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周防正行 『終の信託』 尊厳死の問題よりも司法制度への批判 

 周防正行監督の最新作。つい先日、DVDが発売になったばかり。

『終の信託』 周防正行監督の最新作

 主人公の折井綾乃(草刈民代)は内科のエリート医師。不倫関係にあった同僚との別れもあり自殺未遂騒動を起こしてしまう。そんな綾乃の心の傷を癒したのは入院患者の江木秦三(役所広司)の優しさだった。ふたりは医師と患者と超えた信頼関係を築き、江木は自らの死期を感じ、「最期のときは早くに楽にしてほしい」と綾乃に自らの終わりを任せる。“終の信託”とは、「命の終わりを信ずるものに託すこと」である。

 冒頭、検察庁に出頭する綾乃の姿が捉えられる。綾乃は江木に対する医療行為を、患者本人のリビング・ウィルのない尊厳死とされ呼び出されたのだ。待合室で長い間待たされた綾乃は江木との過去を回想し、物語は過去のふたりを追うことになる。テーマは重い。『それでもボクはやってない』のときには滑稽な部分があったが、『終の信託』は大真面目で暗い。患者を無理やりチューブにつないで延命する終末医療は是か否か、そんなテーマで物語は進むのだが、途中で周防監督の意図は別のところにあることがわかる。
 2時間半近いこの映画だが、ラストの45分間は検事の塚原(大沢たかお)と殺人罪を問われた綾乃の一騎打ちになる。机を挟んで向かい合ったふたりの攻防は緊迫感に溢れている。『終の信託』はここからがキモであり、その前段の回想は長い前振りみたいなものなのだ。

 ※ 以下、完全にネタバレ。

『終の信託』 検事役の大沢たかおがいい

 『終の信託』の後半は回想劇の後だから、観客にもすべてのことがわかっている。言ってみれば、観客も神の視点にある。だから検察室でのやりとりでは、仔細な事情を知らないのに決め付けようとする検事は敵として映る。例えば、検事は「患者は人工呼吸器を付けなくても呼吸をしていた、そうだね?」と問う。これに綾乃が医学的見地を踏まえた説明しようとすると「訊かれたことだけ答えればいい」と遮る。つまり「呼吸をしていたか」それとも「呼吸をしていなかったか」という、あくまで「YES」or「NO」で割り切ろうとするのだ。実際にはそんな単純でないことは綾乃も観客も知っている。たとえ呼吸をしていたとしても、江木の苦しみなどは無視されるわけだから、どうにも検察のやり方は酷いという印象を与える。
 検事はときに声を荒げ、ときに静かに間を取り、大幅に待たせておきながらも、綾乃の帰り時間の希望を聞こうともしない横柄な態度で次第に綾乃を追い詰めていく。「ああ言えば、こう言う」といった感じの応酬が続くなか、「なぜ苦しんでいる患者を苦しませ続けるのか? 本人のためになるのか?」という綾乃の言葉尻を捉えて検事はこう返す。「そう考えてあなたは江木を死なせた、そうなんだな?」綾乃の思いやりとしての言葉も殺人の動機として読み替えられ、最後には綾乃もそれに肯いてしまうのだ。

 『それでもボクはやってない』でも裁判の問題を取り上げていた。ここでも司法制度を批判しているように思える。周防監督の明らかな意図が感じられるのは、この映画の構成だ。前述したが、観客は事情を知っているから綾乃に肩入れし、検察に嫌悪感を抱くだろう。
 例えば、まず司法によって裁かれた綾乃を登場させてから、回想を描いたのなら違う映画になっていただろう。殺人罪で執行猶予付きとは言え有罪になった綾乃が、実は患者との間に深い信頼関係があり、江木が綾子に“終の信託”をしていたという展開ならば、ラブ・ストーリーとか尊厳死がテーマの映画となるだろう。しかし周防監督はそうせずに、検察を非難するような構成にしたのだ。つまり、周防監督の意図は検察批判にある。ここでの熱のこもった演出は素晴らしい。ここだけでも観る価値はあると思う。

 感想もここでキレイに終わってもいいのだが、最後にもう少し。ラストの素晴らしさからすると、作品の大部分を占める回想劇は凡庸だ。江木の辛い過去なども交え、丹念に綾乃の医療行為にそれなりの理由があることを訴える。この前段があるからこそラストでは綾乃に肩入れしたくなるのだが、ふたりの関係と“終の信託”というエピソードが冗長で退屈なだけに、司法制度への疑問を観客から引き出すための材料としか機能していない。検察室での言葉の応酬が論理的なものを超えた熱量をもって迫ってくるのに対し、回想劇の諸々は尊厳死に至るまでの単なる説明にしかなっていないように感じられるのだ。


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周防正行の作品
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Date: 2013.04.30 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『天使の分け前』 社会派ケン・ローチの夢物語

 『ケス』などで知られるケン・ローチ監督作品。
 舞台はスコットランドのグラスゴー。少年院あがりの主人公ロビーは傷害の罪で起訴される。しかし、もうすぐ父親になることを考慮され、懲役は免れ300時間の社会奉仕を命じられる。そこで出会ったハリーにウイスキーの味を教えてもらい、ロビーは自分の隠れた才能(ウイスキーのテイスティング)を知ることになるが……。
 “天使の分け前”とは、「ウイスキーなどが樽の中で熟成されている間に、年2%ほど蒸発して失われる分のこと」を言う。幻のウイスキーであるモルト・ミルも登場し、酒好きなら観た後には間違いなくウイスキーが飲みたくなる。

『天使の分け前』 ケン・ローチ監督のコメディ 帽子と眼鏡姿がアルバート

 ※以下、ネタばれあり。

 ケン・ローチに限らず、イギリス映画では失業者やらアル中の登場人物も多く、景気のいい物語は少ない。風景は美しいのだけど、空の色と同じで気分は晴れないといった印象が強い。『天使の分け前』でも状況は同じで、隠れた才能を発見したロビーに順調な人生が待っているわけではない。ロビーは生まれたばかりの息子のために更生したいと考えているが、周りはそれを許さないからだ。
 ここでは個人がたとえ改心したとしても、周囲が足を引っ張るような社会状況がある。ロビーのけんかも親の代から続くつまらない人間関係にあると説明され、ロビーがその連鎖を断ち切ろうとしても相手にそれは通じない。ロビーの恋人レオニーの父親にはそれがわかっているから、ロビーに地元を離れることを持ちかける(もちろん娘から悪い要素を取り除く意味もある)。しがらみから逃れて一からやり直すほうが、真っ当でより現実的な解決法だろう。しかしこの映画ではそうはならない。地元に対する想いか、逃げることへの嫌悪かはわからないが、窮地からどうやったら抜け出せるかというのがテーマになっている。(*1)
 
 ケン・ローチは社会派だと言われる。労働者階級(労働してない失業者も多いのだが)の人々を好んで取り上げるし、題材としては戦争やいじめ、移民、アル中など厳しい現実を描いている。先日、亡くなったサッチャー元首相に対しても、その葬儀の莫大な費用(5億円だとか)を皮肉るコメントを発表している“政治的な人”でもあるようだ。そうしたケン・ローチの現状認識からすれば、この映画はかなり“甘い”だろう。現実的にはあり得ない話だし、社会の底辺にいるロビーの夢のような逆転劇だからだ。
 代表作のひとつ『SWEET SIXTEEN』は、まったく“sweet”ではなかった。絶望的と言ってもいい。ケン・ローチ作品の基調からすれば、『SWEET SIXTEEN』が正統だという気もするが、『天使の分け前』ではその先が用意されている。絶望的な状況に落ち込んでも、そこから抜け出す展開があるのだ。絶望から希望へ、そんな変化があるようだ。もう充分に厳しい現実を描いてきたという意識があるのかもしれないが、『エリックを探して』(2009年)や『天使の分け前』においては、あえて窮地からの逆転という夢物語を見せてくれるのだ。(*2)

『天使の分け前』 恩人ハリーと主人公ロビー

 『天使の分け前』では、少年院行きとなった事件の被害者との対話がある。ロビーの暴力行為は許されるものではないし、被害者からの非難にも返すべき言葉も見つからない。ロビーは息子という大切な存在ができたことで、息子と同様に誰かの大切な息子である被害者の存在の重さを知る。このエピソードは人を傷つけた我が身の愚かさを知るきっかけにはなるのだが、暴力への罪の意識には深く踏み込まない。ケン・ローチ(あるいは脚本のポール・ラヴァティ)の目には、ロビー自身も親世代の築いてきた劣悪な社会環境に置かれた犠牲者として映っているからだろう。そんなロビーが主人公だからなかなか道徳的共感を得にくい部分もあるのだけれど、ほかの仲間(特にアルバート)の存在によって、コメディとして成立していると思う。
 どんな生活環境にあったのか不明だが、アルバートは“モナ・リザ”すら知らない浮世離れした存在だ。そのバカさ加減は周囲を呆れさせイラつかせるが、最後には皆が許してしまうという不思議なキャラクターだ。幾分かファンタジックなほどのアルバートのバカっぷりは、深刻な場面もあるこの映画をコメディにしているのだ。ラストの逆転劇も、やってることは犯罪だから決して褒められたものではないが、盗まれた側が気づかなければご愛嬌だろう。また逆転と言っても、大逆転というよりはスタート地点に戻るという感じで、儲けをみんなで分け合うもの清々しい。あんな大失敗をしたアルバートにも平等だし、きっかけをくれたハリーにも“分け前”を忘れないのも泣かせる。
 それにしてもアルバートの大失敗には飛び上がった。あまりの歯がゆさにロビーではなくても「F×ck!」と叫びたいところではあるが、映画は充分に楽しめた。

(*1) 『天使の分け前』では、社会奉仕は“コミュニティ・ペイバック”という言葉で示されていた。これが英語表現として一般的なものなのかは知らないが、負債を返すべき相手はコミュニティとされているのだろう。
 ケン・ローチ映画では狭いコミュニティが描かれる。『エリックを探して』に特徴的だが、絶望的な状況を生み出しているのもそうしたコミュニティではあるが、助けを与えるのもコミュニティの仲間になっている。ケン・ローチ映画にとってのコミュニティの重要性が表れているのだろう。

(*2) 『天使の分け前』は『エリックを探して』とよく似ている。『エリックを探して』でも、地元のチンピラとのイザコザで進退きわまった主人公は、コミュニティを捨てて逃げることはなかった。また、警察など公権力にも頼らなかったが、周りの仲間の力を借りて逆転しチンピラを懲らしめた。主人公にアドバイスをするのは、天使ならぬ守護神のような存在であった点でもファンタジックなコメディ映画だった。


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ケン・ローチの作品
Date: 2013.04.28 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

PTA監督作 『ザ・マスター』 教祖と信者の主従関係だけでは終わらない

 ポール・トーマス・アンダーソン監督(以下PTA)がヴェネチア国際映画祭で監督賞(銀獅子賞)を受賞した作品。アカデミー賞では監督賞にも作品賞にもノミネートされておらず、一部には批判の声もあるようだ。映画評論家の森直人「作品のボルテージは極めて高い。むしろ前人未到の創造性が規格外に映ったのではないか」と評している。(参考1)

『ザ・マスター』 ポール・トーマス・アンダーソン監督

 第二次世界大戦の終わり、兵役であやしげな自作カクテルでアルコール依存症となって帰還したフレディ(ホアキン・フェニックス)。フレディの母親は精神病院にいるらしく、フレディ自身も病的な様子をしている。極端な猫背はある種の障害にすら見えるし、年齢は若いはずだがやせこけて顔に刻まれたシワも深い。地元デパート内の写真館で勤務するが長続きしない。次にキャベツ畑での収穫作業に従事するが、自作のカクテルで仲間を前後不覚に陥らせて逃げ出すはめになる。たまたま逃げ込んだ先で出会ったのが、新興宗教の教祖マスターであるドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)だった。

◆ 宗教と社会
 不協和音とともに始まる冒頭、海原を進む船が生み出す渦が捉えられる。青とエメラルドが交じったような鮮やかな場面は三度登場する。この海の場面は、社会から逃げ出した(あるいは放逐された)人が見た、社会以外の何かを象徴しているようにも思える。
 フレディは人を殺したかもしれないと思い、キャベツ畑を疾走して社会から逃亡を図る。そして、同じように社会からの攻撃を逃れるため、その土地を離れようとしていた教団の船に紛れ込む。不安定なフレディの内面を象徴するかのような不協和音を響かせていた音楽は、ここで船の上から聴こえてくる楽しげなダンスの伴奏と交じり合う。(*1)
 社会から攻撃を受ける新興宗教団体「ザ・コーズ」は、地上を離れた海の上では信仰を同じくする者の連帯をつくりあげている。しかし、たどり着いた新天地では、周囲の社会には部外者もいるからトラブルが生じることになるだろう。

 常識的な社会からは逸脱したフレディは、その新興宗教のなかでは一時的であるが居場所を見つける。それはマスター(ドッド)に対する信頼がすべてであって、フレディが一般的な社会性を身につけたわけではない。マスターを批判する敵には暴力をふるうような反社会的振舞いは、社会のなかでも一定の地位を築きたいマスターの望むものではない。だが、マスターはフレディを見棄てない。
 以前に取り上げた『汚れなき祈り』でも似たような構図があった。『汚れなき祈り』では、その国の多数派である正教会であったが、教会の場所は街から離れた丘の上だった。社会から離れた場所にあって、社会からこぼれてしまった人の受け皿になっていたのが正教会だった。だから異物であるアリーナを神父は見棄てなかった(それは酷い結果を招いたが)。
 『ザ・マスター』でも、マスター以外の周囲は、フレディを恐れている。マスターの妻はフレディに目標を見出すことを勧め、暗に教団から出ていく方向に導こうとする。また夫には直接的に教団を守るためにフレディの排除を求める。(*2)だが、マスターはフレディを見棄てない。それは宗教的な信念ばかりではないようだ。
 ドッドは教祖だが人格者というわけではなく、自らの教えに疑いを抱く者に対しては容赦なく叱責を加えもする人間である。ただフレディはマスターに対する信頼を最後まで失っていない。だからマスターはフレディを見棄てないとも言えるだろう。しかし、ふたりの関係はそうした信頼ばかりでもないようだ。

フレディ(ホアキン・フェニックス)とマスター(フィリップ・シーモア・ホフマン)

教祖マスターと信者の主従関係
 マスター(ドッド)が掲げる宗教はサイエントロジーという実在の宗教がモデルとなっている。プロセシングという手法は自己啓発みたいなものだが、マスターの矢継ぎ早の質問にフレディが即座に答えていくことで、次第に嘘もつけないような状況に追い込まれ、自らの過去について素直に語りだすことになる。PTAは狭い船室でのふたりのやりとりを、クローズアップと切り返しを多用してじっくりと見せる。主役ふたりの演技は凄みをもって迫ってくる。
 最初はフレディの単なる興味から始まった行為だったが、マスターの手腕はフレディのトラウマを想起させ、儀式を経たあとフレディは涙を流す。マスターに帰依する心が生じた瞬間だろう。

 PTAの映画では様々な父子的関係が描かれている。『ザ・マスター』でも、父と子のような“教祖と信者”の関係がある。教団のなかでは当然マスターが指導者であるが、見た目ではマスターは肉付きがよく若々しく、フレディは老人のような風貌でもあり、単純な父子的関係ではない。マスターはフレディに対し「悪い奴」だとか「(霊的存在である人間と比べ下等な)動物」であると評しながら、一方では「お前は自由だな」と羨望の眼差しを向けたりもする。なかなかやっかいな関係だ。
 フレディはマスターへの信頼の故に、マスターの敵には容赦ないが、その刃がマスターに向かうときもある。留置所での場面だ。フレディはマスターに対する疑念を告白するが、マスターは聞き入れず罵りあいに発展する。「お前の子供だって疑っている」とフレディはマスターにぶちまける。しかしマスターはこう返す。「おれだけがお前を好きなんだぞ」。ここでは主従が逆転している。マスターがフレディを支えているのだ。
 フレディは教祖であるドッドを信頼している。教祖は信者が支持者であり、支持者がいなければ存在意義がない。だから教祖にとっては支持者が命綱だ。信者であるフレディがマスターを支持しなければ、マスターの地位にはいられなくなる。ここでは関係が逆転しかけている。それでもマスターにはほかに多くの支持者がいる。フレディが居なくてもその存在は揺らがないはずだ。それに対してフレディの支持者はマスターだけだ。だからマスターを疎かにできないし、マスターに対する信頼を手放すわけにはいかない。こうして一時は逆転しようとした主従関係は元通りになる。(*3)
 しかし、PTAの構想するふたりの関係は、そんな主従の関係ばかりではないようだ。(*4)マスター(ドッド)が掲げる宗教では輪廻転生が謳われている。ラストでふたりは別れることになるが、来世での再会を誓う。そのときフレディはドッドの敵となるだろうとも予言されている。だから、例えばPTAの前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』で描かれた男同士の確執のような関係も、『ザ・マスター』での信頼関係も、ふたりの深い縁の別の現れ方に過ぎないのだろう。ただ人と人との濃密な関係がスクリーンに現れればいい、そんなことをPTAは考えているのかもしれない。
 前作では衝撃的なラストがあったが、『ザ・マスター』ではそれもない。フレディはマスターに出会うことで救われたかと言えば曖昧だし、悲劇が起きるわけでもない。フレディとマスターが出会い、そして別れただけとも言える。とても一般受けがいいとは思えないし、拷問と感じる人もいるだろうが、私は目を瞠ってふたりの演技に釘付けになった。

 ドッドがフレディに期待した「マスターのいない初めての人間」。これは難しい課題だろう。ドッドと別れたフレディは、バーで出会った女を相手にマスターの真似事をしている。恐らく新たなふたりの間でも主従関係を巡る闘争があるだろう。映画自体も冒頭の兵役時代のビーチの場面に戻って終わる。元の場所に戻ってしまうのだ。ここにも「マスターのいない初めての人間」の不可能性が表現されているのかもしれない。

(*1) 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』でも不安を駆り立てる音を響かせたジョニー・グリーンウッド(レディオヘッド)が音楽を担当している。一定の秩序を保つ教団のなかに、異物であるフレディが不協和音と共に入り込むのだ。

(*2) マスターの妻ペギーは陰でマスターをも支配している。信者の女に手を出す悪い癖を知っているペギーは、夫の性的興奮を見て取ると自らの手技で夫の性欲も処理してしまう。教祖としての夫が世間の悪い噂の的にならないようコントロールしているのだ。

(*3) 「主人と奴隷の弁証法」などを思い浮かべることもできるだろう(私自身はどこかで聞きかじっただけだけれど)。

(*4) 別れの前に、マスターがフレディに向けて歌うのは『中国行きのスロウ・ボート』。その歌詞はどう読んでもラブ・ソングだ。と言ってもふたりの関係はホモセクシャルではないが……。

(参考1) 引用元はこちら


ザ・マスター [DVD]


ポール・トーマス・アンダーソンの作品
Date: 2013.04.17 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『さらば復讐の狼たちよ』 チアン・ウェン監督・主演の中国歴代1位のヒット作

 チアン・ウェン監督・脚本の第4作目。出演はチアン・ウェン、チョウ・ユンファグォ・ヨウなど。中国では『レッド・クリフ』を超え、歴代1位の興行収入を稼ぎ出した作品。先月DVDが発売になった。

『さらば復讐の狼たちよ』 邦題やポスターの印象と異なりユーモアの要素が多い

 チョウ・ユンファが主演だし、邦題も香港ノワールあたりを思わせるが、『男たちの挽歌』などをイメージするとちょっと調子が狂うかもしれない。『さらば復讐の狼たちよ』は男くさい映画ではあるが、香港ノワールとはほど遠く、ユーモアの要素が多分に盛り込まれた作品だからだ。その辺のイメージの違いなのか、日本での評判はあまり芳しくないようだ。チョウ・ユンファは街のボスとその替え玉の2役で楽しませてくれるが、やはりこの映画は監督も務めるチアン・ウェンの作品と言えるかもしれない。


 時代は1920年、馬に引かれた列車が山賊たちによって襲撃される。赴任先に向かっていた県知事マーは、山賊たちの頭領“アバタのチャン”に脅され、もうけ話を持ちかける。マーは県知事になれば荒稼ぎができるとチャンをそそのかすのだ(もともとマーは県知事の地位を金で買ったのだった)。偽県知事となったチャンとその書記として金策を練るマーは、ホアンという独裁者が牛耳る鵝城の街へと乗り込んでいく。


 “アバタのチャン”を演じるのが、『紅いコーリャン』(チャン・イーモウ監督)以来、中国を代表するスターであるチアン・ウェン。独裁者ホアンには香港映画界のスター、チョウ・ユンファ。対立する二人の間で生き残りを図るマーには、『活きる』(チャン・イーモウ監督)のグォ・ヨウ
 山賊チャンのやっていることは略奪だが、奪った金を貧しい民衆に配る“義の人”でもあり、県知事マーの目的は金もうけだし、それに対立するホアンは独裁者という構図。「正義vs悪」という単純な構図ではないようだ。ストーリーも混沌としていて、対立し合っていても正々堂々と闘うことはなく、策を弄し、騙し合い、一時は相手方に取り入ってみたりと複雑な様相を呈する。

 『さらば復讐の狼たちよ』は中国映画ということもあり、中国文化に関してほとんど知らない私には意味不明のところも多い。例えば、冒頭に登場する“馬列車”とは、その音韻がマルクス・レーニン主義を示しているのだとか。ほかにも中国社会を風刺しているものと推測される場面も多く、中国ではそこが受けたのだとか。(*1)
 『男たちの挽歌』のようなカッコいいアクションはないが、主役3人の騙し合いが楽しい。二大スターの間に入ってあたふたしているようで、意外と頭のキレるマーを演じたグォ・ヨウが笑わせる。

『さらば復讐の狼たちよ』 多彩なキャラクターが登場するが、なかでもグォ・ヨウ演じるマーは秀逸

 西部劇を思わせる襲撃シーンなど、光が溢れる撮影がいい。(*2)また、チアン・ウェンの過去の作品とは異なり、ハリウッド的な素早い編集もあり飽きさせない。CGの場面はかなり安っぽいが、それもこの映画のユーモアへのアプローチとも言えるかもしれない。これはシリアスドラマというより、中国という国へのあてこすりを楽しんでほしいということなのだろう。
 チアン・ウェン監督作品の『太陽の少年』『鬼が来た!』はどちらもよかった(第3作『陽もまた昇る』は未見)。『鬼が来た!』は戦争が題材だし、初恋ものでもある『太陽の少年』においても、中国という国の状況は牢固として登場人物たちに影響をもたらしている。『鬼が来た!』は中国では上映禁止となったというし、中国では映画に対する検閲などが未だに厳しいのだろうか? 暗喩的な手法で国を風刺するのはやはりそういう国状があるのだろう。チアン・ウェンは監督として、まったく過去作とはタイプの異なる映画を作り上げ、しかも大ヒットさせてしまった。今後も気になる監督だ。

(*1) ラストではチャンが生き残るが、山賊の仲間たちは「楽しいけど一緒だと疲れる」と悪びれる様子もなく去っていく。独りとなったチャンの姿に中国社会の何らかの立場が象徴されていそうな気もするのだけれど……。

(*2) 撮影監督はチャオ・フェイ。公式ホームページのデータによれば、中国屈指の撮影監督だとか。フィルモグラフィを見ると、ティエン・チュアンチュアン、チャン・イーモウ、チェン・カイコーという中国の大物と組んでいるし、ウディ・アレン作品もある。
 私自身は最近のチャン・イーモウ作品からは遠ざかっているのだが、赤を基調にした画面が印象的だった『紅夢』はチャオ・フェイ撮影だったようだ。なるほど中国屈指というのもまんざら誇張でもないのかも。


チアン・ウェンの監督作品など
Date: 2013.04.07 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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