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『トガニ 幼き瞳の告発』 “事実に基づく物語”の信じがたさ

 韓国で実際に起きた事件を元にして作られた映画。今月、修正が加えられていた劇場公開版とは異なるオリジナル版のDVDが発売され、レンタルも開始された。ファン・ドンヒョク監督、コン・ユ主演。

トガニ 幼き瞳の告発 (オリジナル・バージョン) [DVD]

 主人公イノは恩師のつてで、聴覚障害者の学校に美術教師の職を得る。絵描きをしていたイノは妻を亡くし、残された娘を育てるために田舎の学校に仕事を求めたのだ。しかし“慈愛学園”という名の学校は、その名に反して地獄のような場所だった。(*1)
 校長など経営陣の一部は児童に対して性的虐待を行っており、雇われ教師たちは職を失うことへの惧れから、そうした事実に目を瞑っている。イノも職を得るために賄賂を渡すことを余儀なくされる。イノは正義漢ではないし、途中までは賄賂の金を工面してくれた母親に従い「口と耳を塞いで」仕事に徹しようともするが、あまりの虐待ぶりに突発的な形で学園の実態を世間に告発することになっていく。
 
 性的虐待の描写はかなり直接的だし、暴力描写も容赦ない。レーティングはR18+(いわゆる18禁)で、演じている子供たちがかわいそうになるほどえげつない描写もあり、観ているこちらとしてもおぞましさで寒気すら感じた。女児に対する性的虐待を繰り返す校長のキャラクターはほとんどホラー映画のそれで、演じた役者さんが今後まともな役柄につけるのか心配になるほどだ。

 映画『トガニ 幼き瞳の告発』が“事実に基づく物語”であることには驚かされる。あんな人非人が存在するなんて到底想像もできないほどだからだ。(*2)映画の後半では韓国の司法に対する糾弾も含まれ、まさか日本の司法はあんな酷くはないと信じたいが、福祉施設での虐待に関して言えば、日本においても“恩寵園事件”と呼ばれる事件もあったらしく、よその国のことだと済ますこともできないようだ。
 前回取り上げた『汚れなき祈り』も“事実に基づく物語”だったが、先日アカデミー賞作品賞を受賞した『アルゴ』もそうだった。どちらの映画も事実に基づいているのに、かえって荒唐無稽な展開になっているようにも感じられる。『汚れなき祈り』では悪魔祓いで人を殺してしまうし、『アルゴ』では人質救出のために偽りの映画製作をでっちあげるのだから。『トガニ』も同様で、物語はちょっと信じがたい展開を見せる。「事実は小説よりも奇なり」と言うが、フィクションである映画よりも、事実のほうがよっぽど奇妙で信じがたいあり方をしているようだ。
 映画作家や脚本家がフィクションを構成していくときには、通常、何かしらテーマを決めて書き出すだろう。そのテーマを軸として、それを効果的に表現するために登場人物は設定され、出来事が生じることになる。しかし現実にはそんな軸などない。だから“事実に基づく物語”には戸惑うことも多い。『トガニ』という映画を観ても、その悲惨な事件に理由付けがなされるわけでもなく、何かしらのテーマ性を見出すこともできないからだ。映画と違い、現実にはテーマなどあるわけもなく、『トガニ』はそんな現実をありのままに描き、事件を告発するためにあるのだ。

『トガニ 幼き瞳の告発』 被害者ヨンドゥは法廷で証言する

 イノは事件の過程で亡くなったミンスについて、社会にこんなふうに訴えかける。「この子は聞くことも話すこともできません。皆さん、この子の名前はミンスです。忘れないで」と。しかし、この映画のなかでは、事件は司法によって握りつぶされてしまう。イノの行動もほとんど無に帰したと言えるかもしれない。それでも被害者たちは、イノの行動によって「私たちも他の人たちと同じように大切な存在だと知った」と語っている。その意味ではイノの行動は無ではない。

 ラストに語られる言葉が印象的だ。

「私たちの闘いは世界を変えるためではなく、世界が私たちを変えないようにするため」


 声高に社会の変革を訴えるのではなく、ミンスのような被害者たちは限りなく無力に近いということが強調されている。「世界が私たちを変えないようにする」というのは、日本国憲法の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)みたいなもので、ごく些細な要求に過ぎない。そうした子供たちの姿を目の当たりにした観客は、その境遇に涙を禁じえないとの同時に、加害者たちに対する怒りを覚えるだろう。
 韓国では、この映画が公開された後、事件が再検証され“トガニ法”という法律が成立し、加害者の一部には懲役刑が下されたのだとか。現実のイノの行動は社会を変えるほどの力にはならなかったとも言えるが、それが本となり、さらに映画化されることで社会に訴えかける現実的な力となったようだ。

(*1) “トガニ”とは坩堝るつぼのこと。坩堝について、公式ホームページでは次のように説明している。「本来の意味は高温処理をおこなう耐熱式の容器。出口のない密閉した空間で、ジリジリと焼かれていく想像を超えた恐怖と痛み――。本作の“トガニ=坩堝”は控えめに言っても、地獄そのものである」。

(*2) 原作者のコン・ジヨンは、加害者に対してもインタビューを試みたようだが、加害者は反省の色もなかったのだという。参考にしたのはこちらの記事

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Date: 2013.03.31 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『汚れなき祈り』 悪魔祓いという純粋な善意

 『4ヶ月、3週と2日』でパルムドールを受賞しているクリスティアン・ムンジウ監督・脚本のルーマニア映画。この『汚れなき祈り』では、カンヌ映画祭の女優賞(コスミナ・ストラタンクリスティーナ・フルトゥル)及び脚本賞を受賞している。

クリスティアン・ムンジウ『汚れなき祈り』 丘の上に立つ修道院

 孤児院で育ったふたり。アリーナはドイツに出稼ぎに行っていたが嫌気がさしてルーマニアに戻り、修道院(正教会)にいるヴォイキツァに助けを求める。アリーナには里親もいるが、ヴォイキツァと一緒にいることを望む(ふたりは同性愛的な関係とも見える)。一方でヴォイキツァは、アリーナに去られたあと修道院で神への愛に慰めを見出していた。
 
 『4ヶ月、3週と2日』でも同様だったが、『汚れなき祈り』でも、ひとりの厄介な女がもうひとりの女のやさしさにつけこんでくる(意図的なものではないが、精神的な病だったり鈍かったりしてそうなる)。アリーナはヴォイキツァの愛を取り戻すことに執着し、そうした権利が自分にはあると勘違いをしている。それに対してヴォイキツァは、修道院を出ることなど考えられず、アリーナへの愛もかつてのそれとは違ったものになっている。アリーナはそれを認めることが出来ずに、ヴォイキツァと神父との関係を邪推し、神父に暴言を吐くなど修道院内であるまじき傍若無人なふるまいをするようになる。
 修道院という閉ざされた世界で、信仰を同じくする者が共同で生活していくのには穏やかな日々があったのだろう。しかしアリーナという闖入者がその平穏さを乱していく。信者でないからと叩き出せばそれで済むのかもしれないが、問題はそう簡単でない。修道院は俗世間とは離れていても、一方で孤児院に対しての援助をはじめ、地元の貧しい人たちを助けるような役割も担っているからだ。
 出稼ぎはうまくいかず帰るところもなく、精神的な病を発症しているものの病院からも追い出されたアリーナを誰が救うべきなのか? 神父は「あなたが神に試されている」などと言われ、アリーナを見棄てるわけにもいかない。正教会の教えに従えば、アリーナの異常なふるまいは悪魔が憑依しているからであり、悪魔祓い(エクソシスム)の儀式によってそれを取り払えば元の姿に戻るだろうということになる。邦題の“汚れなき祈り”とは、神父や修道女たちのある意味で純粋な善意のことだ。
 こうして神父たちの善意でなされた行為によって、アリーナは死んでしまうことになる。暴れるアリーナを十字架のような形の板に縛りつけて運んでいく場面は、『黒い十人の女』(市川崑監督)のワンシーンようだ。極端にデフォルメされた『黒い十人の女』のキャラクターに比べ、『汚れなき祈り』の修道女たちは大真面目だし真に迫っているから怖い。しかも『汚れなき祈り』は実際の事件を元にしているのだというから驚きだ。

『汚れなき祈り』 アリーナ(左側)と修道服のヴォイキツァ
 
 『汚れなき祈り』について、映画評論家の中条省平はこう記している。

「現実の事件に取材したせいか、事実の生々しいリアリティと物語の未整理の荒っぽさとが混同され、ドラマの持続に不要な弛みを生じている。脚本を的確に刈りこめばもっと緊迫感が増しただろう。」 (参考1)


 大学教授でもある中条は難しい言葉を並べてはいるが、簡単に言えば「ちょっと退屈だね」ということだろう。手法的には長回しが多いし、カメラはほとんど固定され、修道院内での会話のやりとりに終始するからだ。『4ヶ月、3週と2日』も手法は同様だったが、違法な中絶手術とあやしい医者の存在が緊迫感を生んでいた。それに対して、アリーナの病を悪魔の仕業だとする修道院内の時代錯誤や、しつこすぎるアリーナと煮え切らないヴォイキツァの姿は、152分の長尺を引っ張るほど緊迫感はない。

 ラストは警察に向かう車のなか。神父と修道女たちを乗せた車のフロントガラスには、街の雑踏が見える。長い間があり、天罰でも起きそうな雰囲気を漂わせる。次の瞬間、隣を走り去った車が泥水を飛ばし、フロントガラスが泥で覆われる。街の雑踏は見えなくなり、外部との断絶を感じさせて映画は終わる。好意的に解釈すれば、丘の上で孤高に立つ修道院の閉鎖的空間を表したのかもしれない。神への愛に盲目になるあまり、世間並の常識さえも見えなくなってしまうというアイロニーだろうか。(*1)

(*1) 『4ヶ月、3週と2日』のラストも似たようなテイストだった。長かった一日が終わり、レストランで向き合うふたり。奥のホールではパーティが行われている。ふたりの手前はガラスに仕切られ、外を走る車の灯りが反射する。外(画面手前)と奥のホール、その騒がしい二つの空間に挟まれて取り残されたようなふたり。語り合う言葉もなく、ひとりが外(つまりは映画を観ている観客)に目を向ける。どちらの作品もあっけなく終わるが、それでいて妙に印象に残る。

(参考1) 引用元はこちら


クリスティアン・ムンジウの作品
Date: 2013.03.23 Category: 外国映画 Comments (2) Trackbacks (0)

『愛、アムール』 この題名は決して皮肉ではない(のだと思う)

 アカデミー外国語映画賞及びカンヌのパルムドールも受賞したミヒャエル・ハネケ作品。パルムドール受賞は『白いリボン』に続いて2作品連続。
 主演は『男と女』のジャン=ルイ・トランティニャンと『二十四時間の情事』のエマニュエル・リヴァ

 今回のテーマは“愛”だが、なかなか甘いものではない。男女のロマンスなどではなく、老いた夫婦の愛だからだ。『ファニーゲーム』『ピアニスト』(*1)から不快な映画の印象が強いハネケだが、今回は“愛”がテーマだけに、感動的ですらあるし、多くの人に受け入れやすい作品かもしれない。

ミヒャエル・ハネケ『愛、アムール』 主演のジャン=ルイ・トランティニャンとエマニュエル・リヴァ

 『愛、アムール』の登場人物はごく少ない。元音楽教師の老夫婦とその娘が主要人物だ。仲むつまじい老夫婦の生活は、妻アンヌの突然の病によって新たなステージへと向かう。
 老老介護の現実は厳しい。アンヌは半身不随となった身体について人に訊かれるのを嫌がる。介護するジョルジュも娘にアンヌの病状のことばかり訊かれると「話題を変えよう」とそれを阻止する。さらには突然訪ねてきた娘を母親に会わせようとせず「見せるようなものではない」とまで言う。介護の現実から目を逸らそうとしているようにも感じられる。だがやはりそれは叶わない。アンヌの病は進行し、現実は否応なしにジョルジュに襲いかかるからだ。
 こんな状況では、やはり行き着くところは限られる。多分常識的にはもっと違う方向性があるだろう。日本映画ならもっと湿っぽくなったり感情的になったりしつつ、最後には皆で助け合ったりするかもしれないが、ハネケ映画ではそうはならない。
 この映画で常識の部分を代表しているのが娘エヴァ(イザベル・ユペール)の存在で、母親の衰えを受け入れられず父ジョルジュに向かって抗議する。ほかに方法があるはずだと。それでも「じゃあ、真剣に話し合おう」と返されると確たる答えは持っていない。「ホスピスに入れるのか」などと提案されてもそれ以上返す言葉はないのだ。ラストシーンのエヴァのように、常識的な人間は厳しい現実を前に佇むことしかできないのかもしれない。しかしジョルジュは違った。それは「愛があるから」というのが、この映画での説明となるだろう。(*2)

 『愛、アムール』は室内劇だ。世界はほとんどアパルトマンのなかだけ。そのアパルトマンの玄関を出るシーンでは、ホラー映画のような悪夢が描かれる。突然、肩越しに出てきた腕に絡めとられる。この場面は老夫婦の逃げ場のなさを示しているのと同時に、アパルトマンの外部はこの世(われわれが住まう現実)ではないことをも示しているのかもしれない。だから、ふたりが連れ立ってアパルトマンから出てゆくという幻想は、ふたりがこの世のものでなくなったことを暗示する。ジョルジュは亡くなったアンヌを花で飾り自分なりに葬ってから、自らも命を絶ったものと思われる。(*3)
 この映画でちょっと意外だったのは、愛ゆえにアンヌに手をかけることになるジョルジュにとって、幻想が救いになっていることだ。意外というのは、『白いリボン』のときにも記したが、見たくない真実を突きつけ観客を揺さぶるのがハネケ映画だと思っていたからだ。
 スリラー映画のパロディ『ファニーゲーム』では、よくあるスリラーの筋をリアリズムで描いていた。通常、スリラーあるいはホラーなどのジャンルは、観客は当然安全な場所にいて、ポップコーンでも食べながら殺人鬼の残虐行為を眺める。描かれる猟奇殺人が虚構の代物だとわかっているからこそ、観客はそれを笑いながら楽しむことができる。『ファニーゲーム』はスリラー映画によくあるこけおどし的な手法を廃し、リアリズムに徹して描くことでスリラー映画をパロディにしている。すると何とも後味の悪く、恐ろしく不快な映画になったわけだ。確かに現実であんな事件に直面したら笑ってはいられないだろう。
 ハネケはインタビューで「いかに奈落に突き落とすような恐ろしい物語を作ってみても、我々に襲いかかる現実の恐怖そのものに比べたら、お笑い草にすぎないでしょう」(参考1)と語っている。しかし『愛、アムール』では現実だけで終わらせなかったのだ。観客に現実を突きつけて揺さぶるだけではなく、そこに幻想を挿入して救いを与えているのだ。
 夫婦の愛について、さらに介護問題の現実の過酷さは、ハネケもそれをそのまま提示するのは憚られたのだろうか。それともテーマが“愛”だけに、幻想が必要とされるという認識なんだろうか。

(*1) 今回、改めて『ピアニスト』を見返したが、主人公エリカの心情の機微は私には到底理解しがたいものだったし、後味の悪さもかつて観たときと変わらなかった。ラスト、エリカが自分を傷つける前に一瞬表情を崩すところは“すごい”。とにかく“すごい”としか言いようがないようなシーンで、一瞬何が起きたのかと戸惑うほどだ。

(*2) 鳩がアパルトマンに舞い込んでくるシーン。一度目は窓から逃がしてやるが、二度目は捕まえて愛おしい様子で抱きしめる。これは老夫婦の関係を象徴しているのだろう。最初は自由にしてやった鳩を、次には自分の手のなかに抱え込む。老いた妻の存在を自分の責任で抱え込むということだ。

(*3) 冒頭に亡くなって花に囲まれたアンヌが示されているから、この結末はある程度予想がつく。展開に驚きはない。それよりもそこまでの過程をじっくり見せる作品になっている。

(参考1) 引用元はこちら


愛、アムール [DVD]


ミヒャエル・ハネケの作品
Date: 2013.03.17 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『フラッシュバック・メモリーズ 3D』 松江哲明流3Dの新しい使い方

 『あんにょん由美香』などの松江哲明監督のドキュメンタリー作品。ドキュメンタリーには珍しい3D作品となっている。上映も終わりそうなのだけれど、とても良かったので……。

『フラッシュバック・メモリーズ3D』 過去の映像の手前で3DのGOMAが演奏する

 今回の被写体はディジュリドゥ奏者のGOMA。GOMAは2009年11月26日、交通事故によって脳に損傷を負う。それにより記憶に著しい障害を抱えたGOMAは、過去の記憶を失うとともに、新しいことを覚えることも困難な状態に陥る。(*1)『フラッシュバック・メモリーズ 3D』は、そんなGOMAの復活を描いている。
 
 アルペンホルンを思わせる形状の“ディジュリドゥ”という耳慣れない楽器の音を聴いて、私が思い浮かべたのは『クロコダイル・ダンディ2』でミック・ダンディがアボリジニとの連絡に使用した道具だった。この道具は木の板みたいなものを紐で振り回して音を響かせるものだったのだが、ディジュリドゥという楽器もアボリジニが産み出したものなのだそうだ。この映画は、GOMAが演奏するディジュリドゥと、ドラム&パーカッションからなるGOMA & JUNGLE RHYTHM SECTIONの72分間のライヴとしてある。



◆『フラッシュバック・メモリーズ 3D』はなぜ3D映画なのか?
 
 『ライフ・オブ・パイ』のときにも記したが、3D映画は奥行きのある表現が売り文句だ。松江監督は3D映画の特質を、手前と奥の2つのレイヤー(層)として捉えて『フラッシュバック・メモリーズ 3D』を構成している。この映画では、奥の層が過去であり、手前の層が現在である。そして現在は3Dで表現される。GOMAが失ってしまった過去の記憶を2次元の映像としてスクリーンに投影し、その映像をバックにして、復活したGOMAの現在の姿を3Dで観客に体験させるのだ。

 過去の記録映像のなかでGOMAは、10年間の音楽活動を振り返って「長い目で見れば様々なことがあって、今の自分がある」みたいなことを語り、観客に感謝の意を述べている。しかし、GOMA自身はそのことを覚えていない。記憶障害により、GOMAにとっては長い目で見るような生き方は難しいのだ。過去とのつながりのなかで、今の姿が存在しているのが普通のあり方だから、GOMAは「自分だけが違う時間軸にいる」ような感じだと語っている。
 『フラッシュバック・メモリーズ 3D』は、3Dのライヴ場面と、その奥の層に投影される2Dの過去が、われわれが観ている劇場のスクリーン上で重ね合わせられる。通常、人はこのように過去の記憶の層を前提にして、現在という層を生きている。『フラッシュバック・メモリーズ 3D』では2Dの過去だけが映される部分もあれば、3Dのライヴだけの場面もある。GOMAにとっては、毎日がその現在という3Dの層だけになっているのだ。奥の層が暗転してGOMAの姿だけが3Dで映される場面は、「違う時間軸」にいることを強いられたGOMAの境遇を感じさせる。この構成は監督のアイディアだと言うが、3Dという手法の新しい使い方として非常に斬新だ。(*2)

 しかし『フラッシュバック・メモリーズ 3D』は、高次脳機能障害を負った人間を追うドラマというよりは、ミュージシャンとしてのGOMAのライヴが中心になっている。2D部分で描かれる事故や臨死体験ついての描写(アニメーション)、障害との闘い(記録映像)、家族の葛藤(日記)などは、それだけでも映画を制作するのに十分な題材だが、松江哲明はそうしたドラマにはしなかった。それはなによりもGOMAが「病気である以前に圧倒的に音楽の人だなと感じた」からだと言う。GOMA & JUNGLE RHYTHM SECTIONの演奏を聴けばそれがわかると思う。障害と向き合う家族の物語も泣かせるのだけれど、それ以上に、復活したGOMAのライヴをかぶりつきで観ているように楽しめる作品なのだ。

(*1) 新しいことが覚えられないような症状を“前向性健忘”と言うが、映画『メメント』ではそんな男が主人公だった。程度の違いはあれど、GOMAも『メメント』の主人公のような状況にあるということだ。

(*2) 過去の映像を前にしてミュージシャンが演奏するのはライヴでは珍しくないだろうが、それを3Dでやったという意味ではやはりチャレンジングな映画だと思う。



≪追記≫ まったく絵筆など持ったこともなかったGOMAは、事故後、急に絵を描き始めたのだという。それは点描画で、どことなく曼荼羅のよう。ユングの集合的無意識などを思い起こさせる。

GOMAの奥のスクリーンに映されているのは事故後に描いた点描画

フラッシュバックメモリーズ スペシャル・エディション<2枚組> [DVD]


GOMA&Jungle Rhythm SectionのCD
松江哲明の作品
Date: 2013.03.05 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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