スコセッシ『ミーン・ストリート』 デ・ニーロとハーヴェイ・カイテルの若かりし頃

 『ミーン・ストリート』スコセッシの演出は瑞々みずみずしい感じすらする。この作品は1973年公開で、スコセッシが30歳ぐらいの初期作品だから当然なのかもしれない。誰もいきなり巨匠として登場するわけではない。若いときにしか撮れない映画もあるだろう。冒頭、「Be My Baby」のリズムとともに編集されたオープニング・クレジットや、ストーンズの「Jumpin' Jack Flash」をバックにしてデ・ニーロがバーに入ってくるスローモーションなどとても印象的だ。



教会で罪はあがなえない
我々は街や家庭で罪を贖う
それ以外はまやかしだ


 こんな主人公チャーリーの独白から始まる『ミーン・ストリート』は、司祭になりたかったという監督スコセッシの人生が反映されている。スコセッシはDVDの音声解説で「この作品にメッセージは存在しない」と語っている。これは映画ですらなく「それまでの私の人生そのものだ」と。
 その言葉通り、この映画に筋らしい筋はない。スコセッシの出自である、ニューヨークのリトル・イタリーに住む若者たちの生活を追っている。マフィアではないが、犯罪の匂いが周囲に漂う場所に育ったチンピラたちだ。「ミーン・ストリート(Mean Streets)」とは、「みすぼらしい街」のことなのだ。それでも、けんかはしても血なまぐさいところはほとんどなく、青春映画と言ってもいいかもしれない。
 そんな若者たちのひとり、ジョニー・ボーイを演じるのがロバート・デ・ニーロ。手製の爆弾で意味もなくポストを吹っ飛ばしたり、夜中にエンパイア・ステート・ビルディングに向かって銃をぶっ放したりと、奇行を働いては騒ぎを起こす。そして金は借りても返さない。コミュニティでも鼻つまみ者なのだ。
 このキャラクターはどこか夏目漱石の『明暗』に登場する小林を想い出させる。

「僕は人に厭がられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事をたりするんです。そうでもしなければ苦しくって堪らないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせることが出来ないんです。」     (夏目漱石 『明暗』)


 ジョニー・ボーイはそんなことは語らないが、とにかくトラブルメーカーなのだ。借金を返そうともせず、さらに貸主を「マヌケ」呼ばわりして逆なでする。こうなるとジョニーの行く末は決まってくるようなものだ。なぜジョニーが馬鹿げた振舞いをやめようとしないのかはわからないが、困ったことに実際にそういう人間はいるものだ。そして、そんな人間と付き合うのはひどく厄介で骨が折れる。

 主人公のチャーリー(ハーヴェイ・カイテル)はジョニー・ボーイの友人だが、同時に彼の存在を“刑罰”の一種だと考えている。教会では「祈りを捧げれば赦される」と教えているが、チャーリーはそれを否定する。祈りは言葉に過ぎないから、自分の過ちはきちんと償わなければならない。そのための“刑罰”として、蝋燭の炎に自らの手をかざしたりもする。ジョニー・ボーイはどうしようもない奴だが、チャーリーにとっては彼を支えることが神から科せられた“刑罰”なのだ。だからチャーリーは何度裏切られてもジョニーを見捨てることはしないのだ。この二人の関係性がおもしろい。友情があるからこそ助けるということではないのだ。

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 アベル・フェラーラ『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』(1992年)の主人公の悪徳警官も、『ミーン・ストリート』のチャーリー同様のオブセッション(*1)を抱いているように思えた。この悪徳警官は借金まみれでドラッグ漬けという破滅寸前の人間だが、同時に神に救いをこいねがわずにはいられない。この主人公を演じるのがハーヴェイ・カイテルで、その後のチャーリーを見るような錯覚を抱かせる。幻覚のキリストを前にして、「うぅー」と唸るような情けない声を漏らしながら赦しを乞う姿をカイテルが熱演している。
 悪徳警官は借金で首が回らないというのに、懸賞金のかかった犯罪者たちを見逃してやる。そうすることで自分が救われることを信じたからだ(もしくは救われることに賭けたから)。チャーリーが“刑罰”であるジョニー・ボーイの振舞いを赦すように、悪徳警官も与えられた試練を忌々しい犯罪者を赦すことによって乗り越えようとするのだ。
 チャーリーや悪徳警官のような人間がごく一般的な存在とは思えないが、アベル・フェラーラもブロンクス出身のイタリア系米国人だそうだ。カトリックの人間(あるいはイタリア系米国人)はそんな罪の意識に縛られているのだろうか。(*2)

 ちょっと前にスコセッシが製作会社から訴えられたというニュースがあった。『沈黙』の映画化が遅れたからだという。訴訟の目的は映画化実現にあるというが……。
 『沈黙』とは、もちろん遠藤周作の小説の映画化だ。上記のようなテーマにも関係がある題材だと思われるが、どんな映画になるだろうか。

(*1) これはオブセッション(強迫観念)と呼べないのかもしれないが、キリスト教圏ではない場所から見るとそんなふうにも感じられる。
 
(*2) もちろん『ミーン・ストリート』は、そんなテーマだけに囚われた映画ではない。「メッセージは存在しない」とスコセッシが語っているように。だがチャーリーの姿にスコセッシの姿が反映しているように、また司祭になることを夢見て後に『最後の誘惑』というキリストを描いた映画まで撮ってしまうように、スコセッシにとってキリスト教の教えが重要なのも確かなのだろう。


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Date: 2012.09.30 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『素晴らしい一日』 韓国と日本の“素晴らしい”共作

 監督・脚本は韓国のイ・ユンギ。出演者やスタッフも韓国勢で、舞台も韓国だが、原作は日本の平安寿子の短編小説。

『素晴らしい一日』 チョン・ドヨン、ハ・ジョンウ共演

 仕事も結婚相手も失ってちょっと切羽詰った女が、元彼にところに借金返済を迫りにいくという話。この元彼のキャラクターがいい。借金したまま姿を消してしまうのだからろくな奴でないことは確かだが、楽天的で調子がよく、誰からも愛されてしまうようなところがあるのだ(韓国での題名は『My Dear Enemy』)。この元彼ビョンウンを演じているのは、ギドク作品『絶対の愛』『ブレス』に出ていたハ・ジョンウ。ビョンウンの愛嬌に付き合う素振りも見せず、終始気難しい表情のヒスを演じるのは、『シークレット・サンシャイン』でカンヌの主演女優賞を受賞したチョン・ドヨン。チョン・ドヨンは黒く縁取るようなどぎついアイメイクで、『シークレット・サンシャイン』の母親役とはまったく違った印象だ。

 借金の取立てなんてのはあまり気持ちのいいものではないだろうが、「貸したものは返してもらうのが道理だから」というわけで、ヒスは元彼ビョンウンの前に姿を現したわけだが、債務者側としても「予告もなしに急に来られても困る」という言い分もあるわけで、ヒスは元彼に付き合って金策に走り回ることになる。一種のロードムービーだ。目的地があるわけではないが、目的額まであちこちと街を走り回り、様々な人に会い、わけを話し、頭を下げてお金を貸してもらうのだ。
 ヒスからすれば目的は金だけで旧交を温めるつもりもないけれど、逃してしまっては元も子もない。一日金策に付き合うのは、元彼の過去の女なんかと顔を合わせる羽目になるわけで、楽しいわけがないのだけれど、次第にビョンウンのペースに巻き込まれていく。そうこうするうちにヒスの眉間に寄せたシワも次第に和らいでいく。

 私はキム・ギドクの映画が大好きだけれど、韓国や韓国映画全般についてはあまり知らない。“ヒス”という役名すら、最初は「ヒステリー」の略かと思ったほど(慣れてないからか韓国人の名前は、カタカナで書くと奇妙な気がする)。監督のイ・ユンギについてもこの作品が初めて。某劇作家の方はブログで「キム・ギドクは哲学と美術で映画を撮ろうとしますが、この監督のイ・ユンギは文学で撮ってますね」と記している。“文学”的というのも何となくわかるような気がする。
 映画の終盤で、ヒスが急に涙を見せる場面がある。レッカー移動された車を取りに行くために電車で移動中のことだ。ビョンウンは電車の中吊り広告を見て、自分の見た夢の話を語りだす。格闘家のヒョードル(*1)というスーパーヒーローが夢に出てきて自分に語りかけてくれるという、いわばどうでもいい話だ。そのどうでもいい話の最中にヒスは涙を見せる。某劇作家はこの場面に関して、「ヒスにとってはビョンウンがその「ヒョードル」だから…(笑)。」とあくまで冗談まじりに語っているけれど、まったく見当違いではなくても、ヒスが感じていたことはそれだけではないはずだ。
 「一日走り回って色々あった。久しぶりに会った元彼にも色々あったことを初めて知った。それなのに私は……」。こうやって説明してもうまく伝わらないが、「色々あった」の部分と「……」の部分が重要で、映画の2時間という時の経過のなかで、「色々」が「……」という複雑な感情となり涙を溢れ出させたわけだ。「色々」は映画を観ればわかるが、「……」はそんなに単純ではないだろう。それは「寂しさ」とか「優しさ」とか一語で説明できる感情ではないし、台詞で吐露できる類のものでもないのだろう(できたとしても途端に陳腐になる)。(*2)
 そういう意味で余韻あるラストなど、原作よりも“文学”的だと感じられた。ラストは原作通りだが、原作は短編だけに流れに早急な部分があるし、小説だから言葉で表現するのは当然だが、感情や背景を独白で語りすぎて説明的な箇所もある。
 映画のラストではビョンウンが去ったあと、ひとりでハンドルを握るヒスの表情が捉えられる。一日を終え、ある程度の目的を達成し、色々なことを思い起こし、どうしようもなく笑みがこぼれてしまう様子が丹念に追われている。運転席でひとり微笑むだけのシーンなのだけれど、「素晴らしい映画」と思わせる余韻を残していて、観る側も微笑まずにはいられないだろう。(*3)


(*1) ヒョードルとはあのエメリヤーエンコ・ヒョードルのことで、映画では「M-1」という大会にヒョードルが出場することになっている。どうやら現実にもそんな大会があるみたいだが、日本では「K-1」も「プライド」も見かけなくなってちょっと残念。
 ここでのヒョードルの登場に理由はない。別段セーム・シュルトだってよかったのだ。神様だって構わないし、亡くなったおばあちゃんでもいい。ただ傍らで何かしらを語ってくれているということがヒスの感情を刺激したのだろう。ビョンウンにはそんな優しさがある。

(*2) トルストイは『アンナ・カレーニナ』が表す思想を問われて、「小説によって表現しようとしたこと全てを言葉で言おうとするならば、私が書いたのと同じ小説を、始めから書き直さなくてはならないだろう」と答えたのだとか。

(*3) ラストの笑顔はもちろん“映画”的なシーンだとも言えるけれど、映画が“映画”的だというのも変ではないけれど、ちょっとわかりづらい。ヒスが破顔するまでの実際の時間の流れと、感情の揺らぎのような表情を体験するという意味で、“映画”の特性を示していると言えばいいか。イ・ユンギ監督の演出は、女性的で複雑な感情の機微を、説明的な台詞に頼らずに描いている点で“文学”的だと思える。
 また、この監督の演出は奇を衒う部分はないが、冒頭の長回しは物語への導入としてスムーズだった。それはどこかの駐車場にいるカップルの会話から始まる。誰かが土地で金もうけをして、云々。そこに電話が入って待ち合わせ場所にカップルが向かうと、建物から出てきた男たちが賭け事の話をしながら昼食に出て行く。その男たちを横目に主人公ヒスが建物のなかに入っていくと、そこは場外馬券場で、ひと儲けをたくらむ人々が集う場所だ。ヒスは誰かを探すように辺りを見回す。ここまで1カットで撮影している。冒頭の長回しでこの物語が金を巡る物語だとわからせておいて、元彼を見付けたヒスは突然「お金返して」と迫るのだ。


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イ・ユンギ監督の作品
Date: 2012.09.24 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『遊星からの物体X ファーストコンタクト』 ノルウェー隊全滅の謎とオリジナルへの敬意

 ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』(1982年)の前日譚。

『遊星からの物体X ファーストコンタクト』 カーペンター版へのリスペクト満載

 今では信じられないくらいだが、『遊星からの物体X』は、公開当時は『E.T.』人気と重なったせいで評判がよくなかったのだとか。カーペンターは次回作の監督を降ろされるほどの打撃を被ることになったのだが、作品そのものは次第にビデオなどでカルト的な人気を博し、こうして前日譚がつくられるまでになった。私も遅ればせながらもビデオを観て以来、今に至るまで時代遅れのVHSテープを少なからず再生してきたファンのひとりだ。
 『恐怖の詩学 ジョン・カーペンター』によれば、カーペンターは「怪物や悪魔をいつも暗闇のなかに潜ませておく」ハリウッドの使い古された紋切り型を否定し、「怪物を光のなかに連れ出す」ことを企図し、それを見事に成功させた。(*1)例えば、隊員ノリスの腹が割れて医者の腕を食いちぎり、ノリスの頭部だけを引きちぎって“物体”が逃亡を図るシーン。頭から蜘蛛のように足を生やした“物体”は、こそこそと床を這い回るのだ。「これはいったい何の冗談だ?」と登場人物が言うように、まさに悪夢のような映像だった。
 そんな『遊星からの物体X』のクリーチャーは、それまでのクリーチャーと一線を画するものだった。あの不定形の“物体”の強烈さゆえに、様々なところに影響を与えてきた。日本でもあの傑作漫画『寄生獣』がそうだし、最近の映画ではフランク・ダラボン監督の『ミスト』(2007年)があった。『ミスト』では、霧の向こう側からやってくる化け物の造形もそうだったが、それらが人間を圧倒し、まったく勝ち目がない絶望的な雰囲気まで『遊星からの物体X』の影響下にあった。
 しかし『遊星からの物体X』が素晴らしいのはそれだけではない。不定形の“物体”は人間や犬などの完璧なイミテーションになることが可能だから、人間たちは「誰が本当の人間で、誰が“物体”なのか」という疑心暗鬼の渦に巻き込まれていく。これが『遊星からの物体X』が、原作『影が行く』から受け継いだ主要なモチーフなのだ。『影が行く』では、自分が怪物ではなく人間であることの証明が検討される。しかし、その証明の不可能性をなかなか崩せずに、苦し紛れに「もし心臓の真中を射って、死ななかったら、そいつは怪物だ。」などと言い出す始末なのだ。『遊星からの物体X』でも“血液テスト”の場面が重要で、人間たちの疑心暗鬼が映画に緊張感を生み出していた。

 前日譚『遊星からの物体X ファーストコンタクト』は、“物体”が姿を人間にさらしすぎて無闇に暴れすぎたきらいがあり、やや緊張感に欠ける部分はあるが、全体的には楽しめた。(*2)それは『遊星からの物体X』への敬意の払い方が尋常ではないからだ。『遊星からの物体X』では、謎のままだった南極大陸ノルウェー基地の惨劇が初めて明かされる。それだけでもファンには興味津々というものだろう。スプリットフェイス誕生から、自殺した隊員、切り出された氷塊、壁に刺さった斧に至るまで、『ファーストコンタクト』から『遊星からの物体X』へときれいに結びつくように描かれている(エンディングクレジットでは『遊星からの物体X』の冒頭部分を再現している)。
 もちろん前日譚の宿命なのかオリジナルを超えることはできないし、どうしてもオリジナルに似てきてしまうのだが、“血液テスト”に代わる新たなテストの試みも嬉しい。“物体”は生物を真似ることは可能だが、無機物を作り出すことができないという点に着目したテストだ。『遊星からの物体X』でも乗っ取られた隊員の下着が捨てられていた(上着があればバレないから)。『ファーストコンタクト』では、血だらけの浴室に歯の詰め物が残されている。つまりイミテーション(“物体”)には歯の詰め物はないから、もし歯の中に詰め物があるならば、「その人間は怪物ではない」と証明されることになる。もちろんこれは不完全なテストだ。“血液テスト”の場合は「誰が怪物であるか」までたちどころに明らかになるが、“虫歯テスト”では誰かが「怪物ではない、、、、」ことの証明にしかならないからだ。虫歯がまったくない人間もいるだろうし、セラミックの詰め物の場合は見た目ではわからない。“虫歯テスト”に合格すれば怪物ではないが、不合格でも怪物であるとは限らない(人間かもしれない)。
 “虫歯テスト”の結果は次のようになった。虫歯があり人間だと証明された隊員が4名、虫歯がなく怪物なのかもしれない隊員が4名、2つのグループに分かれるのだ。もしかすると人間と“物体”の数が均衡状態にあるのかもしれないのだ。これは『遊星からの物体X』での「“物体”が襲ってこないのは、まだ人間の数のほうが多いからだ」という意味の台詞を想起させる。“物体”にとっては正体が見破られたら最後なのだ。人間は火器で“物体”を殲滅するだろう。だから“物体”は狡猾に機会をうかがい、不利な場所で攻撃を仕掛けたりはしないはずなのだ。『ファーストコンタクト』では人間の数的優位すら危うくなり、すでに“物体”に周りを取り囲まれているのかと疑わせる(そうなれば全面攻撃もあるのかも)。とはいえ“虫歯テスト”の不完全性ゆえに、それが“血液テスト”ほどの緊張感につながるわけではないのだが……。それでも『遊星からの物体X』を継承しつつも、ある部分では差異化を図ろうとする製作陣の意気込みが感じられた。

 『ファーストコンタクト』では女主人公ケイトが生き残るが、ハッピーエンドとは言えない不穏な雰囲気で終わる。ケイトはもうひとりの生き残りカーターを、「(無機物である)ピアスがなくなったから」という理由であっけなく焼き払ってしまうのだ。だが、カーターは断末魔に“物体”の正体を現すわけでもなく死んでしまう。もしかしたら人間だったのでは? ケイトはほとんど放心状態のままスクリーンは暗転し、エンディングクレジットに……。
 『遊星からの物体X』のラストでも、「吐く息が白くないから、チャイルズが“物体”である」などという都市伝説があるようだが、『ファーストコンタクト』もあえて謎を残して終わるのだ。(*3)

 昨年は『ザ・ウォード 監禁病棟』で久々に健在なところを見せてくれたカーペンターだが、『恐怖の詩学 ジョン・カーペンター』において『遊星からの物体X』の続編の製作について訊ねられ、こう答えている。

「やりたいね。すごいストーリーがあるんだ、あの最後に残されたふたりで始まる。だが、金がかかりすぎるからだれも作ろうとはしない。」

 贅沢に金を使ったカーペンター作品が一度くらいあってもバチは当たるまい。『ファーストコンタクト』の影響でさらにファンが増え、「カーペンター監督で続編が始動すれば」なんて願うのはちょっと能天気すぎるだろうか。

(*1) クリーチャーを創造したロブ・ボッティンと、撮影監督ディーン・カンディとの言い争いについてカーペンターは語っている。リアルに見せたいがために「照明は暗くして後ろから照らすべき」というボッティンに対し、カンディは「怪物を表に引きずり出したい」と主張する。しかしその張り詰めた状態が驚くべき視覚効果を生んだ。(ジル・ブーランジェ編 『恐怖の詩学 ジョン・カーペンター』より)

(*2) 『ファーストコンタクト』がコンピュータグラフィックスに頼りすぎなかった点は好感が持てるのだが、“物体”が廊下で人間を追いまわすのはやりすぎの感がある。凡百の殺人鬼との闘いではないのだから。
 『遊星からの物体X』は同じ廊下の場面でも際立っていた。“物体”に乗っ取られた犬が廊下の陰からゆっくりと顔を出し、周囲を探りながら歩いてきて獲物を見つける。ただそれだけなのだが、そうした静かな雰囲気こそが怖いのだ。カーペンター版には“静けさ”と“間”があった。それが怖さを引き立たせる。

(*3) ちなみにノベライズでは、映画版の曖昧さに対して明確な答えが記されている。あくまでノベライズで映画そのものとは違うのだが、「やはりあの不穏さに込められた意味は……」とわが意を得たりといった感じ。


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ジョン・カーペンターの作品

Date: 2012.09.14 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『プンサンケ』のつづき キム・ギドク脚本作品

 ギドクの脚本と監督チョン・ジェホンの仕事や、その他の諸々の気づいた点について。

 9月9日、ギドクの金獅子賞受賞が発表された。
 第69回ベネチア国際映画祭で、ギドク監督の『ピエタ / Pieta(原題)』が金獅子賞を獲得したようだ。『アリラン』で復活を果たしたギドクだが、これでまた映画界の最前線に戻ってきたと言えるのかもしれない。とにかく何ともめでたい限り。とりあえずは手放しで喜びたい。

ギドク 金獅子賞受賞!!

◆ジェホン監督処女作『ビューティフル』について
 美しすぎる罪というのがあるのかどうかわからないが、絶世の美女ヘレネーはトロイア戦争の原因とはなっても、その罪によって自分が虐げられたわけではなかった。だが『ビューティフル』の主人公ウニョンは、その美貌が仇となってストーカーの被害に遭い、暴行を受ける。ウニョンは美しすぎたことでかえって幸せになれず、次第に精神を病み過食と拒食を繰り返すようになる。
 『ビューティフル』はギドクが原案を担当し、ジェホン監督の長編デビュー作となった作品。この映画でどこまでがギドクの案で、どこからがジェホン監督の独自色かは不明だが、過去のギドク作品から勝手に推測することはできる。
 この映画では、ウニョンを常に見守っている警察官がもう一人の主役だが、この警察官は驚くべき行動に出る。レイプされて精神を病んだウニョンに対して、また同じことを繰り返そうとするのだ。これを無理やりに解釈すれば、ウニョンの悪夢を消すためということになる。ウニョンはストーカーの幻影に悩まされ、その幻影を消さなければ生きていけなかったからだ。もう一人の主人公である警察官があえてストーカーの真似をして彼女に殺されることで、ウニョンはストーカーに復讐を果たしたという達成感を勝ち取れる。警察官は自ら犠牲になることで、ウニョンの再生を図るのだ。ギドクが書いた原案はおそらくここまで(と私には思われる)。
 だがジェホン監督の『ビューティフル』はまだ終わらない。さらに狂気を帯びた主人公は、街中で通り魔的に銃を乱射して射殺されてしまうのだ。さらにエピローグでも、変態の検死官が登場して……。悲劇なのか、ブラックジョークなのか、どちらにしても後味が悪く、主人公ウニョンにしてみればまったく何の「救い」もなく、哀れとしか言いようがない映画だった。(*1)
 ラストの改変はともかくとしても、『ビューティフル』は脚本の骨組みばかりが目立つように感じられ、ギドクの荒唐無稽さが際立ってしまった印象だ。

◆脚本と監督の関係
 脚本と監督の仕事の関係について、黒沢清はこんなふうに語っている。

 「映画監督とは、脚本と映像、ドラマとリアル、非現実と現実とを強引にくっつけて何とか辻褄を合わせていく仕事のこと」 (黒沢清 『黒沢清、21世紀の映画を語る』より)  (*2)


 映画において、「ドラマ」部分を主に担うのが“脚本”で、「リアル」を請け負うのが“映像”になる。ここで扱われている映画は、アニメーションやCGなどではない実写映画のことで、カメラによって捉えられた現実を素材としてつくられる映画に限定されている。映画は非現実なのだが、撮影現場は現実である。カメラという機材は、ありのままの現実をそのまま切り取ってしまう。別の箇所で黒沢清は次のように語る。「映画を監督することは非現実を現実化する作業、または現実の断片を寄せ集めて非現実を作り出すことである」。ここには「リアル=現実」と「ドラマ=非現実」のせめぎあいがある。映画監督の実体験として、脚本をもとに撮影しても、そこに映るのは白々しい嘘があるだけということも多いのだそうだ。「ドラマ」を描くために、映像という「リアル」なものがあるはずなのだが、カメラを通して映される「リアル」はなかなか「ドラマ」と結びついていかない。黒沢清が映画監督を目指す学生から受ける質問でもっとも多いのが、「映画はどうやったらリアルに撮れるのか」ということだそうだ。黒沢清は監督も脚本も手がける実作者の問題意識として、映画は「ドラマ=脚本」と「リアル=映像」に引き裂かれていると語っているのだ。

 上記のような黒沢清の問題意識とはずれるが、『プンサンケ』でも脚本を映像化していく部分で、監督という仕事の難しさが窺える気がした。
http://eiganotubo.blog31.fc2.com/blog-entry-356.html
 上のインタビューを読むとギドクは撮影には立ち会わず、細かい部分までの口出しはしていないようだ。主人公プンサンケも脚本段階では台詞があったものの、ジェホン監督の決断で削ったのだとか。
 ジェホン監督の演出は、アクションなどは悪くはない。プンサンケが非武装地帯を駆け抜けるシーンなどは躍動感がある。だがプンサンケとイノクが惹かれあっていく場面だとか(*3)、北朝鮮高官とイノクが車のなかでけんかして云々といった場面では凡庸さが目立つ。テンポが悪いのか、エモーショナルな部分が描けていないのか……。ギドクの脚本にどこまでの部分が描かれているかはわからないが、後半の両国間の戯画化などは言葉で記しやすいが、男女間の感情の交歓あるいはいざこざは、言葉だけでは示しにくいだろう。台詞はあっても、それを読み上げるだけでは伝わらないものだから。そうした部分を映像化するときに監督の力量があらわになるのかもしれない。
『プンサンケ』 寄り添うプンサンケとイノク
◆その他の気づいた点
 ギドクの“死”に対する捉え方に関して、以前このブログでも記した。『プンサンケ』でも、そうしたエピソードがある。
 『ブレス』では、「一度死んだことがある」と語る女性が主人公だった。『プンサンケ』でも、イノクは脱北の際に川のなかで臨死体験をする。最初は「死んだら楽になれるから助けてくれなくても良かった」などと言うが、結局はそれを否定する。これはギドクが辿った軌跡と同じだ。ギドクも、“死”は「別の世界に続く神秘のドア」ではなく、「未来を断つことであり、ドアを閉めること」だと考え直したのだ。
 イノクは臨死体験のなかでこう悟る。「向こう側は何もなかった。虚空だった」。だから戻って来ることができて良かったとイノクは語るのだ(それなのに最後は追い詰められて川に身を投げてしまうのだが)。『プンサンケ』の冒頭のエピソードはこう描かれている。北朝鮮に残された家族にビデオレターが届けられる。それは脱北して韓国にいる夫からのメッセージだった。それは、ただ「生きていてくれ」という願いなのだ。もちろんこんなテーマ自体はありふれているが、ギドク作品ではどこかから借りてきたものでなく、ギドクが作品をつくるうちに辿り着いてしまうところがスリリングだし、ギドクの真摯な生きる姿勢が垣間見えるところがいいのだと思う。


(*1) 『プンサンケ』でも、イノクは酷い目に遭う。ダイヤを飲み込まされていたイノクは、それを取り出すために死体にまで手をかけられるのだ。これは資本主義批判のエピソードとしてあるのだが、映像は綺麗に撮られていてもイノクの虐げられ方を考えると、『ビューティフル』のおぞましいラストを思い出して監督の趣味を疑ってしまう(ギドクの脚本通りなのかもしれないが)。

(*2) ちなみにこの本では、黒沢清が考える21世紀の映画として、「河」を描いた映画についても触れられている。『グエムル―漢江の怪物―』『ある子供』などが挙げられている。

「河は、何かが流れてくる、向こう側に渡る、水面を漂う、潜る、など、何かこちらとあちらの関係、不意にあらわになる外側、どこか向こう側に向かって動き出す、といったことと結びつきやすい場所なのかもしれません。三途の川を例に挙げるまでもなく、河岸と彼岸を表現するのに、監督や脚本家が、自然と選び取る場所なのでしょう。」(黒沢清 『黒沢清、21世紀の映画を語る』より) 

 ギドク作品における川の役割について、こちらのHPでも記しています。

(*3) 『プンサンケ』では、小さな仏像がふたりを結びつける役割を果たしているようだ。だが映画のなかでそれがうまく機能しているとは思えない。ギドク映画のなかで仏様がどんな意味を持つのかはっきりとはしないが、「心の安らぎ」みたいなものが込められているような……。


ギドクについての覚え書き ←こちらのHPはギドクの過去作品について。
キム・ギドクの作品


プンサンケ [DVD]


Date: 2012.09.09 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (0)

『プンサンケ』 キム・ギドク脚本作品

 キム・ギドクが製作総指揮と脚本を担当した映画。
 監督を務めたのは、ギドクの弟子で『ビューティフル』で監督デビューしたチョン・ジェホン

ギドク脚本 『プンサンケ』

 ギドク作品では『ワイルド・アニマル』『コースト・ガード』でも取り上げられた分断国家というテーマだが、この映画ではより直接的に38度線が描かれる。非武装地帯の鉄条網を軽々飛び越え、地雷をものともせず、わずか3時間で北と南を行き来する主人公を擁する映画はエンターテインメントに仕上がっている。
 題名にもなっている“プンサンケ(=豊山犬)”とは、北朝鮮原産の狩猟用犬種のことだが、これは主人公の呼び名だ。この口をきかず素性の知れない主人公は、いつも“プンサンケ”という銘柄のタバコを吸っていることからそう呼ばれるのだ。プンサンケは北と南を行き来して運び屋をする。依頼を受ければ、離ればなれの家族のために大切なビデオレターを届け、あるいは体を張って脱北を助けたりもする。
 物語は脱北して韓国で匿われている元北朝鮮高官のわがままから動き出す。この高官は北の秘密を握っており、北朝鮮からは当然命を狙われる。一方、韓国側には匿われつつもその秘密を文書化することを迫られる。高官は文書を作成し終われば自分が存在意義を失い、自らの命を危うくすることを知っているから、現状のまま(秘密を保持したまま)で自分の価値を吊り上げ韓国からさまざまな見返りを引き出したい。そんな見返りのひとつとして挙げられるのが、北側に残してきた愛人イノクで、それを連れて来ることがプンサンケの仕事になる。
 危険を伴う北からの脱出の際、なぜかプンサンケと高官の女は気持ちを通じ合うようになるのだが……。

 プンサンケは韓国からは利用され、北側からは脱北の手伝いをする邪魔者として命を狙われる。韓国側の組織と北朝鮮の工作員が入り乱れて結局は高官も殺され、脱北者であるイノクは逃走中に川に落ちて死んでしまう(自死とも言える)。プンサンケは両陣営に復讐を決意する。
 プンサンケは拉致してきた敵たちを密室に放り込んでいく。まずは北朝鮮の人間と韓国の人間がひとりずつ。この密室のなかで1対1の戦いが始まる。しかしすぐに次の人間が加えられる。今度は2対1だ。当然、数で多いほうが有利になる。だがすぐにまた拉致された人間が登場する。今度は2対2になって戦況はイーブンになる。
 馬鹿げたけんかは終わらない。結局、プンサンケによってすべての人間が拉致されて密室に入れられ4対4の膠着状態になる。するとプンサンケは銃を一丁密室に投げ込む。となれば銃を手にした側が主導権を握る。だが次にはもう一丁の銃が登場してにらみ合いになり……。
 もちろんこれは現実の二国間の争いの戯画化だ。この争いは中国の人間が介入して一旦は収まるかに見えたが、最後までどちら側も譲ることをせずに解決を見ることはないままだ。

『プンサンケ』 両国の膠着状態

 『プンサンケ』では、先進国である韓国側が無条件によいとされているわけではない。イノクは北から南に来て、高官の人柄が変わってしまったと感じ、北に戻りたいと言い出すし、高官でさえ命を賭して逃げ出してきたはずなのに、平壌が恋しいのか平壌冷麺を食べたがる。北の政治状況はおかしいのだが、韓国に来てみれば韓国には別の問題がある(北側からすれば資本主義)と描かれるのだ。どちらが正しいというわけではなく、どちらもおかしいのだ。 

「おまえは北と南、どっちの犬だ?」

 プンサンケは韓国側からも北朝鮮側からもそう問われる。しかし一切それに答えることはない。どちら側でもないからだ。そもそも「どちらかに付く」などという考えが愚かなのであって、韓国も北朝鮮もどちらも愚かだと映画は語っている。
 
 分断された家族のために境界線上を行き来していたプンサンケは、両国の間にある非武装地帯上で銃弾に倒れていく。これもプンサンケが北でも南でもないということを悲劇的に示している。超人的な活躍を見せていたプンサンケだが、北でも南でもない場所に立つということは、結局、死を導くことになったのだ。プンサンケの復讐を経ても、韓国と北朝鮮は未だ愚かさに気づかない。その意味では、映画は両国の状況を追認しただけとも言える。祖国の統一の夢ははるかに遠い。それまでは「どちらにもくみしない」ことは、かえって危険を伴う。しかし、ラストにこそ、この映画に込められたメッセージがある。銃弾を受けて横たわるプンサンケの目に空が映る。境界線などないその空を、鳥たちが自由に羽ばたいてゆく。ジョン・レノンの「イマジン」ではないが、そのメッセージは誰にでも明らかだろう。
 この映画『プンサンケ』は、スタッフ・俳優のすべてがノーギャラで臨んでいるのだそうだ。そのメッセージが、映画を製作した韓国にとっていかに重要かということがわかるだろう。資本主義などに毒されることもなく、多くの韓国映画人を動かして1本の映画をつくってしまうのだから。

つづく : キドクの脚本などに関しては次回……。

プンサンケ [DVD]


Date: 2012.09.04 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (0)
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