『暇と退屈の倫理学』 退屈とどう向き合うべきか
序章は「「好きなこと」は何か?」と題されている。
人は社会を豊かにしようとしてきた。しかし、豊かさが実現すると人は不幸になる場合がある。豊かになれば暇ができる。暇ができると人は好きなことができる。しかし好きなことがわからない。だから不幸になる。
暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか。『暇と退屈の倫理学』はそんな問いに答えるために書かれている。

『暇と退屈の倫理学』は退屈を論じているが、その内容は退屈ではない。著者の國分功一郎自身、この本を書いているときは退屈しなかったんじゃないだろうか。著者が退屈していないのはなぜか? 結論に至ってその理由がわかるだろう。
國分はラッセル、パスカルなど多くの退屈論を検討しつつも、それらに十分に納得させられることはない。最終的には國分が“退屈論の最高峰”と呼ぶハイデッガーの論に拠りながら、自身の退屈論を語っている。議論の筋道は明確で、哲学などに詳しくなくとも興味を持って読み進められるだろう。そのテーマが誰もが一度は心覚えのある感覚だからだ。
ハイデッガーは退屈を詳細に検討し、退屈こそが人間が動物と違う根拠だとして、退屈に可能性を見出した。退屈であるということは自由であり、われわれ人間は決断によって自由を発揮しなければならないのだという。
國分はこれに異を唱える。それは決断した人間がどうなるかを考えればわかる。決断した人間はなすべき仕事を見つけそれに励もうとするだろう。強い決意を持ってそれに邁進することで周囲の状況から隔絶し、仕事の奴隷となってしまうだろう。これはおかしいのではないか。これが國分のハイデッガーの決断主義に対する批判である。
似たような議論は“本来性なき疎外”という概念にも表現されている。
だから疎外論自体の可能性を捨てることなく利用するには、“本来性なき疎外”という枠のなかで論じられなければならないのだとしている。
「小人閑居して不善をなす」などと言うが、これは一般的には「暇人はろくなことをしない」といった意味で使われる。それが退屈に耐えられないからなのかはわからないが、何にせよ短絡的な行動は事を仕損じることになりかねない。安易に本来的な目標などを設定することを決断し、それに向かって盲目的に突き進むような態度は自己喪失であり、周りにとっては危険な存在にもなりかねない。だからそこには慎重さが求められる。(*1)
決断主義に関しては、宇野常寛も『ゼロ年代の想像力』で論じている。こちらは退屈論でもなければハイデッガーについてでもないが、決断主義という用語が登場する。宇野はアニメやテレビドラマなどを中心にした膨大なサブ・カルチャーを扱いつつ、現代社会を生き抜く方法を見出そうとする。それによると90年代は『新世紀エヴァンゲリオン』的「ひきこもり」に、ゼロ年代は『バトル・ロワイヤル』的「決断主義」に分類される。
「大きな物語」が失われた時代には、「小さな物語」が乱立する。生き残るためにはその「小さな物語」のひとつに関与することを決断し、ほかの「小さな物語」との競争を勝ち残っていかなければならない。「ひきこもり」では生きていけないから、あえて決断するしかないという態度が支配的になるというのが宇野の見立てだ。
「大きな物語」の失調、それは“終わりなき日常”と言い換えることもできる。その意味で宇野の議論も退屈論に近づく部分があるのだろう。宇野は『ゼロ年代の想像力』で、決断主義を“必要悪”であり“焦りの思想”だとし、その克服をそれ以後の時代のテーマとしている。決断主義は極めて現代的な問題でもあるようだ。
決断主義を退けた『暇と退屈の倫理学』のさしあたりの結論は、やはり慎重にならざるを得ない。冒頭の問いに対する答えは驚くようなものではない。ごく平易に記せば、「退屈せずに熱中するには訓練が必要」ということだろうか。
ただ注意が必要だ。國分は結論について、こう注釈を加えている。この本の結論は、それに従えば退屈は何とかなるという類のものではない。その方向性へと向かう道を、読者が切り開くものだ。また結論だけ読んでも意味がなく、本書を読みつつ読者が変化していく過程にこそ意義があるのだと。
著者は「楽しむには訓練が必要」という結論のために、様々な概念を使って暇と退屈の諸相を描き出す。定住革命、暇と退屈の4類型、本来性なき疎外論、ハイデッガーの3つの退屈の形式、環世界論と環世界移動能力、それらを細かく整理検討して自分なりの退屈論への筋道を丁寧に描いている。結論よりも、ハイデッガーの人間と動物の理解をひっくり返し、動物になること(とりさらわれること、熱中すること)へと導くような論理展開をこそ楽しむべきだろう。
もともとこの本はどうしようもない退屈を抱えた國分の悩みから始まっている。「まえがき」と「あとがき」には、「俺」という1人称でそうした過去の姿が記されている。しかし私は「著者は退屈していないように見える」と記した。それは國分が訓練のなされた人間だからだと思う(國分は哲学専攻の大学准教授だそうな)。
ギリシャの古典を読むにはギリシャ語を知らなければならない。漢詩を読むには漢字を知らなければならない。國分は訓練を積んだ上で、引用される多くの文献の原書に当たって本書を記しており、またそれを楽しんでいるようだ。だからそのあいだは退屈しなかっただろうと思えるのだ。
國分の熱中する対象は、多くの本を狩猟して自分なりの哲学を完成させることだろう。國分にとっては哲学が対象だったが、ほかの可能性にも触れられている。例えば、“食”だ。國分によればスローフードとは“情報量の多い食事”となる。訓練によって食べ物も今よりもさらに深く味合うことができる。
学問や食だけでない。一番わかりやすいのは趣味の分野だろう。結論のなかでドゥルーズの言葉が引用されている。彼の熱中する(とりさらわれる)対象は映画や美術だった。彼はそんな対象に出会いとりさらわれるのを「待ち構えている」と語っていた。また映画監督・北野武も「趣味を楽しむには10年はかかる」と語っていた。やはり趣味を味わい尽くすにも訓練が必要なのだ。
となると序章にあった「好きなことがわからない」という元の位置に戻ってしまう人もいるのかも知れないのだが、やはりそのくらいは訓練して自分で見つけるしかないだろう。國分が戒めていたのも安易に答えを求める短絡さなのだから。
(*1) 國分は、大儀のために死ぬことを望む過激派とか狂信者たちを「恐ろしくもうらやましく思う」心情を指摘し、それは暇と退屈に悩まされているからだとしている。
人は社会を豊かにしようとしてきた。しかし、豊かさが実現すると人は不幸になる場合がある。豊かになれば暇ができる。暇ができると人は好きなことができる。しかし好きなことがわからない。だから不幸になる。
暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか。『暇と退屈の倫理学』はそんな問いに答えるために書かれている。
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『暇と退屈の倫理学』は退屈を論じているが、その内容は退屈ではない。著者の國分功一郎自身、この本を書いているときは退屈しなかったんじゃないだろうか。著者が退屈していないのはなぜか? 結論に至ってその理由がわかるだろう。
國分はラッセル、パスカルなど多くの退屈論を検討しつつも、それらに十分に納得させられることはない。最終的には國分が“退屈論の最高峰”と呼ぶハイデッガーの論に拠りながら、自身の退屈論を語っている。議論の筋道は明確で、哲学などに詳しくなくとも興味を持って読み進められるだろう。そのテーマが誰もが一度は心覚えのある感覚だからだ。
ハイデッガーは退屈を詳細に検討し、退屈こそが人間が動物と違う根拠だとして、退屈に可能性を見出した。退屈であるということは自由であり、われわれ人間は決断によって自由を発揮しなければならないのだという。
國分はこれに異を唱える。それは決断した人間がどうなるかを考えればわかる。決断した人間はなすべき仕事を見つけそれに励もうとするだろう。強い決意を持ってそれに邁進することで周囲の状況から隔絶し、仕事の奴隷となってしまうだろう。これはおかしいのではないか。これが國分のハイデッガーの決断主義に対する批判である。
似たような議論は“本来性なき疎外”という概念にも表現されている。
「疎外」という語は、「そもそもの姿」「戻っていくべき姿」、要するに「本来の姿」というものをイメージさせる。(…略…)<本来的なもの>は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが<本来的なもの>と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。
だから疎外論自体の可能性を捨てることなく利用するには、“本来性なき疎外”という枠のなかで論じられなければならないのだとしている。
「小人閑居して不善をなす」などと言うが、これは一般的には「暇人はろくなことをしない」といった意味で使われる。それが退屈に耐えられないからなのかはわからないが、何にせよ短絡的な行動は事を仕損じることになりかねない。安易に本来的な目標などを設定することを決断し、それに向かって盲目的に突き進むような態度は自己喪失であり、周りにとっては危険な存在にもなりかねない。だからそこには慎重さが求められる。(*1)
決断主義に関しては、宇野常寛も『ゼロ年代の想像力』で論じている。こちらは退屈論でもなければハイデッガーについてでもないが、決断主義という用語が登場する。宇野はアニメやテレビドラマなどを中心にした膨大なサブ・カルチャーを扱いつつ、現代社会を生き抜く方法を見出そうとする。それによると90年代は『新世紀エヴァンゲリオン』的「ひきこもり」に、ゼロ年代は『バトル・ロワイヤル』的「決断主義」に分類される。
「大きな物語」が失われた時代には、「小さな物語」が乱立する。生き残るためにはその「小さな物語」のひとつに関与することを決断し、ほかの「小さな物語」との競争を勝ち残っていかなければならない。「ひきこもり」では生きていけないから、あえて決断するしかないという態度が支配的になるというのが宇野の見立てだ。
「大きな物語」の失調、それは“終わりなき日常”と言い換えることもできる。その意味で宇野の議論も退屈論に近づく部分があるのだろう。宇野は『ゼロ年代の想像力』で、決断主義を“必要悪”であり“焦りの思想”だとし、その克服をそれ以後の時代のテーマとしている。決断主義は極めて現代的な問題でもあるようだ。
決断主義を退けた『暇と退屈の倫理学』のさしあたりの結論は、やはり慎重にならざるを得ない。冒頭の問いに対する答えは驚くようなものではない。ごく平易に記せば、「退屈せずに熱中するには訓練が必要」ということだろうか。
ただ注意が必要だ。國分は結論について、こう注釈を加えている。この本の結論は、それに従えば退屈は何とかなるという類のものではない。その方向性へと向かう道を、読者が切り開くものだ。また結論だけ読んでも意味がなく、本書を読みつつ読者が変化していく過程にこそ意義があるのだと。
著者は「楽しむには訓練が必要」という結論のために、様々な概念を使って暇と退屈の諸相を描き出す。定住革命、暇と退屈の4類型、本来性なき疎外論、ハイデッガーの3つの退屈の形式、環世界論と環世界移動能力、それらを細かく整理検討して自分なりの退屈論への筋道を丁寧に描いている。結論よりも、ハイデッガーの人間と動物の理解をひっくり返し、動物になること(とりさらわれること、熱中すること)へと導くような論理展開をこそ楽しむべきだろう。
もともとこの本はどうしようもない退屈を抱えた國分の悩みから始まっている。「まえがき」と「あとがき」には、「俺」という1人称でそうした過去の姿が記されている。しかし私は「著者は退屈していないように見える」と記した。それは國分が訓練のなされた人間だからだと思う(國分は哲学専攻の大学准教授だそうな)。
ギリシャの古典を読むにはギリシャ語を知らなければならない。漢詩を読むには漢字を知らなければならない。國分は訓練を積んだ上で、引用される多くの文献の原書に当たって本書を記しており、またそれを楽しんでいるようだ。だからそのあいだは退屈しなかっただろうと思えるのだ。
國分の熱中する対象は、多くの本を狩猟して自分なりの哲学を完成させることだろう。國分にとっては哲学が対象だったが、ほかの可能性にも触れられている。例えば、“食”だ。國分によればスローフードとは“情報量の多い食事”となる。訓練によって食べ物も今よりもさらに深く味合うことができる。
学問や食だけでない。一番わかりやすいのは趣味の分野だろう。結論のなかでドゥルーズの言葉が引用されている。彼の熱中する(とりさらわれる)対象は映画や美術だった。彼はそんな対象に出会いとりさらわれるのを「待ち構えている」と語っていた。また映画監督・北野武も「趣味を楽しむには10年はかかる」と語っていた。やはり趣味を味わい尽くすにも訓練が必要なのだ。
となると序章にあった「好きなことがわからない」という元の位置に戻ってしまう人もいるのかも知れないのだが、やはりそのくらいは訓練して自分で見つけるしかないだろう。國分が戒めていたのも安易に答えを求める短絡さなのだから。
(*1) 國分は、大儀のために死ぬことを望む過激派とか狂信者たちを「恐ろしくもうらやましく思う」心情を指摘し、それは暇と退屈に悩まされているからだとしている。
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