったくのところそれは、人に永劫の安堵を与えかねないほどの、類い稀な微笑みだった。そんな微笑みには一生のあいだに、せいぜい四度か五度くらいしかお目にかかれないはずだ。 (『グレート・ギャツビー』 訳:村上春樹)


 このあともっと続くのだが、ラーマンはこうした文学的言辞を映像化することに苦心している。背景に打ちあがる花火の前で、ディカプリオがこれ以上ないくらいの微笑みを見せるのだが、けれん味あふれるラーマン演出とはいえ大げさすぎてマンガみたいだった。
 一方では、脚本も担当しているラーマンは、映像に工夫を凝らすのではなく、原作の文章をそのまま映画のナレーションにも使用している。『ロミオ+ジュリエット』では難解な古語を現代の若者に語らせていたが、それはシェクスピアの書いたものが戯曲だからこそ成立したのかもしれない。古語とはいえ、役者が読み上げることを意図して書かれているからだ。しかし『華麗なるギャツビー』は小説であり、聞き流すには(もしくは字幕で読むには)難解な箇所もあって、そうした文章を映像に重ねるのが効果的かは疑問だ。(*1)

(*1) そんな箇所に関してひとつ疑問を。
 ギャツビーがデイジーとの想い出(最初のキス)を語る場面では、ニックはこんなふうに語る。「彼女は彼の花になり、神は人間に化身した」。ちなみに原作ではこうなる。

Then he kissed her. At his lips’ touch she blossomed for him like a flower and the incarnation was complete.
(それから彼女に口づけをした。唇と唇が触れた瞬間、彼女は花となり、彼のために鮮やかな蕾を開いた。そのように化身は完結した。) 訳:村上春樹


 こんなふうに映画と原作では違う意味になっている。字幕の間違いなのか、あるいは様々な意味に取れる言葉なのか、英語が苦手な私には判断がつかないが、もし「神は人間に化身した」という意味だすれば、ギャツビーは「神になろうとした男」ということになるだろう。
 そんな解釈もまったく不可能ではなさそうで、この映画では、ニックはギャツビーに出会う前からその視線を感じている。こうしたギャツビーの視線は、神の視線と重ね合わせになっているとも言える。神の視線とは、原作にも登場する看板「エックルバーグ博士の眼」のことだ。この看板は、ギャツビーを銃撃することになるウィルソンが語るように、「神様はすべてをごらんになっている」という神の視線を象徴したものだった。
 ギャツビーはデイジーにも「多くを望みすぎる」と非難されるが、それは彼が「神になろうとした男」だからだ。ギャツビーは自分の視線の届く範囲においては(もちろんすべてを見渡せるわけではない)、自分の思い通りに事を進めたいと考えている。そうしたことがよく表れているのが「過去はくり返せる」という台詞なのだ。「過去はくり返せる」とは、端的には叶わなかった恋をやり直すことだが、過去にもう一度戻ってすべてをやり直すことは神でもなければできないことだ。もしかするとラーマン版ではそんな意味合いを込められているのかもしれない。単に字幕の間違いだとすれば、私の思い込みだが……。


◆ ラーマン版『華麗なるギャツビー』の独自のラストについて
 ラスト、ギャツビーはデイジーからの電話を待っている。ようやく通じた電話を「ギャツビーさまもお喜びに」などと召し使いが取り次ぐ。ここではデイジーが電話をかけていると思わせる編集がなされている(実際に電話の向こうにいたのはニック)。
 ギャツビーはデイジーからの電話だと信じたまま、銃で打たれてプールに沈む。電話に出られなかったからこそ、ギャツビーは最後まで失望とは無縁のままなのだ。これは「希望を見いだす非凡な才能」というギャツビーの偉大な部分を讃えているのだと思う。ディカプリオの目は緑色に輝いたまま。それは湾の向こう側にある緑の灯火の反映のようだった。
 このすれ違いの演出は『ロミオ+ジュリエット』の逆パターンのようだ。原作とは異なるラストを用意したラーマン版『ロミオ+ジュリエット』では、本来すれ違うはずのふたりが一瞬だけ時を共にする。(*2)そして間違いを犯したことに気づいて絶望的に死んでいく。反対に『華麗なるギャツビー』では、すれ違うことでギャツビーの偉大な部分は汚されず、希望を抱いたまま死んでいったのではないか。

(*2) 原作では、薬で眠っているジュリエットを見たロミオが毒薬を飲んで死に、その後で意識を回復したジュリエットがロミオの死体を見て後を追う。ふたりはすれ違っている。

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バズ・ラーマンの作品
ディカプリオの主演作品
Date: 2013.06.22 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『嘆きのピエタ』のつづき その他の覚え書き

 前回の『嘆きのピエタ』のレビューのつづき。前回に書けなかったことと、前回の補足なども含めて。以下、趣味的な覚え書きです。
 ちなみに公開は本日(15日)から。
 『嘆きのピエタ』は、キム・ギドク監督の第18作目。残念ながら第17作目の『アーメン』は公開されていないが、この『嘆きのピエタ』はベネチアで金獅子賞を受賞した作品だけに日本でも公開となった。かなり小規模だが……。

 ※ 以下、前回同様かなりネタばれですのでご注意を!


◆ 「空間についての映画」としてのギドク映画
 舞台となるのは、ソウル市内の小さな工場が並ぶ町だ。その中心には清渓川が流れているが、開発が著しく次々と建てられる高層ビルにその川も消えようとしている。そんな町の姿が悲哀をもって綴られる。ガンドが主な仕事場としているのはこの町工場あたりで、債務者となっているのは工場の経営者たちだ。
 寂れた町工場が舞台となるからか、『嘆きのピエタ』では極端な色は排除され寒々しく乾いた画面だ。『悲夢』『ブレス』などはけばけばしい色彩感覚で画面がつくられていたが、この映画は『受取人不明』あたりのどこかノスタルジックな雰囲気の映像になっている。
 『嘆きのピエタ』でもミソンの息子が葬られるのは清渓川のほとりだ。ギドクの過去作品と同様に、川辺は“死”に近い場所としてある

『嘆きのピエタ』向こうには川が見える どこか乾いた映像

◆ 復讐というテーマ
 復讐は『リアル・フィクション』にも描かれたが、『嘆きのピエタ』のそれとはちょっと違う。『リアル・フィクション』の復讐は、『鰐』の顔の見えない暴力のように、その対象は明確でなく、逆に言えば手当たり次第だ。浮気をする恋人、理不尽な軍隊の後輩、裏切った友人など、理由はあるものの自分が虐げられているという意識が先にある。これは社会全体が自分の敵だという卑屈な考えによる。卑屈な意識が社会に怒りのはけ口を求めていたのだ。
 それに対し『嘆きのピエタ』における復讐する女は明確な相手がいるし、その恨みの原因もはっきりしている。(*1)一方の復讐される側はギドク映画によく登場する孤独な男だが、『リアル・フィクション』のような虐げられる立場ではなく虐げる側に収まっている。復讐される男ガンドの仕事は借金取りであり、これは単にやくざな仕事というよりも資本主義の暗い側面を象徴しているようだ。
 ギドクがいつから資本主義に対しての批判を抱くようになったのかは知らないが、『アリラン』のなかでも語られるように、弟子であった『映画は映画だ』の監督チャン・フンがギドクのもとを去ったことが、ギドクには裏切りに思えたようだ。そしてチャン・フンがその後に監督した『義兄弟』『高地戦』のような、ハリウッド的資本投下をする作品を苦々しく思ってもいる。お金ばかりにすべてが支配され、ほかのものがおろそかにされることが耐えられないのだろう。そんな心情が資本主義批判となっている。
 そんな経験からか、ギドクの映画の製作方法も変わってきている。以前は日本の会社も資金を出していたが、今回の映画は自己資金のみで製作されているようだ(資金援助を嫌うのは、自由度がなくなるから)。脚本を担当した『プンサンケ』では、キャスト・スタッフがノーギャラだったという美談が語られていた。しかしこれには後段があって、出演料などはないのだが利益に関しては分配される方式になっていたようだ。『プンサンケ』の興行収入がそれほど多かったとは思えないが、少なからぬ金額はそれぞれのキャスト・スタッフに分配されたようだ。
 今回の『嘆きのピエタ』もその方式だから、映画がまるっきりこけたりすれば、キャスト・スタッフはまったくのボランティアになることもあり得る。しかしこの映画はそうしたリスクを避けるために、撮影は10日間しかかかっていないとのこと。驚異的な早撮りだ。

(*1) 復讐というテーマからパク・チャヌク映画を想起させる。女の復讐という点では『親切なクムジャさん』、時間をかけた復讐という点では『オールド・ボーイ』。けれどもそこから先はギドク独自の展開だ。

『嘆きのピエタ』 「お前を捨ててごめんなさい」と女が現れる

◆ ギドク映画における“死”の捉え方
 『アリラン』のパンフレットで語られていることだが、ギドクは『悲夢』を撮影していたころ、“死”は「別の世界に続く神秘のドア」だと考えていた。それはその後否定されるのだが、『嘆きのピエタ』ではどうだろうか。
 この作品では何人もの債務者が自殺する。冒頭に登場するミソンの息子もそうだが、借金で逃げ場を失い、ガンドにも追い詰められ死を求める。ガンドが借金取り最後の仕事として向かった債務者も、妙に悟りきってビルから身を投げる。「死ぬことですべてが終わる」と考えたかはわからないが、死ぬこと自体が逃げ場所であり「救い」になっているようにも感じられる。
 しかし重点はそちらにはない。これは死に「救い」があるということではなく、人の営為にすぎない資本主義というシステムによって人が殺されていくことを示している。借金取りガンドは資本主義の走狗となって債務者たちを追い詰めるのだ。(*2)

 そんなガンドの非道さにも言い分はある。いかに法外な利子とは言え、借りたものは返すのが道義ということだ。ガンドは返さない債務者に責任があるとして容赦しないのだが、反面、債務者を殺すことはしない。「死亡保険金だと後が面倒だ」と言い訳をしているのだが、借金取りの親分は「死亡保険金でも構わない」と語っている。つまりは障害保険金を狙うのはガンドのやり方なのだ。「死んで逃げるのは卑怯」というのがガンドの倫理なのだろう。ガンドは別の場所では、自殺してすでに痛みを感じない債務者の頬に張り手を食らわす。「死んだら終わりか?」、その言葉には絶対に手の届かない場所に逃げ込んだ債務者に対する怒りがこもっている。
 “死”を逃げ場所にしていることが許せないのだ。これは“死”=「別の世界に続く神秘のドア」という考えを退けたギドクの思想的展開の反映だろう。そのせいだろうか、『嘆きのピエタ』ではかつてのギドク映画では「救い」となった夢や幻想が登場することもない。そういった逃げ場が失われた極めて現実的な映画なのだ(映画の設定自体はかなり妄想的だが)。

 ではガンドとミソンの自殺はどうなのか? それまでの行動と矛盾するようにガンドが自殺に走るのはどういうことか?
 ミソンに関して言えば、息子の死に報いるための自殺だった。(*3)ターゲットであるガンドはそれによって絶望して死んだとも言えるから、ミソンの自殺は無駄になってはいないし、息子を喪った辛い現実から目を逸らすための自殺でもない。ガンドに関しても同様に、絶望からこの世を去りたいという逃げの姿勢ではなく、トラックに引き回されるという長く続く痛みを選んだ点で贖罪の想いが感じられる。
 『キネマ旬報』(6月上旬号)にはギドクのインタビューが出ていた。ギドクは「神の視点」ということを強調している。宗教色の強い『春夏秋冬そして春』では、最後に山の上に置かれた仏像からの視点で終わる。『悪い男』でも、最後にゴスペルがかかり宗教的なものを感じさせるが、そのラストも海沿いの道を行くトラックの俯瞰だ。『嘆きのピエタ』のラストは、『悪い男』のラストによく似ている。『悪い男』では最後にトラックのテールランプの赤い色が残るが、『嘆きのピエタ』では朝靄のなかに引きずられたガンドの赤くはない血の跡が残されていくのだ。ギドクはこう語る。

 「私の作品の終わり方はいつも、人間でない何かが人間を見て、人間を理解しようと努力しているというふうなんですね。」


 「神の視点」から見れば(あるいはメタの視点に立てば)、ガンドとミソンというふたりの物語も、かなり歪んだ形ではあるけれども、映画の題名が示すようなキリストと聖母マリアの物語のような福音と思えなくもない。

(*2) 子どものために親である債務者が障害を求めるというエピソードもある。ガンドはそんな自己犠牲を羨ましく思い、仕事を放棄して借金を許すのだが、金の欲しい債務者は安易に自らの手を傷つけてしまう。親子の愛情にガンドが気づいていく場面でもあるが、生命そのものやその機能にまで値段を付けてしまう資本主義に毒された人間の愚かさも感じられる。

(*3) 実際には、目的を遂げようとしつつも、思わぬ感情に囚われ逡巡するところが『嘆きのピエタ』で最も感動的な場面だ。息子への愛情は揺るぎないが、一方で天涯孤独なガンドにも哀れみを覚え、自殺を躊躇するようでもあった。ここの演出は、ミソンがその揺れる想いをしゃべりすぎたきらいはあるのだが、説明的な分、わかりやすい物語になっている。


◆母親の存在と子宮回帰願望
 ギドク作品で母親が重要な役割を果たしたのは『受取人不明』くらいだ(戻ってこない手紙を待ち続ける、混血児チャンググの母親)。父親の存在も『サマリア』があったくらいで、ギドクの映画では家族は未だ本格的なテーマとして取り上げられてはいないとも言える。今回の母親の存在も、結局のところ偽者だったわけだ。
 ミソンが母親であるという証拠を示すためにガンドが求めるのはカニバリズムだ。はっきりとは描かれないがバスルームから肉片を持って戻ってきたガンドの足は血だらけになっているから、自分の肉を切り取ったということを示しているのだろう。『受取人不明』でも、自殺してしまった息子の遺骸を取り戻した母親は、息子の肉を食べたと思われる描写がなされている。放心状態のままシーツに包まれた首を大事そうに抱え、口の中では何かをしきりに噛んでいるのだ。
 こうした描写は、子どもが母親の身体から生まれたということを感じさせるし、それをもう一度母親の身体に取り戻すことに、ギドクが何かしらの意味を込めているということだろう。母親の側からすれば、一度は我が身を離れたものを取り戻すことになるのかもしれないし、子ども側からすれば自分の肉体が母親のなかに戻るという意味では、子宮回帰願望の変種みたいなものかもしれない。
 『嘆きのピエタ』ではガンドは母親を名乗るミソンをレイプするが、これも子宮回帰願望であるのは言うまでもない。この時点ではまだ偽者の母親とは判明していないために、このシーンは近親相姦とも言えるわけで、これでもかというくらいタブーばかり連発している。金獅子賞でもひっそりと公開されるのもむべなるかな。

 先日、次回作『メビウス』についての発表がなされたようだ。出演には『鰐』『悪い男』でギドク的キャラクターを演じてきたチョ・ジェヒョンの名前が登場している。久しぶりだ。この作品も近親相姦を題材にしているのだとか。韓国では公開も危ぶまれているというニュースが伝わってきているが果たしてどうなるか?

ギドクの次回作『メビウス』 右上がチョ・ジェヒョン

※ ギドク作品と「救い」に関してはこちらで記しました。

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キム・ギドクの作品
Date: 2013.06.15 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (0)

キム・ギドク 『嘆きのピエタ』 救い主は救われたのか?

 試写会にて鑑賞。公開は6月15日から。

 前作『アリラン』が3年ぶりのリハビリだとすれば、この『嘆きのピエタ』はギドク節の完全復活と言えるかもしれない。韓国内での批判などを受けてか、一時、自らの突飛な想像力を制限していたようにも思えたキム・ギドクだが、『嘆きのピエタ』ではリミッターを外したように自由な物語を創りあげた。
 だから道徳的な物語をお望みの人はよしたほうがいい。見たくないもののオンパレードだからだ。マスターベーションに暴力にレイプ、さらにはカニバリズムめいたシーンも登場する。だがギドク作品のそうした背徳的な物語は、それらを突き抜けた世界を描くために必要な設定にすぎない。その先には意外に純なものが存在するのだ。

『嘆きのピエタ』 キム・ギドク監督の最新作


 主人公ガンドは借金の取立屋。返済能力がない債務者には容赦ない暴力をふるう。障害者にすることで保険会社から金を引き出すのが狙いなのだ。ガンドは冷酷に債務者の手や足をつぶす残虐性の持ち主で、債務者からは“悪魔”呼ばわりされている。そんなガンドの前に母親を名乗る女ミソンが姿を現す。いったいなぜ今ごろ姿を現したのか? 何が目的なのか?


 ※ 以下、完全にネタばれ! 映画鑑賞後にどうぞ。



 ※ もう一度、改めて警告! 映画の内容に触れています。観てない人は危険かも。


 突然現れた母親が「あなたを捨ててごめんなさい」と赦しを乞うのだが、いかにもあやしい。実はミソンは本当の母親ではない。ガンドが自殺に追い込んだ一人の青年の母親であり、その目的は復讐なのだ。
 なぜ復讐をテーマにした作品が、「ピエタ=哀れみ」を描くものになるのか? ミソンは天涯孤独なガンドの母親になりきろうとする。愛する者を喪った悲しみを味わわせるためには、ガンドにも愛する者がいなければならないから。ミソンが本当に母親として認められたとき、真の復讐ができるのだ。復讐とは、その愛する母親=ミソンを奪うということ、つまりは自分を殺すということだ。ミソンは赦しを求めてガンドの前に現れたのに、強い意志を感じさせる表情だ。それは息子を捨てた母親の後悔の念ではなく、息子のために命を捨てる覚悟が表れているからだ。

 ミソンが押しかけ女房的に母親になる展開はシュールだ。『悪い女~青い門』のいがみ合うふたりが親友になっていくという調子っぱずれな展開を思わせる。こんな荒唐無稽さもギドクらしい。擬似親子のふたりが仲良く手をつないで街を歩くようになるころ、事件が起きる。ガンドに足を折られた債務者がミソンを人質にとるのだ。「おまえなんか焼き殺してやる」と罵っていたように、ガンドを殺しに来たのだ。ガンドは「母親は悪くない」と必死に守ろうとする。ふたりには信頼関係ができ、復讐のための環境が整う。
 ガンドは登場シーンで、半ば寝ながらもマスターベーションに耽っている。これは幼いころからの一人寝で身についてしまった癖みたいなものだ。ミソンはそんな姿のガンドを見て、それを手伝ってやる。母親がマスターベーションを手伝うというおぞましいシーンではあるが、ガンドの孤独さをミソンが感じ取ってしまった重要なシーンでもある。
 そして復讐は完遂されることになるわけだが、その際、ミソンは本当の息子に対して謝る。「どうしてこんな気持ちになるんだろう?」と戸惑いながらも、ガンドに対しての哀れみの心情を吐露してしまうのだ。ガンドがしてきたことに対しての恨みは尽きないのだろうが、その孤独さを知り同じ時間を多少なりとも過ごした人間としては、それを単に“悪魔”と呼んで退けることもできないのだ。ミソンはガンドの本当の母親ではないが、母性のような何かがガンドに対する哀れみを抱かせるのだ。

ミケランジェロのピエタ像

 この映画の原題は『pieta』だが、“ピエタ”とはミケランジェロの彫刻にあるように、十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアが題材だ。つまり『嘆きのピエタ』においては、ガンドはキリストであり、ミソンは聖母マリアなのだ。
 キリストは人類の罪を背負って十字架刑に赴いたが、ガンドはキリスト(救い主)とは言えない存在だ。債務者からは“悪魔”と罵られる人間なのだ。けれども自分の罪を贖うために行動した。ガンドは「車で引きずり回して殺してやりたい」という債務者の言葉に自ら従う。贖罪のために自死するのだ。復讐を誓ってガンドに近づいたミソンも、聖母マリアにはほど遠い。けれども“悪魔”にさえ哀れみを覚えてしまうほど慈悲深い存在ではある。
 キム・ギドク映画にあって常に意識されているのは「救い」ということだ。この映画でガンドは救われたのか? あるいはミソンは救われたのか? とてもそうは思えない。
 だが考えてみれば、“ピエタ”の題材とされたイエス自身も救われているとは思えない。人類の罪を独りで背負って死んでしまうのだから。聖母マリアの悲しみも推して知るべしだ。それでもイエスの物語は、聖書という形で福音(good news)として世界中に広まったわけだ。その福音に「救い」を見出す人も多いだろう。だとすれば、到底「救い」のないガンドやミソンの姿も、それを観るわれわれにとってはひとつの福音として現れるのかもしれないのだ。“悪魔”と思える存在にも哀れみを抱くことがあり得るし、“悪魔”でさえも母性愛によって悔い改めることもあるという、そんな福音だ。
 ラストシーンはそれまでのどぎつい展開を忘れさせるような、水墨画のような淡い色合いで、いつまでも余韻が残る。 (その他に関しては次回に。)

※ ギドク作品と「救い」に関してはこちらで記しました。

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キム・ギドクの作品
Date: 2013.06.08 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (3)

『リアル~完全なる首長竜の日~』 実は黒沢清監督のホラー映画

 黒沢清監督作品。主演のふたりには佐藤健綾瀬はるかで、原作には『このミス』で大賞になった作品という、黒沢清監督作品には珍しくメジャー系の雰囲気を持つ映画である。(*1)
 自殺未遂で昏睡状態にある淳美(綾瀬)を助けるために、恋人の浩市(佐藤)が<センシング>というシステムで意識に入り込んで救出を試みるという物語。

 ※ 以下、ネタばれあり。

『リアル~完全なる首長竜の日~』 主演の佐藤健と綾瀬はるか

 実際に『リアル~完全なる首長竜の日~』を観ると、これはメジャー系の作品などではなく、まぎれもない黒沢清の映画になっている。ただ一応はテレビ局などが製作陣に加わっていることもあるからか、宣伝は昏睡状態の伴侶を助ける物語を前面に出しているし、ラストでは首長竜が登場して『ジュラシック・パーク』的スペクタクルの真似事をしてみたりする。
 こんなとってつけたみたいなラストは、製作陣を納得させるための黒沢清のアリバイ工作にも思える。金を出した製作陣の望む映画と、監督の望む映画が分離しているような印象なのだ。もしかすると製作陣をうまく騙して、黒沢清が勝手なホラー映画にしてしまっているのかもしれないが……。
 黒沢清らしいのは前半部分。(*2)現実と非現実(意識下の世界)があいまいになっていき、漫画家である淳美の描く世界が現象化する展開は、監督のやりたい放題のホラー映画として楽しめる。黒沢清は『アカルイミライ』『トウキョウソナタ』みたいな作品もあるが、『地獄の警備員』『回路』『叫』などのホラー映画の監督でもあるのだ。

『リアル~完全なる首長竜の日~』 中谷美紀は研究所の医者なのだが…

 『リアル』と題されたこの映画がまったくリアルでないのは、現実そのものがリアルでないからなのかもしれない。『マトリックス』でも描かれているように、そうした認識はごく一般的に共有されているとも言える。現実は、機械につながれて生かされているゾンビたちの見る夢に過ぎず、夢見ている当人もそれに気がつかない。だから登場人物たちがあまりに生気を欠き、役者たちが感情のこもってない平板な演技だとしてもそれは当然のことだろう。
 実際に、映画中盤でそれまでの現実と非現実的世界という構図はひっくり返される。それまで現実だと思っていたすべてが、浩市の意識下の世界だったことになる。どちらにしてもこの映画のなかでは現実も非現実的世界も似たようなものであり、確固たる現実など存在しないようだ。だから最後に一応ハッピーエンドらしきものがあるにはあるが、それが真の現実だとは言えないのかもしれない。浩市は最後に目を覚ますが、映画はそれで終わってしまう。安堵の笑みを見せるのでもなく、ただ目が開いただけなのだ。その浩市が意識のない、人の抜けがらである“フィロソィカル・ゾンビ”である可能性も捨てきれない。
 “フィロソィカル・ゾンビ”とは、現実が非現実的な夢のように思えるのと同じく、他人が本当の人間ではなく、意識のない人の抜けがら(ゾンビ)と思えるということだ。(*3)そうした見方は、研究所の中谷美紀のあやしさに始めから露呈されていたと言ってもいいかもしれない。“親身な医者”というキャラクターを、ロボットが演じてでもいるかのような不気味さが中谷美紀にはあるからだ。だから途中でそれが“フィロソィカル・ゾンビ”だったと知ってかえって安心させられるわけだ。
 しかし中谷美紀の存在は、淳美(綾瀬)が生きるとりあえずの現実の世界でもあやしい。中谷が現実の世界でにっこりと笑うシーンでは、なぜか密閉された空間である研究所に風が巻き起こり中谷の髪をなびかせる。このあたりは『叫』での葉月里緒奈演じる幽霊が近づいてくる場面を思わせ、中谷が現実的な存在なのか疑ってしまう。そんな映画だから、ラストの浩市の存在もあやしいものに思えてくるのだ。黒沢清は一応ハッピーエンドみたいなものを見せたけれど、それを素直に受け取っていいものだろうか。

(*1) 原作『完全なる首長竜の日』は未読なのだが、映画では恋人らしく見えないふたりは、原作では兄妹の関係なんだとか。映画化に際してかなりの脚色が施されているようだ。

(*2) ほかにもあまり意味のない廃墟シーンも黒沢清らしいかもしれない。車での移動シーンが異世界を走っているようなのもいつもの黒沢清。

(*3) こうした問題は哲学者の永井均の本に詳しい。『マンガは哲学する』のなかでは、諸星大二郎の漫画「夢見る機械」を題材にし、「夢の懐疑とロボットの懐疑」について論じている。ここでのロボットとは『リアル』での“フィロソィカル・ゾンビ”のようなものである。


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黒沢清の作品
Date: 2013.06.03 Category: 日本映画 Comments (2) Trackbacks (0)
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