タル・ベーラ 『ニーチェの馬』
家の中でどうにも時間を持て余して退屈だったら何をするか?
私ならまずテレビを点けてみます。すぐに嫌になるでしょうが、とりあえずは狭い家の中にはない何かを見せてくれます。もしくはPCに向かうかもしれません。インターネットもテレビと同様に様々な情報に溢れています。マイクロソフトのOSが“窓”と呼ばれるように、そこから外の世界をかいま見ることができます。
『ニーチェの馬』の登場人物たちも、家の中でただひとつしかない窓の前に座って外の世界を眺めます。丘の上に1本だけ木が揺れる荒涼とした風景ですが、家の中よりは変化があり表情があります。風は常に吹き止まず、空気を引き裂く音は唸るように聞こえてきます。
ここの生活は単調で静かです。モノクロの映像で、皿に盛られたジャガイモがテーブルに据えられると、静物画のデッサンを見ているようです。まず起きて井戸から水を汲みます。娘は片腕が不自由な父が起きると、その着替えを手伝います。食事は茹でたジャガイモのみ。手で皮を剥いて、塩をふるだけで出来上がり。会話もせずに、ふうふう息で冷ましながら頬張ります。仕事の前にはお酒を一杯あおります。あとは馬の世話があるくらい。
とにかく貧しくて喜びのない退屈な生活です。単調に繰り返される生活は永遠にも感じられます。だから外の世界を眺めます。眺めるのにも飽きると、そのまま頭を垂れ、祈りを捧げるようにも見えます。“祈り”とは神との対話らしいので、彼らのなかでの神との親密なやりとりが退屈さを忘れさせるのかもしれません。
この映画で描かれるのは“世界の終わり”です。
最近では、ラース・フォン・トリアーの『メランコリア』が“世界の終わり”を描きました。『メランコリア』ではハリウッドのdisaster movie のような小惑星の衝突がありますが、ヒーローが活躍してその衝突を回避したりせず、ふたつの色の月が輝く幻想的な夜を見せてくれました。最後の“世界の終わり”も壮観でした。
『ニーチェの馬』の“世界の終わり”はだいぶ趣が異なります。私はどこかで見つけた詩を思い浮かべました。
チェスワフ・ミウォシュの「世界の終わりの歌」(訳:沼野充義)という詩です。
『ニーチェの馬』での“世界の終わり”も淡々としています。“世界の終わり”はいつの間にかに忍び寄ってきます。外では未だ風が鳴り止まず、馬は働くことを拒否し、井戸の水は枯れ果て、ついには太陽の光が失われます。
「人々が世界を破滅させ、そこに神の力が加わって崩壊を加速させている」と唯一の客人は言います。人間の堕落こそ世界崩壊の原因なのです。福田恒存は『ロレンスの黙示録論について』で、「現実世界において満たされぬ野望が、神の名において復讐の刃を磨ぐのである。ここに黙示文学が登場する」と記しています。こうした終末論は簡単に言ってしまえば、今がやりきれないからすべてご破算にしてやり直したいという願いです。
現世に希望がないのなら、来世でも浄土でも神の国でも、とにかく何かにすがるほかないからです。これは現実を破壊する思考に結びつきかねないものです。現代のカルト宗教だけの問題ではなく、キリストの時代から人々の間にはびこるものでした。そうした願望は預言者をして終末を語らせ、ダニエル書が現れ、ヨハネの黙示録も生まれました。
『ニーチェの馬』も、彼らの生き難さや生活への退屈さが“世界の終わり”を呼び寄せたようにも感じられました。
世界に吹き荒れる風は容赦なく、井戸まで歩くのにも何かに挑むように前のめりで向かわなければなりません。荷車引きの馬も、その重量感のある体躯にも関わらず、風を切って走るには首を振り振り鼻息も荒くなります。ここには生きることの辛さがあります。そして家の中では暴風の猛威はなくとも、単調な生活しかないのです。起きて食べて寝るだけの何ともやりきれない退屈さです。そんな彼らの状況が“世界の終わり”を望んだのかもしれないのです。
もちろん『ニーチェの馬』はそんなことは語っていないはずですが、観ながらそんなことを考えさせられる凄みのある映画でした。

私ならまずテレビを点けてみます。すぐに嫌になるでしょうが、とりあえずは狭い家の中にはない何かを見せてくれます。もしくはPCに向かうかもしれません。インターネットもテレビと同様に様々な情報に溢れています。マイクロソフトのOSが“窓”と呼ばれるように、そこから外の世界をかいま見ることができます。
『ニーチェの馬』の登場人物たちも、家の中でただひとつしかない窓の前に座って外の世界を眺めます。丘の上に1本だけ木が揺れる荒涼とした風景ですが、家の中よりは変化があり表情があります。風は常に吹き止まず、空気を引き裂く音は唸るように聞こえてきます。
ここの生活は単調で静かです。モノクロの映像で、皿に盛られたジャガイモがテーブルに据えられると、静物画のデッサンを見ているようです。まず起きて井戸から水を汲みます。娘は片腕が不自由な父が起きると、その着替えを手伝います。食事は茹でたジャガイモのみ。手で皮を剥いて、塩をふるだけで出来上がり。会話もせずに、ふうふう息で冷ましながら頬張ります。仕事の前にはお酒を一杯あおります。あとは馬の世話があるくらい。
とにかく貧しくて喜びのない退屈な生活です。単調に繰り返される生活は永遠にも感じられます。だから外の世界を眺めます。眺めるのにも飽きると、そのまま頭を垂れ、祈りを捧げるようにも見えます。“祈り”とは神との対話らしいので、彼らのなかでの神との親密なやりとりが退屈さを忘れさせるのかもしれません。
この映画で描かれるのは“世界の終わり”です。
最近では、ラース・フォン・トリアーの『メランコリア』が“世界の終わり”を描きました。『メランコリア』ではハリウッドのdisaster movie のような小惑星の衝突がありますが、ヒーローが活躍してその衝突を回避したりせず、ふたつの色の月が輝く幻想的な夜を見せてくれました。最後の“世界の終わり”も壮観でした。
『ニーチェの馬』の“世界の終わり”はだいぶ趣が異なります。私はどこかで見つけた詩を思い浮かべました。
世界が終わる日
野の花の上を蜜蜂が飛び交い
漁師の直す網がきらきら輝き
陽気なイルカが海に飛び込む
子雀は雨樋で遊び
蛇は蛇らしく金の皮をまとう
世界が終わる日
女たちは傘をさして野原を行き
酔っぱらいは芝生の端で居眠りをし
野菜売りは通りで叫ぶ
そして黄色い帆船が島に近づき
バイオリンの響きが空中にたゆたい
星空の扉を開ける
だが雷鳴や稲妻を期待しても
がっかりするだけのこと
神のしるしや天使のラッパを期待していた者は
いまがその時だとは信じられない
太陽と月が頭上にあるかぎり
花蜂がバラの花を訪れるかぎり
バラ色の赤ん坊が生まれて来るかぎり
もうそれが始まっているとは誰も信じられない
ただ預言者になりそこなった白髪の老人が
――ほかの仕事で忙しく,予言どころではないのだが――
トマトを束ねながらこう言うだけ
世界の終わりはこんなもの
世界の終わりはこんなもの
チェスワフ・ミウォシュの「世界の終わりの歌」(訳:沼野充義)という詩です。
『ニーチェの馬』での“世界の終わり”も淡々としています。“世界の終わり”はいつの間にかに忍び寄ってきます。外では未だ風が鳴り止まず、馬は働くことを拒否し、井戸の水は枯れ果て、ついには太陽の光が失われます。
「人々が世界を破滅させ、そこに神の力が加わって崩壊を加速させている」と唯一の客人は言います。人間の堕落こそ世界崩壊の原因なのです。福田恒存は『ロレンスの黙示録論について』で、「現実世界において満たされぬ野望が、神の名において復讐の刃を磨ぐのである。ここに黙示文学が登場する」と記しています。こうした終末論は簡単に言ってしまえば、今がやりきれないからすべてご破算にしてやり直したいという願いです。
現世に希望がないのなら、来世でも浄土でも神の国でも、とにかく何かにすがるほかないからです。これは現実を破壊する思考に結びつきかねないものです。現代のカルト宗教だけの問題ではなく、キリストの時代から人々の間にはびこるものでした。そうした願望は預言者をして終末を語らせ、ダニエル書が現れ、ヨハネの黙示録も生まれました。
『ニーチェの馬』も、彼らの生き難さや生活への退屈さが“世界の終わり”を呼び寄せたようにも感じられました。
世界に吹き荒れる風は容赦なく、井戸まで歩くのにも何かに挑むように前のめりで向かわなければなりません。荷車引きの馬も、その重量感のある体躯にも関わらず、風を切って走るには首を振り振り鼻息も荒くなります。ここには生きることの辛さがあります。そして家の中では暴風の猛威はなくとも、単調な生活しかないのです。起きて食べて寝るだけの何ともやりきれない退屈さです。そんな彼らの状況が“世界の終わり”を望んだのかもしれないのです。
もちろん『ニーチェの馬』はそんなことは語っていないはずですが、観ながらそんなことを考えさせられる凄みのある映画でした。
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