ロマン・ポランスキー 『おとなのけんか』

 ロマン・ポランスキー監督の最新作。前作『ゴーストライター』はアクションに流されず正統派のサスペンスで素晴らしかったが、それからわずか1年。これは軽い作品ではあるが、監督も出演者も楽しんでいるのが伝わってくる。舞台劇の映画化で、主役級の4人の俳優陣(ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ、ジョン・C・ライリー)はなかなか豪華な顔ぶれだ。

ロマン・ポランスキー 『おとなのけんか』

 「おとなの」とわざわざことわるのは、けんかは子供がするべきものと思われているからで、「子供のけんかに親が出るな」とはよく言うけれど、この映画では、よせばいいのに親が首を突っ込んだものだから修羅場を迎えることになる。
 因みに「夫婦げんかは犬も食わぬ」ってのは、「夫婦げんかはくだらない」という意味ではないらしい。本来は「じきに仲直りするから、他人が仲裁に入るのは愚かなことであるというたとえ」なんだとか。どちらにしろけんかはしたくないものだけど。

 冒頭、被害者と加害者のそれぞれの両親がNYのマンションに集合すると、最後までカメラはマンションから出ずに2組の夫婦のけんかの様子を描いていく。ヒッチコック『ロープ』のようなリアルタイムの進行で、80分でけんかも映画も終る(とはいえワンカットではないし、場面転換もあるので、リアルタイムらしさはあまり感じられないが)。
 思えばポランスキーは初期の『水の中のナイフ』『反撥』『袋小路』から、閉ざされた状況を描いていた。例えば『袋小路』では、孤島に住む夫婦の間にギャングが闖入したことで、夫は半狂乱に到り、妻は夫を捨てて逃げ出すことになった。
 『おとなのけんか』では、閉ざされた空間とはいえ、初期作のように外部から孤立しているわけではない。携帯電話は外部のいざこざも運んでくるし、その持ち主である無作法な弁護士は、謝罪に訪れたくせに、場の雰囲気を顧みず電話の向こう側と商談を始めて皆をしらけさせる。さらに突然の嘔吐騒ぎが持ち上がったりするものだから、煮詰まっていくかもしれない怒りさえも途切れ途切れになってしまうのだ。ここでは修羅場とは言っても緊張感は絶えず断ち切られ、それぞれの感情が空転していき次第に笑えてくるコメディとなっている。
 中断のたびに4人の状況も変化していき、2組の夫婦のけんかが男対女の戦いになり、味方を交換して言い合ってみたり、ひとりを3人で攻撃してみたりもする。互いに中傷したり、なだめてみたり、開き直ってみたり、愚痴ってみたり、自分を卑下してみたりはするのだが、結局はどこにも辿り着かないのだ(修羅場に辿り着いたとは言えるが、決定的な何事も起きたりはしない)。すましてはいても皆大人になりきれてなく、大きな子供が“大人”みたいなフリをしていただけ。誰もがその子供っぽい愚かさをさらけ出すしかない哀れな存在なのだ。
 ラストで外に出たカメラは、すでに仲直りをした子供たちの姿を見せる。大人たちの愚かさはいや増すばかり。そんな修羅場から運よく逃げ出したハムスターが、大人たちの心配をよそに公園で自由を謳歌しているのもほほえましい。

ポランスキーの作品


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Date: 2012.07.31 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

アンドリュー・ニコル 『TIME/タイム』

 秀逸な設定の脚本が楽しませてくれた『ガタカ』(監督/脚本)や『トゥルーマン・ショー』(脚本のみ)のアンドリュー・ニコルの脚本・監督作品。

アンドリュー・ニコル 『TIME/タイム』

 『TIME/タイム』は『ガタカ』の世界の先を見据えたような作品だ。『ガタカ』では遺伝子操作によって“適正者”と“不適正者”が区別される世界だった。遺伝子を検査すれば持病から寿命、社会的に不都合な性格までも判断できてしまう。だから自然に生まれた人間よりも、遺伝子操作された“適正者”が優遇されることになる。
 『TIME/タイム』の世界では、もう“不適正者”は存在しない。すべての人間が遺伝子的に“適正者”として生まれ、肉体的に完成されるであろう25歳をもって成長を止め、その後いっさい老いるということはない。完成された肉体を持ち、銃で頭を撃ち抜かれでもしない限りは死ぬことはない。不老不死が実現された世界なのだ。
 そうなると皆が幸せになるかというと、どうやらそうでもないようだ。病気も老化もなく死者が出ないということになれば、当然人間は増え続けることになる。そうなると不都合が生じるのは明らかで、なんらかの形で選別がなされなければならない。
 そのための方策として登場するのが“ボディ・クロック”という発明だ。腕に時計が埋め込まれ、そのカウントは25歳になり人が成長を止めたときからスタートする。この時計は時刻を示すものではなく、その人の残り時間を示すのだ(最初は1年間の寿命が与えられる)。
 さらに、その時間は通貨の役割をも果たす(これもユニークな設定だ)。まさに「時は金なり」だ。通貨である<時間>をたくさん持っている人間は、残り時間も多いことになる。保有する通貨の多寡で選別がなされるわけだ。病気も老いもないのだから生活保護なんかあるはずもなく、何らかの理由で手持ちの<時間>が尽きた順に死んでいくのだ。富裕層は莫大な<時間>を保持し、ほぼ永遠の命を有することになる。逆に貧者の残り時間は少ない。日々<時間>を稼いでチャージしていかなければ生きていけないのだ。
 この世界では給料も日々<時間>で配られ、買い物も<時間>で取引される(コーヒー一杯が4分、バス賃が1時間半とか)。例えば、娼婦はこんなふうに声をかける。「10分で1時間よ」。これをわかりやすく言葉を補えば、「1時間分の<時間>をわたしにくれれば、10分間だけいいことしてあげるわよ」といったところだ。すべてが時の尺度で計られるのだ。この世界では時間=通貨=命ということになるわけだ。

 現実の世界なら、金満家の老人も金を払って寿命を延ばすことはできないし、若者の多くは時間は無駄なほどあっても有効に活用するための手段となる金には事欠いている。どちらにしてもままならないのが世の中なのかもしれないが、『TIME/タイム』の世界ではそれが解決されたのだろうか。もしかすると富裕層にとっては解決したのかもしれない。すでに死は失われた。<時間>という通貨を集めれば、永遠に生きていける可能性がある。人口問題は<時間>の流通を操作したり、物価を上げることで調整できる。<時間>はそのまま命だから、市場に出回る<時間>が少なくなれば当然死者は増える。体制側からすればこんなに管理が楽なシステムはないのかもしれない。体制側が困らない程度の人間を生き延びさせて社会を回し、私腹をさらに肥やすわけだ。
 
 とにかく設定は冴えている。その設定に関してのみでさらに言葉を連ねることもできるのだけれど、これは映画の出来とはまったく関係のないこと。決して退屈する映画ではないのだが、残念ながらその設定のおもしろさをうまく処理できているとは思えないのだ。興味深い部分ももちろん多い。老いの失われた世界だから、母親も妻も娘も皆一様に若く魅力的で恋愛事情も複雑になるとか、その他諸々……。一方でツッコミどころもまた満載なのだが、ここではラストについて記す(どんなラストにしようが勝手なのだが、あまりにもその設定とかけ離れている)。
 『ガタカ』では空を見上げれば宇宙へ向かうロケットが飛び、“不適正者”の主人公は“適正者”を差し置いてタイタンへ旅立つことができた。努力次第でなんとか“適正者”に太刀打ちできる余地があったのだ。簡単に言えば、その世界にはどこか夢や希望があった。『TIME/タイム』ではまったくそれがない。完全に管理されつくしたディストピアなのだ。もちろん夢や希望がないのは一向に構わないのだが、そこから導き出されるラストが「暴れてみたら楽しかった」みたいな個人的な発散にしか見えないのだ。
 主人公は大富豪の娘を人質に取って、ボニーとクライドを思わせる逃避行をし、体制に対して反抗を試みる。それは大富豪が言うように、「究極的には何も変わらない」程度なのだが、主人公はたかだか100万年分の<時間>を街にばら撒いただけで、体制を変えたみたいに得意顔なのだ。あまりに能天気すぎるだろう。『TIME/タイム』の設定は、ごく一部の人間が富を独占する現実社会の風刺だろうが、それに対する解決策にしてはあまりに投げやりだ。銀行を襲えば資本主義体制が崩れるなんてことはないのだから。ボニーとクライドがいつまでも好き勝手を続けられなかったように、主人公たちの行く末も決まってくるはずなのだ。マーケティング戦略に則ったのかわからないが、上辺だけ取り繕ったようなエンディングにはかえって興醒めだろう。

アンドリュー・ニコルの作品

Date: 2012.07.23 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『ミッション:8ミニッツ』と“ループもの”

 原題は「Source Code」。これは映画で一種のタイム・トラベルを可能にするための装置のこと。理系に疎い人間の理解として記せば、一般的に「Source Code」とは、コンピューターが読み取るための言語を人間でも読めるように記述したものらしい。
 因みに、この映画のコピー「このラスト、映画通ほどダマされる。」は、評判がよくないようだ。どこでダマされたのか、なんだかよくわからないからだ。

ダンカン・ジョーンズ 『ミッション:8ミニッツ』

 シカゴで起きた列車大爆発事故。犯人は次のテロをも狙っている。それを阻止するために事故で死んだ人の意識に入り込んで、爆発までの8分間を何度も体験するというのが物語の大筋だ。そのミッションを可能にするのが「Source Code」という装置。開発者によれば死んだ人間の脳には最期の8分間の記憶が保存されていて、その記憶をプログラム上に再構築してシミュレートさせるのだという(最後にそれが単なるシミュレーションではないことが判明する)。そのシミュレーションのなかで唯一の変数である主人公スティーブンス大尉は、爆発を阻止するために様々な方法を試みる。

 監督のダンカン・ジョーンズは、『月に囚われた男』でデビューして、本作品が2本目。『月に囚われた男』でもSFガジェットを使用して物語を展開させている。そこに目新しさはないし、映像にも既視感が漂うが、哲学的な「私という存在」を考えさせられる映画だ。『ミッション:8ミニッツ』も使い古された題材の組み合わせではあるが、テロの阻止という犯人探しの部分と、突然知らない人間の意識に入り込んだ魂(?)としてのスティーブンス大尉が自らの状況を探っていく部分、そして与えられたミッションを超えて自分がやり残したことを成し遂げようとする部分、それらをうまく配分している。前作よりも内省的になりすぎず娯楽作となっているのだが、それ以上に、見終わった後も何度も頭のなかで反芻してあれこれ考えてしまうような映画だ(実際、「2ちゃんねる」には膨大な量の書き込みがある)。

 タイム・トラベルを扱った映画は数多いが、『ミッション:8ミニッツ』はそのなかでも“ループもの”に分類されるだろう。主人公が何度も同じ時間を繰り返すというやつだ。しかし“ループもの”とは言え、その主題は様々だ。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は、同じ1日に永遠に閉じ込められることが恐怖となり、「終わりなき日常」(宮台真司)との関連で捉えられたりもする。
 『ミッション:8ミニッツ』は、“ループもの”で言えば『恋はデジャ・ブ』に近い部分がある(脚本家が『恋はデジャ・ブ』を参考にしたと語っているようだ)。『ミッション:8ミニッツ』でも『恋はデジャ・ブ』と同様に、何度も体験する8分間に出会う人たち(列車事故で亡くなることになる人たち)をかけがえのない存在として捉えるようになるのだ。

 過去に戻って人生をやり直す。こうした題材の原点は『ファウスト』にあるんだとか(ファウストは若返っただけだが)。人生をやり直したいとは、老い先が短くなくても誰しもが思うことなのだろう。人は日々間違った行動ばかりしているからだ。ああすればよかったとか、なぜこうしなかったとか、常にそんな思いに囚われる。「後悔先に立たず」とことわざにもあるように、人は振り返って過去を悔やむことがなんと多いことか。現実は1回限りでやり直しがきかない。だからこそ悔やまざるを得ない。そんな思いが人をして妄想させ、“タイム・マシン”なんてものを生み出すのだろう。
 だから主人公のスティーブン大尉が最期のループにおいて、それまでの失敗を糧にして、難題を軽々とこなしていき、すべてのミッションを成功させたときには快哉を叫びたくなった。ただ私が未だ腑に落ちないのは、最後のループで辿り着く銀色のオブジェのシーンが最初から走馬灯のように画面に登場していたということだ。走馬灯というのは当然既に体験した映像であるわけだ。つまりすべてのミッションを終えた大尉の脳から、そのデータが取り出されて、ソースコードという装置によって人間に理解できるように構築されたということなのだろうか。
 量子物理学とかエヴェレットの多世界解釈とかに詳しければ説明が可能な問題なのかもしれないけれど、文系の人間としてはお手上げだ。タイム・トラベルものには必ずパラドックスがつきまとうのだろうが、それについての解釈を様々に巡らせることもこうした映画の醍醐味なのかもしれない。

『ミッション:8ミニッツ』と『月に囚われた男』
Date: 2012.07.16 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

デヴィッド・フィンチャー 『ドラゴン・タトゥーの女』

 原作は『ミレニアム』というスウェーデンの小説。すでにスウェーデン版として全3部作が映画化されている。原作の題名を直訳すると「女を憎む男」。主人公リスベットは「男を憎む女」なのだが……(因みに私は原作も読んでいないし、スウェーデン版も未見です)。

デヴィッド・フィンチャー 『ドラゴン・タトゥーの女』

 ある監督の作品が気に入って次の作品を心待ちにするようになると、特にそれが独特な映像世界を造っている作家性の強い監督となればなおさらだが、「この監督は〇〇だ」とか一言で決めてみたくもなるものだ。デヴィッド・フィンチャーの映画を観ると、私もいつもそんなことを考えるのだが、うまくはまる言葉がない。
 宮台真司は、フィンチャーについて、巷間よく言われそうな「スタイリッシュな映像」については凡庸な指摘だと切り捨てて、観客の感情への訴求がない展開をスーパーフラットだと記す。そしてこんなふうに決めている。

 フィンチャーの本質は「道徳から遠く離れて」にある。道徳的視座との過剰な無関連ぶり。これはどう見ても非凡である。    『〈世界〉はそもそもデタラメである』


 これは『ゾディアック』のときの文章だが、過去作に比べオーソドックスな印象を受ける作品を擁護し、フィンチャー作品への誤解を正すべく語られたものだ。『ソーシャル・ネットワーク』もこの視点から論じられている。『ドラゴン・タトゥーの女』についての宮台の見解は知らないが、上記のフィンチャーの本質についてはちょっと首を傾げざるを得ない。フィンチャー作品を貫く支柱の想定は理解できるが、あまり説得的だとは思えない。

 ここ最近のフィンチャー作品『ドラゴン・タトゥーの女』『ソーシャル・ネットワーク』『ベンジャミン・バトン』『ゾディアック』は膨大な量の情報をいかにして物語るかという点に力点が移っているように感じられる。例えば『ソーシャル・ネットワーク』では、頭の切れる学生たちの饒舌な台詞を処理するために、台詞のテンポを早め次の台詞をかぶせ気味に発することで時間を短縮しているそうだ。
 『ドラゴン・タトゥーの女』では、スウェーデンを牛耳るほどの名門一族の闇があり、連続する猟奇的殺人の謎があり、消えた少女の行方が改めて探求され、一族の評伝を書く名目で登場し“招かれざる客”となる記者ミカエルの奮闘が追われていく。とにかく長大な原作を2時間半に詰め込んで、テンポよく物語は展開していく。ジャンルで言えばミステリーなのだが、タイトルにもあるように「ドラゴン・タトゥーの女(=リスベット)」が作品のメインだからか、観客の興味を惹きつける謎はあっけなく解け、『セブン』のように殺人鬼が活躍することもなく、律儀に消えた少女を探し出し、はめられたミカエルの名誉回復にリスベットが策を弄する後日談までを描いている。観客の感情に訴えるならもっといびつに描いてもよさそうだ。リスベットのミカエル救出と殺人鬼との対決、そのあたりのシークエンスをさらに盛り上げることもできたはずだ。しかし意外なくらいにさらっと描いているのだ(宮台が指摘するスーパーフラットだ)。

 ところで、蓮實重彦はどこかで映画における「説話論的な経済性」ということを語っていた。これはいかに簡潔に物語を観客に伝えるかということだ。現在の映画は「説話論的な経済性」が失われて見世物と化しているのだそうな。物語を伝えるよりも、スペクタクルが支配する映画がいかに多いか。
 そもそも映画とは物語を伝えるメディアとしてあった。そんなふうに考えると、フィンチャーの意図は端的に物語を伝えることの重視にあるのではないか(身もふたもない結論だが、作家性という名の自己主張みたいなものを見出すほうが間違っていたのかも)。『セブン』や『ファイト・クラブ』の印象もあって独自の世界観を期待しまうのだが、フィンチャーは一種の“職人”なのではないか。
 もともとフィンチャーはPV製作から映画業界に入ってきた人だ。そのころからいわゆる「スタイリッシュ」な映像とやらを造ることに長けていた。マドンナの「Vogue」やストーンズの「Love Is Strong」のPVもフィンチャーが手がけたものらしい。
 個人的な記憶をたどれば、私も当時の『MTV』や『ベストヒットUSA』などでそうしたフィンチャー作品を知らぬうちに見てきた。初期のフィンチャーの作品であるPaula Abdulの一連のヒット曲「Straight Up」、「Forever Your Girl」、「Cold Hearted」、「Opposites Attract」を見てもわかるが、何しろ器用で多才なのだ。黒と白のコントラストが印象的な映像もあれば、『フラッシュダンス』のパロディめいたものがあり、『ロジャー・ラビット』ばりのアニメキャラクターとの競演までしている。ジャネット・ジャクソンの振り付け師だったPaula Abdulは才能のある人なのかもしれないが、フィンチャーの手がけた「Straight Up」が成功のきっかけとなっている(デビューアルバムから4曲ものビルボードチャート1位を獲得!)。フィンチャーのPVが果たした役割も小さいものではないはずだ。もちろんPVにはフィンチャーの作家性などない。曲とPaula Abdulのダンスを売るためのプロモーションに資することが重要なのだから。
 マルチな才能があるからといって、その才能を自らの主張やモチーフに振り向ける必要もないのだ。作家性よりも“職人”としての仕事ぶりをもっと注視すると、その堅実な仕事が見えてくる。『セブン』みたいな題材にはグロテスクさをたっぷりと見せたりもするが、『ソーシャル・ネットワーク』では若者たちの愛憎を台詞劇に徹して描いても飽きさせることはない。『ドラゴン・タトゥーの女』でも連続殺人が起こるが、それは警察の証拠資料として登場するくらいで、描くべきはリスベットというちょっと風変わりで複雑な女の存在なのだ(過去の体験からか男を憎みつつも、なぜかミカエルには惹かれている)。だからミカエルに会う前のリスベットの悲惨なエピソードは丹念に追われている。描くべき物語(脚本)に対していかに効果的に接近するかという点がフィンチャーにとって重要なのだろう。それが「説話論的な経済性」と呼べるかは私にはわからないが、フィンチャーはアーティスティックな世間的イメージと違って職人的な監督なんじゃないかと思う。



デヴィッド・フィンチャーの作品
Date: 2012.07.11 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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