『ヒューゴの不思議な発明』 スコセッシ監督の3D作品
マーティン・スコセッシ監督、初の3D作品。8月24日にDVD発売。
題名の「不思議な発明」は映画の内容とはそぐわないが、原作の絵本(?)ではうまくオチがつくようになっている。

ジェームズ・キャメロンが3D映画としての『ヒューゴの不思議な発明』を絶賛している。キャリアとしてはスコセッシのほうが上なのだが、キャメロンは最近の3D映画の先駆者としての自負があるのだろう。たしかにキャメロンが絶賛するとおり芸術的な3D映画となっているし、なによりこの映画には3D映画たる必然性がある。
『アバター』は3D映画の特質というものをよく捉えた映画だった。映画における主人公は観客から見られるだけでなく、観客の視点を代行している。『アバター』では、主人公は自らのアバター(分身となるキャラクター)を操作して異星人の村に潜入する。観客は主人公の姿(=アバター)を追いつつ奥行きある映画の世界へと入り込んでいく。つまり観客のアバターとなるのが主人公なのだ。半身不随で動けないはずの主人公が、アバターに同化することでパンドラという新たな世界を体験するのと同じように、観客は主人公に同化して未知の立体的な映画世界を体験することになるのだ。現実とはまた別の立体的な世界への導入がスムーズにいくように設計されている。
『プロメテウス』も3D映画として映像に奥行きは感じられたが、リドリー・スコットの構築する素晴らしい画面以上のものを3Dが生み出していたとは思えなかった。多分2Dでも十分楽しめる作品だ。その意味で3Dの必然性はあまりない。
これは村上春樹が『1Q84』で引用しているチェーホフの言葉だ。冒頭で拳銃が曰くありげにクローズアップされたならば、作品のどこかでそれは発射され、何らかの結末を用意することになる。これは一般的な作劇上のルールだ。その意味では『ヒューゴの不思議な発明』は、「チェーホフの銃のルール」とは異なる「映画史的なルール」に則っていると言えるかもしれない。映画史的に言えば、列車が登場したら観客に向かって走ってくるはずだし、舞台設定に時計台があるならば誰かがそこにぶら下がらなければならないのだ。
映画の歴史はリュミエール兄弟の作品から始まったとされている。動く映像というものを初めて体験した観客たちの驚きはいかばかりだったか。『ラ・シオタ駅への列車の到着』では、列車が客席に向かって走ってくるのを見て、皆逃げ惑ったという微笑ましい話が伝えられている(『ヒューゴ』でも再現される)。そんな映画の始まりから1世紀が経った1995年には、『世界の映画100年』という番組が企画され、日本でもテレビ放映された。アメリカ編を担当したのがスコセッシだった。ちなみに日本編は大島渚が担当した。イタリア編はベルトルッチで、フランス編はゴダールだ。もうひとつのイギリス編は批評家たちの鼎談になっていて、ケン・ローチを盛んに褒めている。顔ぶれを見れば、それぞれの国でもっとも重要な監督が選ばれていることがわかる。
その番組のなかでスコセッシは自身と映画との出会いを語っていた。小さいころに病弱だったスコセッシは外で遊ぶことが出来ず、映画館で多くの時を過ごすことになる。その当時ニューヨークで公開された映画はすべて見たと豪語するほどの映画狂なのだ。巨匠と呼ばれるようになった現在では、映画の保存を目的とする財団の活動にも力を入れているそうだ。そんな映画狂のスコセッシだからこそ、映画への愛情がたっぷりと詰まった『ヒューゴの不思議な発明』ができたのだろう。
この映画はヒューゴ少年の冒険から始まる。ヒューゴが修理した自動人形(『メトロポリス』のアンドロイドを想起させる)が、「月に突き刺さるロケットの絵」を描き出したときには、ジョルジュ・メリエスを多少なりとも知っている人ならば、この映画の意図を悟って驚きとともに感動を覚えるだろう。実はこの作品は、映画へのオマージュを捧げた映画なのだ。
この映画では「映画の教科書」的文献に出てくる映画が数々登場する。黎明期の映画を振り返るような意味合いもあるのだ。リュミエールにメリエス、『大列車強盗』も出てくる。チャップリンもキートンもロイドも登場する。そんな映画史を踏まえれば、ヒューゴ少年はロイドの『要心無用』のごとく、当たり前のように時計の針にぶら下がらなければならない。ジャッキー・チェンも『プロジェクトA』でやったように、由緒正しい時計台の使い方なのだ。
サイレントからトーキーへ、白黒からカラーへ、フィルムからデジタルへ、映画にはこういう大きな歴史がある。実写からCGへの流れもある。ほかにも画面サイズを見れば、スタンダードサイズからビスタ、シネスコへという歴史もある(※①)。画面構成に目を向ければ、ごく初期の、演劇をそのまま映したような平面的な画面から、縦構図を活かした奥行きのある画面へという歴史もあるだろう(※②)。そんな映画の歴史を踏まえ、スコセッシが新たなる意匠(3D)を加えて完成させたのがこの作品なのだ(※③)。初めて3D映画を撮るならば、『列車の到着』を新たに3Dで撮り直すことが映画史的に正しいあり方だし、“迫り来る列車”という映画の原初体験をさらなる迫力でというのは見せ物として楽しそうだ。だからこそ『ヒューゴの不思議な発明』には3Dの必然性があるし、ヒューゴ少年が時計台の裏側を走り回る冒頭部分など、3Dの特質を十分に活かした作品に仕上がっていると思う。またメリエスの代表作『月世界旅行』も、その一部を3Dで体験できるのだから貴重な作品だ。
こんなことを言いつつも、結局はDVD発売まで待ってしまった私は愚かだった。致命的な間違いを犯したことにいまさら気がついたわけだが、悔しいから八つ当たり的に一言付け加えると、最近の映画宣伝方法はちょっと詐欺みたいなものもある。『ヒューゴ』は子供向けのファンタジーだけの作品ではない のは明らかなのに。ほかにもたとえば『ツリー・オブ・ライフ』。“家族の物語”を期待した観客は、恐竜が画面を走り出したのを見て唖然としただろう。映画を要約するテストがあれば、完全に落第点だ。観客動員が大切なのは理解できるのだけれども……。
※① 『ヒューゴ』をテレビのワイド切替をノーマルにして再生するとスタンダードサイズの画面になるのだが、DVDの情報にはビスタサイズとある。製作者が考える正規の画面サイズというのは重要な要素だと思うのだが、ないがしろにされている気がしてならない。
※② デイヴィッド・ボードウェル 『映画の様式-その変化と連続性-』より
※③ 3D映画が新しいというのは本当は間違いで、かなり以前から3D映画はある。技術的な問題からか、あるいは単に効果的でなかったからか、あまり普及しなかっただけだ。マンネリ化して飽きられてきたホラー映画に綾をつけるといった意味合いで3D作品があった(『13日の金曜日』とか)。そう言えば、85年の「つくば科学万博」では立体映像を見せるパビリオンが4つもあり、かなりの盛況を見せていた。子ども心にも“飛び出す映像”というのは楽しかった。
スコセッシの作品

題名の「不思議な発明」は映画の内容とはそぐわないが、原作の絵本(?)ではうまくオチがつくようになっている。

ジェームズ・キャメロンが3D映画としての『ヒューゴの不思議な発明』を絶賛している。キャリアとしてはスコセッシのほうが上なのだが、キャメロンは最近の3D映画の先駆者としての自負があるのだろう。たしかにキャメロンが絶賛するとおり芸術的な3D映画となっているし、なによりこの映画には3D映画たる必然性がある。
『アバター』は3D映画の特質というものをよく捉えた映画だった。映画における主人公は観客から見られるだけでなく、観客の視点を代行している。『アバター』では、主人公は自らのアバター(分身となるキャラクター)を操作して異星人の村に潜入する。観客は主人公の姿(=アバター)を追いつつ奥行きある映画の世界へと入り込んでいく。つまり観客のアバターとなるのが主人公なのだ。半身不随で動けないはずの主人公が、アバターに同化することでパンドラという新たな世界を体験するのと同じように、観客は主人公に同化して未知の立体的な映画世界を体験することになるのだ。現実とはまた別の立体的な世界への導入がスムーズにいくように設計されている。
『プロメテウス』も3D映画として映像に奥行きは感じられたが、リドリー・スコットの構築する素晴らしい画面以上のものを3Dが生み出していたとは思えなかった。多分2Dでも十分楽しめる作品だ。その意味で3Dの必然性はあまりない。
「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない」
これは村上春樹が『1Q84』で引用しているチェーホフの言葉だ。冒頭で拳銃が曰くありげにクローズアップされたならば、作品のどこかでそれは発射され、何らかの結末を用意することになる。これは一般的な作劇上のルールだ。その意味では『ヒューゴの不思議な発明』は、「チェーホフの銃のルール」とは異なる「映画史的なルール」に則っていると言えるかもしれない。映画史的に言えば、列車が登場したら観客に向かって走ってくるはずだし、舞台設定に時計台があるならば誰かがそこにぶら下がらなければならないのだ。
映画の歴史はリュミエール兄弟の作品から始まったとされている。動く映像というものを初めて体験した観客たちの驚きはいかばかりだったか。『ラ・シオタ駅への列車の到着』では、列車が客席に向かって走ってくるのを見て、皆逃げ惑ったという微笑ましい話が伝えられている(『ヒューゴ』でも再現される)。そんな映画の始まりから1世紀が経った1995年には、『世界の映画100年』という番組が企画され、日本でもテレビ放映された。アメリカ編を担当したのがスコセッシだった。ちなみに日本編は大島渚が担当した。イタリア編はベルトルッチで、フランス編はゴダールだ。もうひとつのイギリス編は批評家たちの鼎談になっていて、ケン・ローチを盛んに褒めている。顔ぶれを見れば、それぞれの国でもっとも重要な監督が選ばれていることがわかる。
その番組のなかでスコセッシは自身と映画との出会いを語っていた。小さいころに病弱だったスコセッシは外で遊ぶことが出来ず、映画館で多くの時を過ごすことになる。その当時ニューヨークで公開された映画はすべて見たと豪語するほどの映画狂なのだ。巨匠と呼ばれるようになった現在では、映画の保存を目的とする財団の活動にも力を入れているそうだ。そんな映画狂のスコセッシだからこそ、映画への愛情がたっぷりと詰まった『ヒューゴの不思議な発明』ができたのだろう。
この映画はヒューゴ少年の冒険から始まる。ヒューゴが修理した自動人形(『メトロポリス』のアンドロイドを想起させる)が、「月に突き刺さるロケットの絵」を描き出したときには、ジョルジュ・メリエスを多少なりとも知っている人ならば、この映画の意図を悟って驚きとともに感動を覚えるだろう。実はこの作品は、映画へのオマージュを捧げた映画なのだ。
この映画では「映画の教科書」的文献に出てくる映画が数々登場する。黎明期の映画を振り返るような意味合いもあるのだ。リュミエールにメリエス、『大列車強盗』も出てくる。チャップリンもキートンもロイドも登場する。そんな映画史を踏まえれば、ヒューゴ少年はロイドの『要心無用』のごとく、当たり前のように時計の針にぶら下がらなければならない。ジャッキー・チェンも『プロジェクトA』でやったように、由緒正しい時計台の使い方なのだ。
サイレントからトーキーへ、白黒からカラーへ、フィルムからデジタルへ、映画にはこういう大きな歴史がある。実写からCGへの流れもある。ほかにも画面サイズを見れば、スタンダードサイズからビスタ、シネスコへという歴史もある(※①)。画面構成に目を向ければ、ごく初期の、演劇をそのまま映したような平面的な画面から、縦構図を活かした奥行きのある画面へという歴史もあるだろう(※②)。そんな映画の歴史を踏まえ、スコセッシが新たなる意匠(3D)を加えて完成させたのがこの作品なのだ(※③)。初めて3D映画を撮るならば、『列車の到着』を新たに3Dで撮り直すことが映画史的に正しいあり方だし、“迫り来る列車”という映画の原初体験をさらなる迫力でというのは見せ物として楽しそうだ。だからこそ『ヒューゴの不思議な発明』には3Dの必然性があるし、ヒューゴ少年が時計台の裏側を走り回る冒頭部分など、3Dの特質を十分に活かした作品に仕上がっていると思う。またメリエスの代表作『月世界旅行』も、その一部を3Dで体験できるのだから貴重な作品だ。
こんなことを言いつつも、結局はDVD発売まで待ってしまった私は愚かだった。致命的な間違いを犯したことにいまさら気がついたわけだが、悔しいから八つ当たり的に一言付け加えると、最近の映画宣伝方法はちょっと詐欺みたいなものもある。『ヒューゴ』は子供向けのファンタジー
※① 『ヒューゴ』をテレビのワイド切替をノーマルにして再生するとスタンダードサイズの画面になるのだが、DVDの情報にはビスタサイズとある。製作者が考える正規の画面サイズというのは重要な要素だと思うのだが、ないがしろにされている気がしてならない。
※② デイヴィッド・ボードウェル 『映画の様式-その変化と連続性-』より
※③ 3D映画が新しいというのは本当は間違いで、かなり以前から3D映画はある。技術的な問題からか、あるいは単に効果的でなかったからか、あまり普及しなかっただけだ。マンネリ化して飽きられてきたホラー映画に綾をつけるといった意味合いで3D作品があった(『13日の金曜日』とか)。そう言えば、85年の「つくば科学万博」では立体映像を見せるパビリオンが4つもあり、かなりの盛況を見せていた。子ども心にも“飛び出す映像”というのは楽しかった。
スコセッシの作品

スポンサーサイト