『暇と退屈の倫理学』 退屈とどう向き合うべきか

 序章は「「好きなこと」は何か?」と題されている。
 人は社会を豊かにしようとしてきた。しかし、豊かさが実現すると人は不幸になる場合がある。豊かになれば暇ができる。暇ができると人は好きなことができる。しかし好きなことがわからない。だから不幸になる。
 暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか。『暇と退屈の倫理学』はそんな問いに答えるために書かれている。

暇と退屈の倫理学



 『暇と退屈の倫理学』は退屈を論じているが、その内容は退屈ではない。著者の國分功一郎自身、この本を書いているときは退屈しなかったんじゃないだろうか。著者が退屈していないのはなぜか? 結論に至ってその理由がわかるだろう。

 國分はラッセル、パスカルなど多くの退屈論を検討しつつも、それらに十分に納得させられることはない。最終的には國分が“退屈論の最高峰”と呼ぶハイデッガーの論に拠りながら、自身の退屈論を語っている。議論の筋道は明確で、哲学などに詳しくなくとも興味を持って読み進められるだろう。そのテーマが誰もが一度は心覚えのある感覚だからだ。

 ハイデッガーは退屈を詳細に検討し、退屈こそが人間が動物と違う根拠だとして、退屈に可能性を見出した。退屈であるということは自由であり、われわれ人間は決断によって自由を発揮しなければならないのだという。
 國分はこれに異を唱える。それは決断した人間がどうなるかを考えればわかる。決断した人間はなすべき仕事を見つけそれに励もうとするだろう。強い決意を持ってそれに邁進することで周囲の状況から隔絶し、仕事の奴隷となってしまうだろう。これはおかしいのではないか。これが國分のハイデッガーの決断主義に対する批判である。

 似たような議論は“本来性なき疎外”という概念にも表現されている。

 「疎外」という語は、「そもそもの姿」「戻っていくべき姿」、要するに「本来の姿」というものをイメージさせる。(…略…)<本来的なもの>は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが<本来的なもの>と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。


 だから疎外論自体の可能性を捨てることなく利用するには、“本来性なき疎外”という枠のなかで論じられなければならないのだとしている。
 「小人閑居して不善をなす」などと言うが、これは一般的には「暇人はろくなことをしない」といった意味で使われる。それが退屈に耐えられないからなのかはわからないが、何にせよ短絡的な行動は事を仕損じることになりかねない。安易に本来的な目標などを設定することを決断し、それに向かって盲目的に突き進むような態度は自己喪失であり、周りにとっては危険な存在にもなりかねない。だからそこには慎重さが求められる。(*1)

 決断主義に関しては、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』で論じている。こちらは退屈論でもなければハイデッガーについてでもないが、決断主義という用語が登場する。宇野はアニメやテレビドラマなどを中心にした膨大なサブ・カルチャーを扱いつつ、現代社会を生き抜く方法を見出そうとする。それによると90年代は『新世紀エヴァンゲリオン』的「ひきこもり」に、ゼロ年代は『バトル・ロワイヤル』的「決断主義」に分類される。
 「大きな物語」が失われた時代には、「小さな物語」が乱立する。生き残るためにはその「小さな物語」のひとつに関与することを決断し、ほかの「小さな物語」との競争を勝ち残っていかなければならない。「ひきこもり」では生きていけないから、あえて決断するしかないという態度が支配的になるというのが宇野の見立てだ。
 「大きな物語」の失調、それは“終わりなき日常”と言い換えることもできる。その意味で宇野の議論も退屈論に近づく部分があるのだろう。宇野は『ゼロ年代の想像力』で、決断主義を“必要悪”であり“焦りの思想”だとし、その克服をそれ以後の時代のテーマとしている。決断主義は極めて現代的な問題でもあるようだ。

 決断主義を退けた『暇と退屈の倫理学』のさしあたりの結論は、やはり慎重にならざるを得ない。冒頭の問いに対する答えは驚くようなものではない。ごく平易に記せば、「退屈せずに熱中するには訓練が必要」ということだろうか。
 ただ注意が必要だ。國分は結論について、こう注釈を加えている。この本の結論は、それに従えば退屈は何とかなるという類のものではない。その方向性へと向かう道を、読者が切り開くものだ。また結論だけ読んでも意味がなく、本書を読みつつ読者が変化していく過程にこそ意義があるのだと。

 著者は「楽しむには訓練が必要」という結論のために、様々な概念を使って暇と退屈の諸相を描き出す。定住革命、暇と退屈の4類型、本来性なき疎外論、ハイデッガーの3つの退屈の形式、環世界論と環世界移動能力、それらを細かく整理検討して自分なりの退屈論への筋道を丁寧に描いている。結論よりも、ハイデッガーの人間と動物の理解をひっくり返し、動物になること(とりさらわれること、熱中すること)へと導くような論理展開をこそ楽しむべきだろう。
 
 もともとこの本はどうしようもない退屈を抱えた國分の悩みから始まっている。「まえがき」と「あとがき」には、「俺」という1人称でそうした過去の姿が記されている。しかし私は「著者は退屈していないように見える」と記した。それは國分が訓練のなされた人間だからだと思う(國分は哲学専攻の大学准教授だそうな)。
 ギリシャの古典を読むにはギリシャ語を知らなければならない。漢詩を読むには漢字を知らなければならない。國分は訓練を積んだ上で、引用される多くの文献の原書に当たって本書を記しており、またそれを楽しんでいるようだ。だからそのあいだは退屈しなかっただろうと思えるのだ。
 國分の熱中する対象は、多くの本を狩猟して自分なりの哲学を完成させることだろう。國分にとっては哲学が対象だったが、ほかの可能性にも触れられている。例えば、“食”だ。國分によればスローフードとは“情報量の多い食事”となる。訓練によって食べ物も今よりもさらに深く味合うことができる。
 学問や食だけでない。一番わかりやすいのは趣味の分野だろう。結論のなかでドゥルーズの言葉が引用されている。彼の熱中する(とりさらわれる)対象は映画や美術だった。彼はそんな対象に出会いとりさらわれるのを「待ち構えている」と語っていた。また映画監督・北野武も「趣味を楽しむには10年はかかる」と語っていた。やはり趣味を味わい尽くすにも訓練が必要なのだ。
 となると序章にあった「好きなことがわからない」という元の位置に戻ってしまう人もいるのかも知れないのだが、やはりそのくらいは訓練して自分で見つけるしかないだろう。國分が戒めていたのも安易に答えを求める短絡さなのだから。

(*1) 國分は、大儀のために死ぬことを望む過激派とか狂信者たちを「恐ろしくもうらやましく思う」心情を指摘し、それは暇と退屈に悩まされているからだとしている。
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Date: 2012.12.30 Category: その他の本 Comments (0) Trackbacks (1)

映画『朱花の月』 と 小説『逢はなくもあやし』

 『朱花の月』は、先月DVDが発売された河瀬直美監督の映画。『逢はなくもあやし』は、その原案とされている坂東眞砂子の小説。
 原案というからには小説が先にあったのかと思いきや、小説のあとがきには映画がきっかけと記されている。共通点も多いが、物語も登場人物も別のものとなっている。奈良という土地を舞台にし、それをバックにして詠まれたいくつかの和歌からインスピレーションを得て、小説家あるいは映画監督としての想像力を働かせて作品を生み出している。

逢はなくもあやし (集英社文庫)


『逢はなくもあやし』
 旅に出たまま戻ってこなかった恋人・篤志を探しに奈良・橿原を訪れた香乃は、そこで彼の母親から篤志がすでに亡くなっていたことを告げられる。恋人の死を受け入れられない香乃は、未だ発掘作業が続いている藤原京の跡地で、亡き夫・天武天皇の復活を待ち続けた女帝・持統天皇の話を聞く。

燃ゆる日も取りて包みて
袋には入ると言はずや
逢はなくもあやし


 この歌は万葉集にある持統天皇の歌だ。一般的には「人の魂も、火のように袋に入れることができるだろうに、夫に逢えないのはどういうことだろう」という意味だと登場人物によって語られる。
 香乃は持統天皇の「待つ」姿に、恋人に「待ってろよ」と言われたまま逢えなくなってしまった自分の姿を重ね合わせる。愛した人が生き返るのを待ち続けた持統天皇を、香乃は「おとなしくて、ひたむきな女の人」とイメージするが、そのイメージは次第に変化し、それとともに香乃の気持ちも変わっていく。
 天武と持統は初めて夫婦で合葬された天皇だというが、その埋葬のされ方は異なる。天武天皇は風葬で、持統天皇は火葬なのだ。天武天皇には持統天皇という正室のほかに何人もの側室がいた。「夜のねやで、独り虚しく、夫の訪れを待つの胸の内」を思い知らせるために、持統天皇は自らの屍を火葬にして、魂は夫の側ではなく、煙と一緒に広い空に飛んでいくことを願ったのではないか。香乃は持統天皇の気持ちをそんなふうに想像する。
 恋人の「待っていろよ」という言葉の真意は、その後送られてきたバリ島の結婚衣装で明らかになるのだが、香乃はその衣装を燃やしてしまう。持統天皇を通して「待つ」ことを見つめ直し、死んだ篤志を「待つ」ことはできないと自らを納得させることができるようになったのだ。香乃は愛していた恋人とのけじめをつけ、前向きに新しい恋人との生活を始めるために奈良を離れる。

藤原京の跡地を行く拓未.jpg

朱花はねづの月』
 『朱花の月』では大和三山の現在の姿を背景にして、『逢はなくもあやし』でも引用されていた次の歌が示される。

香具山かぐやまは 畝傍うねびを惜しと 耳梨みみなしと 相争ひき 
 (香具山は畝傍山が愛おしい 奪われたくはない故に耳梨山と争うのだ)
神代より かくにあるらし 
 (神の時代からこうだったのだ)
いにしえも 然にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき
 (今の時代もふたりでひとりの女を奪い争うのだ)


 ここに歌われているのは奈良県・飛鳥地方にある大和三山(香具山、畝傍山、耳梨山)だが、作者の天智天皇がその弟(後の天武天皇)と額田王を争いあったことがなぞらえられている。(*1)藤原京を中心にして、その周りを囲むように互いに距離をとって位置している3つの山が、そこで生を営む人間の三角関係と重ね合わせられる。
 山が擬人化されるのは不思議な気がするが、古代にはごく一般的なものだったようだ。奈良・吉野川にある妹背山などは和歌にもよく詠まれてきた。歌舞伎あるいは人形浄瑠璃の妹背山婦女庭訓いもせやまおんなていきんが有名だが、川に隔てられたふたつの山(妹山と背山)が引き離された夫婦になぞらえられるのだ。
 『朱花の月』では、冒頭の歌のように三角関係が描かれる。『逢はなくもあやし』で中心となった「待つ」という主題も提示されるが、河瀬監督はその歌のイメージから別のテーマを読み取っているようだ。

 主人公・加夜子には長年一緒に暮らしてきた相手(哲也)がいるが、かつての同級生・拓未とも関係を持っている。(*2)ある日、加夜子に拓未との子供ができたことで、三人の関係も変わっていく。
 この映画では加夜子と拓未のふたりは、かつての縁が深かったゆえに、今生で結ばれたと描かれる。かつての縁とは、それぞれの祖父・祖母の話だ。その祖先の生き写しである現代のふたりが、祖先の時代には戦争などもあって結ばれなかった縁を再び手繰り寄せる。そして、その縁は冒頭の和歌にも歌われた古代にも重ね合わせられているのだ。
 最後には「待つ」ばかりで何の行動もしなかった拓未が、祖父の亡霊とともに広大な藤原京跡地を歩いてゆく。そして石棺からは古代人が蘇って陽の光を浴びようとしている……。
 冒頭の和歌が詠まれたのは万葉集の時代だ。そのころから既に古から女を争ってきたと歌われている。古代も戦時中も現代も関係なく、また主人公である加夜子と拓未のような個人としての存在だけでもなく、奈良という古都を舞台に今まで連綿と続いてきた人の営みそのものを思わせるのだ。
 
 ドキュメンタリー映画から出発した河瀬直美の方法論は、詳細な脚本は決めずに大まかなプロットだけを示し、あとは役者から出てくる自然な即興に委ねる。そうしたリアリティの追求は、日常的な場面において活きてくる。演じる役者も些細な日常にはすんなり入っていけるだろう。山の緑が印象的だった『萌の朱雀』は、素朴な生活を描いていて、観ていてとても心地よかった。しかし日常とは異なる“できごと”、ある種の事件を描こうとすると落差が大きい。事件を描こうとした途端にぎこちなくなり、観ている側すら恥ずかしい気になってくる作品もあった。
 しかし『朱花の月』では、役者の演出などはドキュメンタリー的な手法を維持しながらも、劇映画的な手法も施している。これはこの映画が日常的な場面のみに終始せず、古代人の復活などを描く必要性から来ているのだと思われる。引用される和歌はささやくようにボイスオーバーで繰り返され、弦楽器の音色が印象的な劇中音楽や、地の底から響くような死者のうめき声も作品の雰囲気を醸し出している。そうした手法のおかげか、『朱花の月』では日常以外の“できごと”にもあまり落差を感じずに観ることができた。
 山の端にかかる幻想的な月に象徴的だが、奈良の自然のなかで人がごく自然に生きていく姿は美しい。しかし、従順でおとなしい印象の加夜子ですら血のような朱色で染物をするように、人の過剰な何かが頭をもたげてくると妙なことになる。惚れた腫れたとかはともかく、自殺に走ったり、堕胎を試みてみたり、その試みを打ち明けて脅してみたりというすったもんだは、長久の自然に比べてあまりに哀れな人の姿とも思える。

(*1) 天武天皇は持統天皇以外にも多くのロマンスがあり、それが『逢はなくもあやし』では、主人公の香乃をして持統天皇の恨み節を想像させた。

(*2) 哲也を演じているのが明川哲也。かつてドリアン助川の名前でテレビでも見かけた。恋人・加夜子の気も知らずに、うさんくさい講釈を垂れ流す雰囲気がよく合っていた。


河瀬直美の作品
Date: 2012.12.23 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『砂漠でサーモン・フィッシング』 フェイスとフィッシングはよく似ている

 ラッセ・ハルストレム監督、ユアン・マクレガー主演作品。原作はイギリスではベスト・セラーになったという『イエメンで鮭釣りを』

左から大富豪シャイフと博士とハリエット

 伊坂幸太郎『砂漠』では「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」なんて言うが、これはレトリックに過ぎなかった。「その気になれば」何だって可能だということの誇張された表現だ。実際に砂漠に雪が降ったりはしない。しかし『砂漠でサーモン・フィッシング』においては、この題名はレトリックじゃない。本当に砂漠でサーモンを釣ってしまおうとするのだ。

 まず水産学者ジョーンズ博士(ユアン・マクレガー)にメールが届く。イエメンの大富豪の代理人ハリエット(エミリー・ブラント)からだった。大富豪が砂漠で鮭が釣りたいと考えている、ついては是非とも博士の協力を仰ぎたい。そんな内容だ。ジョーンズ博士は相手にしない。あまりに荒唐無稽な計画だからだ。
 そこに横槍が入る。イギリスとイエメンの悪化した政治状況を改善するために、首相広報官(クリスティン・スコット・トーマス)がその計画に目を付けたのだ。両国友好のイメージ戦略として、“砂漠でサーモン・フィッシング”は国家プロジェクトとなり、一度は断ったはずのジョーンズ博士は無理やり駆り出されるはめになる。

博士が描く青写真 イギリス流のユーモア?

 ジョーンズ博士は代理人ハリエットと会って計画の青写真を描いてみせる(上の写真)。「まずイギリスの鮭を1万匹ほど用意します。それを生きたままイエメンに輸送します。鮭には冷たい水が必要です。ダムを作りましょう。そして川を作って鮭を放流すれば鮭釣りができますよ。費用は5000万ポンド(60億円)くらいかな」と適当にその場限りのことを言う。もちろん全部ジョークのつもりだったのだ(ジョーンズ博士はジョークがヘタ!)。無理難題を突きつければ諦めるだろうというジョーンズ博士の目論見は外れ、計画は博士の適当な青写真通りに進んでいくのだ。
 やる気のなかったジョーンズ博士だが、そもそもの依頼人である大富豪シャイフと会うと、その人柄に惹かれていく。シャイフも博士と同様に釣り好きなのだが、“砂漠でサーモン・フィッシング”に興じることだけが目的ではなかったのだ。荒涼とした砂漠に水を引き、緑を育て、農業を興す。子々孫々まで受け継がれる遺産を生み出すのが、シャイフの真の目的だった。そしてシャイフにはそれを現実化するための力(=金)があるのだ。シャイフは単なる大富豪ではなく、人を惹きつける魅力を兼ね備えた人物なのだ。

 シャイフは敬虔なイスラム教徒だが、教会にも行かないジョーンズ博士に対し、こんなふうに諭す。
 「なぜ釣りをするのか? それは成果の問題ではない。1匹の鮭を釣り上げるのに、何時間も粘って待つことができるのは、必ず釣れると信じているからだ。信心(faith)と釣り(fishing)はよく似ている。」
 シャイフの存在が、この映画の魅力と言ってもいいだろう(演じたアマール・ワケドはなかなかの男前)。ジョーンズ博士は自分の示した青写真を「理論的には可能であるが夢みたいなもの」だと考えた。シャイフはそれを「理論的な可能であれば必ず実行できる」と信じるのだ。シャイフは夢想家だけれど、壮大な計画を現実化する力に加え、それを強力に推進する精神を有している。理想の姿を思い描くことができれば、それを必ず叶えることができるという信心があるから、どんなに夢みたいな話だとしても待ち続けることができるし、それに向かって行動することもできるのだ。

 ハルストレム監督も「ジャンルをクロスオーバーする映画」だと指摘するように、『砂漠でサーモン・フィッシング』には様々な要素が詰め込まれている。“砂漠でサーモン・フィッシング”計画だけでなく、政治を皮肉ってみたり、シャイフを狙うテロが起きたり、ジョーンズ博士と代理人ハリエットのロマンスまで盛り込んだものだから、全体的には中途半端な印象になってしまったようだ。途中から焦点が計画そのものからロマンスのほうへと移行していくのだが、ロマンスの部分はシャイフが体現する思想ほど魅力的なものではないのだ。
 鮭が川を遡るのはDNAに刻み込まれた習性だったことが最後に判明するが、ジョーンズ博士が通勤途中に人の波を逆流してハリエットのもとに向かうのは、社会に反する言わば不自然なものだ。その行動はシャイフの言葉に促されてのものであり、ここでの不自然さとは理想を追い求めることだ。自分の思い描く理想の姿を実現するために、人の波を掻き分けても逆流しようとするのだ。
 だがシャイフの理想像には肯くことができても、ジョーンズ博士とハリエットにとって互いの関係が理想の姿となるのは、今ひとつ腑に落ちない。ジョーンズ博士は既婚者でハリエットとは不倫になるわけだし、ハリエットにも軍人の彼氏がいるからだ。ジョーンズ博士の妻はいささか冷たくはあるけれど、即座に三行半を突きつけるほどではないし、ハリエットの彼氏は彼女を思って戦場から生還したなんて言うほどなのに、それぞれの相手を振り切ってまで、不自然に理想の関係を求めるのには説得力が足りないように感じられてしまうのだ。
 『やかまし村の子どもたち』『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』のような“ほのぼの”した作品や、『ギルバート・グレイプ』『サイダーハウス・ルール』『ショコラ』みたいな人間ドラマでは、手堅い仕事をしていたハルストレム監督。今回はジャンルを横断する内容に加え、イギリス流のシニカルなコメディの部分もあり、ちょっとチャレンジングな作品だったのかもしれない。

ラッセ・ハルストレムの作品
Date: 2012.12.16 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

ペドロ・アルモドバル 『私が、生きる肌』 願いの奇妙な叶え方

 ペドロ・アルモドバル監督が、久しぶりにアントニオ・バンデラスと組んだ最新作。

『私が、生きる肌』 主人公ロベルとボディスーツを着た“ある人物”

 ギリシャ神話におけるオルペウスとエウリュディケーの話や、古事記におけるイザナギとイザナミの話にもあるように、「かつて愛した人を取り戻したい」という願いは、いにしえから今に至るまで続く切なるものである。『エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウは妻ユイを人類補完計画の名のもとに取り戻そうと企てたし、『クエーサーと13番目の柱』のニナイも「引き寄せの法則」で妄想的ながらも母親を蘇らせようとした。その誰もが願いを叶えられはしなかったが、『私が、生きる肌』の主人公は、その願いを科学的知識や医療技術によって現実化することに成功する。

 これらの願いが常に男性が主体となって、失った女性を蘇らせようとしているのがおもしろい。「白馬の王子様」みたいな“欲望のあいまいな対象”を求めることはあっても、具体的なひとりの男性に執着する女性は少ないのだろうか。ストーカー事件で加害者が女性というのは滅多に聞かない気がする。
 こんな性別による差異は、現実にも当然あるのだろうが、アルモドバル映画ではより一層重要な役割を果たしてきた。男性は女性を苦しめるはた迷惑な存在として登場する。何かしらの騒動の発端には必ず男がいて、女は虐げられ苦しみつつもどうにか生き抜き、最後にはアルモドバルによって女性たちは賛美されることになる。そんなアルモドバル作品のなかでは、『私が、生きる肌』はちょっと毛色が違う作品なのかもしれない。

 ギリシャ神話でも古事記でも、「愛した人を取り戻したい」がために男は冥府にまで赴き、死者となった女を連れ帰ろうとするが、さすがにその方法は現実的ではない。かといって碇ゲンドウとかニナイの方法がまっとうかと言えばそうでもないわけで、『私が、生きる肌』のマッド・サイエンティストたる主人公ロベルは、“ある人物”を亡くなった妻に改造することを画策する。最先端の技術が生んだ人工皮膚によって、別人の姿形を亡くなった妻とそっくりに加工するのだ。(*1)
 これだけでも十分に1本の映画になるプロットだが、ほかにも不倫、交通事故、自殺、強姦、誘拐、殺人などなど波瀾万丈な物語が続いてゆく。さらにこの映画は、“波瀾万丈”という形容も色褪せるほど、予想もつかない展開をしていく。吃驚仰天させることが素晴らしい映画というわけでもないわけだし、この作品もアルモドバルの最上級の作品でもないだろうが、唖然とさせる展開は楽しませてくれるだろう(“ある人物”に関わる秘密を明かしてしまうと、おもしろさも半減しそうな気がするのでここでは控えておく)。

 精神科医の香山リカは、アルモドバル監督が「人間の「自我」が脳の機能のひとつだということにずっと疑いを抱いている」として、「皮膚-自我」という概念でこの映画を解説する。自分が自分であることの根拠が皮膚(=外見)にあるということだ。だから美容整形などで皮膚という外見を幾分か操作することで、自我をも作り変えることが出来るのだという。(*2)
 そんなこともあるのかもしれないが、この映画では外見は完全に変わったにも関わらず、失われないものがあるとして描かれている。そんな変わらないもののひとつが『オール・アバウト・マイ・マザー』『ボルベール〈帰郷〉』にも描かれた母と子の関係性なのだ。
 この映画には二組の母と子の物語がある。一組は主人公ロベルと、諸事情により使用人として息子を育てるほかなかった母親の物語である。もう一組(作り変えられた“ある人物”とその母親)に関しては、ラストにその物語がこれから始まるであろうという余韻を残して終わる。

 香山リカが指摘しているのは作り変えられた側の問題だが、一方で、作り変えた側(ロベル)はどうなのか? 外見がまったく同じならば、亡くなった妻と同様に別の人物を愛せるのか、こちらのほうが興味深いテーマにも思える。この映画で言えば、それは肯定されているようだ。つまり見た目さえよければ、内面なんてどうだっていいというわけだ。ロベルは作中で盆栽に精を出すシーンがあるが、そんな盆栽同様に手塩にかけて育てた娘みたいな存在だったから愛おしいのかもしれないが……。それでもこの父と子みたいな関係は、アルモドバル映画のなかでは母と子の関係には及ばない。だから最後には父と子の関係は退けられ、母と子の関係が賛美されることになるだろう。

(*1) 人工皮膚を体に定着させるためという名目のボディスーツは、丸裸みたいだけれどセクシーというよりは滑稽な印象だからか、えげつない話も過度に陰惨にならずに済んでいる。

(*2) キネマ旬報2012年7月上旬号より。ディディエ・アンジューという精神分析医の記した『皮膚・自我』という本の指摘を元にしている。


アルモドバルの作品


Date: 2012.12.10 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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