園子温 『希望の国』 “希望”と“絶望”の関係
『ヒミズ』でも東日本大震災の被災地での撮影を敢行した、園子温の最新作。

『希望の国』は原発事故を題材としている。そこにはかなりデリケートな問題が含まれているようだ。最近はヒット作を連発している園子温の映画ですら、制作費が日本だけでは賄えないほどなのだ。
園監督は被災地に入り綿密な取材を行っているが、それでも一部の人からの非難は避けられないだろう。この映画はフィクションだが、題材が題材だけに、それを現実と照らし合わせて考えざるを得ないからだ。現実の側から映画という虚構を批判するのだ。
これは当然の反応でもあるだろう。この問題は、この国に住む人ならば、少なからず自分の問題として受け止めざるを得ないからだ。そして被災者からすれば、自分の体験した現実と違うと思うかもしれないし、想い出したくない部分もあって不愉快に感じるかもしれない。
当然のことながら、この映画の意図は被災者を不快にさせるためにあるのではない(もちろん映画の感想を記す私も同じだ)。この映画は、原発事故という未曾有の事態を忘れないよう記録するためなのだ。
『希望の国』は原発事故の被災者となった3組の男女の姿を描く。避難区域の境界線に位置する小野家の老夫婦(泰彦と智恵子)と、その息子夫婦(洋一といずみ)、さらに隣家の若いカップル(ミツルとヨーコ)だ。老夫婦は妻智恵子がアルツハイマーを患っていることから、故郷を去ることを拒否する。洋一といずみは未来を見据え、渋々ながらも故郷の家から避難する。ミツルとヨーコは津波で行方が知れないヨーコの親を探し回ることになる。
物語のなかには原発批判や政府批判もあるし、放射能を浴びた被災者への差別も描かれるのだが、この映画はそれらのプロパガンダではない。
例えば、最初は放射能を浴びたとして差別されることに苛立ついずみだが、子供ができたことを知ると今度は極端な放射能恐怖症になり自ら防護服を着るようになる。また、情報公開しない政府を糾弾する言葉もあるが、ラストの洋一の行動は生きていくために情報を遮断するという決断なのだ(逃げる場所もない現状においては、放射能に過剰に敏感だと生きていけない)。『希望の国』という映画は、“脱原発”だとかの特定のメッセージを声高に叫ぶものでない。被災地で生きている人たちの現実の姿を描くものなのだ。(*1)
監督がどういう思想・信条を持っているかは別にして、監督自身が実際に被災地で見聞きした情報を物語として提示しているのだ。園監督は問題に対する答えを示したり偏った立場を主張せず、ただ題材を提示して観る人に問いかけている。
『希望の国』に見出せるのは、天上から燦燦と差し込む明るい光のようなものではない。老夫婦には悲劇が訪れる。(*2)若夫婦もお腹の子供も放射能から逃げる場所はない。ヨーコの親はいつまでも見付かることがない。ほとんど絶望的な状況だ。ではなぜ、この映画が『希望の国』と名付けられているのか。
村上龍は『希望の国』に上記の言葉を贈っている。(*3)
不躾かもしれないが極端な言い方をすれば、まったく酷いことに何もかもなくなってしまったから希望しか残っていない。堕ちるところまで堕ちてしまったから、あとは昇るしかない。『希望の国』にあるのは、絶望の淵ぎりぎりにあって最後に反転して芽生えてくるような、そんな希望なのだろうと思う。
『ヒミズ』では、原作の絶望的なラストを一気に反転させて希望を思わせた。「住田、がんばれ」という言葉は、震災直後だったからこその言葉だ。津波で甚大な被害を受けたその場所を、映画のなかでも現実でも目の当たりにしていたからだ。
現在、大震災から1年半がすでに経過した。現実に原発は再稼動を始め、原発事故は風化しつつある部分もある。だからこそ、それを忘れないためにこの映画があるのだ。希望を詠うよりも、今は絶望を見つめなければならないのだと園子温は言うのだ。そして絶望のそばにこそ希望があるはずだと。
ミツルとヨーコは、津波で流された親の捜索をあきらめる。そして「一歩、一歩」と前に向かって進もうとする。(*4)ここには僅かながらも希望がある。
(*1) 『希望の国』は、これまでの園子温映画らしくはない。これまでの作品では、役者の演技のすさまじいエネルギー(でんでん、富樫真など)が作品を牽引している部分があったが、今回、園監督はそうした過度な演出は控えているようだ。そうした演出は、映画を完全に園監督の色に染めてしまうから(そうなれば原発問題が見えなくなる)。
しかし、園子温色が薄れた分、バスでのエピソードや被災者に対する差別描写なんかは、どこかとってつけたような印象があったと思う。
(*2) 智恵子は「おうちに帰ろうよ」と執拗に繰り返す。その場所は老夫婦が結婚して洋一を育ててきた家なのだから、ほかに帰るべきところなどないはずだ。監督によればこの言葉は、原発事故によって住んでいた土地を追われた被災者たちの言葉を代弁しているのだという。
しかし、私には「本来の姿(場所)に戻ろう」という意味にも感じられた。「本来の姿(場所)」とは、自分が生まれる落ちる前の姿ということだ。夏目漱石が『門』のなかで記している「父母未生以前本来の面目」というやつだ。
「おうちに帰ろうよ」という言葉が何度も響いていたから、ラストの悲劇は唐突なものとは感じられなかった。老夫婦は「死のうか?」「死ぬのか」と、呼吸を合わせるように意思の疎通を図ることができたのだ。
(*3) 村上龍は『希望の国のエクソダス』で、「この国には何でもある、ただ希望だけがない」と登場人物に語らせている。これを逆転させれば「何もないから、希望だけがある」となる。
(*4) このイメージは園子温の初期作品にあった気がするが、どの作品だったろうか?
園子温の作品


『希望の国』は原発事故を題材としている。そこにはかなりデリケートな問題が含まれているようだ。最近はヒット作を連発している園子温の映画ですら、制作費が日本だけでは賄えないほどなのだ。
園監督は被災地に入り綿密な取材を行っているが、それでも一部の人からの非難は避けられないだろう。この映画はフィクションだが、題材が題材だけに、それを現実と照らし合わせて考えざるを得ないからだ。現実の側から映画という虚構を批判するのだ。
これは当然の反応でもあるだろう。この問題は、この国に住む人ならば、少なからず自分の問題として受け止めざるを得ないからだ。そして被災者からすれば、自分の体験した現実と違うと思うかもしれないし、想い出したくない部分もあって不愉快に感じるかもしれない。
当然のことながら、この映画の意図は被災者を不快にさせるためにあるのではない(もちろん映画の感想を記す私も同じだ)。この映画は、原発事故という未曾有の事態を忘れないよう記録するためなのだ。
『希望の国』は原発事故の被災者となった3組の男女の姿を描く。避難区域の境界線に位置する小野家の老夫婦(泰彦と智恵子)と、その息子夫婦(洋一といずみ)、さらに隣家の若いカップル(ミツルとヨーコ)だ。老夫婦は妻智恵子がアルツハイマーを患っていることから、故郷を去ることを拒否する。洋一といずみは未来を見据え、渋々ながらも故郷の家から避難する。ミツルとヨーコは津波で行方が知れないヨーコの親を探し回ることになる。
物語のなかには原発批判や政府批判もあるし、放射能を浴びた被災者への差別も描かれるのだが、この映画はそれらのプロパガンダではない。
例えば、最初は放射能を浴びたとして差別されることに苛立ついずみだが、子供ができたことを知ると今度は極端な放射能恐怖症になり自ら防護服を着るようになる。また、情報公開しない政府を糾弾する言葉もあるが、ラストの洋一の行動は生きていくために情報を遮断するという決断なのだ(逃げる場所もない現状においては、放射能に過剰に敏感だと生きていけない)。『希望の国』という映画は、“脱原発”だとかの特定のメッセージを声高に叫ぶものでない。被災地で生きている人たちの現実の姿を描くものなのだ。(*1)
監督がどういう思想・信条を持っているかは別にして、監督自身が実際に被災地で見聞きした情報を物語として提示しているのだ。園監督は問題に対する答えを示したり偏った立場を主張せず、ただ題材を提示して観る人に問いかけている。
『希望の国』に見出せるのは、天上から燦燦と差し込む明るい光のようなものではない。老夫婦には悲劇が訪れる。(*2)若夫婦もお腹の子供も放射能から逃げる場所はない。ヨーコの親はいつまでも見付かることがない。ほとんど絶望的な状況だ。ではなぜ、この映画が『希望の国』と名付けられているのか。
希望は常に、絶望のすぐそばに寄り添って存在する。
村上龍は『希望の国』に上記の言葉を贈っている。(*3)
不躾かもしれないが極端な言い方をすれば、まったく酷いことに何もかもなくなってしまったから希望しか残っていない。堕ちるところまで堕ちてしまったから、あとは昇るしかない。『希望の国』にあるのは、絶望の淵ぎりぎりにあって最後に反転して芽生えてくるような、そんな希望なのだろうと思う。
『ヒミズ』では、原作の絶望的なラストを一気に反転させて希望を思わせた。「住田、がんばれ」という言葉は、震災直後だったからこその言葉だ。津波で甚大な被害を受けたその場所を、映画のなかでも現実でも目の当たりにしていたからだ。
現在、大震災から1年半がすでに経過した。現実に原発は再稼動を始め、原発事故は風化しつつある部分もある。だからこそ、それを忘れないためにこの映画があるのだ。希望を詠うよりも、今は絶望を見つめなければならないのだと園子温は言うのだ。そして絶望のそばにこそ希望があるはずだと。
ミツルとヨーコは、津波で流された親の捜索をあきらめる。そして「一歩、一歩」と前に向かって進もうとする。(*4)ここには僅かながらも希望がある。
(*1) 『希望の国』は、これまでの園子温映画らしくはない。これまでの作品では、役者の演技のすさまじいエネルギー(でんでん、富樫真など)が作品を牽引している部分があったが、今回、園監督はそうした過度な演出は控えているようだ。そうした演出は、映画を完全に園監督の色に染めてしまうから(そうなれば原発問題が見えなくなる)。
しかし、園子温色が薄れた分、バスでのエピソードや被災者に対する差別描写なんかは、どこかとってつけたような印象があったと思う。
(*2) 智恵子は「おうちに帰ろうよ」と執拗に繰り返す。その場所は老夫婦が結婚して洋一を育ててきた家なのだから、ほかに帰るべきところなどないはずだ。監督によればこの言葉は、原発事故によって住んでいた土地を追われた被災者たちの言葉を代弁しているのだという。
しかし、私には「本来の姿(場所)に戻ろう」という意味にも感じられた。「本来の姿(場所)」とは、自分が生まれる落ちる前の姿ということだ。夏目漱石が『門』のなかで記している「父母未生以前本来の面目」というやつだ。
「おうちに帰ろうよ」という言葉が何度も響いていたから、ラストの悲劇は唐突なものとは感じられなかった。老夫婦は「死のうか?」「死ぬのか」と、呼吸を合わせるように意思の疎通を図ることができたのだ。
(*3) 村上龍は『希望の国のエクソダス』で、「この国には何でもある、ただ希望だけがない」と登場人物に語らせている。これを逆転させれば「何もないから、希望だけがある」となる。
(*4) このイメージは園子温の初期作品にあった気がするが、どの作品だったろうか?
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