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園子温 『希望の国』 “希望”と“絶望”の関係

 『ヒミズ』でも東日本大震災の被災地での撮影を敢行した、園子温の最新作。

園子温監督 『希望の国』

 『希望の国』は原発事故を題材としている。そこにはかなりデリケートな問題が含まれているようだ。最近はヒット作を連発している園子温の映画ですら、制作費が日本だけでは賄えないほどなのだ。
 園監督は被災地に入り綿密な取材を行っているが、それでも一部の人からの非難は避けられないだろう。この映画はフィクションだが、題材が題材だけに、それを現実と照らし合わせて考えざるを得ないからだ。現実の側から映画という虚構を批判するのだ。
 これは当然の反応でもあるだろう。この問題は、この国に住む人ならば、少なからず自分の問題として受け止めざるを得ないからだ。そして被災者からすれば、自分の体験した現実と違うと思うかもしれないし、想い出したくない部分もあって不愉快に感じるかもしれない。
 当然のことながら、この映画の意図は被災者を不快にさせるためにあるのではない(もちろん映画の感想を記す私も同じだ)。この映画は、原発事故という未曾有の事態を忘れないよう記録するためなのだ。
 
 『希望の国』は原発事故の被災者となった3組の男女の姿を描く。避難区域の境界線に位置する小野家の老夫婦(泰彦と智恵子)と、その息子夫婦(洋一といずみ)、さらに隣家の若いカップル(ミツルとヨーコ)だ。老夫婦は妻智恵子がアルツハイマーを患っていることから、故郷を去ることを拒否する。洋一といずみは未来を見据え、渋々ながらも故郷の家から避難する。ミツルとヨーコは津波で行方が知れないヨーコの親を探し回ることになる。
 物語のなかには原発批判や政府批判もあるし、放射能を浴びた被災者への差別も描かれるのだが、この映画はそれらのプロパガンダではない。
 例えば、最初は放射能を浴びたとして差別されることに苛立ついずみだが、子供ができたことを知ると今度は極端な放射能恐怖症になり自ら防護服を着るようになる。また、情報公開しない政府を糾弾する言葉もあるが、ラストの洋一の行動は生きていくために情報を遮断するという決断なのだ(逃げる場所もない現状においては、放射能に過剰に敏感だと生きていけない)。『希望の国』という映画は、“脱原発”だとかの特定のメッセージを声高に叫ぶものでない。被災地で生きている人たちの現実の姿を描くものなのだ。(*1)
 監督がどういう思想・信条を持っているかは別にして、監督自身が実際に被災地で見聞きした情報を物語として提示しているのだ。園監督は問題に対する答えを示したり偏った立場を主張せず、ただ題材を提示して観る人に問いかけている。

 『希望の国』に見出せるのは、天上から燦燦と差し込む明るい光のようなものではない。老夫婦には悲劇が訪れる。(*2)若夫婦もお腹の子供も放射能から逃げる場所はない。ヨーコの親はいつまでも見付かることがない。ほとんど絶望的な状況だ。ではなぜ、この映画が『希望の国』と名付けられているのか。
 

 希望は常に、絶望のすぐそばに寄り添って存在する。


 村上龍は『希望の国』に上記の言葉を贈っている。(*3)
 不躾かもしれないが極端な言い方をすれば、まったく酷いことに何もかもなくなってしまったから希望しか残っていない。堕ちるところまで堕ちてしまったから、あとは昇るしかない。『希望の国』にあるのは、絶望の淵ぎりぎりにあって最後に反転して芽生えてくるような、そんな希望なのだろうと思う。
 『ヒミズ』では、原作の絶望的なラストを一気に反転させて希望を思わせた。「住田、がんばれ」という言葉は、震災直後だったからこその言葉だ。津波で甚大な被害を受けたその場所を、映画のなかでも現実でも目の当たりにしていたからだ。
 現在、大震災から1年半がすでに経過した。現実に原発は再稼動を始め、原発事故は風化しつつある部分もある。だからこそ、それを忘れないためにこの映画があるのだ。希望を詠うよりも、今は絶望を見つめなければならないのだと園子温は言うのだ。そして絶望のそばにこそ希望があるはずだと。
 ミツルとヨーコは、津波で流された親の捜索をあきらめる。そして「一歩、一歩」と前に向かって進もうとする。(*4)ここには僅かながらも希望がある。

(*1) 『希望の国』は、これまでの園子温映画らしくはない。これまでの作品では、役者の演技のすさまじいエネルギー(でんでん、富樫真など)が作品を牽引している部分があったが、今回、園監督はそうした過度な演出は控えているようだ。そうした演出は、映画を完全に園監督の色に染めてしまうから(そうなれば原発問題が見えなくなる)。
 しかし、園子温色が薄れた分、バスでのエピソードや被災者に対する差別描写なんかは、どこかとってつけたような印象があったと思う。

(*2) 智恵子は「おうちに帰ろうよ」と執拗に繰り返す。その場所は老夫婦が結婚して洋一を育ててきた家なのだから、ほかに帰るべきところなどないはずだ。監督によればこの言葉は、原発事故によって住んでいた土地を追われた被災者たちの言葉を代弁しているのだという。
 しかし、私には「本来の姿(場所)に戻ろう」という意味にも感じられた。「本来の姿(場所)」とは、自分が生まれる落ちる前の姿ということだ。夏目漱石『門』のなかで記している「父母未生以前本来の面目」というやつだ。
 「おうちに帰ろうよ」という言葉が何度も響いていたから、ラストの悲劇は唐突なものとは感じられなかった。老夫婦は「死のうか?」「死ぬのか」と、呼吸を合わせるように意思の疎通を図ることができたのだ。

(*3) 村上龍は『希望の国のエクソダス』で、「この国には何でもある、ただ希望だけがない」と登場人物に語らせている。これを逆転させれば「何もないから、希望だけがある」となる。

(*4) このイメージは園子温の初期作品にあった気がするが、どの作品だったろうか?


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園子温の作品
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Date: 2012.10.28 Category: 園子温 Comments (0) Trackbacks (0)

『ヴァンパイア』 岩井俊二作品(脚本・監督・音楽・撮影・編集・プロデュース)

 脚本・監督・音楽・撮影・編集・プロデュースまで岩井俊二が担当した、『花とアリス』以来の長編劇映画。

『ヴァンパイア』 “ゼリーフィッシュ”の血を吸い取る

 低くたちこめる雲、雨が止んだばかりの空気は湿っている。ひとりの女の子がなんとなく不安げに誰かを待っている。辺りは人目を避けるような殺風景な駐車場、そんな場所で待ち合わせるふたりに楽しいデートなどあるはずもなく、車内でのぎこちない会話から初めて会ったらしいふたりの目的が明らかになる。
 自殺サイト、それがふたりの出会った場所。本当の名前を知らないふたりは、互いをハンドルネームで呼び合う。“ゼリーフィッシュ”と“プルート”と。今日はふたりの最期の1日になるはずだった。しかし、“プルート”ことサイモンにとっては、そうはならない。始めから死ぬつもりなどないから。サイモンは女の子に痛みもなくきれいに死ぬための方法を提案する。血を抜くのはどうだろうかと。
 雑然とした工場が“ゼリーフィッシュ”の自殺(あるいは吸血殺人)の舞台となるが、白い祭壇のようでもある冷凍庫に女の子が横たわると途端に儀式の雰囲気が漂う。サイモンは“ゼリーフィッシュ”に睡眠薬を与え、四肢から血を抜き取る。透明なビンが真っ赤な血で満たされるとき、彼女はこの世のものではなくなるだろう。そして冷凍庫はそのまま彼女の棺桶になる。 

 “ヘマトフィリア(血液嗜好症)”という病気(というよりも性的嗜好?)があるらしい。サイモンは血を求める一種の異常者なのだ。だがビンに詰められた血を飲んでも吐き出してしまう。血を渇望しても、それを糧に生きているわけではないし、不死身でもなく、日光を浴びることも平気な、ただの人間なのだ。ただ血をどうしても欲してしまう過剰な何かを抱えている。自殺志願者を狙うのは、サイモンの目的を叶えるためには犠牲者の協力が必要だという点と、自分では殺人鬼ではないと考えているからだろう。
 サイモンはある男に出会う。吸血鬼のまねごとをしては女を殺害しているシリアルキラー“レンフィールド”だ。レンフィールドはサイモンを同類と認めて近づいてくるのだが、サイモンは嫌悪感を抱く。サイモンは「お前のやってることはただのレイプだ。それ以上でもそれ以下でもない」とレンフィールドを罵るが、レンフィールドにはそれが理解できない。レンフィールドにしてみれば、“ヴァンパイア”と呼ばれ、女の血を吸い取って殺してしまうようなサイモンは、自分と「同じ穴のムジナ」だと思えるからだ。多分それは正しい。サイモンは吸血鬼でありながら、他人に輸血をしてやるほどの常識的なやさしさも持ち合わせているのだが、やはりまともな人間として生きられないという意味ではレンフィールドと同類なのだ(もちろんレンフィールドのほうが圧倒的に狂人だが)。

 『ヴァンパイア』のサイモンというキャラクターは、『リリイ・シュシュのすべて』の構図で言えば、社会の枠の外へと踏み出してしまった星野になる。(*1)『リリイ』では、社会に踏みとどまる蓮見の立場から映画が語られるから共感できる部分があるのだが、『ヴァンパイア』では星野の側の話になるのだ。だから常識的な人間には理解不能な部分があり、多くの観客の共感を得るということもないだろう。
 例えば、古谷実の漫画『ヒメアノール』では、主人公であったはずの人物を置いてきぼりにし、殺人鬼のほうに話が移行してしまう。そして、殺人鬼が自らの異常性を自覚し、その宿命みたいなものに涙を流すシーンが印象的に描かれる。唖然とさせられる展開だ。殺人鬼自身もそのおぞましい行動に苦しんでいるとして、作品が同情的に殺人鬼に歩み寄っていくからだ。恐らく多くの人が困惑し、あるいは嫌悪感をもよおしたかもしれない。
 そういう意味で『ヴァンパイア』は難しい題材だ。観客の共感がすべてではないし、倫理・道徳的に正しいことばかりが映画に描かれなくてはならないわけではないのだが……。

『ヴァンパイア』 “レディバード”から蛭の毒を吸い出すサイモン
 
 サイモンはヴァンパイアとしての自分をどう捉えているだろうか。
 ミナ役の蒼井優は、『リリイ』のときと同様に自殺に走るのだが、サイモンは「利己的な遺伝子」みたいな話でミナを諭す。「60億の細胞が君のなかに住んでいる。とすれば、勝手に君が死んでもいいのか」云々。また、ほかの自殺志願の女の子にはこんな話をする。「遺伝子の研究をしているんだ。自殺をする人の血液が欲しい。自殺をする人の遺伝子が解明されれば多くの人が助かるから」。これはどちらも女の子に向けて語られてはいるが、サイモンは自己の存在に対して言い訳をしているのだ。これはおれ自身ではどうにもならない、遺伝子レベルの問題であり、おれが血を欲するのも致し方ないのだと。
 一方でサイモンには“レディバード”との奇跡的な出会いもある。もしかするとサイモンは、彼女の存在によって「血への渇望」という異常性を社会の枠のなかで飼いならすことができたのかもしれない。“レディバード”は二度の自殺失敗のあと、「わたしの血を吸ってもいいわ」とサイモンに告げるのだ。ふたりは人間らしく常識的にキスを交わす。
 “レディバード”とのエピソードは奇跡的な恋愛とも言えるのかもしれないが、サイモンの妄想の思いもかけない偶然の成就と感じられた。実際に映画はハッピーなまま(妄想のまま)で終わらないのだ。

 ラスト、唐突にバレリーナを目指していた女の子とのエピソードが描かれる。サイモンはいつものように彼女の自殺幇助をするつもりで話を聞いていると、彼女はこう語る。

 自分が死ぬ夢って見たことある?
 これがわたしの夢なら、わたし死ねない
 これはあなたの夢なの? (*2)


 もしかすると彼女は何度も夢のなかで自殺を試みてきたのかもしれない。夢のなかではさまざまなことが可能となるが、唯一叶わないのがその夢を見ている自分が死ぬこと。だから現実に自殺しようとする今この瞬間すらも、それが自らの夢のように思える。夢から醒めれば、それまでと同様の辛い現実が待っている。それはもうこりごり。これがあなたの夢であり、わたしはそのなかで死ぬ立場にありたい。そんな切実な願いを感じさせる。
 サイモンの描く夢の姿は「天使の降臨(*3)とサイモン自らの飛翔」というシークエンスに表現されている(自らをヴァンパイアと思い込み血を求めること自体が、すでに妄想だったのかもしれない)。
 “レディバード”は日本語に直せば「天道テントウ虫」で、その名前は太陽に向かって飛ぶことから来ている。バレリーナは地面から離れようとする意志が、あのつま先立ちに表れている。“天使的な存在”は岩井俊二の過去作にも登場していた。(*4)こうしたイメージは、やはり『リリイ』においてよく表現されているように、社会の枠から逃げ出したいというロマンチシズムに結びついているのだと思う。だからサイモンは警察の手から逃れようとしたとき飛翔するのだ。もちろん現実はサイモンの夢であるはずもなく、社会を守る番人としての警察官に妄想は破られることになるわけだが、その一連のシークエンスのイメージは幻惑的でとても素晴らしい。

 (*1) 『リリイ』では、教室や電車のなかの薄暗さに対して、その向こう側に広がる「空の明るさ」が印象的だった。緑鮮やかな田んぼに佇む蓮見の表情も逆光でほとんど見えないが、その向こうの空はやけに明るい。カイトと戯れた津田(蒼井優)は、その空に憧れるように「空、飛びたい」とつぶやき、実際にそれを行動に移す。
 『リリイ』では教室に象徴される<社会>に対する忌避と、空の明るさに象徴されている<社会>以外の何か(宮台真司なら<世界>と言うだろう)に対する憧れがあった。もちろん常識的なわれわれは地面に這いつくばって生きるほかないわけだが、その一方で地面を離れあの空へと近づきたい願望を秘めている。
 宮台真司は「星野」を「セイヤ」と読み替え、「星夜」と意味づけている。もちろん星野は<社会>の枠を越える何かを求めてしまう人物だ。

(*2) いつものことだけれど、引用は記憶なので不正確かも……。
 これは胡蝶の夢を思わせもするが、独我論の匂いもある。

(*3) 徘徊防止用の拘束具を付けた母親が窓から落ちてくるのだ。たくさんの白い風船を背負って浮かんでいるアマンダ・プラマーは天使のよう。

(*4) 『GHOST SOUP』での鈴木蘭々がそうだし、『PiCNiC』でのCharaの黒い羽にもそうしたイメージがある。


岩井俊二の作品
Date: 2012.10.22 Category: 日本映画 Comments (1) Trackbacks (0)

監督・脚本 内田けんじ 『鍵泥棒のメソッド』 “殺し屋”と“役者”の入れ替わり喜劇

 『運命じゃない人』で、カンヌ映画祭でも賞を獲得した内田けんじ監督の第4作目。
 出演は堺雅人、香川照之、広末涼子など。

監督・脚本 内田けんじ 『鍵泥棒のメソッド』

 内田けんじ監督は自主制作映画の登竜門であるPFF(ぴあフィルムフェスティバル)から出てきた監督だそうだ。(*1)どちらかと言えば自意識過剰な芸術志向が多い自主制作映画出身としてはやや異色とも思えるが、エンターテインメントに徹している。監督自身“メジャー志向”と言っているし、内田けんじの作品は誰もが楽しめる映画だ。
 例えば「Yahoo! 映画」を見ると、『鍵泥棒のメソッド』は400人以上がレビューを記し、10月16日現在、評価は平均で4.2点(5点満点)だ。ビリー・ワイルダーの名作『昼下がりの情事』が4.3点だから、その評価の高さがわかる。単純に比較できないのは当然だが、『鍵泥棒のメソッド』はかなりの高評価だし、観客の人気も獲得している。



 誰でも言うことだが、内田けんじは“脚本”の人である。時制を自由に操り視点を様々に変える、練りに練った脚本で観客を驚かせる。その意味では『鍵泥棒のメソッド』は、トリックは少なくオーソドックスな構成とも言える。その代わり、より観客に伝わりやすい設定と、観客の目を引く絵(銭湯での空中浮揚?)を見せてくれた。これまでの作品が登場人物たちの会話劇に終始していたのに対し、予告を見れば一気に引き込まれるような(言わばキャッチーな)、歌舞伎の言葉で言えば“見得”のようなシーンを用意しているのだ。演じるのは歌舞伎役者 九代目市川中車こと香川照之。宙に浮いた香川の姿は脚本には表現できないものだろう。

 銭湯で滑って記憶を失った“殺し屋”コンドウ(香川照之)と、売れない“役者”桜井(堺雅人)が入れ替わる。それだけの設定でも十分におもしろい。そこに間近に結婚を控えつつも、未だ相手を探している生真面目な“編集者”香苗(広末涼子)が絡んでくる。
 『鍵泥棒のメソッド』では、ふたりが入れ替わったことを観客(と桜井)はわかっているが、コンドウと香苗は知らない。これは内田監督の『運命じゃない人』『アフタースクール』とは逆のシチュエーションだ。『運命じゃない人』『アフタースクール』では登場人物は状況を理解していても、観客はほとんどそれを知らなかった(だから騙された)。
 そのシチュエーションの違いから、おもしろさの質も変わってくる。3人が会する場面では、記憶喪失のため自身を売れない“役者”桜井だと思い込んだコンドウ(=香川)と、そのコンドウを慕う香苗の間を、全てを把握し自らが仕組んでしまった嘘がばれないように本物の桜井(=堺)が立ち回る。桜井(=堺)の不自然な行動はほかのふたりには理解できないが、観客には明らかだからクスクスとした笑いが生まれる。(*2)

 『運命じゃない人』『アフタースクール』では、観客を騙すことに主題があるからか、演出はあくまでニュートラルで、観る人が登場人物に片寄った印象を抱かないように配慮されている。善人でもあやしい部分があり、悪人みたいな風貌だがまっとうな行動をしたりもする(悪人がいかにもあやしいばかりだと観客は騙せない)。出来事も過剰に時間を引き延ばしたりしてデフォルメされることはない。そこにはある種の“平板さ”がある(“退屈”を意味するわけではない)。“平板さ”は観客に状況を勘繰る余裕を与えるのと同時に、騙しのトリックを目立たなくさせる(どの出来事も同様のテンションで描かれるから、決定的な出来事さえもわかりにくい)。
 こうした“平板さ”は意図されたものなのだろう。その“平板さ”のなかに、実はこんな意味やあんな感情が込められていたと判明するところがミソなわけだ。無表情の奥で巡らされるあれやこれやの企みだとか、笑顔の裏に潜む隠し事はあとになって解き明かされて観客を驚かせる。それまで信じてきた人物像が崩れていくような瞬間があるが、そこも意外とさらりと描かれている。劇的な演出はないが、劇的な展開が観客を驚かせるのだ。

 一方で『鍵泥棒のメソッド』ではどうだろうか。コンドウの記憶が戻るまでは桜井だけがすべてを知っているおもしろさがあったが、記憶が回復して以降は、入れ替わったふたりがどうするのか、あるいはコンドウの仕事の依頼主であるヤクザとの騙し合いなどが物語を牽引する。もちろんコンドウと香苗との恋愛の部分もあるのだが、前2作で効果的だった意図的な“平板さ”が、この映画では単なる“平板さ”に陥っているように思えた。観客を手玉に取るトリックがない分、“平板さ”がそのまま盛り上がりの欠如に感じられてしまうような……。
 内田けんじ監督はビリー・ワイルダーが好きだそうだ。同じくワイルダー信奉者の三谷幸喜の映画は、その映画の出来はともかくとしても、監督の悪ふざけみたいな部分が何より楽しい。内田けんじの『鍵泥棒のメソッド』に関して言えば、記憶回復した後半は、もっとけれん味のある演出でもよかったんじゃないかとも思う、贅沢を言うようだけれど。脚本通りにあくまで淡々と進行する印象があって、おもしろいのだけれど何か物足りないのだ。

(*1) 自主制作の『WEEKEND BLUES』がPFFアワードに入選し、『運命じゃない人』はPFFスカラシップ作品として製作された。残念ながら『WEEKEND BLUES』はまだ観ていません。

(*2) ドリフの「志村、後ろ!」みたいのものかもしれない。


内田けんじの作品
Date: 2012.10.16 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

西川美和 『夢売るふたり』 ややこしいからすばらしい

 松たか子阿部サダヲ主演。西川美和監督の第4作目。

『夢売るふたり』 松たか子と阿部サダヲの詐欺師夫婦

 西川美和の映画にはどういうわけか詐欺師がつきものである。『蛇イチゴ』『ディア・ドクター』も詐欺師が主役であり、『夢売るふたり』でも詐欺師夫婦が中心にいる。詐欺師がいれば当然騙される人が出てくるわけで、その関係にこそ西川監督の興味がおかれているように思える。
 『蛇イチゴ』の詐欺師の兄(宮迫博之)は、田舎に残って家庭を守る妹(つみきみほ)と対照的だ。調子のいい嘘つきの兄と、愚直で要領の悪い正直者の妹。妹は兄のいいかげんさに嫌悪感を覚えつつも、自由な振舞いに嫉妬を抱きもする。『ディア・ドクター』のニセ医者(笑福亭鶴瓶)はたまたま過疎地の医者に化けてみたらうまくいってしまって、治療はほとんど出来なくても患者たちの心の支えにもなる。(*1)

 『夢売るふたり』では、詐欺師のふたりが夢を売ることになるわけだが、詐欺師が“夢を売る”とはどういうことか。「都会の冷たい地面の上には寂しい女の心が彷徨っている。完璧な男でなくても、誰かがそこにちょっと手を差し伸べてやるだけでいい。」里子(松たか子)はそんなふうに語る。妻の里子が計画し、夫の貫也(阿部サダヲ)が女を騙す。
 誰もが夢から見放されているわけではない。寂しい女たちのすべてが性格が悪いとか、見た目が著しくひどいわけではないのだ。まあ、まれにそんな場合もあるかもしれないが、たまたまちょっとしたきっかけさえつかめれば夢を見ることが可能なのだ。もちろんふたりは詐欺師だから、夢を見させた対価としては、その価値以上の金銭が請求される。というよりも騙される側はその夢の続きを見るために(あるいは夢から醒めないために)自ら金を差し出す。

 「結婚もできないような人間だと思われることにくたびれているだけです」と語る咲月(田中麗奈)や、DV夫から逃げて風俗嬢をしている紀代(安藤玉恵)や、シングルマザーの公務員滝子(木村多江)などが騙される側として登場する。
 なかでもウエイトリフティングの女のエピソードが重要だと思う。ひとみ(江原由夏)は100キロを超えるバーベルを挙げるアスリートとして、その外見は恋愛などとは程遠い位置にいる。バーベルの重さに匹敵するまではいかなくても、バーベルを支えるほどのがっちりとした体型を保持している(言ってしまえば“おデブちゃん”なのだ)。ターゲットを選択したのは里子なのだが、里子は途中で貫也に作戦中止を唱える。「私が男でも、あれは無理だわ」と里子は言うのだ。貫也がひとみを相手に詐欺の仕事(=恋愛のまねごと)を進めることを嫌がるだろうと考えたからだ。だが貫也は言う。「よくそんなことが言えるな。お前の目に映っているもののほうが、よっぽど気の毒だよ」と。
 貫也は女たちの寂しい心の拠り所として恋人のまねごとをすることで、その女たちのことを幾分か本気で好きになっている。『ディア・ドクター』で、ニセ医者が患者のことを心から思いやるように。「嘘から出たまこと」だ。里子は計画を立てるだけだから、そうしたことに気づかない。
 ひとみは自分のことを「怪物じゃない」と否定するが、それまでの人生で「怪物だと思われている」と感じてきたからこそ、そんなふうに否定する。しかしそんな外見のひとみでさえも、実際に恋人として深くつきあってみれば何かしら人を惹きつけるところがあるのだ。実際に貫也にはそれがわかる。だから「おまえには何も見えていない」と里子を否定するのだ。
 この映画では、騙された女たちもそれによって金銭は失ったとしても、何かが損なわれたわけではないと描かれている。女たちはそれぞれまた別の人生を歩き始める。
 
 『夢売るふたり』は貫也を取り巻く女性たちを描いた映画だが、タイトルにもあるように詐欺師夫婦を描いた映画でもある。冒頭、夫婦で切り盛りしていた活気ある小料理屋の場面があるが、火事を起こしてすべてを失って以来、そこへ戻ることがふたりの目標になる。店の開店資金のために詐欺を始めると、夫はほかの女を騙すことに精一杯で、ふたりで過ごす時間も限られてくる。次第に金は貯まるけれど、妻の心は空虚に満たされていく。念願だった新しい店が完成するころには、ふたりの詐欺行為が何のためのものだったか既にわからなくなっている。
 夫婦がふたりで見つめる方向性というのは、簡単に一方向に決められるものではないだろう。小料理屋をやることはそのひとつだが、それが夫婦の夢になり、ふたりが幸せになるかはわからない。人生が単純でないのと同じように、この映画も曖昧で複雑なものを含んでいる。(*2)
 西川美和の書いた本に『名作はいつもアイマイ』というものがある。本の中身は知らないが、題名を見る限り西川監督の作品に対する態度が表れている。単純で誰が観ても同じ感想を抱くような作品は、西川監督にとっては名作でないのだろう。
 『夢売るふたり』もそうだ。曖昧というよりも複雑で、観客それぞれで感じ方は異なるだろう。『ゆれる』のラスト、香川照之が見せた何とも言いがたい表情、あのシーンに象徴されるように唯一の正しい解釈など存在しないのだ。上記のような解釈も私のひとりよがりのそれに過ぎない。
 例えば、里子はひとみを嘲笑するように「私が男でも、あれは無理だわ」と言ったが、上記の解釈はある一面を切り取ったに過ぎない。里子の悪口は夫に助け舟を出したのではなく、ひとみに対する同情の言葉とも受け取れるのだ。ひとみが哀れに思え、さらに傷に塩を塗るような行為するのが堪らなくなり、見逃してやりたくなる。一方で夫には、作戦中止を自らの弱気と感づかせないがために露悪的な言葉を吐いたのだ。恐らくどちらにも解釈できるし、里子はどちらの感情も抱いていたのではないか。
 こんなふうに一場面をとっても様々な解釈ができるほど、この映画は曖昧で複雑な要素を含んでいる。観るたびに色々なものが新たに発見できるだろうし、人によってその受け取り方も様々だろう。糸井重里は「ややこしいからすばらしい」(*3)と、この映画を表現している。里子のラストの決断については釈然としない部分もあったけれど、もしかすると次に観たら感じ方は違うのかもしれない。

(*1) 『ゆれる』では詐欺師は出てこないが、兄(香川照之)と弟(オダギリジョー)は幼馴染の女を巡って腹の探りあいをする。騙すことはしなくても優しさのために嘘をつき、本当のことは隠し、相手の本音を探るためにかまをかける。

(*2) これまでの作品では、複雑とはいえ真実らしきものが顔を覗かせる箇所があった。『蛇イチゴ』では、「オオカミ少年」と同じで、嘘つきも常に嘘ばかりではないことが明らかになる。『ゆれる』でも兄と弟の関係は複雑で、その後のふたりがどうなるのかは曖昧だが、吊り橋での出来事における真実は示されたと言える。『夢売るふたり』ではそんなわかりやすい答えはない。

(*3) 「ほぼ日刊イトイ新聞」のインタビューより。これによれば、ラストは震災の影響もあって変更されたのだとか。園子温『ヒミズ』でもそうだったが、あの状況を前にして「死にゆく物語」は否定されたのだ。確かに『夢売るふたり』の松たか子のラストの表情は、しっかり前を見据えて生きていこうとしている。


西川美和の作品
Date: 2012.10.07 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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