『ヒューゴの不思議な発明』 スコセッシ監督の3D作品

 マーティン・スコセッシ監督、初の3D作品。8月24日にDVD発売。
 題名の「不思議な発明」は映画の内容とはそぐわないが、原作の絵本(?)ではうまくオチがつくようになっている。

スコセッシ監督 『ヒューゴの不思議な発明』


 ジェームズ・キャメロンが3D映画としての『ヒューゴの不思議な発明』を絶賛している。キャリアとしてはスコセッシのほうが上なのだが、キャメロンは最近の3D映画の先駆者としての自負があるのだろう。たしかにキャメロンが絶賛するとおり芸術的な3D映画となっているし、なによりこの映画には3D映画たる必然性がある。
 『アバター』は3D映画の特質というものをよく捉えた映画だった。映画における主人公は観客から見られるだけでなく、観客の視点を代行している。『アバター』では、主人公は自らのアバター(分身となるキャラクター)を操作して異星人の村に潜入する。観客は主人公の姿(=アバター)を追いつつ奥行きある映画の世界へと入り込んでいく。つまり観客のアバターとなるのが主人公なのだ。半身不随で動けないはずの主人公が、アバターに同化することでパンドラという新たな世界を体験するのと同じように、観客は主人公に同化して未知の立体的な映画世界を体験することになるのだ。現実とはまた別の立体的な世界への導入がスムーズにいくように設計されている。
 『プロメテウス』も3D映画として映像に奥行きは感じられたが、リドリー・スコットの構築する素晴らしい画面以上のものを3Dが生み出していたとは思えなかった。多分2Dでも十分楽しめる作品だ。その意味で3Dの必然性はあまりない。

 

「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない」


 これは村上春樹が『1Q84』で引用しているチェーホフの言葉だ。冒頭で拳銃が曰くありげにクローズアップされたならば、作品のどこかでそれは発射され、何らかの結末を用意することになる。これは一般的な作劇上のルールだ。その意味では『ヒューゴの不思議な発明』は、「チェーホフの銃のルール」とは異なる「映画史的なルール」に則っていると言えるかもしれない。映画史的に言えば、列車が登場したら観客に向かって走ってくるはずだし、舞台設定に時計台があるならば誰かがそこにぶら下がらなければならないのだ。

 映画の歴史はリュミエール兄弟の作品から始まったとされている。動く映像というものを初めて体験した観客たちの驚きはいかばかりだったか。『ラ・シオタ駅への列車の到着』では、列車が客席に向かって走ってくるのを見て、皆逃げ惑ったという微笑ましい話が伝えられている(『ヒューゴ』でも再現される)。そんな映画の始まりから1世紀が経った1995年には、『世界の映画100年』という番組が企画され、日本でもテレビ放映された。アメリカ編を担当したのがスコセッシだった。ちなみに日本編は大島渚が担当した。イタリア編はベルトルッチで、フランス編はゴダールだ。もうひとつのイギリス編は批評家たちの鼎談になっていて、ケン・ローチを盛んに褒めている。顔ぶれを見れば、それぞれの国でもっとも重要な監督が選ばれていることがわかる。
 その番組のなかでスコセッシは自身と映画との出会いを語っていた。小さいころに病弱だったスコセッシは外で遊ぶことが出来ず、映画館で多くの時を過ごすことになる。その当時ニューヨークで公開された映画はすべて見たと豪語するほどの映画狂なのだ。巨匠と呼ばれるようになった現在では、映画の保存を目的とする財団の活動にも力を入れているそうだ。そんな映画狂のスコセッシだからこそ、映画への愛情がたっぷりと詰まった『ヒューゴの不思議な発明』ができたのだろう。
 
 この映画はヒューゴ少年の冒険から始まる。ヒューゴが修理した自動人形(『メトロポリス』のアンドロイドを想起させる)が、「月に突き刺さるロケットの絵」を描き出したときには、ジョルジュ・メリエスを多少なりとも知っている人ならば、この映画の意図を悟って驚きとともに感動を覚えるだろう。実はこの作品は、映画へのオマージュを捧げた映画なのだ。
 この映画では「映画の教科書」的文献に出てくる映画が数々登場する。黎明期の映画を振り返るような意味合いもあるのだ。リュミエールにメリエス、『大列車強盗』も出てくる。チャップリンもキートンもロイドも登場する。そんな映画史を踏まえれば、ヒューゴ少年はロイドの『要心無用』のごとく、当たり前のように時計の針にぶら下がらなければならない。ジャッキー・チェンも『プロジェクトA』でやったように、由緒正しい時計台の使い方なのだ。
 サイレントからトーキーへ、白黒からカラーへ、フィルムからデジタルへ、映画にはこういう大きな歴史がある。実写からCGへの流れもある。ほかにも画面サイズを見れば、スタンダードサイズからビスタ、シネスコへという歴史もある(※①)。画面構成に目を向ければ、ごく初期の、演劇をそのまま映したような平面的な画面から、縦構図を活かした奥行きのある画面へという歴史もあるだろう(※②)。そんな映画の歴史を踏まえ、スコセッシが新たなる意匠(3D)を加えて完成させたのがこの作品なのだ(※③)。初めて3D映画を撮るならば、『列車の到着』を新たに3Dで撮り直すことが映画史的に正しいあり方だし、“迫り来る列車”という映画の原初体験をさらなる迫力でというのは見せ物として楽しそうだ。だからこそ『ヒューゴの不思議な発明』には3Dの必然性があるし、ヒューゴ少年が時計台の裏側を走り回る冒頭部分など、3Dの特質を十分に活かした作品に仕上がっていると思う。またメリエスの代表作『月世界旅行』も、その一部を3Dで体験できるのだから貴重な作品だ。
 こんなことを言いつつも、結局はDVD発売まで待ってしまった私は愚かだった。致命的な間違いを犯したことにいまさら気がついたわけだが、悔しいから八つ当たり的に一言付け加えると、最近の映画宣伝方法はちょっと詐欺みたいなものもある。『ヒューゴ』は子供向けのファンタジーだけの作品ではない、、、、、、、、、のは明らかなのに。ほかにもたとえば『ツリー・オブ・ライフ』。“家族の物語”を期待した観客は、恐竜が画面を走り出したのを見て唖然としただろう。映画を要約するテストがあれば、完全に落第点だ。観客動員が大切なのは理解できるのだけれども……。

※① 『ヒューゴ』をテレビのワイド切替をノーマルにして再生するとスタンダードサイズの画面になるのだが、DVDの情報にはビスタサイズとある。製作者が考える正規の画面サイズというのは重要な要素だと思うのだが、ないがしろにされている気がしてならない。

※② デイヴィッド・ボードウェル 『映画の様式-その変化と連続性-』より

※③ 3D映画が新しいというのは本当は間違いで、かなり以前から3D映画はある。技術的な問題からか、あるいは単に効果的でなかったからか、あまり普及しなかっただけだ。マンネリ化して飽きられてきたホラー映画に綾をつけるといった意味合いで3D作品があった(『13日の金曜日』とか)。そう言えば、85年の「つくば科学万博」では立体映像を見せるパビリオンが4つもあり、かなりの盛況を見せていた。子ども心にも“飛び出す映像”というのは楽しかった。


スコセッシの作品
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Date: 2012.08.30 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『プロメテウス』 リドリー・スコット監督、久々のSF作品

 『エイリアン』『ブレードランナー』リドリー・スコット監督が、久しぶりにSFを手がけたことでも話題の作品。先行上映で3D版を鑑賞。公開は8月24日から。
 以下、作品の秘密に触れています。

リドリー・スコット 『プロメテウス』

 人類はどこから来たのか。CM等ではそんな謎が提示されてはいるものの、開巻劈頭あっさりと答えが示されてしまう。とは言うものの、この謎はおとりみたいなものだから、もったいぶって最後まで引っ張るほどの驚きもないし、当然のことなのかもしれない。明かしてしまえば、その答えとは“宇宙人起源説”みたいなものだ。≪人類の起源≫は、地球に飛来した宇宙人と判明し、映画は終わるわけではなく、その先にこそ『プロメテウス』の秘密がある。
 その秘密をどうして隠そうとするのか腑に落ちないのだが、秘密とは『エイリアン』の起源ということだ。これは『エイリアン』シリーズの最新作(前日譚)なのだ。≪人類の起源≫などとことさらに言い立ててエイリアンの存在を隠そうとするのは、もしかすると第1作目『エイリアン』と似通い過ぎているからかもしれない。
 シリーズ第1作目『エイリアン』は、宇宙船のなかにエイリアンが入り込んでからは、SFというよりはホラー映画の趣きを帯びる。キャッチコピーは「宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」だった。ダン・オバノンの書いた脚本は、宇宙船のなかでのエイリアンとの対決が中心となっていたのだ(オバノン脚本の『ダーク・スター』でも、エイリアンとの「対決」というか「かくれんぼ」が登場している)。
 『プロメテウス』では、『エイリアン』の前半部分に焦点を当てて拡大したような内容になっている。ホラー的な部分よりも、作品世界の構築に重きが置かれていると言えるかもしれない。『ブレードランナー』などでも独特な世界を映像化したリドリー・スコットは、H・R・ギーガーがデザインした宇宙船と化石化した宇宙人(スペースジョッキー)のエピソードをさらに描きたくて、『エイリアン』のリブート作品めいた『プロメテウス』を製作したのだ。

 宇宙人が訪れてから気の遠くなる時間を越えて、地球のあちこちで同じデザインの壁画が発見される。科学者はそれを彼らからの招待状だと考える。その招待に応じるべく彼らの星を目指すのだが、この計画は「永遠の命」を欲したウェイランド社社長の希望からスタートしている。人類を創ったスペースジョッキーなら、いわば創造主なら、その願いを叶えてくれるだろうという希望だ。
 『エイリアン』でもアンドロイドの存在が重要だった。アンドロイドは人間に化けて乗組員たちの監視し、隠された目的(エイリアンの捕獲)を遂行する役割を負っていた。『プロメテウス』でもアンドロイドが登場する。ここではその正体は乗組員に明らかにされているが、乗組員が知らない目的を抱えているのは同じで、物語をかき回す役割を与えられている。
 スペースジョッキーが人類を創り、人類はアンドロイドを創った。スペースジョッキー⇒人類⇒アンドロイドという階層。もちろんスペースジョッキーを創ったのは誰かという部分は相変わらず残るから、そこに到れば“神”だとか“偶然”だとか何かしらあやしいものを引っ張り出さなくてはならないわけだが……。
 被造物は創造主に「どうして自分たちを創ったか」と訊ねたくなる。アンドロイドが人間にそう訊ねると、人間側は「創れたから(技術的に可能だったから)」と答えるのだが、アンドロイドは人間がそんなふうに(創造主から)答えられたら「傷つかないでしょうか」と理知的に返している。ここでのアンドロイドは傷つくほどの自省には目覚めていないように思えるが、人間はそんな答えには納得せずに問い続けることやめないだろう。
 なぜ地球に人類を誕生させたか、なぜ招待状を送って人類を呼び寄せたか、今度はなぜ滅ぼそうとするのか。これに対する『プロメテウス』の答えは次のようになるだろう。自分たちと似たような種類の実験台(人類)をたくさん創っておいて、新たな生物兵器を使ってそれらを破壊させるための実験をし、その兵器としての機能を確認する。招待状に関して言えば、そんなものは送っておらず、壁画の記しをそのように思い込んだのは人類の勝手な思い違いによる。どうやら創造主は被造物に思いやりなどないみたいだ。

 エイリアン誕生には複雑な経緯があり、スペースジョッキーは意図してエイリアンを誕生させたわけではないようだ(もしかしたら影で黒幕が操っているのかもしれないが)。『プロメテウス』で人類が訪れる星(LV223)は、スペースジョッキーの生物兵器製作工場だった。その生物兵器である黒い筒のなかには黒い液体が収められている。この液体に人間(男)が感染し、その感染した状態で女性と交わると、女性はイカ状の生物を身ごもる。さらにそのイカ生物が成長して、スペースジョッキーに卵を産み付けることで誕生するのがエイリアンという存在なのだ。黒い液体に感染した人間がその後どうなるかは明らかでない。感染の症状が酷くなると何かに操られているようにも見えるが、結局、途中で殺されてしまったので、感染した人間から別の生物が誕生するのか否かは不明だ。
 地球に人類を誕生させ、その後、黒い筒をばら撒いてその効果を試すというのがスペースジョッキーの当初の目的だったのかもしれない。しかし、偶然の事故がエイリアンを誕生させる。スペースジョッキーはエイリアンの価値を認め、別な星(LV426)でエイリアンの卵を大量生産させる。だがまたもや何らかの事故によってそれは頓挫してしまい、『プロメテウス』から29年後『エイリアン』で描かれるエピソードにつながるということだろうか。
 『プロメテウス』が『エイリアン』の前日譚なのか、リブートとなるのか、いまだ曖昧な部分も多い。緊張感のあった『エイリアン』に比べると、『プロメテウス』は題名や提示される謎の高尚さとは裏腹にゲテモノづくしな印象は否めないし、消化不良の箇所が多い。ラストで科学者である主人公エリザベスは地球に帰ることを拒否し、スペースジョッキーたちの故郷へと向かおうとする(≪人類の起源≫への問いに囚われているから)。続編の製作も決定しているようなので、さらに新たな世界が見られることになりそうだ。破壊されかかったアンドロイドも宇宙船の操縦のため助け出されたから、隠密行動が多いアンドロイドを操る存在なんかも明らかにされて、様々な不明部分に解決が与えられることを期待したいと思う。

追記:20日、「トニー・スコット 死去」という悲報が……
 最近でも、兄リドリーと共同で『THE GREY 凍える太陽』(現在公開中)をプロデュースしていた。次回作もあったであろうに、なぜなのだろうか?

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『エイリアン』シリーズ
Date: 2012.08.19 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『ダークナイト ライジング』 ノーラン版バットマン 最終章

 クリストファー・ノーラン監督のバットマン3部作の最終章。
クリストファー・ノーラン 『ダークナイト ライジング』
 バットマンは前作『ダークナイト』で、光の騎士(ハービー・デント=トゥーフェイス)の汚名を被って闇の騎士ダークナイトとして消えざるを得なかった。それによりゴッサム・シティにはしばしの平安が訪れる。この『ダークナイト ライジング』では、汚名を被ったままのバットマン=ブルース・ウェインの復活が描かれ、最後には光の騎士に成り代わる。
 前作のハービー・デントも死して初めて光の騎士という“正義”になり得たわけで、“正義”というのはあり得ないものとして描かれている(アメリカの“正義”がとてもあやしいのと同様に)。だからバットマンが光の騎士になるためにはどうしても死んだと思わせる必要があったわけで、シリーズを締めくくるにはこの展開にならざるを得ないのかもしれない。①『バットマン ビギンズ』誕生から②『ダークナイト』闇の騎士を経て③『ダークナイト ライジング』光の騎士へ、そしてラストではバットマンの遺志を継ぐ存在もほのめかされ、3部作としてよくまとまっている。
 そう、悪くはないのだ。とても見応えがあるとすら言えるかもしれない。ただ評判が高かった『ダークナイト』が、悪VS必要悪というドラマを見事に構築していたのに対し、今回の悪であるベインは、結局のところ単に「世界を壊したい」というアホに見えてしまうところが惜しい。悪役の持つ思想が弱かったと言えるかもしれない。バットマンへの復讐とか、ラーズ・アル・グールの計画を引き継ぐとか色々な理由付けはあるのだが、結局悪党ベインを支えていたのが“愛”だったなんて言われても……。

 今回のバットマンは闇に紛れて敵を脅かしたりもしないし、マントを靡かせて滑空したりもしない。バットマン(超人的な存在)よりもブルース・ウェイン(大富豪だが、ただの人間)としての存在がクローズアップされているのだ。ベインとの一騎打ちも策略もなく殴りあうだけ。そして闇夜に隠れた存在のバットマンが、光の騎士に成るべく陽の光の下で闘いを挑むことになる。白雪の舞うゴッサム・シティでの死闘は、今までになかったバットマンの姿だ。過去作の闇に対しての差異化もあるにせよ、光の騎士になるためにはどうしても必要な舞台設定というべきだろう。
 ベインの登場のエピソードや、ラストの追いかけっこは今までになく派手なアクションでまさに見応えがある。実写にこだわりデジタル技術を極力使わないというノーラン監督の姿勢には断然賛成だし、その効果は暗闇ではなく陽の光の下のほうが凄みを増すだろう。ちなみにノーランは007にも関心を抱いているようで、CGに頼らないという007シリーズだけにノーランは適役だろうし、どんな007が登場するかとちょっと楽しみだ。

バートン版とノーラン版のジョーカーの造形

 『アメイジング・スパイダーマン』が現在公開中だが、リブート作品が昨今流行りのようだ。リブートとは「シリーズにおける連続性を捨て、新たに一から仕切り直すこと」で、この『ダークナイト ライジング』を含むノーラン版3部作は、1989年から始まった『バットマン』シリーズのリブート作品だ。バートン版やシュマッカー版と、ノーラン版には明確な差異がある。「リアリティの追求」というのがそれだろう(上の写真、バートン版とノーラン版のジョーカーの造形を見てもそれは明らかだろう)。
 漫画が原作でリアリティというのも奇妙だが、実際にあんな“コウモリ男”や“白塗り口裂け男”がいてもおかしくはないんじゃないかと思わせるような演出をしている。ノーラン版はバットマン=ブルース・ウェインは様々に悩む。『ダークナイト ライジング』でも冒頭は闇の騎士として隠れる必要があったにせよ、自宅にひきこもり暗い生活を送っているのだ。正義感から黒いスーツに身を包んで悪党に私刑リンチを加えるのは一種の狂気だが、絶望して豪奢な邸宅にひきこもるのは病的だけれど人間味がある。あくまでもファンタジックなバートン版では、ペンギンの姿に象徴される異形のものの哀しみはあったが、バットマンは自分の存在に悩んだりはしなかった。ノーラン版はそんなリアルな人物像がそのテーマ性にも合って、新たなファンをつかんだ。その意味でもリブート作品としてまれに見る成功を収めたと言える。まったく同じ内容をキャストと監督を代え、ちょっと技術革新として3Dにしてみたというのでは製作する意味がないのだから。人気シリーズだけにノーラン版はこれで終わりでも、必ず次の作品が出てくると思われるが、後を引き継ぐのは至難の業だと今から心配にもなる。

 今ではクリストファー・ノーラン監督と言えば誰もが『ダークナイト』といった印象だけれど、私にとっては『メメント』の監督だ。あの作品はアイディア勝負だから同じような作品は二度とできないとは思いはしても、ノーラン作品のなかで未だに一番『メメント』が好きだ。同時代の監督で、ほとんど何も知らぬまま映画館に足を運んで、たまたますごい作品に出会うとその作品は忘れられないものだ。好きな監督の作品のなかでも、最初にその監督を発見した作品は特別なものに思えるのだ(処女作ではなく、あくまで自分にとっての最初の作品)。例えばキム・ギドクなら『魚と寝る女』、ウォン・カーワァイなら『欲望の翼』、ダルデンヌ兄弟なら『ロゼッタ』、橋口亮輔なら『渚のシンドバッド』となる。そんな作品のひとつとして『メメント』はあるわけだけれど、これがアイディアだけの作品でないことは、今のノーラン監督の活躍ぶりが証明しているだろう。

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バットマン作品
クリストファー・ノーラン作品

Date: 2012.08.11 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

ユアン・マクレガー主演作 『人生はビギナーズ』

 ポランスキー『ゴーストライター』でも主役を演じたユアン・マクレガーの主演作。

ユアン・マクレガー主演 『人生はビギナーズ』

 「父親が75歳でゲイであることをカミング・アウトする」なんて聞くと、コメディ映画なのかと思えるけれど、印象はだいぶ違う。冒頭、誰もいない部屋を捉えたいくつかのカットは、ウディ・アレンベルイマンの影響を受けてつくった『インテリア』の冒頭によく似ている(ベルイマン『ファニーとアレクサンデル』にも似た場面があったような気もするし、リヴ・ウルマンのことが語られたりするのは、どこかでベルイマンの影響があるのかもしれない)。とにかく静かな印象なのだ。その空っぽな家で、主人公オリヴァーが父の遺品を片付けるうちに、父と過ごした日々の回想へと入っていく。
 『人生はビギナーズ』では、現実と回想は行きつ戻りつして、現在と過去も区別されることがない。これは父親を亡くしたばかりのオリヴァーにとっての喪失感の表れなのだろう。何かきっかけがあれば絶えず回想へと引き戻されていくのだ。筋道立った物語として記憶が存在しないように、この映画は様々な断片としてつながっていく。
 一方で、スチール写真や雑誌の切り抜き、短いカットなどをつないで様々な歴史がつづられる。1955年父と母の歴史、2003年オリヴァーとアナの歴史、オリヴァーとアナそれぞれの恋の歴史、ゲイ・ムーヴメントの歴史。この歴史シークエンスはとても軽快で、グラフィックアートシーンで活躍していたという監督の描くイラストも味があって楽しい。
 
 筋らしい筋はないのだが、主人公オリヴァーと父母、恋人アナ、愛犬との関係が描かれる。無理にまとめれば“コミュニケーション”の問題となるかもしれない。あまり親しげでなく幼いころの記憶がない父との関係は、カミング・アウトをきっかけに変わっていく。そのカミング・アウトの前に亡くなっている母親は、ちょっと風変わりでオリヴァーは戸惑うことも多い。
 「150の言葉を解するけど、しゃべれない」愛犬アーサーは、オリヴァーの目を見つめてじっと話を聞く姿がなんとも可愛らしい。字幕でアーサーの心の声が説明されるのだが(ウディ・アレンが『アニー・ホール』でやっていたみたいに)、実際、愛犬家ってのはそんなふうに犬と会話しているのだろう。
 ふさぎこむオリヴァーは友人たちに仮装パーティに連れ出されるのだが、気乗りはせずフロイトの格好で精神分析を気取って人の話を聞いてやり過ごそうとする。そこで初めてアナと出会うのだが、アナは咽頭炎でしゃべることができない。フロイトの自由連想法という治療法は、寝椅子に横たわった患者が語り、医者はそれを聞くだけ。そして時間が来れば患者は去らなければならない。しゃべりたくないオリヴァーとしゃべれないアナ。この奇妙なふたりの関係もおもしろい。そんなディスコミニュケーションがあるからこそなのか、あまり恋に積極的とは思えないオリヴァーもアナに惹かれていくことになる。
 オリヴァーはアナと付き合うようになるのだが、父を喪った哀しみを忘れて前向きに生きるというように単純にはいかない。どこかその関係にも躊躇があるのか、喜びはあってもすぐに迷いが忍び寄ってくるといった感じ。アナはオリヴァーにこんなふうに言う。

「半分は悲観的に考える人たち(残りの半分は魔法を信じる人たち)」
「無表情の人/そういう人はある方向を見ながら心は違う場所にあるのよ」

 これはオリヴァーについての言葉なのだ。オリヴァーは物事を悲観的に考えてしまう人間で、どこか心ここにあらずで、過去の恋愛の失敗に照らしては、ふたりの関係すら「うまくいかない」と考えてしまうのだ。

 もっともこの作品は“コミュニケーション”というひとつのテーマに縛られた映画ではない。それは監督・脚本のマイク・ミルズの実体験に基づいている映画だからだ。エピソードはテーマに寄与するのではなく、実体験としてのエピソードそのものが断片として生き生きと描かれる。そこに劇的なところはないが、プライベートなものだけに細部にリアリティがあるのだ。
 オリヴァーとアナはふたり一緒にいるのに気の効いた台詞も言えず、「僕たち、どうなる?」「分からないわ」などと煮え切らない。このあたりも妙に生々しいのだ。現実に自分たちの行く末なんて誰もわからないのだから。ベルイマンは「『第七の封印』は頭でつくったが、『夏の遊び』は心でつくった」と語っていた。マイク・ミルズの『人生はビギナーズ』も、心でつくった作品なのだろうと思う。

 オリヴァーはけんか別れしたアナとやり直すことを選ぶ。それは先人としての父親の姿に学んだからだ。75歳になってゲイの初心者ビギナーを始められるのだから、人は失敗をしてもいつでもやり直すことができる。最後にふたりは「試してみよう」と前向きな言葉を残して終わる。もちろんそれはすんなり成功に終わるはずもないものだとは思うけれど……。

 芥川龍之介は『侏儒の言葉』において、こう記している。

 「我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を学ばないものは満足に泳げる理窟はない。同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちそうである。すると我我も創痍を負わずに人生の競技場を出られる筈はない。」

 芥川は悲観的過ぎるけれど、人は皆、生きることにおいて初心者ビギナーだということだ。だからこそ何度でも「試してみる」ほかないだろう。失敗したらまたやり直せばいいのだ。


 最後に余談だが、ユアン・マクレガーがオビ=ワン・ケノービを演じる『スター・ウォーズ』シリーズでは、オビ=ワンの師匠であるヨーダはこう言っていた。 

「やるか、やらぬかじゃ。試しなどはない。」   
                             (『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』より)

 とはいえ、『スター・ウォーズ』は超人的なフォースを持つジェダイの騎士の話なので、われわれ凡人としては何度でも「試してみる」ほかないだろうと改めて思う。

人生はビギナーズ [DVD]


ユアン・マクレガー出演作
Date: 2012.08.08 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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