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阿部和重 『クエーサーと13番目の柱』 「引き寄せの法則」と“可能世界”

 物語はハリウッドのスパイ映画のように展開する。何かを監視しているモニタリング眼鏡と丸刈りのふたり組。男たちの注視する先に闖入者が現れる。野球帽のふたり組だ。野球帽たちは、眼鏡たちが監視のターゲットとしている人物の部屋に忍び込むのだ。それを発見した眼鏡たちは、野球帽たちを排除するために行動を開始する。

『クエーサーと13番目の柱』 ニューロマンサーを思わせる装丁

 導入はスパイ物だが、『クエーサーと13番目の柱』では国家的な陰謀など登場せず、眼鏡の男(タカツキ)たちの対象はアイドルの女の子だ。安っぽいアイドルを追いかけるパパラッチ的存在と、それを出し抜こうとする見えない敵との戦いが繰り広げられる。
 そこには阿部和重的な誇大妄想満載の登場人物が関わっている。タイトルの“クエーサー(準恒星状天体)”とは、限りなく遠くにあっても強く輝いている天体のこと。モニタリング作戦の首謀者(タカツキの雇い主)曰く、「天体観測者の愛」というのが、アイドルとファンとの関係なんだとか。あまりに遠すぎて絶対に近づけないけれども、その輝きだけは見ることが出来る。だから監視はするけれども、それ以上近づこうとはしない。

 タカツキはそんな雇われ仕事のなかで、別の誇大妄想者のニナイケントに出会う。ニナイの妄想は「引き寄せの法則」という言葉で示される。これはいわゆる成功哲学で、思考は必ず実現するという考えだ。(*1)ニナイは、その法則に従って正しく思考することさえできれば、どんな願望も自らに引き寄せることができると考える。
 ニナイの願望とは母親を蘇らせることである。これだけでも普通とは言えないが、その方法がまた変わっている。ニナイの母親がダイアナ元皇太子妃と同じ時期に同じ状況で亡くなったことから、そのときの事故を再現し、彼が新たなダイアナとするアイドル(エクストラ・ディメンションズのミカ)を助けることによって母が蘇るというのだ。完全に狂気である。

 ニナイが担う「引き寄せの法則」について、作者の阿部和重はこんなふうに語る。

「引き寄せの法則は投資などをする人が読むようなありふれた成功哲学です。そのスピリチュアルな面を虚構的に俗っぽく強調することで、何か違った意味を持たせられたらと意図しました。世間で紋切型として扱われている言葉や概念を更新することは、文学のひとつの役割だと思っています」(*2)

 この作品では「引き寄せの法則」は、“可能世界”や“輪廻”などの考え方と結び合って、それまでの意味合いとは違ったものとして生まれ変わる。
 この作品の冒頭は1997年8月31日日曜日から始まる。これはダイアナ元皇太子妃が事故死した日だ。作者は事実とされることだけを連ね、その事故の詳細をごく客観的に報告している。また、モニタリング作戦中の2009年12月17日木曜日には、伊豆で震度5の地震が起きたことが触れられる。これも事実だ。つまりわれわれの生きている現実を舞台にした話なのだ。(*3)
 しかし一方で、この物語のなかには“可能世界”や“輪廻”を思わせるガジェットに溢れている。“可能世界”論とは、今ある形の現実世界は、あまたあるほかの形の世界のうちのひとつでしかなく、たまたま偶然に(あるいは神様のご意志により)こんな形になっているとする考え方だ。“輪廻”も「今の生が唯一の生ではない」という意味で、“可能世界”論と重なる部分も多いだろう。
 作中、Beyonce「Deja Vu」やRadiohead「Airbag」などの曲が引用される。デジャヴとは、輪廻転生における過去生の記憶の蘇りという説もある。また、「Airbag」でも直接的に輪廻が表現されているし、「ドイツ車に乗っていて、エアバッグで生き残った」と要約される歌詞の内容は、ダイアナを襲った現実とは別の“可能世界”を感じさせる。
 さらに言えば、スピリチュアルな曲という印象はあるが、引用の意図が明瞭でないEarth Wind & Fire「Fantasy」では、“12番目(twelfth)”という言葉が記されている。(*4)タイトルにもある“13番目の柱”とは、ダイアナを乗せたベンツ280Sが激突したのが、アルマ・トンネル内の13番目の柱だったからだ。これは史実であるかもしれないが、13番目の柱に激突したことに特別な意味はないはずだ。
 あえて13番目という言葉を意味ありげに示しておいて、その傍に12番目という言葉が隠されているのだ。現実世界では13番目だったけれども、“可能世界”においては12番目ということも当然あり得る。もしかしたら柱に激突しない世界もあるかもしれない。どんな世界も可能性はある。そんなことを感じさせるのだ。
 もちろんこれは私の妄想だが、ニナイの計画がタカツキに「ご都合主義の妄想」と指摘されるように、この小説はそんな都合のいい解釈も可能なようにも、、書かれていると思う。

 物語の最後で起きる出来事は、ニナイの夢の実現ではない。願望を引き寄せてしまうのはタカツキだ。それはタカツキが抱える後悔の念から生じているのかもしれない。事故で後輩の妻子を奪ってしまった過去があるのだ。後悔という強烈な感情が、思考を現実化するのだろうか。
 眼鏡の男として登場したタカツキは、いつの間にか眼鏡を必要としなくなる。さらに見失ったターゲットの行き先を勘で言い当ててしまう。ニナイから「引き寄せの法則」を聞かされたことが影響してか、知らぬ間に願ったことを引き寄せてしまっているのだ。そして、落雷により純白に染めあげられた世界が、瞬時に新たな世界のイメージとして再生されるのを知って、タカツキは覚醒する。「おれにはすべてのイメージが鮮明に見えている」と語るように、様々な“可能世界”のなかから唯一の正しい世界を選択し、新たなダイアナ(ミカ)を助け出すのだ。救出のエピソードは『マトリックス』のラストみたいな爽快感だ。

(*1) ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』という本が、「引き寄せの法則」の代表的なものとされているようだ。自己啓発的な内容らしい。

(*2) この認識は、フローベール『紋切型辞典』などにある問題意識を引き継いだものだ。

(*3) ここでわざわざ地震のエピソードが記されるのは、その後に起きるはずの3.11を意識してのことだと思われる。もし狂った地震学者なんかが登場して、震災に対する警鐘を鳴らしていたならば……。

(*4) “12番目”という言葉はこんなふうに使われている。
  Our voices will ring together 僕らの声はひとつになって鳴り響く
  until the twelfth of never 永久に、いつまでも…
  We all will live love forever as one 僕らはみんな愛の世界に生きることになる 永遠に…
 「the twelfth of never」で、「永遠に」という意味になる。




阿部和重の作品
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Date: 2012.11.30 Category: 小説 Comments (4) Trackbacks (0)

ミシェル・アザナヴィシウス監督 『アーティスト』 サイレントからトーキーへ

 第84回アカデミー作品賞監督賞主演男優賞など5部門の受賞作品。
 ちなみに芸達者な犬のアギーは、カンヌ映画祭でパルムドック、、、賞を受賞。

アカデミー作品賞受賞 『アーティスト』

 サイレント(しかもモノクロでスタンダードサイズの画面という当時の映画そのものを再現)という取っ付きにくさが災いしてか、アカデミー作品賞という付加価値にも関わらずヒットにはほど遠いようだ。近くのTSUTAYAでは新作として棚の多くを占領していたが、ほとんどが借りられることなく並んでいた。

 サイレントでは人の声(台詞)で物事を説明することができない。重要な言葉や状況設定などは字幕画面を挟み込むことで補うことが可能だが、これは必要最低限なものに限られる。だから『アーティスト』の筋は単純だ。
 サイレントのスターだったジョージは時流に乗れず落ちぶれていき、一方の新人女優ペピーはトーキーの波に乗ってたちまちスター街道を行く。ペピーは一度ジョージに世話になり、少なからず恋心も抱いているから彼を助けたいが、果たしてどうなるか。これだけのお話だ。
 役者たちは笑う箇所では絵に描いたような笑顔を見せるし、怒るとすれば手を振り上げて怒りを表す。とにかく記号的とも言えるほどわかりやすく、複雑さはない。一度観ただけでは煙に巻かれるばかりという映画が多い昨今、こんな単純でわかりやすい映画があってもいい。『アーティスト』には過去の名作映画へのオマージュもあるらしいが、残念ながら私にはまったくわからなかった。そんなことは知らなくても十分に楽しめる映画だ。サイレントというだけで敬遠してしまうのはもったいない気がする。

 サイレント映画(無声映画)というのは台詞がないだけではなく、音そのものがない映画だという当たり前のことに『アーティスト』は気づかせてくれる。サイレント映画を観たことがないわけではなかったが、それらは後に製作されたサウンド版であり伴奏音楽も収録されたものだ。かつてのサイレント映画は映像だけしかなく、音楽は劇場でオーケストラが生演奏していたのだ(『アーティスト』はサイレントのサウンド版の体裁をとっている)。
 音がないということは、映画のなかの世界の様々な音が聞こえないということだ。例えば、風が大気を切り裂く音、木々のざわめき、人の息づかいなど、そんな自然な音が存在しない光と影だけの世界なのだ。『アーティスト』は全編がサイレントではなく、映画のなかで突如音が聞こえ出す場面がある。この映画はサイレントからトーキーへの、時代の移り変わりを描いているのだ。
 サイレント映画のスターだったジョージは、トーキーという新技術を受け入れることができない。「トーキーに未来はない」などと見得を切ったあと、グラスを置く音が突如響く。それまで伴奏音楽しかなかった世界が一変する。いつの間にかサイレントからトーキーへと移行しているのだ。ジョージはその世界の変化に驚く。犬は吠え声をあげ、電話のベルが鳴り出し、撮影所の女たちの笑い声も続くのだが、ジョージだけは声を出すことができない。これは世のなかの流れに乗ることのできなかった男の悪夢なのだが、サイレントとトーキーの違いを示してもいるし、その移行期の驚きや戸惑いも感じさせる。
 映画には様々な技術革新があった。モノクロからカラーへ、スタンダードサイズからビスタ・シネスコへ、2Dから3D映画へ。それらのどれと比べても、サイレントからトーキーへの移行はもっとも画期的なものだったのだろう。映画の構成も根本的に変わらざるを得ないし、演じる役者としてはパントマイム演技から演劇のように台詞を読み上げる必要性が出てくる。
 「僕のファンは声など求めないさ」とトーキー進出を渋っていたジョージだが、ラストで復活を果たす秘策はミュージカルだ。当時を知っている人には当たり前なのだろうが、ミュージカル映画はトーキー時代の新たな戦略として生まれてきたのだ。そしてジョージとペピーが踊るのはタップダンスだ。突如グラスが机を叩く音が響いたときのように、ふたりの靴が床板を軽快に打ち鳴らす。トーキーは声を聞かせるだけではないのだ。ジョージはトーキーでも生きる術を見つけるというわかりやすいハッピーエンディングだ。
 サイレント映画として始まった映画が、最後になってトーキーのミュージカル映画となり、役者たちの声をちょっとだけ聞かせてくれるのも嬉しい。

『アーティスト』DVD
Date: 2012.11.27 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

総監督/庵野秀明 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 EVANGELION: 3.0 YOU CAN (NOT) REDO.

 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』に続く最新作。
 以下、ネタバレも含みます。

新劇場版 第3弾

 アスカたちの活躍で助け出されたシンジは、今まで見知っていた世界とは何かが変わっていることに気がつく。ミサトは大佐に昇進したようだし、リツコの金髪はベリーショートになっている。前作『破』において綾波レイを助けるために大活躍したシンジだが、それを迎えるミサトたちの態度は冷たくてよそよそしい。腫れ物に触るような調子なのだ。そして、ミサトたちは“ヴィレ”と名乗り、かつての仲間だったネルフと敵対関係にあるというのだ。
 あまりに変わり様に「パラレルワールドなのか」と疑ったが、実は14年の時が経過していたというのが見知らぬ世界の真相だ。それでもエヴァに乗るパイロットたちは“エヴァの呪縛”で年を取らず、アスカもマリも未だ外見は子供のまま。一方、シンジは14年間眠っていたため内面的にも進歩がなく、実年齢28歳のアスカからは「バカシンジ」ではなく「ガキシンジ」という新たな名前を頂戴する。

 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の“パラレルワールド説”は、ネット上のあちこちで噂されているようだ。前作『破』でのカヲルの台詞今度こそ、、、、君を幸せにしてみせる」などから、過去に何度も同じことを繰り返してきたとも推測されるからだ。TVシリーズと旧劇場版が1回目の体験だとすれば、新劇場版で描かれることは2回目の体験ということになるからだろう。
 とはいえ、“パラレルワールド説”は、エヴァの世界観の変容を受け入れることのできなかったファンが、次回作でもとの世界に戻ることを願っての妄想とも思われる。『Q』の世界は、それほどの新世界になっているのだ。
 『破』では、「世界なんてどうなったっていい。せめて綾波だけは絶対助ける」と前向きに自分の意志で行動したシンジだったが、その結果、世界を本当に破滅に導くことになってしまった。『Q』のサードインパクト後の世界は、セカンドインパクト後にもかろうじて残っていた生活の影すらなくなった荒涼とした世界が広がっている。ネルフ本部はまだ形を残してはいるが、地上の世界は具象的な物の存在しない抽象的な世界にすら感じられる。
 ミサトは『破』では「行きなさい、シンジくん。誰かのためじゃない、あなた自身の願いのために」とシンジを後押ししていたはずだが、『Q』では「あなたはもう何もしなくていい」と冷たく突き放すのだ。シンジにとって、エヴァに乗ることが大人からの承認獲得の手段となってきたのに……。シンジの戸惑いもむべなるかな。
 これからどう展開していくのかわからないが、とりあえず判断は次回作に持ち越したいというのが正直なところだ。

 新劇場版ではTVシリーズから様々なものが排除されている。時間的な制約もあるからだろうが、TVシリーズの第25話・第26話に顕著な、内省的な独白は新劇場版にはほとんどない。それよりも“人類補完計画”に焦点を合わせているように感じられる。
 そもそも“人類補完計画”とは何だったのか
 ゼーレの考える補完計画とゲンドウの考える補完計画の違いは、旧劇場版でもはっきりしなかった。ゲンドウの計画は亡くなった妻ユイに逢いたいという願いに尽きる。ゼーレの計画は、“ATフィールド”という心の壁を取り払って、すべての人間がL.C.L.という液体のなかに溶け合ってひとつになってしまうことだろうか? だとすれば旧劇場版での補完計画はゼーレの望むものだったのか?
 旧劇場版で展開された補完計画がゼーレの願うものだとすれば、ひとつの存在に溶け合ったまま終わればよかったはずだ。しかし、そうはならなかった。「ひとつの存在になることをよしとするか」または「もとの個別の存在をよしとするか」は、なぜかシンジに委ねられる。シンジは後者を選ぶ。「みんなに逢いたい」からだ。ひとつの存在ならば、それは存在そのものであり完全なものなのだが、個々の存在のときに逢いたいと思っていた人に逢うことは叶わないからだ。結局、シンジはアスカに「気持ち悪い」と拒絶されることにもなるわけだけれど……。
 旧劇場版でのシンジの決断は、“人類補完計画”自体を破棄するものだったようにも思える。(*1)1997年公開の旧劇場版でのこうした結論は、「妄想を捨てて現実に戻るべき。アニメなど見ずに現実の他者と向き合え」という庵野監督の説教として受けとめられている。あれから(現実においても)既に14年以上が経過した。また同じ結論を繰り返すとは思えない。次回作「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」において新たにどんな“人類補完計画”を見せてくれるのだろうか。
次回作の表記はこんな感じ
(*1) もちろんひとつの存在になるという体験をしたことに意義はあるだろう。例えば仏教で言う“悟り”でも、その体験に留まることはできない。神秘主義的な体験もそれが続くのはごくわずかな時間とされている。必ず現実的な世界に戻ってくることになるのだ。それでも“悟り”や神秘主義的体験を一度味わったあとは、もとの世界はまったく違った色合いとしてその人間に映ることだろう。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q EVANGELION:3.33 YOU CAN (NOT) REDO.(初回限定版)(オリジナル・サウンドトラック付き) [Blu-ray]


Date: 2012.11.23 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

ミヒャエル・ハネケ 『白いリボン』 ハネケ映画の“不快さ”とは?

 2009年のカンヌ映画祭パルムドール受賞。

『白いリボン』 マルティンと“純心”の象徴である白いリボン

 『ファニーゲーム』の悪い噂は聞いていた。よせばいいのに怖いもの見たさでDVDを鑑賞したのだが、噂に違わぬ不快さで、せっかくの休日もどんよりとした気分で過ごす破目になった。鑑賞後、その映画の監督が『ピアニスト』のミヒャエル・ハネケだったことを知り、勝手に納得した。観たことを後悔してしまうほどの後味の悪さがハネケという監督の味なんだと。
 「この後味の悪さは何だろうか」と疑問符を抱きはしても、わざわざ不快さを追体験するほどの物好きでもないから疑問もそのままになっている。カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した、この『白いリボン』も気にはなっていても後回しに……。

『白いリボン』 村の風景と少女たち

 舞台はドイツの片田舎。かつて村の教師をしていた老人の回想から映画は始まる。
「これから話すことが真実か、あまり自信はない。噂で聞いた部分もある。…(略)…それでもあの出来事こそがおそらく当時の我が国そのものなのだ。」
 まず始まりには医者の落馬事故が生じる。これは何者かの策略で、見えないように針金が張られていたため、医者は折れた鎖骨が首に刺さるほどの重症を負う。その犯人が判明する間もなく別の悲劇が起きる。小作人の妻が作業中に事故死するのだ。村のなかには不穏な雰囲気が広がっていく。
 この映画には教師という語り部もいるが、村の社会そのものが主人公みたいなものだ。登場人物は多い。村人半分の雇用者である大地主の男爵家、家令(男爵家の使用人)の家族、牧師家族、医者家族とその愛人、小作人家族など。村人たちは互いのことをよく知っていて、噂などはすぐに広がる。そんな誰もが互いを見知っている小さな村が舞台となっている。
 「顔が見える範囲の世界を描いた作品には名作が多い」みたいなことを誰かが記していた。これはガルシア=マルケス『百年の孤独』とか大江健三郎『懐かしい年への手紙』みたいな作品を念頭に置いていたと思うが、「顔が見える範囲の世界」を描いた作品は、個人と社会の関係が一番わかりやすい形で見えるという意味だろう。
 引きこもりが題材では社会は描けないし、対象を国家などに広げすぎれば茫洋として取り留めのないものとなるだろう(国家政策なんて村人には降って湧いた押し付けにしか感じられない)。顔が見える範囲の話だから、村のなかで起った不穏な出来事が村人に不穏な空気を醸成していき、新たな事件を引き起こしていく。そんな雰囲気がとてもよく出ている。

 この映画では事件が解決することはない。そして次第に暴力はエスカレートしていく。そんな村の雰囲気を一掃するように、突然、戦争への足音を知らせる事件(オーストリア大公暗殺)が村に伝えられる。村の不穏な雰囲気とドイツという国家の戦争は別なはずだが、映画冒頭で「あの出来事こそがおそらく当時の我が国そのもの」と語られるように、そうした村の雰囲気が後の歴史を生んでいるようにも見える。
 プロテスタントの窮屈な雰囲気が、その後ナチスを生むような何かを育んだ。そう読むこともできるが、ハネケ自身はこの映画をそんなふうに限定しないほうがいいと注意を促しているようだ。

「ある思想がイデオロギーへと変異するときはいつも、そのイデオロギーは生活がうまくいっていない人々によって支持されます。これは、テロリズムに関するすべての形式の基本モデルです。」 (*1)


 窮屈だからといってテロリズムが正当化されることもないが、牧師の子供たちの態度は示唆に富む。
 医者が狙われたのは、彼が近親相姦も厭わぬ畜生だからだ。つまり対象の選別が行われている。牧師の長男マルティンはその後、神様を試すような行為(橋の欄干での綱渡り)をする。自分の行為が神様の意思に沿っているのかを試すのだ。こんなマルティンの考えは、神様に罰されなければ“何でもあり”になる。だからそれだけでも充分に恐ろしいのだが、長女クララが小鳥に手をかけるのは、無理解な父に対する単なる八つ当たりであり、むしろこちらのほうが恐ろしいかもしれない。
 村の不穏な空気はテロリズムに留まらず、様々な鬱屈をも吐き出させるきっかけになってしまう。そうでなければ医者の愛人の障害児までが犠牲になるはずがないのだ。
 テロですらない、何の主義主張もない不気味な暴力まで描いている点で、ドイツの歴史だけではない普遍的なものを感じさせる『白いリボン』はやはり怖い映画だ。けれども過去作に比べれば不快な部分は医者のパーソナリティくらいなもので、モノクロで表現される村の風景(収穫作業や無人の雪景色など)は美しく、カンヌ映画祭での受賞も納得の作品だ。
 
 この文章の冒頭で、ハネケ映画の“不快さ”について記した。『白いリボン』を観て、その“不快さ”が少しわかった気がした。
 『白いリボン』のなかで、牧師が長男マルティンを説教する場面がある。

「神様が聖なる覆いで守っている繊細な神経に害をなす者に出会った。少年は彼の真似をし、止められなくなった。」


 牧師はマルティンの非行の原因をこう説明する(この説教自体は親の無理解を子供に押し付けているだけとしか思えない)。ハネケはさしずめこの“害をなす者”なのだろう。“聖なる覆い”で守られているものを露にしようとするからだ。そしてむきだしの真実は人を不快にさせるのだ。
 『シェルタリング・スカイ』という作品(*2)もあったが、キリスト教の感覚では、神様がわれわれの世界を庇護しているシェルタリングと受けとめられているようだ。その覆いを外すことは、黙示(アポカリプス)と呼ばれる。覆いを外すことで、隠されていた真実が明らかにされるのだ。
 もちろんハネケ映画の“不快さ”の意図は、観客に害をなすのではなくて、観客に真実を明らかにすることだろう。『白いリボン』ではドイツの歴史を描いている側面もあるからか、その覆いは完全に外されたとは言えない。
 教師は真実を明らかにしようと、牧師に対して子供たちに対する疑念を告白する。しかし、牧師はそれを「不快な話」だとして闇に葬ってしまう。牧師によって再び覆いは閉じられてしまい、真実が明らかになることはないのだ。
 当然なのだが、ハネケは“不快さ”ばかりの人ではないようだ。『愛、アムール』(来年、3月公開予定)でも再びカンヌのパルムドールを獲得したらしいし、やはり無視できない存在なのかもしれない。

(*1) http://planeta-cinema.at.webry.info/201004/article_2.html
 上記ブログから引用させていただきました。

(*2) 『シェルタリング・スカイ』はポール・ボウルズの原作で、ベルナルド・ベルトルッチ監督によって映画化されている。「庇護する空」のイメージに関しては、原作のほうがわかりやすい。


ミヒャエル・ハネケの作品
Date: 2012.11.11 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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