『シン・ゴジラ』について好き勝手に論じること

「シン・ゴジラ」をどう観るか



ユリイカ 2016年12月臨時増刊号 総特集◎『シン・ゴジラ』とはなにか



 昨年大ヒットした『シン・ゴジラ』に関しては、公開当初からムック本が書店にいくつも並んでいた。それらは『ゴジラ』シリーズについての解説だったり、新作についての話題づくりだったのだが、公開して時間も経った最近になって様々な論者が『シン・ゴジラ』について論じた本も登場している。年末年始の休みに私が読んでいたものは、『「シン・ゴジラ」をどう観るか』『ユリイカ2016年12月臨時増刊号 総特集Ω『シン・ゴジラ』とはなにか』の2冊だが、ほかにも色々と関連本が出版されているようだ。
 こういった本がいくつも登場するのも、監督が庵野秀明ということもあって作品中に散りばめられた謎が話題になっているからなのだろう。たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』のように庵野作品には膨大な情報が詰め込まれているから、論者は好き勝手な読み方をすることも可能で、だからいろんな人がいろんなことを言いたくなる。そう言えば『新世紀エヴァンゲリオン』が話題をさらったときも、解説本らしきものが雨後のタケノコのように出版されていた。
 ちなみに『シン・ゴジラ』における謎とは、たとえば牧教授が『春と修羅』を残していたことの意味合いとは何かとか、ラストでゴジラのしっぽから飛び出しそうになっていたものは何かとか、最後に凍結したゴジラが再び動き出した際の核攻撃のリミットはなぜ3526秒なのかなど様々ある。
 ただ、こうした本を読んでもそれらの謎が解けるわけではない。というのもこれらの答えを知っている人は庵野監督だけだからで、監督自身はそれについて解説したりはしないから。とにかく一度観ただけでは到底すべてを把握できるはずもなく、論者たちはさすがに何度も劇場へ足を運んでいる様子で、一度しか観ていない者としては色々と気づかされる部分も多かった。3月にはソフトがリリースされるようなので改めて確認したいと思う。

『シン・ゴジラ』 コジラの勇姿!

 個人的に一番興味深く読んだのは大塚英志の論考(『ユリイカ』のほうに掲載されている)。
 ゴジラが皇居を襲わないのは戦死者の英霊だからだと論じたのは川本三郎なのだそうが、『シン・ゴジラ』においてもそれは同様で、ゴジラは東京駅で大暴れはするものの皇居までその被害は及ばない。しかし大塚は東京駅前まで仁王立ちとなって凍結されるゴジラの向いている方向に注意を促している。ゴジラが向かおうとしているのは皇居なのではないか。そんなふうに大塚は論を進めるのだが、最後に大塚はそれを否定する。『シン・ゴジラ』の世界は「天皇の断念された世界」なのではないかというのだ。
 『シン・ゴジラ』のなかでは天皇について言及されることはないし、ゴジラという怪獣も初めて登場したという設定になっていた。日本人の多くが『ジン・ゴジラ』に登場する巨大不明生物を3.11のメタファーのように受け取ったわけだけれど、『シン・ゴジラ』の世界で3.11が起きていたのかどうかはわからない。まだ3.11の記憶が新しい日本人が観ると、どうしてもそれを思い出してしまうのだが、どうやら海外ではそのあたりが理解されないという話もあるようだ。そんな意味では『シン・ゴジラ』の世界が「天皇の断念された世界」として設定されているということもあり得るのかもしれない。大塚はそこに庵野監督の成熟を読み込んでいく。『シン・ゴジラ』論というよりは庵野秀明論になっているのだが、予定されている『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を読み解く上でもためになりそうな感じもする。
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Date: 2017.01.12 Category: 映画の本 Comments (0) Trackbacks (0)

『ロバート・アルトマン 即興性のパラドクス』 ハリウッド映画の様式を異化すること

 映画監督ロバート・アルトマンに関する本。
 著者の小野智恵が京都大学へ提出した博士論文がもとになっているとのこと。

ロバート・アルトマン 即興性のパラドクス: ニュー・シネマ時代のスタイル



序 すべては即興なのか?
第1章 オーヴァーラッピング・ダイアローグからオーヴァーラッピング・ナラティヴへ
第2章 モチヴェーションの曖昧な主人公
第3章 ズーム・インが無効にする奥行きという錯覚
第4章 ポスト・ノワールに迷い込んだ古典的ハリウッド映画
結 インディペンデント・ムーヴメントの父?


 中心となる4つの章にはそれぞれ副題がつけられている。「中心性⇔「遍」・中心性」、「明瞭性⇔不・明瞭性」、「深奥性⇔反・深奥性」、「一致性/連続性⇔半・一致性/非・連続性」の4つだ。著者によれば、規範としての古典期のハリウッド映画様式がもつ特質が「中心性、明瞭性、深奥性、一致性/連続性」という言葉で示される。それに対してアルトマン作品はそれらとは対立するような様式となる。
 たとえばそれまでのハリウッド映画が「中心性」を基本にするのに対して、アルトマン映画は「「遍」・中心性」という特質を持つ。アルトマン作品には群像劇が多いが、その極端な例が『ナッシュビル』だ。この作品では主人公が24人もいる。しかもそれらが共通の目的を持っているわけでもない。画面上の様々な主人公が入り乱れるときには、会話が重なり合い、その中心があちこちへと移動する(これを可能にしたのが新しい録音システムなんだとか)。遍くところに中心が存在するのがアルトマンの映画なのだ。

 そんなアルトマン作品を批評家たちはどう評価したのかと言えば、それまでのハリウッド映画と異なることは感じていたものの、その意味合いをはかりかねてもいたようだ。アルトマンに特徴的なのは「ぼんやりした場面、重なる台詞、不規則なズーム・ショット、障害物の多いカメラ・アングル」など様々なのだが、批評家たちはそれらをひっくるめて「即興性」という言葉で示している。しかし著者はそれに疑問を投げかける。アルトマン作品は古典期のハリウッド映画様式を異化するものだったのではないかというのが著者の視点である。

『ロング・グッドバイ』 フィリップ・マーロウ役のエリオット・グールド

 第4章では『ロング・グッドバイ』に関して詳細に論じられている。この本のなかではある批評家の言葉を借りて、ラストに対する違和感が表明されるのだが、私自身も『ロング・グッドバイ』を観たとき同じように感じた。というのは映画のラストがレイモンド・チャンドラーの原作と異なるからだけでなく、妙にあっけなかったからだ。その違和感の要因は何なのか?
 古典期のハリウッド映画では、「顔と内面の一致性」というものが約束事としてあるのだという。主人公の顔=内面であり、たとえば主人公の顔が不自然に隠されているとするとすれば、それは主人公の内面もまた観客に隠されていることになる。
 一方で『ロング・グッドバイ』ではそうした約束事は成り立たない。主人公マーロウ(エリオット・グールド)が取調室のなかで刑事に尋問を受ける場面では、カメラは隣室からマジックミラー越しにマーロウの表情を捉えるのだが、そのマジックミラーは汚れていてマーロウの顔は隠されている。ハリウッド映画のナラティヴに則れば、マーロウの内面は観客から隠されていることになる。しかし、その後の物語の展開を見る限り、マーロウ自身巻き込まれた事件に関して何も知らないことがわかる。つまりはマーロウの内面は隠されていたわけではなかったわけで、アルトマンのナラティヴはそれまでの古典期のハリウッド映画と同様に捉えてしまうと見誤ることになる。いつものナラティヴを予想していると裏切られる部分もあり、それは観客の困惑にもつながる。
 著者はいくつかそうした例(メロディの使われ方や因果性のない暴力)を追うことになるが、古典期のハリウッド映画が「一致性/連続性」を持つのに対して、『ロング・グッドバイ』は「半・一致性/非・連続性」という特質を持つことが明らかにされる。最初にこの作品を観たときの私の違和感は、「規範たる先例の表現方法を侵害する、風変わりな表現方法による、見慣れぬナラティヴ機能に対する違和感」ということになるのだ。完全にスッキリしたというわけではないけれど納得させられるところがある。
 アルトマン作品の独自のアプローチだけでなく、古典期のハリウッド作品の特徴に関しても整理されていて、色々と示唆に富む部分も多かったと思う。

 著者の小野智恵に関してはまったく知らないのだが、指導教官には映画学者の加藤幹郎の名前も挙がっているところからすると、優秀な研究者なのだろうと推察する(京大だと言うし)。
 加藤幹郎の本は、最近なぜか新装版の『映画ジャンル論』『映画とは何か 映画学講義』を本屋で見かけたりもするので手に入りやすくなっている。上記の2冊は学問的でちょっと堅苦しいけれど、『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』という本はこんな解釈の仕方もあるのかと驚かされたし、とても説得力のある議論が展開されているので興味のある人は手にとってみても損はないんじゃないだろうか。

ナッシュビル [DVD]



ロング・グッドバイ [DVD]



その他のロバート・アルトマン作品


映画ジャンル論―ハリウッド映画史の多様なる芸術主義


映画とは何か 映画学講義


ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学 (理想の教室)


Date: 2016.06.16 Category: 映画の本 Comments (0) Trackbacks (0)

『ミヒャエル・ハネケの映画術』 ハネケのインタビュー集を読む

 昨年11月に発売されたミヒャエル・ハネケのインタビュー集である。
 プロフィールから始まってテレビ作品や演劇時代のこと、それから映画監督となってからの作品それぞれに関して、ハネケは作品のイメージとは違ってなかなか饒舌に語っている。
 ハネケは“耳の人間”と自称しているのが興味深かった。ハネケ作品にはほぼ劇伴は使われていないが、作品内の音やリズムには非常に気を使っているようだ。静かな場面が続くのにだらけないのは、そうしたリズムによるのかもしれない。
 心底イヤな気持ちにさせるということで名高い作品『ファニーゲーム』に関しては、それがパゾリーニ『ソドムの市』と比較されたのを喜びながらも、ハネケ自身は『ソドムの市』を1回しか観てないと答えているところがおもしろい。どちらの作品も観客を挑発するという目的を見事に達成しているわけだけれど、ハネケもそうした映画を繰り返し観ようとは思わないようだ。私も『ファニーゲーム』を1回しか観ていないし、セルフリメイクである『ファニーゲーム U.S.A.』も観るのも遠慮しているのだが、そうした態度は『ファニーゲーム』みたいな作品の正しい受け止め方ということなのかもしれない。

『ミヒャエル・ハネケの映画術―彼自身によるハネケ』



◆『隠された記憶』の罠
 この本と合わせて初めて観た初期の作品『セブンス・コンチネント』『71フラグメンツ』には、テレビ放映の映像が効果的に使われていた。また、『ベニーズ・ビデオ』では少年が犯した殺人が描かれるが、その一部始終はビデオに録画されていて少年の両親はそれを見せられることになる。
 こんなふうにハネケ作品では作品内の現実のなかに、撮影された映像が入り混じり、見ている映像のレベルの違いを意識させるものとなっている。『ベニーズ・ビデオ』ではビデオに撮られた映像は画質が粗いものだったから、観客はそれを作品内の現実において再生されているビデオ映像だということを間違えることはなかった。しかし、その後の『隠された記憶』では、作品内の現実と撮影されたビデオ映像に画質の違いをなくすことで観客を騙すこと成功している。
 『隠された記憶』の冒頭の監視カメラのような映像は、実は犯人が送りつけてきたビデオである。観客は作品内の現実を見ているつもりだったのに、録画された映像を見ていたことに気づかされる。その後も犯人は様々な場面を隠し撮りするようにして主人公に送りつけるので、観客は今見ている映像が作品内の現実なのか、犯人が撮影したビデオ映像なのかを疑うようになっていく。
 ハネケは『隠された記憶』のラストに関してこんなふうに答えている。

 ただし、映像の正体についての疑念は二つの方向に働きます。現実だと思っていたものがビデオ録画だったということがあるとしたら、当然、その逆も可能です。

 
 ラストの映像は真犯人の姿を映しているのかもしれない。ただ、それが隠しカメラのような映像であるために、観客はその撮影を画策した犯人がほかにいるのではないかとも疑ってしまう。ここでは作品内の現実とビデオ映像のレベルが曖昧なものになってしまっている。ハネケは『ファニーゲーム』においては、作品内の現実そのものを巻き戻してしまう禁じ手まで披露しているし、その登場人物には映画という虚構が「現実と同じくらい現実だ」とまで語らせているわけで、『隠された記憶』のレベルの曖昧化は意図されたものだ。
 われわれは映画を観ているとき、その映像が誰の視点からなのかとはあまり考えない(POV方式のものは別だが)。『隠された記憶』では主人公が歩き回る様子を追っていく場面もあるわけで、それは作品内の現実として捉えられている(それが誰かの視点からの映像だとすると、それは誰なのかわからなくなる)。たとえば、スーパーマンが宇宙を飛ぶ姿が映像として捉えられたとき、それを見ているのは誰なのかとは考えないのと同じだ。わざわざ神の視点など持ち出さなくても、視点人物のない非人称の映像として当たり前のように観客には受け入れられている。
 しかし『隠された記憶』の場合はそうした前提が混乱してくる。それまで繰り返し騙されている観客は、見ている映像を疑ってかかっているため、ラストの映像に関してもそれを撮影している犯人を想像してしまうのだ。ハネケの術中にまんまとはまってしまっているというわけだ。

『隠された記憶』のラストシーン。

◆『愛、アムール』の意外なラストについて
 『白いリボン』のレビューでは「むきだしの真実は人を不快にさせる」と書いたのだが、その後の『愛、アムール』では意外にも幻想が老いた主人公の救いになっているように見えた。それ以前の作品にも『セブンス・コンチネント』ではオーストラリアへの移住のイメージが、『タイム・オブ・ザ・ウルフ』のラストにも「ここではないどこかへ」と向かうイメージがあり、それらには希望を感じさせる部分もあったかもしれない。とはいえ『愛、アムール』のラストの幻想は例外的なものであったようで、この本のインタビュアーも「幸福な瞬間とは言わないにしても、少なくとも登場人物たちが人生のよい面を楽しめる瞬間を描くことができるようになったかのようです」という言葉をハネケに投げかけている。それに対してハネケはこんなふうに応えている。

 デビュー以来、幸せな瞬間を映すことに一切反対する気はありませんでした。ですが、私の印象では「メインストリーム」の映画があまりにそれを濫用してきたために、駄作に堕することなくそれらを撮影することが難しいように思われたのです。本当のことを言えば、駄作にならずにポジティヴな物事を映す力は、人が手にしている芸術的な力に比例して増大するのだと思います。


 カンヌ映画祭で二年連続してパルムドールを獲得した後のインタビューだからだろうか、その言葉は自信に満ちている。

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Date: 2016.01.16 Category: 映画の本 Comments (0) Trackbacks (0)

『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』 「映画が歌っている」とは?

 『月光の囁き』『害虫』『どろろ』などの映画監督・塩田明彦の映画美学校での講義をもとにした本。
 映画監督の映画論であるから、実作者の視点から映画が捉えられるわけで指摘はとても具体的。さらにこの講義の生徒たちは俳優志望であり、俳優の動かし方や演出のつけ方などに主眼をおいた構成になっているところがユニークなところ。(*1)講義は名作映画の一場面を観ながら、それについて解説するという形式で、この本にもそれらの連続写真が掲載されていて非常にわかりやすい。
 題名はトリュフォーがヒッチコックをインタビューした、あの『映画術』からとられている。

映画術 その演出はなぜ心をつかむのか



第1回「動線」:『西鶴一代女』『乱れる』『裸のキッス』
第2回「顔」:『月光の囁き』『サイコ』『パリの灯は遠く』『顔のない眼』
第3回「視線と表情」:『散り行く花』『秋刀魚の味』『許されざる者』『曽根崎心中』『スリ』『少女ムシェット』
第4回「動き」:『工場の出口』『雪合戦』『ザ・ミッション 非情の掟』『座頭市物語』『大菩薩峠』『ドラゴン・イン 新龍門客棧』
第5回「古典ハリウッド映画」:『復讐は俺に任せろ』『ビッグ・ガン』『はなればなれに』『シェルブールの雨傘』
第6回「音楽」:『緋牡丹博徒 花札勝負』『男はつらいよ フーテンの寅』『曽根崎心中』『この子の七つのお祝いに』『遊び』
第7回「ジョン・カサヴェテスと神代辰巳」:『マジェスティック』『ミニー&モスコウィッツ』『こわれゆく女』『恋人たちは濡れた』『悶絶!! どんでん返し』


 この本を読むと、もしかすると作品そのものを観るよりも、その映画がわかった気になるかもしれない。塩田は実作者であって映画評論家ではないから、ときに「僕の感覚」だと言い訳してみたり、「こんな適当なことを話していいのか」などと逡巡してみたりするのだが、その思い込みのような部分にこそ鋭い指摘がなされている。講義をもとにしているから文章は平易で親しみやすいけれど、素人がただ漫然と映画を観ていただけでは気がつかないような発見がある。リストに挙げられている映画とともに繰り返し参照したくなる本になっていると思う。

 この講義で二度に渡って取り上げられている増村保造監督の『曽根崎心中』は、私も以前どこかの名画座あたりで観た。とにかく異様に高いテンションで引き込まれるようにして観たことは覚えている。(*2)
 『曽根崎心中』の台詞回しは、リアリティとはかけ離れている。登場人物の誰もが朗々としゃべるからだ。「曽根崎心中」は人形浄瑠璃をもとにしているわけで、浄瑠璃の節回しなどに影響されているのかもしれないが、塩田はそうした台詞で綴られる映画を「音楽」として論じている。サウンドトラックなど映画に使用される音楽について論じるのではなく、『曽根崎心中』という映画そのものに「音楽を感じる瞬間」があり、「映画が歌っている」という感覚があるということだ。

増村の『曽根崎心中』の特徴は、この独特のグルーヴ感です。ひたすら似たような台詞を反復していって、執拗に繰り返して繰り返して、独特のグルーヴ感を出していく。
    (略)
たとえば誰かが「お前を殺したい!」と言って、ぐっと溜めてから次の……ってことはやらなくて、「殺したい! 殺す! 殺したるでえ!」まで言わせる。そういう極端な芝居をさせるんです。(p.206)


 そうした繰り返しが何を生むのかと塩田は考え、「魔術的な次元」が開くと表現しているのだが、私が最初にこの映画を観たときに“異様なテンション”と感じたのも、このあたりにあるような気もする。
 それから『曽根崎心中』で主役を演じる梶芽衣子の目の演技に関しては、「視線と表情」(第3回)でも論じられている。ここではまず小津安二郎『秋刀魚の味』の岩下志麻の表情が分析される。小津は目の演技を嫌ったようで、小津映画の登場人物は能面のような表情になるわけだが、増村の『曽根崎心中』はその対極にある。

増村保造 『曽根崎心中』 梶芽衣子演じる主人公は虚空を見つめている。

 『曽根崎心中』の梶芽衣子は終始目を見開いている。何かを凝視しているというのではなく、最初から最後まで何も見ていない。塩田は梶芽衣子が見ているのは“死”そのものだと語る。確かに心中の場面では、ふたりは向き合って最期のときを迎えるのだが、互いにあさってのほうを向いて両親への想いを口にしたりする。相手を想うというよりも、もはや死んで極楽浄土へと生まれ変わることを見据えている。女の意地を貫き通し、死んであの世で夫婦になるのを望む、そんな「死にたくてしょうがない」稀有なヒロインということで、この映画の梶芽衣子が「異常に体温が高い」という指摘も頷ける。

 そのほかにも『乱れる』を題材に成瀬巳喜男の動線設計を論じる箇所や、『座頭市物語』における三隅研次の演出した動きについて、『復讐は俺に任せろ』でのフリッツ・ラングの今や失われたハリウッド映画の話法など、「なるほど」と納得させられることばかりだった。
 塩田明彦の監督作品はほとんど観ているのだが、去年の『抱きしめたい -真実の物語-』は障害を持つ女性の恋愛で泣かされる話ではあったのだが(一方で前向きでもあった)、いまひとつピンと来なかったというのが正直なところ。ただ、この本を読むと自分がいかに映画を観ていないかということも知らされるわけで、改めて『抱きしめたい』を観直してみれば、塩田監督の演出において新たな発見もあるかもしれない……。

(*1) 映画において最初に撮りたいものは面白い動き、面白い出来事ではあるけれど、最後に頼りにしてすがりつくのは俳優であるという告白もある。

(*2) 今回、久しぶりにDVDで観た。新宿TSUTAYAにはレンタルがあるが、回転率が高く何度か無駄足を踏むことになった。セルDVDはもう中古しかないようだ(しかも高価)。


曽根崎心中 【初DVD化】


塩田明彦の作品
Date: 2015.02.11 Category: 映画の本 Comments (0) Trackbacks (0)

四方田犬彦 『ルイス・ブニュエル』 ブニュエル論の決定版か?

 著者の四方田犬彦はちょっと前に大病をしていて、2008年に上梓された映画本は『俺は死ぬまで映画を観るぞ』という決意めいたタイトルを持つものだった。この『ルイス・ブニュエル』の後記には「もし手術が成功すればブニュエル論を完成させようと願を立てた。」などと記されており、本当に悲願の1冊というべき本なのだろう。とにかくこんなに網羅的にブニュエルを取り上げた本はないんじゃないかと思う。650ページを超すボリュームだけに色々と余裕がないと読めないが、著者の30年にも及ぶ研究成果がふんだんに盛り込まれているから読み応えは満点である。

ルイス・ブニュエル


 ルイス・ブニュエルと言えば、シュルレアリスムの傑作『アンダルシアの犬』(*1)や、カンヌで監督賞を受賞した『忘れられた人々』や、カトリーヌ・ドヌーヴ主演のヴェネツィアで金獅子賞を受賞した『昼顔』などが有名だ。個人的な好みを記せば、ちぎれた片手が襲ってくる悪夢が秀逸な『皆殺しの天使』(*2)や、藤子・F・不二雄の漫画「気楽に殺ろうよ」にも似た場面もある『自由の幻想』(*3)、主役コンチータをふたりの女優が演じるというほかの映画では見たことのない設定が面白い『欲望の曖昧な対象』(*4)などが強く印象に残っている。

『アンダルシアの犬』の有名な一場面 この本の裏表紙にも使われている

 ブニュエル作品の要約が難しいのと同様に、四方田の記したこの本の内容を一言で要約することもなかなか困難だ。ブニュエルの映画はエピソードが横滑りしてどこに向かっているのかわからなくなるが、この本もそうしたブニュエルの映画に無理に明確な道筋をつけるものではない。多分ブニュエルの映画自体がそう簡単な代物ではないのだろう。著者もそれは重々承知で、こんなことを記している。

 ブニュエルについて究極の言葉を口にすることは難しい。いや、ほとんど不可能だといってもいい。彼の生涯を辿り、彼が遺した三十二本(あるいは数え方によれば三十七本)のフィルムについて、わたしはなんとか分析を試みたが、だからといって事態の困難にはいささかの変りもない。ブニュエル的なるものとは何か。この問いの前に佇んでみると、問いの大きさに呑みこまれるかのような眩暈に襲われてしまうのだ。

 現実に遺されている作品を繰り返し丁寧に観直し、テクストが本来的に孕んでいる決定不可能性を謙虚に受け止めることから始めなければならない。究極の言葉をつねに未決定に留まらせてしまうテクストとして、ブニュエル映画は存在しているのだ。


 とにかく簡単に「ブニュエル作品はこうだ」など“究極の言葉”で言い切ることはできない作品こそがブニュエル作品なのだ。それでもこの本では、ブニュエル作品を各場面やテーマのつらなりなどに区切って懇切丁寧に分析している。その徹底ぶりは見事なので、この本を読んだ後にはもう一度ブニュエル作品を観直してみたくなると思う。そして、映画を観た後にはまた本に戻って、改めて分析の詳細を確認して、あれこれと考えてみたくなるような本だ。ブニュエル好きならば、手元に置いておきたくなる本だと思う。

(*1) 「日本におけるブニュエル受容」という書下ろしの章では、すでに伝説的な映画となっていた『アンダルシアの犬』を観ることもできずに、脚本を日本語訳したものを通して、その伝説的作品が日本で受容されていったことなどが記されている。1928年に製作された『アンダルシアの犬』が日本で初めて公開されたのは、1965年の1回のみのことだったらしい。今ではどんな映画の教科書にも出てくる作品だが、当時はなかなか観ることも叶わなかったようだ。

(*2) 原因は不明だがなぜか邸宅から逃げ出すことのできないブルジョワジーたちを描いた作品。この本では、処女性を体現するレティティアがそれを犠牲にすることで、囚われの状態にあったブルジョワジーたちを解放するということなどが論じられていて、まったく意味不明であった物語に多少の解釈のきっかけが与えられたという気がする。

(*3) 「気楽に殺ろうよ」は72年に発表された作品であり、『自由の幻想』は74年に公開されている。どちらも食欲は恥ずべきものだとされ隠れてするべき秘め事となり、逆に排泄行為や性行為こそがあからさまな公の行為となるという……。ブニュエルが藤子作品に触れていたとは思えないから、単なる偶然だと思うが、どちらもその発想に驚かされる。

(*4) 『欲望の曖昧な対象』でも『昼顔』でもレースを編む女の姿が描かれているが、四方田曰く、これはフェルメール『レースを編む女』からの影響なのだそうだ。この絵の複製が、彼の過ごしたマドリッドの学生館にもあり、ブニュエルは「女性の静謐にして神聖な仕草に強い感銘を受け」たのだとか。また同じ場所で学生時代を過ごし『アンダルシアの犬』でも共同監督をしているサルバドール・ダリも同様で、後にそれに着想した油絵を残しているようだ。こうした細かい指摘がこの本には無数に散りばめられている。


アンダルシアの犬【淀川長治解説映像付き】 [DVD]


忘れられた人々 [DVD]


昼顔 [DVD]


皆殺しの天使 [DVD]


自由の幻想(1974) [DVD]


欲望のあいまいな対象(1977) [DVD]


その他のブニュエル作品
Date: 2014.01.20 Category: 映画の本 Comments (0) Trackbacks (0)
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Author:Nick
新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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