園子温 『ヒミズ』

 原作は古谷実の人気漫画。園子温監督にとっては初めての原作ものとなる。

園子温 『ヒミズ』

 舞台となる貸しボート屋と沼の風景は古谷実の原作そのままの雰囲気だし、台詞やエピソードも原作に沿ったものが多い。ただキャラクターは園子温寄りであり、主人公住田に付きまとう茶沢のキャラクターはまったく違ったものになっている(演じた二階堂ふみははかなさのない“宮崎あおい”みたいで生命力を感じさせる)。親と子の関係も同様で、住田の父親は息子に向かって「しぶとく生きてるな、お前。本当におれ、お前いらねえんだよ」などと言ってのけ、園子温的なあざとさを見せている。
 しかし、それ以上に、映画『ヒミズ』では原作から改変された部分がある。漫画から削られたのが「化け物」の存在で、代わりに映画に加わったのが「震災」だ。 この改変は現実に起きてしまったこと(震災)を無視できなかったことにある。映画鑑賞後に原作を読み直したら、「母親なんか大地震が来たらどさくさにまぎれて(父親を)殺してやるって言ってるぜ」という住田の台詞があった。この台詞は映画にも出てくる。たしか「今度また地震が来たら」と付け加えられてはいたが……。原作の時点(2001年)では東日本大震災は起きていない。これは「そんなことは起きない」と高をくくっていたからこその台詞だ。だけど現実には起きてしまった。
 園監督は脚本を大きく変えるのが倫理的なあり方と判断した。「現実の被災地にカメラを持ち込むようなまねは、映画人の礼儀としてするべきではない」と語っていた著名な映画監督もいた。しかし、園監督は起きてしまったことに目を背けるなと言わんばかりに被災地へ入り、その悲惨な状況を映画に取り入れたのだ。宮台真司曰く、園子温の映画は「日常の空虚を見て見ない振りをし続ける自己欺瞞を軽侮し、観客に不快な思いをさせる」。顰蹙を買うとわかっていても真実を突きつけるのが、良くも悪くも園監督のやり方なのだ。
 もちろん改変による不整合もある。漫画の住田の見る「化け物」は、住田にしか見えない存在だった。それは住田の「宿命」の姿だから(あるいは病の姿かもしれない)。だがそれが「震災」となると、住田個人の問題ではなくなる。「化け物」と「震災」では意味が異なってくるのだ。園監督も「震災」を取り入れたことについて、「ぶち込むしかない」と発言しているし、無理は承知なのだ。多少の整合性を無視してでも描くべきことがあるということなのだ。

 この映画のラストでは、圧倒的に暗い原作とはうって変わって“希望”が感じられる。園監督はこう語る。
 

 今回の映画の中で「がんばれ」という言葉が出てきますが、これまでは無責任だし誰でも言える、好ましくない言葉だと思っていました。でも、今の過酷な現実を前にして希望を持たざるを得なくなったし、絶望だけではやっていけないと思うようになったんです。僕は「希望に負けた」と説明しているんですが、この映画の中にある「がんばれ」には、「希望だ!」ではなく、自分に言い聞かせるように「仕方ない。希望を持つか」というやけっぱちな思いを込めているんです。


 単純に「がんばれ」なんて応援は多くの人が鼻白むだろうし、お茶を濁すためのあいさつ程度の意味しか持たない。この映画でも中学の教諭が「世界に一つだけの花」の歌詞を引いて「オンリーワンになれ」「住田、がんばれ」などと諭す。説教というのは真っ当だとわかっているからこそ、言い方によっては否定され揶揄の対象になる。住田も当然そう考えていたはずで、(オンリーワンなんかじゃなく)「普通が最高」だと返すのだ。しかし住田は「普通」には生きられなかった。母親に捨てられ、父親を殺し、おまけ人生を世の中の悪党を退治しようとして彷徨する。そうした遍歴を経たからこそ、同じ「がんばれ」という言葉も違った意味を持ってくるのだろう。
 ラスト、自殺に到るエピソードはほとんど原作通りだ。ただ映画では生き残ってしまう。その理由は説明されない。住田は自らのこめかみに銃口を向け引き金を引くが、音は聴こえてもその瞬間は捉えられない。怖くなって弾を逸らしたのかもしれないし、おもちゃの拳銃だったのかもしれない。とにかく生き残ってしまうのだ。だから「仕方ない。希望を持つか」となるわけだ。生き残ったのは住田だが、そこに震災を越えて生き残った人々の姿を見るのは容易だ。茶沢の「住田、がんばれ!」という言葉に、住田自身も「住田、がんばれ!」と言い聞かせ、前へとがむしゃらに走り出すのだ。
 冒頭に震災の風景が登場したときに、結末が漫画と異なるものになることはある程度推測はできたけれど、私は根が素直なもので涙を禁じえなかった。

 そろそろDVDも発売という時期だけに、巷には『ヒミズ』の賛否様々な意見が出揃っている印象だ。たとえば宮台真司(映画『ヒミズ』にも出演して原発問題を論じている)はいつものように饒舌に「震災」後の日常と非日常について語っている。斉藤環も映画での改変について分析し、「がんばれ」を“祈り”の言葉だと論じている。ほかにも挙げればきりがない。言うべきことはすべて語られているようにも感じられる。しかし、映画『ヒミズ』の「がんばれ!」という言葉に少なからず心を動かされてしまったからには、屋上屋を架すのを承知でやはり何かしら語るべきだと思うのだ。

映画『ヒミズ』と漫画『ヒミズ』
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Date: 2012.05.31 Category: 園子温 Comments (0) Trackbacks (0)

松江哲明 『あんにょん由美香』

 「2005年6月26日 林由美香さんが亡くなった」と始まる『あんにょん由美香』は、『監督失格』でも描かれた林由美香を巡るドキュメンタリーである。ただし公開は2009年で、『監督失格』より前である。

松江哲明 『あんにょん由美香』

 監督松江哲明の著書『セルフ・ドキュメンタリー 映画監督・松江哲明ができるまで』によれば、彼の学生時代の失われた作品に『裸の履歴書』という林由美香を題材にしたものがあるそうだ。しかし、それを観た林由美香に「松江くん、まだまだね」と言われてしまう。平野監督が「監督失格だね」と言われたように……。林由美香の死をきっかけにして、松江は林由美香を題材に「一本ちゃんと(撮りたい)」と考え、映画を撮ることで「由美香さんへの想いを表現したい」と決意する。

 この映画の端緒には『東京の人妻 順子』(ユ・ジンソン監督)という韓国で製作され、林由美香が順子役を演じたエロ映画がある。松江は林由美香亡き後に、この映画を発見し、「誰が『東京の人妻 順子』を作ったんだろう?」「どうして由美香さんは韓国のエロ映画に出たんだろう?」と疑問を提示する。
 しかしこの疑問は一般的な興味をひくものではない。映画のなかでも問われているが、このドキュメンタリーをつくる動機(松江の著書によれば「内的必然性」)が弱いという批判は否めない。『監督失格』の平野勝之の場合、その必然性は疑いようがない。かつての仕事の同僚、あるいは不倫相手、さらに加えればその“死”の第一発見者として、林由美香との縁は切っても切れないものがあるからだ。
 一方、『あんにょん由美香』の監督である松江哲明はいささか分が悪い。『東京の人妻 順子』が対象として選ばれた理由は、それが日本では誰も知らなかった一部の好事家のみが面白がるいわゆるトンデモな作品だからだが、もしかするとそれが韓国作品だからかもしれない。松江哲明は日本に帰化した在日三世であり、デビュー作品『あんにょんキムチ』は在日である自分についてのドキュメンタリーだ。林由美香との共通点が韓国で見つかればという“もくろみ”があったのかもしれない。
 松江は韓国まで『東京の人妻 順子』を追って行くが、ほとんど何も見つからない。“もくろみ”は外れたのだ。すでに引退したユ監督を探し出して、脚本だけに残された幻のラストシーンの意味や、韓国語と日本語を使い分けている意図を問いただしても、返ってくる答えは「意味ない」「関係ない」という言葉ばかり。他愛ない作品に過剰な意味を求めるのは、松江の個人的な思い込み(もしくは林由美香に対する思い入れ)に過ぎないのだ。劇映画とは違い、現実は脚本どおりに動いてはいかない。これはドキュメンタリーなのだ。

 松江哲明という人間は怖いもの知らずに見える。KY(空気が読めない)にもほどがあろうに平野勝之より先に林由美香の映画に着手し、平野には「誤魔化すような真似するなよ」なんてクギを刺されてもやり通してしまうのだから。
 結局、きっかけは林由美香にあったけれど、できた映画は追悼とは違ったものになった。終盤、かつての監督や俳優たちがもう一度集まって、あの幻のラストシーンを撮り直すのだ。私には『ニキータ』のラストのパクリにしか思えなかった。そんな他愛ないシーン蘇らせるのだ。およそ馬鹿げた振る舞いと言えるだろう。しかしそこには映画への想いが感じられてほほえましさが残る。「映画は麻薬です」とは、韓国人の出演俳優のつぶやいた言葉だが、映画が好きでなければそんな馬鹿げたことには付き合えない。松江監督はこの映画に3年の時間をかけている。監督も当然ながら映画が好きなのだ。そんなことが感じられるから、映画が好きでこんなことを記している私にも、我が事のようになかば呆れながらもほほえましく思えるのだ。

 それから、『監督失格』で由美香ママの語っていた「人間は二度死ぬ」という言葉は、『あんにょん由美香』でも語られている。中野貴雄という映画監督の言葉だ。中野氏は『007は二度死ぬ』の主題歌の歌詞を引用する。

 You only live twice.
 One life for yourself and one for your dreams.


 「ひとつは自分自身のために死ぬ。もうひとつは夢のために死ぬ」。ここからが中野氏の解釈だ。「夢のために死ぬというのがずっとわからなかったが、夢を見るのは死んだ人が見るわけではないから、残された人が夢を見るんです。ということは夢のなかにいる限り(その亡くなった人は)生きているんです。完全に忘れられたときに二度死ぬんじゃないかな」。
 由美香ママは『あんにょん由美香』を観て、『監督失格』でのインタビューで「人間は二度死ぬ」という言葉をふともらしてしまったのではないか。これはもちろん私の思い込みだけれど、松江監督は由美香ママを介してでも、『監督失格』のなかに『あんにょん由美香』の痕跡を残せたのを嬉しがっているんじゃないかな。

松江哲明の作品
Date: 2012.05.23 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

吉田修一 『横道世之介』

 吉田修一の本は、『悪人』『パレード』など映画化されることも多い。この『横道世之介』も映画化され、来年公開予定である(映画版についてはこちら)。

吉田修一 『横道世之介』

 『横道世之介』は大学に入学したばかりの横道世之介の1年間を、同じ1年間の期間をかけて新聞連載として描いたものだ。ただ時代は80年代のバブル期の設定だ。章立ても月ごとに分かれ、入学式や夏休み、クリスマスにバレンタインなど、大学生らしいイベントが盛り込まれている。
 そんな<現在>の流れに、突然将来の出来事が挿入されてくる。これは小説の流れから見れば将来だが、連載時(2008年4月から2009年3月まで)の話ということになる。ここでは世之介が出会った友人たちのその後が描かれる。サンバサークルの倉持と唯、ゲイの加藤、お嬢様の祥子、憧れの片瀬千春など、世之介とは離れそれぞれの道で生きている。この設定(<現在>への将来の挿入?)は読んでいて不思議な気持ちになった。

 時間が一方向にしか流れないように、現実世界では、現在から過去を振り返ることしかできない(未来は未定だから)。小説では、現在から過去を振り返る「回想シーン」は、登場人物の現在を説明する常套手段だろう。例えば犯人探しのミステリーなら、過去の不幸な出来事が、現在の悲惨な事件の引き金になるといった手法だ。
 そんなとき、何故か「偶有性」の問題がつきまとう。簡単に言えば「そうでない人生も可能だったのに……」という感覚だ。もちろんすべての「回想」がそういった後悔の念を生じさせるわけではないはずで、回想の幼年時代がその人にとっての黄金時代である場合もあるはずだ。だが多くの「回想シーン」は何らかの「偶有性」を感じさせるものとなっている。

 吉田修一作品でも『さよなら渓谷』では、過去を振り返ることが作品の核になっている。

「……あの事件を起こさなかった人生と、かなこさんと出会った人生と、どちらかを選べるなら、あなたはどっちを選びますか?」


 これは過去の事件を秘密にして生きてきた主人公に向けられた言葉だ。主人公はその事件を起こしたことで自分の人生を狂わせ、それ以上に被害者の人生をも狂わせたわけだが、現在から振り返れば「事件を起こさなかった人生」が常に主人公の頭のなかに去来する。現実には「事件を起こさなかった人生」ではなかったからこそ、「事件を起こさなかった人生」を思い描かざるを得ないのだ。

 翻って『横道世之介』だが、読者は突然、それまで大学生だった登場人物の20年後に出くわすことになる。その印象は登場人物ぞれぞれで違うだろうが、残念(あるいは痛快)に思うかもしれないし、意外な感に襲われるかもしれない。けれども読んでいくにつれ「なるべくしてそうなった」と思わされる。納得させられてしまうのだ。それは当然と言えば当然で、20年後の現在は厳然としてそこにあるのだから、受け入れざるを得ないのだ。しかし、それは<現在>として描かれる学生時代があったからこその納得なのだと思う。「宿命」とか大げさな言葉は似合わないが、その20年後の姿を肯定するほかない気持ちにさせられるのだ(私が感じた不思議な感覚はこのあたりにあるのだと思う)。

 主人公世之介について、作者(吉田修一)はこんなふうに描く。

 九月になっても一向に涼しくならない。すでに十時間以上も寝ているくせに、まだ眠れるんじゃないかと汗臭い枕に顔を押しつけているのが世之介である。これが三日ぶりの睡眠であるならば話も分かるが、地元から戻って以来、気分が悪くなるほど世之介は寝てばかりいる。


 このあと友人の加藤がたこ焼きを持って訪ねてくると、世之介は「寝起きで、たこ焼きかぁ」とつぶやきつつもたこ焼きに手を出すのだが、作者は「食べるくせに文句は言うのである。」とツッコミを入れる。何だかアニメ『ちびまる子ちゃん』のナレーションのような語りである。この語りは客観的というよりは、世之介の側で彼を見守っているような暖かい雰囲気なのだ。
 世之介という愛すべきキャラクターは、「横道」という名前に反して、ひたすら「真っ直ぐ」である。彼女だった祥子はこう語る。

「いろんなことに、『YES』って言ってるような人だった」「もちろん、そのせいでいっぱい失敗するんだけど、それでも『NO』じゃなくて、『YES』って言ってるような人」


 加藤曰く、世之介に出会ったことで人生で何かが変るわけではないが、なぜか得をした気持ちになる、世之介はそんな人物なのだ。
 吉田修一は何でもない1年間を平易な言葉で記しつつも、エンターテインメントとして読ませてしまう。ある種道徳的でさえある世之介の最期の行動も、説教臭くなり過ぎないところも絶妙だ。暗くて深いばかりが小説ではないし、屈折して頭でっかちな思想を巡らすような主人公ばかりでもつまらないだろう。世之介という、ごく普通の愛らしい青年の、ちょっとあり得ないくらいの「真っ直ぐ」さも、描く価値があるモチーフだと感じさせられた1冊だった。

横道世之介


その他の吉田修一作品

Date: 2012.05.13 Category: 小説 Comments (0) Trackbacks (0)

平野勝之 『監督失格』

 『監督失格』については、ギドク『アリラン』との共通点を指摘している人がいたので知ったのだが、『アリラン』公開の半年ほど前の劇場公開のようだ。平野勝之監督の『由美香』の評判は聞いたことがあったが、東中野あたりで単館でやっていたであろう『由美香』と比べ、『監督失格』はプロデューサー庵野秀明(エヴァンゲリオン)で東宝シネコンで全国上映という扱いにちょっと驚いた。

平野勝之 『監督失格』

 この映画での中心となるのは、亡くなった林由美香の第一発見者となった平野監督が、その発見の一部始終を撮影してしまったというハプニング(?)にあるだろう。
 これに関しては観ていただくほかない。合鍵を持っていた由美香ママもその場面に立ち会ってしまうわけだが、その様子は何とも表現することが難しい。
 とにかく警察にも疑われたとかいう曰く付きの映像だから5年間も封印されていた。今になって由美香ママの許可が下り、映画として公開されることになったわけだ。
 
 『由美香』では北海道の最北端礼文島までの自転車旅というのが大きな枠組みだが、由美香には伝えていない秘密のミッションがあり、それが達成されることで映画が終わる(ミッションの内容は一般向けではないので伏せておきます)。また冒頭は奥様が撮影した平野の寝顔から始まり、不倫相手である由美香が撮る平野の寝顔で終わる。自転車旅をそうして締めくくった平野監督は、奥様から由美香への気持ちの揺らぎを込めたのかもしれない。AVドキュメントとして劇場公開されたらしいが、ロードムービーとしてよく考えられた構成になっていると思えた。
 
 平野は『監督失格』の企画には乗り気でなかったようだ。それは終わらせ方が見えていなかったからだ。
 『監督失格』では前半が『由美香』のダイジェストとなっているが、かつては描かれていなかった部分もある。例えば、由美香が母親との関係を語る場面は多くなっている。これは『監督失格』における準主役が由美香ママだからだろう。それから旅の帰路、由美香と平野がけんかとなり、平野が手を上げる箇所もそうだ。平野はその前にけんかの場面を撮影しなかったことで、「監督失格だね」と由美香に言われており、その汚名返上とばかりにカメラを回したままやり合うのだ。『由美香』では旅の終わりが映画の終わりとなるから、帰路までは描かれなかった。ドキュメンタリーは現実を写したものではあるが、どの部分を切り取るかで違った意味合いの映画になる。
 小説でも映画でも、「どこから始めてどこで終わらせるか」「どこを切り取るか」ということは常に問題になる。『ガープの世界』のように、主人公が生まれてから死ぬまでを描く物語もあるが、それは例外だ。特に映画になると2時間で人生すべてを語るのは難しい。だから主人公のどの部分を切り取るかが重要になる。まして現実の人間を対象にするドキュメンタリーは当然そうならざるを得ない(一生涯を追うわけにはいかない)。『由美香』ではロードムービーとして、その切り取る部分がはっきりしていた。『監督失格』ではすでに由美香は亡くなっており、どう終わらせるか(どこで区切りをつけるか)が問題となる。

 由美香が「幸せです」とつぶやき眠りに就く場面。平野はこの場面がラストになってしまう安易さに納得がいかないようだ。それではいつまでも由美香の姿に囚われたままになってしまうからだ。一方、由美香ママは由美香が亡くなり心の病に苦しみつつも、由美香の想い出の残る自宅を売り払ってまで新たなスタートを切っている。平野もこのままではダメなことは自分でも理解していたのだ。
 結局、平野は苦しみながら「由美香とお別れしたくない」からこそ、『監督失格』の製作にいまひとつ乗り気になれなかったと悟る。『監督失格』を終えてしまったら、由美香を対象にした映画はもう撮ることができないから……。それでも次に進むにはお別れしなければならない。そんな弱さを振り切るように、泣きじゃくりながらも自転車葬という奇妙なお別れをすることになる。

 この映画の予告編を観ると、平野監督の製作時の苛立ちが見えるが、本編ではそうした部分はない。『監督失格』の約半分を『由美香』のダイジェストが占め、過去作を観ている者にはアンバランスな印象もあるだろう。ラストの自転車葬もやや唐突な印象だし、恐らく平野の苦悩や苛立ちにもっと焦点を当てたり、例の映像でのいざこざを中心にした作品も可能だったろう。しかし平野監督はそうしなかった。『監督失格』は、『由美香』を観たことのない多くの人にも受け入れられる作品になっている。それも林由美香という人間を知ってもらいたいという平野監督の想いなのだと思う。
 由美香ママは「人間は二度死ぬって言うじゃない? 本当に死んだときと、忘れられたときがそうだ」と語っていた。林由美香に惚れ込んだ平野勝之の想いと、シネコンでの全国ロードショーという絶好の機会を得て、林由美香はさらに多くの人に記憶されることになっただろう。

『監督失格』とその他の平野監督作品
Date: 2012.05.02 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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Author:Nick
新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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