『グランド・マスター』 ウォン・カーウァイの武闘=舞踏映画

 ウォン・カーウァイ監督のカンフー映画。
 試写会にて鑑賞。公開は5月31日から。
 あのブルース・リーの師匠であるイップ・マンを中心とした、カンフー・マスターたちの物語だ。出演はイップ・マンにトニー・レオン。その他にもチャン・ツィイーチャン・チェンマックス・チャンソン・ヘギョなど中国、台湾、韓国というアジアのスターが並ぶ。

『グランド・マスター』 ウォン・カーウァイ監督の最新作

 本編前に日本語版の説明により、中国カンフーの勢力図が描かれる。(*1)詠春拳、形意拳、八卦掌、八極拳、それぞれ個性的な味を持つ拳法であり、それぞれの流派を極めた宗師(グランド・マスター)たちの生き様が中国史の流れとともに描かれていく。
 もともと格闘技などの技の攻防は観客を魅了するものがある。勝負の結果以上に、技の応酬こそが観客を沸かせる。中国武術には演舞というものがあるように、その姿は一種の舞としても捉えられるのだろう。ウォン・カーウァイは“カンフーの哲学”を伝えることを意図しているが、その哲学とは「動きの“美”である」とでも言うように、ともかくこの映画のカンフーは美しい。
 カンフー映画は様々あるが、その動きをここまで美しく描いたものはなかった。ブルース・リーの映画は本人の強さがずば抜けていたため、相手を一瞬にして蹴散らすという部分が多くなる。その拳は武器以外の何ものでもなく、その姿は神々しくはあるが演舞のようにはならなかった。だが初期のジャッキー・チェンの映画では、ジャッキーは常に若造で、訓練でようやく強い敵に食らいつく。一撃の技はなくても、拳の打ち合いとその防御がダンスのようなアクションとして観客を魅了した。ブルース・リーには乗り遅れたジャッキー世代の人間としては、そんなふうに思う(その後、ジャッキーはもっとハチャメチャな方向へ進むわけだが)。『グランド・マスター』の武術指導を務めるのは、『スネーキーモンキー 蛇拳』『ドランクモンキー 酔拳』などを監督したユエン・ウーピンである。

 カーウァイの『楽園の瑕』には武侠アクションがあったが、クリストファー・ドイルの手持ちカメラはブレが大きく何が起きているのかほとんどわからない。しかし『グランド・マスター』はそれぞれの宗師たちの闘いをじっくりと見せてくれる。
 宗師それぞれに見せ場が用意され、独自の演舞を見せる。イップ・マンにはブルース・リーが『死亡遊戯』でやったような勝ち抜き戦も少しだけある。しかし、とりわけイップ・マンとルオメイ(チャン・ツィイー)の闘いが見事だった。このシーンの拳のやりとりは、惹かれあうふたりのダンスとして機能している。これは武闘ならぬ舞踏シーンなのだ。こんなラブ・シーンはほかにないだろう。ふたりは初めて拳を交えただけで、お互いを理解したかのように見つめ合って昂ぶるようなのだ。『恋する惑星』では「その時、ふたりの距離は0.1ミリ」とコピーされていたが、『グランド・マスター』でもその距離は恋人たちの距離のようだ。

八極拳のカミソリの雄姿

 ただ漆黒の雨のなかの闘いは、『マトリックス レボリューションズ』をイメージさせてしまう。もちろん漫画チックな『マトリックス レボリューションズ』と、実際のカンフー・マスターたちの指導を仰いだ『グランド・マスター』は全然違う。CGIに頼った作品と、フィルムで撮影することにこだわった点でも大きく違う。荒唐無稽なアクションに走るのと、美学を求める点でも違う。けれども武術指導がともにユエン・ウーピンということもあり、良くも悪くも似ている印象を与えてしまう。
 またスローモーションの多用としなやかな足の動きや構える指先まで捉えるアップは、カンフーをアクションよりも“美”として読み替えるのに適しているが、それもジョン・ウーのそれを思い起こさせる。服の裾がはためくようなカットなどはいかにもだし、「ダンスのようなアクション」というのは常々ジョン・ウー映画に対する形容だった。そんな点では新味には欠ける印象もある。
 かと言ってカーウァイらしさがないわけではない。チャン・チェン演じる八極拳のカミソリは本筋に絡まないが、このあたりはカーウァイらしい。(*2)『欲望の翼』『楽園の瑕』でもそうだが、群像劇こそがカーウァイ映画だったからだ(『恋する惑星』もオムニバス構成)。そうした群像に全体的なまとまりがあるようでないような、ないようであるような。そんなカーウァイ映画の精神みたいなものは感じられた。『グランド・マスター』では、カーウァイ的群像劇を歴史に翻弄される宗師たちに結び付けて、カーウァイ色を生み出している。

(*1) 中国カンフーは北派と南派に大きくその勢力が二分されていたのだとか。漫画『北斗の拳』の北斗と南斗の構図は、このあたりから来ているのかなどと勝手な想像を誘う。

(*2) チャン・チェン演じる八極拳のカミソリは、この作品のなかでは漫画チックな強さを誇る存在だ。カミソリの登場シーンは美しいというよりは、ヒーローものの楽しさがある。
 『キネマ旬報(5月下旬号)』には八極拳のマスターの言葉が出ていた。「動いて相手を打つとき、必ず地面で支えなければならない。そこから力を借りるんだ。地面から離れてはいけない。かつて、私より年上の世代の人はみな力をこめて地面を踏みしめ、蹴っていた。地面に穴を開けてやろうというくらいにね」。この言葉通り、カミソリの拳は地面をしかと踏みしめて力強い一撃を見せる。上のポーズなど漫画『ドラゴン・ボール』でそっくりそのまま描かれそうな姿だ。接近戦が得意で手技中心のイップ・マンの詠春拳と、そのスタイルの違いが際立つ。


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ウォン・カーウァイの作品
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Date: 2013.05.28 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『伊藤計劃映画時評集』 伊藤計劃の映画ブログが本に!

 著者は『虐殺器官』『ハーモニー』という決定的な作品を遺しながらも、34歳という若さで逝ってしまった伊藤計劃
 『伊藤計劃映画時評集』は、著者が生前ブログで公開していた映画評をまとめたもの。『虐殺器官』『ハーモニー』はオリジナリティに溢れた作品だが、細部にどことなく映画好きの匂いが感じられた(実際には映画だけでなく、ゲームとかアニメの影響が大きいようだ)。この2冊は、伊藤計劃のシネフィルぶりを感じさせる本になっている。
 

Running Pictures: 伊藤計劃映画時評集 1 (ハヤカワ文庫JA)

Cinematrix: 伊藤計劃映画時評集2 (ハヤカワ文庫JA)



 取り上げられている作品は、第1回の『エイリアン4』(1997年)から第66回の『イノセンス』(2004年)まで。ほかには『スターシップ・トゥルーパーズ』『プライベート・ライアン』『トゥルーマン・ショー』『アイズ・ワイド・シャット』『マトリックス』『ファイト・クラブ』(以上、第1巻)『インビジブル』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『ハンニバル』『ブラックホーク・ダウン』『パニック・ルーム』『マトリックス リローデッド』『ターミネーター3』(以上、第2巻)などなど。たまたま挙げた作品はカタカナばかりだが邦画もある。基本はメジャー系の作品であり、公開されたばかりの新鮮な時期に書かれている。
 伊藤は、これらの文章はブログ読者を映画館へ誘導するための「映画の紹介」だと断わっているが、巻末(第1巻)の解説で翻訳家(というか映画評論家)の柳下毅一郎「この言葉は真っ赤な嘘だ。伊藤のレビュウはたいへん優れた時評であり、映画の本質を突く批評となっている」と記しているように、力の入った映画評である。

 文芸誌「群像」で映画時評を連載中の蓮實重彦は、「この歳になると時評は疲れる」みたいなことをどこかで語っていた。批評界の重鎮の意図は測りかねるが、端的に「疲れる」という部分なら何となくわかる気もする。たかがブログだって疲れるときもあるからだ。映画館に出向くたびに素晴らしい作品に出会えるわけではない。とりあえず何か書く段になると、途方に暮れるようなことも多々あるわけだ。
 お気に入りの作品に出会えれば、書きたいことが泉のように湧いて出るのかもしれない。伊藤にとって『ファイト・クラブ』はそんな一本であり、高揚した気分のままに読者を煽るような冒頭の文章がいい。

 ぼくらは財布の中身じゃない。ぼくらは仕事じゃない。ぼくらはスウェーデン製の家具なんかじゃない。でも今、ぼくらはまさにそのすべてでもある。物に囲まれて都市に生きるぼくらは、ほんとうの痛みをいつのまにか忘れている。神経性の痛みばかり抱え込んで、傷つけ、傷つけられることによってぼくと君とを分かつ、その痛みを忘れている。痛みも他者も、いまやすべてが頭のなかにある。
 そんな時代を笑い飛ばしつつ、ラストにささやかなラブ・ソングを歌う、20世紀最強最後の凶悪な詩。20‐30代の立ち位置を確認する、「年齢の高い」若者のための映画「ファイト・クラブ」。
 私のオールタイム・ベスト10の一本です。 (第1巻、p.200より)


 だけど実際にはそんな作品はまれだ。だから蓮實も言うように「疲れる」のではないか。伊藤のこの本も、ブログを続けること、映画について人に語ることの難しさも感じさせる。到底人様に薦められないような作品は無視すればいいのだけど、ただ「おもしろかった」としか言えない映画もあるわけで、そういうときにもやはり頭を抱えることになる。例えば、伊藤が取り上げている『オースティン・パワーズ:デラックス』など、伊藤の言葉通り「お馬鹿の一言」であって、それ以上何を言えばいいのか? 私も『オースティン・パワーズ』シリーズをなかば呆れつつ大笑いしたのだが、ブログに記すとなるとなかなか……。(*1)
 
 また、退屈な作品もただ「つまらない」と切って捨てては芸がない。小説家の高橋源一郎は“文壇の淀川長治”を目指すと語っていたことがあった。これは淀川さんのように、どんな作品でもいい部分を褒めることを重視するといった意味だろう(日曜映画劇場あたりの淀川さんのことを指していると思われるが)。高橋源一郎は、文壇において貶すことばかりで作品のいい部分を掬いあげるような批評家がいないことを嘆いていたわけで、その役割を自分で担おうとしていたわけだ。伊藤にそういう意図があったのかわからないが、ダメな作品の楽しみ方を披露し、見過ごしがちないい部分を探そうと頭をひねっている。これはなかなか困難な仕事だ。

 前半ではそんな困難を正直に吐露する部分もあって共感させられる。しかし後半になるにつれ、筆の運びがスムーズになり、伊藤が描いた批評の姿、「その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物」として読み応えがある。(*2)
 例えば『ターミネーター3』なんて、4作目が登場した今ではなかったことにされているわけだが、そんな作品にも愛情を持って言葉を連ねている。(*3)また、1作目の出来からすればかなり無惨な『マトリックス リローデッド』に関しても、その酷さの分析を試み、最後のネオとアーキテクトの会話を原文から日本語訳してみせたりしている。やはり伊藤も映画が好きだったんだなと思わせる(過去形で語らなければならないのが残念だ)。そうでなければ、手間をかけて頼まれもしない翻訳をしてまで作品に迫ろうとはしなかっただろう。

(*1) 私に関して記せば、例えば、カウリスマキの『ル・アーブルの靴みがき』はとても良かったのだけど、そのおもしろさを言葉で説明しようとしても退屈な読み物にしかならない。
 例えば、ジャッキー・チェンの『ライジング・ドラゴン』も、劇場でジャッキーの(最後の?)勇姿に感動し、ファンへの「ありがとう」の言葉に涙を流したほどなのだが、あのアクションのおもしろさを伝えるとなると、ただ「すごい」としか言えなくなってしまうのだ。

(*2) 「批評とはそんなくだらないおしゃべりではなく、もっと体系的で、ボリュームのある読みものだ。もっと厳密にいえば「~が描写できていない」「キャラクターが弱い」「人間が描けていない」とかいった印象批評と規範批評の粗雑な合体であってはいけない。厳密な意味での「批評」は、その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ。」(第1巻、p.12より)

(*3) 『ターミネーター3』のジョナサン・モストウ監督を、アクションの撮れる監督として論じている。キャメロンの前2作品の出来からは比べれば見劣りするからか、私はそんなこと考えもしなかったが、今考えると『ターミネーター3』での中盤の大型クレーン車の逆立ち場面は、『ダークナイト』クリストファー・ノーランがパクっているようにも見える。


伊藤計劃の作品
Date: 2013.05.23 Category: 映画の本 Comments (0) Trackbacks (0)

『声をかくす人』 「自分より大きな存在」とは何か?

 前回、取り上げた『リンカーン』の後日談ではないが、リンカーン暗殺に関わった人たちを巡る物語である。先月DVDが発売された。
 『普通の人々』でアカデミー作品賞及び監督賞を受賞しているロバート・レッドフォードの監督作品。主演はジェームズ・マカヴォイロビン・ライト。権力側の陸軍長官を演じるのはケビン・クラインだが、ひげ面で誰だかわからなかった。

 『声をかくす人』では、スピルバーグ作品『リンカーン』ではスルーされた暗殺場面が丁寧に描かれている。私は知らなかったが、実はこのとき副大統領や国務省長官なども命を狙われている。この映画は暗殺団側の視点から描かれているのだ。
 下手人であるジョン・ウィルクス・ブースは、一時逃げ出すものの後に射殺される。その後、暗殺に関わったとされる8名が逮捕されるが、そのなかの一人がアメリカで初めて死刑に処された女性、メアリー・サラットである。主人公の弁護士フレデリックは北部出身であり、暗殺の共謀者の弁護に乗り気ではなかったが……。

『声をかくす人』 主演のロビン・ライトとジェームズ・マカヴォイ

「自分より大きな存在に尽くしたことはおあり?」


 メアリーはそんなふうにフレデリックに問う。「自分より大きな存在」とは何か?
 フレデリックにとって、それは“神聖な法”である(南北戦争時には“北部”だったのかもしれない)。暗殺者であるブースやメアリーの息子にとって、それは“南部”だったのかもしれない。奴隷解放を宣言したリンカーン大統領にとっては、“国”がそれに当たる。この映画の権力側代表である陸軍長官においても、“国”が「自分より大きな存在」となるのだろう。(*1)
 では、メアリーにとっては「自分より大きな存在」とは何か? 
 それは“息子への愛情”だと、とりあえずは言えるかもしれない。メアリーは息子が南部のために、ブースたちと進めていた計画をある程度知っていた。(*2)と同時に、自分自身に処刑されるような罪がないことも知っている。だから自分の無実に関しては誓うことができるが、暗殺に関わったかもしれない息子のことについては口を噤むしかない。息子の潜伏先をメアリーが知っていたのかは不明だが、知っていたとしても話さなかったのだろう。自らの手で息子を死刑台に送ることだけはしない、そんな最後の抵抗のように思えた。
 メアリーは「自分より大きな存在」に尽くすという点で、南北戦争でそれぞれ北部と南部として対立したフレデリックもメアリーと「同じ立場」なのだと語る。しかし、その後フレデリックが「僕らに息子さんの隠れ家を(教えてくれ)」と頼むときは、その言葉がフレデリックの面子に過ぎず、フレデリックの都合で敵と味方を判断しているとして非難する。フレデリックは弁護するメアリーの命を救いたいだけなのだが、メアリーには個人的な都合以上のものがあるようだ。それこそが「自分より大きな存在」であり、そこに“息子への愛情”も含まれているが、それだけではないのかもしれない。

 なぜブースたちに下宿屋をアジトとして提供していただけで、メアリーは死刑にならなければならないのか。陸軍長官など権力側からすれば、南部のさらなる陰謀を防いで国を安定させるためだ。弁護士であるフレデリックは「憲法が国民を守るのです」と主張し、“法の正義”を貫こうとするが、権力側はルールを変える権限すらも持っている。権力側が決めたことは絶対的なものであり、その前で個人の抵抗はむなしい。国の横暴から国民を守るためにこそ憲法があるはずなのだが、権力側は「戦時には法は沈黙する」あるいは「憲法を尊重するが国が倒れては意味がない」と言って憚らないのだ。(*3)
 フレデリックの戦いは“負け戦”だと最初からわかっていた。けれどもメアリーが「自分より大きな存在」のために息子の身代わりとなったように、フレデリックにとって“神聖な法”というものが「自分より大きな存在」であるからこそ、“負け戦”でも戦わなければならなかったのだろう。
 邦題の「声をかくす人」とは、息子のことを語らなかったメアリーではなく、無実を主張する小さな声を隠してしまう権力者たちのことに思える。

(*1) 村上春樹は昔どこかで「立場というものがある」と諦念とともに記していた。立場が違えば守るべきものも自ずと違ってくる。それぞれの立場にそれぞれの言い分があるというのが村上春樹の言葉だ。

(*2) 最初の計画は誘拐だったようだ。リンカーンを人質に南部の捕虜を助けるつもりだったのだが、途中で計画は変更される。メアリーの息子がそれにどこまで関わったかはわからないが、「戦って死ぬなら本望だよ」と母親メアリーに語るほど、「自分より大きな存在」に尽くすことを考えていた人ではあったようだ。暴力に訴える点で、それは危険な思想でもあるのだが……。

(*3) 宮台真司のわかりやすい整理によれば、

①憲法は国民から統治権力への命令
②法律は統治権力から国民への命令 
③憲法が法律に優越するとは、国民からの命令の範囲内でのみ統治権力は国民に命令しうるということ

となる。
 「奴隷制はアメリカで存在してはならない」(米国憲法修正第13条)というのが、国民から国への命令である。あくまでもそうした自由と平等の範囲内で、例えば「殺人を犯せば罰せられる」というのが、国から国民への命令(法律)だ。フレデリックが言うように“神聖な法”が優先するのは「憲法が国民を守る」ことなのだが、ときに横暴な一部権力者の都合によって“神聖な法”は汚されてきたのだ。


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Date: 2013.05.17 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『リンカーン』 スピルバーグが描く人間的で現実的な大統領像

 アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーンの伝記ものである。しかし、テーマは限定されている。リンカーンが最後に精魂を傾けた米国憲法修正第十三条の成立過程だ。奴隷解放宣言は歴史的には有名だが、実はそれだけでは真に奴隷を解放することはできず、修正第十三条を成立させることがリンカーンの目標となる。
 これは簡単な仕事ではない。奴隷というのは高価な代物である。修正第十三条はそれを否定するのだから、所有者の財産を取り上げることになる。そんな暴挙に反対が出ないわけがない。特に大規模農園のために多くの奴隷を抱えていた南部にとっては死活問題で、それが南北戦争の大きな原因にもなっている。リンカーンは南北戦争が北部有利となり、戦争終結が見えている状況において、修正第十三条の成立を目論む。
 リンカーンは「奴隷が解放されれば、南北戦争は終わる」と人民に喧伝していた。自らの財産を進んで放棄しようとするものはいない。犠牲を払うのはそれ以上に大切なことのためだ。リンカーンは戦争終結(平和)という大きな飴玉をもって、奴隷解放という難事を成し遂げようとしていたのだ。しかし南部の弱体化で修正第十三条の成立前に南北戦争が終わってしまうと、結局戦争の火種となっていた奴隷制が維持されかねない(再び戦争になることもあり得る)。リンカーンは戦争の終結を先延ばしにしてまで、つまり犠牲者が増えることを覚悟してまでも、修正第十三条の成立を目指すのだ。これは闇夜に針の穴を通すようなやっかいな仕事だ。(*1)

スピルバーグ監督作品『リンカーン』 主演はダニエル・デイ=ルイス

 歴史に疎い私は“奴隷解放宣言”などと聞くと、リンカーンに理想主義で人道的なイメージを抱くのだが、この映画のリンカーンはまったく現実的な政治家である。修正第十三条を成立させるための策は、反対勢力である民主党の議員を金銭という飴玉で一人ずつ切り崩していく裏工作だ。リンカーンは目的のためには手も汚す現実的な政治家なのだ。
 リンカーンの現実的な姿勢は、共和党奴隷制度廃止急進派のスティーブンス(トミー・リー・ジョーンズ)とのやりとりによく表れている。スティーブンスは進歩的な平等を唱える理想主義者だ。だが実際には“人種の平等”のように極端なことを唱えれば、世間の反感を買い、修正第十三条の成立をかえって妨げることになってしまう。
 そこでリンカーンは方位磁針のたとえ話をする。方位磁針を使えば“北”の方角を知ることができる。しかし、目的の方向はわかっていても、真っ直ぐ進むことが必ずしも正しいとは限らない。リンカーンとスティーブンスも方向的には同じ“北”を目指している。しかしリンカーンが北極圏内の到達で良しとするのに対し、スティーブンスは北極点まで一気にたどり着こうとする。スティーブンスのように理想に向かって真っ直ぐに進むことは危険だ。北極点どころか北極圏内に到達する前に落し穴にはまってしまう可能性もある。リンカーンは理想にたどり着くために、現実的な迂回路を選ぶのだ。

 また、この映画のリンカーンはカリスマ性がない(ように見える)。“最も愛された大統領”とキャッチコピーにもあるが、家族を愛するごく普通の父親であり、小話が好きな愛嬌ある人物として描かれている。そして、大統領としての仕事に苦悩する人間らしい姿も見せている。
 リンカーンの登場シーンでは、黒人を含む北軍兵士たちと同じ目線の高さで対話している。内容は有名なゲティスバーグの演説についてだが、実際の演説シーンはない。(*2)多くの人民を前にした演説のシーンとしては、国旗掲揚前の演説があるが、リンカーンの茶目っ気は感じられるがカリスマとは見えない。会議などで披露される小話も、方位磁針の話を別にすれば笑い話だ。「トイレのワシントン」、「世界の終わりを告げるオウム」、「おじいさんの遺言」など、周囲の耳を傾けちょっとした笑いを取る。その場の雰囲気を変える効果はあるが、その言葉で聴衆を操作しようとはしていないのだ。
 ここで参考になるのは夫婦げんかのシーンだ。その原因は息子の死。妻は大統領の仕事にかまけて子供をおろそかにしたことを責めるのだが、リンカーンは妻の哀しみには理解を示すが、「哀しみに押しつぶされるかどうかは個々人による」として最終的には妻を突き放す。哀しみという状況に対する対応を、改めて妻に差し戻すのだ。
 これは修正第十三条の採決においても同様だ。リンカーンは議員たちを一人ずつ説得に回るのだが、議員たちはリンカーンの熱意や人柄などに惹かれてその場で態度を変えるようなことはない。もちろんリンカーンは方向性を示すのだが、それ以上は議員本人の決断に委ねるのだ。これは映画内の「修正第十三条成立か否か」という、採決のサスペンスを生むための要請と言えるかもしれない。だが、それだけではないようにも思える。「民主主義はカオスではない」という台詞もあったが、最終的に人民(の代表たる議員)一人一人の判断が正しい道へと導いたという点を強調したかったのではないか。当然、その先導者がリンカーンという偉大な指導者だったわけであり、ゲティスバーグ演説にあるように「人民の、人民による、人民のための政治」こそが、リンカーンが「地上から絶滅させない」と宣言したものだからだ。

 派手な映画ではない。今回のスピルバーグは台詞劇だからだ。南北戦争も題材となるが、戦闘場面は冒頭だけで『プライベート・ライアン』のような壮絶さはないし、『戦火の馬』のような疾走感もない。それでも修正第十三条を題材としたポリティカル・サスペンスとして楽しませるし、スピルバーグのリンカーンに対する思い入れが感じられる作品だった。(*3)
 また歴史に疎い私のような人には、アメリカ史の勉強にもなる教育的映画だ。リンカーンの奴隷解放の意図は、奴隷とされた黒人への人道的な想いではなく、“連邦の保持”という愛国的なものであると教えてくれる。
 一方で、リンカーンの政治においては優先順位の下位とされたようにも見える黒人への温かい目線は、この映画ではスティーブンスが担っている。この役はおいしい役どころだ。スティーブンスが修正第十三条成立のために自説を曲げて妥協するところと、その成立した文書を自らの伴侶である黒人女性に手渡すところが『リンカーン』の一番泣かせる場面だからだ。

(*1) ダニエル・デイ=ルイスは相変わらずの成りきりぶりで三度目のオスカーを授賞した。ダニエルのリンカーン像は偉大さよりも人間味があるが、大統領の仕事の過酷さに疲れ切っているようにも見える。

(*2) 映画ラストの演説は、大統領第二期目の就任演説だが、この演説も意外と淡々と描かれている。

(*3) 『プライベート・ライアン』でも、ライアン救出のきっかけとなる大切な部分でリンカーンの手紙が引用されていた。


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スピルバーグの作品
Date: 2013.05.10 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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