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『The NET 網に囚われた男』 もどかしい現実を直視する

 キム・ギドクの最新作(第22作目)。今回も監督・脚本・編集・撮影までこなしている。
 この作品は個人的には今年一番の注目作なのだが、さらに監督第21作目の『STOP』もこの3月に公開予定とのことでそちらも楽しみ。

キム・ギドク 『The NET 網に囚われた男』 ナム・チョル(リュ・スンボム)は事故によって韓国に流されスパイとして捕えられてしまう。


 北朝鮮で漁師をしているナム・チョル(リュ・スンボム)は、妻と娘の3人で貧しいながらも平穏な生活を営んでいた。ところがある日、漁の最中に船のスクリューに網がひっかかってしまう。全財産である船を捨てることもできずにいるうちに軍事境界線を越えて韓国側へと流されてしまったナム・チョルは、捕えられてスパイの疑いをかけられることになる。

 ナム・チョルは韓国側から取り調べを受けることになる。彼は漁師であり、妻子のためにも北朝鮮に戻りたいと説明しても簡単には信用されない。取り調べ官(キム・ヨンミン)は始めから疑ってかかっていて、無実の人でもスパイに仕立て上げようとするからだ。というのも取り調べ官は朝鮮戦争で親を亡くしているために、北朝鮮に対して個人的な怨恨を抱いているのだ。
 もちろん韓国側のすべてが北朝鮮に対して強硬な姿勢というわけではなく、取り調べ官の上司はもっと現実的に事態を判断しているし、警護官のオ・ジヌ(イ・ウォングン)はナム・チョルのことを信じてやりたいと考えている。
 しかし韓国側にはナム・チョルに対してのスパイ嫌疑が晴れたとしても、北朝鮮という独裁国家にナム・チョルを帰すことにもためらいがある(これは善意の押付けでもある)。できればナム・チョルを転向させて亡命を申請させることで、自分たちの陣営に取り込もうとする。そのために近代化したソウルの街をナム・チョルに見せることで、独裁国家ではない自由な社会の素晴らしさをアピールすることになるのだが……。

 ※ 以下、ネタバレもあり! ラストにも触れているので要注意!!


『The NET 網に囚われた男』 ナム・チョル(リュ・スンボム)と韓国側の取り調べ官(キム・ヨンミン)。同じ構図は北朝鮮においても繰り返される。

◆南北分断の問題
 ギドクが南北分断を描いた作品は最近では『プンサンケ』『レッド・ファミリー』があるし、初期の監督作『コースト・ガード』『ワイルド・アニマル』でもその問題が取り上げられている。今回の『The NET 網に囚われた男』は、最も直接的に南北分断について描いているし、より一層シリアスで政治色が強いものになっている。
 ナム・チョルはアクシデントで軍事境界線を越えてしまうことになるが、紆余曲折を経て北朝鮮に戻ってくることになる。しかし北朝鮮に戻ったナム・チョルが受けた仕打ちは、韓国側で受けた仕打ちとまったく同じものだ。これらのシークエンスは意図的にそっくりに描かれていて、ナム・チョルの後ろに陣取った南と北の取り調べ官が語ることも似通っている。国家というリヴァイアサンを前にしては、個人の存在がいかに踏みにじられるのかということが示されていて、それは韓国であろうと北朝鮮であろうと変わりがないのだ。
 さらに韓国は独裁国家にはない自由な社会があると喧伝するものの、ナム・チョルがソウルで出会った女性は弟のために売春をして仕送りをしなければならない境遇にあった。自由であるはずの資本主義社会でもそうした矛盾が生じているわけで、ギドクはどちらに対しても批判的な態度をとっている。

◆絶望的なラスト?
 北朝鮮当局の取り調べを終えたナム・チョルは、ようやく妻と娘の待つ家へと帰り着く。しかし元のような生活が戻ってくることはない。ラストの展開はあまりにも暗い。作品の冒頭では朝から夫婦の営みに励んでいた精力旺盛なナム・チョルは、今回のトラブルの精神的なダメージなのか妻(イ・ウヌ)の豊満な胸を前にしても性的不能な状態に陥ってしまう。さらには漁師としての仕事も取り上げられたナム・チョルは、ほとんど自暴自棄のような形で死んでいくことになる。

 なぜここまで夢も希望もないような終わり方だったのか?
 ギドクの初期作品では夢や幻想が主人公たちの「救い」となっていた。たとえば『鰐』では川の下の龍宮のような場所(=ユートピア)があったし、『うつせみ』では主人公たちが幽霊のような非現実的な存在になる。現実とは異なる虚構の何かが作品内部には存在して、その意味ではまだ逃げ場が残されていたのかもしれないのだが、『The NET』にはそうした場所はどこにもない。
 ギドクが自伝的要素を盛り込んでつくったとされる『受取人不明』と同様に、『The NET』には「救い」というものがないのだ。『受取人不明』がギドクが生きてきた現実を描いているとするならば、『The NET』は南北分断国家のありのままの現実を描いているということになるのだろう。
 
 前作の『殺されたミンジュ』では、暴走した謎の組織のリーダーは最後に自分が殺されることを覚悟している。リーダー曰く、「人間は本当に哀れだ。生きるのは苦しくて疲れる」。このリーダーの悲哀に満ちた言葉は、『The NET』のナム・チョルの姿と被る。
 『殺されたミンジュ』では自警団がある事件の犯人たちに復讐するという大枠が嘘っぽかったのだけれど、そのほかの部分は意外にもリアルだった。今回の『The NET』もリアルな路線をはみ出していくことはない。この作品のなかで一番嘘っぽいのは、ひとつの民族が南北に分断された国家に住んでいるという“現実そのもの”だったとも言えるかもしれない。
 『The NET』では、ナム・チョルは韓国の取り調べ官にスパイでないことを信じてもらえずに「もどかしい」という言葉を口にする。また、ナム・チョルを転向させようとする女性取り調べ官(ソン・ヒョナ)も同じように「もどかしい」と漏らしている。国や政治の状況がおかしいことはわかっているのに、個人はそれをどうすることもできない。そんな想いが北と南の両者の「もどかしい」という言葉に凝縮されているようだ。この作品はそんなもどかしい現実を観客に直視させる。だからこの作品のラストが絶望的だとするならば、それはとりもなおさず現実が絶望的ということにほかならない。

 『魚と寝る女』のような水の上の船というイメージを登場させながらも、今回も美学とは無縁の政治的なメッセージのほうへと舵を切ったギドクだが、前作『殺されたミンジュ』よりはすんなりと受け入れられたし、撮影までひとりでやってしまうという無理もそれほど違和感はなかったと思う。
 主演のリュ・スンボムは『ベルリンファイル』などにも出演している韓国スターらしいのだが、本当に漁師のように見えて役柄にはまっていた。韓国側の取り調べ官を演じたキム・ヨンミンは初期の『受取人不明』などにも登場しているギドク作品の常連さん。『The NET』での取り調べ官が絶叫する国に対する想いが調子外れに響くのが印象に残る。ナム・チョルが北朝鮮に戻ったときの万歳三唱も同様に白々しいものだったが、これらは初期の『コースト・ガード』のラストの歌に南北統一への想いが込められていたのとは対照的なものだったと思う。今は希望的観測を描くよりも、現実を直視するほうが重要ということだろうか。


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Date: 2017.01.08 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (5)

ギドクの最新作 『殺されたミンジュ』 メッセージあるいは美学

 キム・ギドクの最新作。この作品はギドクの第20作目で、製作総指揮から脚本・撮影・編集までひとりでこなしている。原題は「ONE ON ONE」
 ちなみに“ミンジュ”というのは韓国語では“民主”を意味するとのこと。
 出演陣には『俳優は俳優だ』にも顔を出していたマ・ドンソク『春夏秋冬そして春』の秋の場面に出ていたキム・ヨンミンなど。キム・ヨンミンはなぜか8役もこなしている。

キム・ギドク最新作 『殺されたミンジュ』 待ちに待った監督第20作目。オウム真理教強制捜査のときの装備を思わせる風貌の男。


 5月9日、ミンジュという女子高生が男たちに殺される。男たちは役割を分担し協力してミンジュを追いつめ、ためらうこともなく彼女の命を奪う。
 その後しばらくして下手人のひとりが謎の集団に拉致される。迷彩服に身をまとったその集団は「去年の5月9日、何をしたかすべて書け」と迫る。こうして謎の集団はミンジュ殺害に関った7人をひとりひとり拷問して悪事を白状させていく。

 ミンジュを殺した男たちは、快楽殺人者でもなければミンジュに恨みを抱いていたわけでもない。男たちは仕事としてミンジュを殺しただけである。上の者に指図されたから、その指示に唯々諾々と従ったのだ。指示を出した者に責任があるのは当然だが、下手人に何の責任もないのかと言えばそんなことはないはずで、謎の集団シャドーズは正義の鉄拳を振るい、事件に関わった7人を糾弾していく。

◆責任の所在
 “ミンジュ”という名前に託された「民主主義」は、国民に主権があるということだ。そして、その反対には「独裁制」がある。独裁者がすべてを取り仕切っていれば責任の所在は明らかだ。たとえば北朝鮮という国ならば誰でもその責任者の名前を知っている。一方、民主主義では国民に主権があるのが建前なわけで、責任の所在が見えにくくもなるのかもしれない。
 『殺されたミンジュ』では、民主主義であるはずの韓国社会で、上の命令に従順に従うばかりの無責任な個人が制度そのものをダメにしている様子を描いていく。主権者であるはずの国民がそれぞれの意見を引っ込めて命令に従うばかりでは、上の者に支配されているのと変わらないわけで、そんな体制が独裁制とどこが違うのか。そんな疑問をギドクは投げかけるのだ。

 『殺されたミンジュ』の韓国社会では、あちこちに小さな独裁者が顔を出す。シャドーズのメンバーたちはそうした小さな独裁者に苦しめられる側にいる。そして、小さな独裁者に対抗しなければ社会がダメになってしまうと憤るのがシャドーズのリーダー(マ・ドンソク)なのだ。彼は支配する側にも問題はあるが、それを許す側にも問題があると考えるのだ。
 リーダーの憤りが一番よく表れているのが、暴力を振るう恋人から離れられない女のエピソードだろう。(*1)DVにおいては暴力を振るったあとに急にやさしくなる時(ハネムーン期)がある。女はハネムーン期を思い、「我慢しているといいこともある」と小さな独裁者である恋人を許してしまう。リーダーにそれが許せないのは、個人が忍耐することで、独裁者がさらに幅を利かせることになるからだ。

(*1) 暴力的な恋人の男をキム・ヨンミンが演じている。キム・ヨンミンはシャドーズたちを苦しめる小さな独裁者たちの8役をこなしている。最初にシャドーズに拷問されるのがキム・ヨンミンだからちょっとわかりにくいのだが、キム・ヨンミンの演じる役は全て権力側に属している。

◆制度圏(権力側)と非制度圏
 ミンジュを殺した実行犯7人は社会的な成功者で権力側にいる。それに対してシャドーズはドロップアウトした側にいる。これをギドクの言葉で言えば「非制度圏」の人間ということになる。シャドーズのリーダーはネットの掲示板などを通して正義を行使するメンバーを集めたのだが、表向きの活動意義と現実の活動は次第に乖離していく。悪党を拷問して悪事を自白させる過程は、メンバーたちにシャドーズの正義に疑問を抱かせるのには十分で、リーダーは次第に孤立し、シャドーズ内部の独裁者となっていく。
 権力側とシャドーズとは何が違うのか? シャドーズの面々は活動時にコスプレのごとく衣装を変えている。最初は海兵隊の姿だったが、次はヤクザ風の面々に化け、アメリカ軍や国家情報院の姿になったりする。作品内では「本物と偽物」の違いが何度も話題になるが、どちらにもあまり差はないのだ。シャドーズがコスプレによって外見を整えてしまうとその違いはほとんどなくなり、やっていることも似通ってくる。双方が茶番劇を繰り広げているようにも見えてくるのだ。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『殺されたミンジュ』 キム・ヨンミン演じるミンジュ殺害の実行犯は拷問を受ける。

◆ドジョウとライギョ
 リーダーが権力側に対抗するのには理由がある。ミンジュはリーダーの娘だったのだ(もしかすると妹かも)。彼にとって、シャドーズの仕事は“正義”ではなく“私怨”である。そのことを理解しているから、リーダーはシャドーズの活動をメンバーに強要できなくなる。一方の権力側の7人はミンジュ殺害の理由をまったく知らない。ただ、国家的な戦略ということで命令に従ったのだ。「国家のため」という名目だけしかなかったからこそ、仕事ができたのかもしれない(女子高生を殺さなければならない正当な理由があると思えないが)。
 リーダーはシャドーズとしての仕事の最後に「ドジョウとライギョ」の話をする。ドジョウはドジョウだけで水槽に飼われているとすぐに死んでしまう。しかし、ライギョと一緒に飼われると、ドジョウはライギョから逃げ回ることで健康になり長生きする。敵がいたほうがエネルギーが増大するということだろう。ここでは権力側は必要悪のようなものとして認められているわけで、シャドーズの末路はいかにも苦いものとなる。とはいえ、リーダーが望んだのは「復讐の連鎖」でも、「権力の転覆」でもないわけで、リーダーにとってそうなることは予想できていたことであり、だからこそ余計に後味は苦いものだった。

◆メッセージあるいは美学
 この作品のラストは『春夏秋冬そして春』のそれを思い出させた。『春夏秋冬そして春』では、ギドク自身が演じた主人公が運び上げた仏像が下界のすべてを見下ろすようにして終わる。それは一種の悟りの風景のようだった。『殺されたミンジュ』では、達観したように下界を見下ろす位置にいたリーダーは、惨たらしく権力側のひとりに殺されることになる。その姿はギドク自身が『春夏秋冬そして春』の悟りの位置から叩き落され、地上に戻ったかのような印象でもある。
 最近の『レッド・ファミリー』では南北問題を取り上げ、『鰻の男』では食の安全という問題から始まって東アジアの国々同士の偏見を扱っていた。そして『殺されたミンジュ』も現実的な社会の問題を扱っている。ギドクは『アリラン』で自らを改めて見直した結果、より幅広く現実的な社会へも関心を向けているようだ。

 それにしてもこの作品は雑だし、ヘタでもある。洗練からほど遠いのだ。撮りたい作品がたくさんあることは素晴らしいことだが、クオリティを度外視しているようにも思えなくもない。弟子に監督を任せ脚本や製作だけの作品が続いたのも、今回のように撮影まで自分でこなしてしまうのも、作品を効率よく発表するためなのだろう。
 前作の『メビウス』は奇想天外な展開に圧倒されたけれど、「観念的な骨組みばかりが目立ってしまった」ようにも感じられた。『殺されたミンジュ』も、ギドクが訴えるメッセージは拝聴すべきものがあるとは思うのだが、そのメッセージばかりに頼りすぎで映像に艶っぽいところがまったくないのが残念だった。かつての『魚と寝る女』『春夏秋冬そして春』『うつせみ』あたりは審美的な方向にも重点があったと思うのだが、ギドクはそうした方向には興味を失ってしまったのだろうか。

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↑ 6月にはこんなのが出るらしい。『魚と寝る女』まで入っている。
Date: 2016.01.21 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (7)

キム・ギドクの最新作『ONE ON ONE(原題)』の予告編など

 今さらだが東京フィルメックスという映画祭で、キム・ギドクの新作『ONE ON ONE(原題)』が上映されていたとのこと(のちに『殺されたミンジュ』と改題)。実はこの映画の予告編もすでに公開されていたようだ。情報収集能力に長けているわけではないので、あとになって知ることも多い。ぜひとも観たかったのに残念……。



 この予告編を観ると、『俳優は俳優だ』でヤクザのエピソードが余計なものにも関わらず、結構なボリュームだったのも頷ける。というのも『ONE ON ONE』で重要な役どころを担っていると思われる人物が、『俳優は俳優だ』でヤクザを演じているマ・ドンソクだからだ。ちょっとプロレスラー川田利明を思わせる悪党面はいい味を出していたから、新作『ONE ON ONE』の予告という意味でも、物語の展開を度外視して残しておきたかったキャラクターだったのだろうか。

 先日『メビウス』の2度目を観てきた。サービスデーだったにも関わらず、客席は結構空いていた。題材が題材だけに客足が伸びる要素に欠けているのかもしれない。インタビューでは「みなさんが囚われていることは、すべて観念でしかないんですよと伝えたくて」と語っているのだが、作品自体も観念ばかりで出来上がっている印象を受けた。
 1度目はその荒唐無稽な展開に圧倒されたのだけれど、セリフもない音楽もないというなかでは情感に欠け、その脚本の観念的な骨組みばかりが目立ってしまったように、今回は感じられた。
 『メビウス』はたった6日の撮影だったとのこと。撮影にもっと時間をかけられるような環境が整えばいいのだが、興行収入が悪ければそれもなかなか難しいのだろう。以前はもっと時間をかけて撮っていたわけで、ヴェネツィアの金獅子賞を獲得したにも関わらずそんな状況なのは不思議な気もするが、それだけ観客におもねることのない姿勢を貫いているということなのだろうとも思う。
Date: 2014.12.21 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (0)

ギドク脚本作 『俳優は俳優だ』 現実と虚構、さらには夢も

 キム・ギドク製作・脚本作品。監督はシン・ヨンシク
 主役のイ・ジュンはアイドルグループで活躍している人だとか(劇場窓口では彼のポストカードが配られた)。結構きわどいベッドシーンなどもあるし、狂気なのか演技なのかわからないあたりの雰囲気はよかったと思う。
 題名からもわかるように、ギドク脚本作品『映画は映画だ』の系統を狙った作品。

キム・ギドク製作・脚本作品 『俳優は俳優だ』 主役を演じるイ・ジュン。

 ギドク作品のなかでは『リアル・フィクション』という作品もあるように、“リアル”と“フィクション”の関係が強く意識されている。『映画は映画だ』では、“ヤクザを演じる役者“と“役者として起用された本物のヤクザ”という対立があるが、その関係は次第に曖昧なものになっていく。
 『俳優は俳優だ』でも“リアル”と“フィクション”の関係は、“現実における振舞い”と“芝居や映画における演技”の関係として見て取れる。映画作品は演じている役者をカメラが撮影することで創られるわけだが、演劇は舞台という場所で演じられることがすべてだろう(観客の存在も重要かもしれないが、現実にも他人の目はある)。だから“現実の自然な振舞い”と“舞台での演技”との差異は、場所だけでしかないのかもしれない。ただ、現実においてもわれわれはある程度割り振られた役割を演じている部分があるわけで、現実の振舞いがすべて自然なものとするわけにもいかない。
 『俳優は俳優だ』の主人公オ・ヨン(イ・ジュン)は、演技することを愛するあまり、“現実の振舞い”も“舞台の演技”も混同していく。ヨンは演技に夢中になり、舞台と客席の間にあるはずの「第四の壁」を越えてしまい、舞台の世界から現実の客席にまでなだれ込んでしまう。また、舞台を降ろされてからは、劇場の外でマネキンを相手に演技をしてみたりもする。現実と舞台の混同から、現実の振舞いが演技なのか自然なものなのか判然としなくなっていく(逆に言えば、舞台の上での演技が意図したものか、地が出てしまったものなのかも判然としなくなる)。
 マネキンを相手にしゃべるのは狂気だが、それは狂気の演技なのかもしれないし、それが舞台の外で起きていることからすると本当に狂っているのかもしれない。そんなふうにヨンの存在は、“リアル”と“フィクション”の間を彷徨っていく。
 
 この映画ではさらに新たな要素が加わっている。現実に対する対抗軸として“夢”というものが入り込んでくるのだ。(*1)演じることが好きなヨンは、自由な芝居をすることを夢見ている。ただそれは独りよがりの夢にすぎない。その夢を現実化するには、具体的な方法論が必要だ。俳優が演技だけで、アイドルがかわいさだけで、政治家が政策だけでやっていけるわけではないからだ。現実的で汚い手段も必要で、実際にそうした手腕のあるマネージャーが現れることでヨンはスターへと導びかれる。
 そうやって夢から現実の方向に流れると、初心は忘れ去られ、目的だったはずの自由な芝居というものからは離れていくことにもなる。スターにはなったものの、その成果としては仕事は虚しい代物だし(「ふんばる演技」というのが何度も登場する)、女優を抱いても「こんなものか」というつぶやきにヨンの幻滅らしきものが表れている。マネージャーは「売れてよかったかどうかは、売れてから判断しろ」とヨンを焚き付けたわけで、実際売れてみないとわからない世界があるのかもしれないのだが、意外にもそこは退屈な場所だったようだ。

『俳優は俳優だ』 ヨンは劇場の外で、マネキンを相手に演技を披露する。

 “現実”に対立するものとして、まず“虚構(フィクション)”が挙げられたわけだが、その後にさらに“夢”というものが加わってきたために、テーマがズレていってしまったようだ。『映画は映画だ』は“リアル”と“フィクション”を背負ったふたりの対決が、アクションを交えて描かれていて、ギドク脚本作には珍しく娯楽作となっていた。一方で『俳優は俳優だ』は、監督の演出というよりも、ギドクの脚本自体に支離滅裂なところがあるように思える(特にヤクザ絡みのエピソードは脱線気味)。
 ヨンが成功を手にしてからは、「目的達成による目的喪失」という虚しさの表現と言えるのかもしれないけれど、ヨンだけでなく観客としてもどこに向かうのかが見当もつかず退屈だろう。そんなときにヨンが想い出すのは、小劇場で舞台をやっていた時代である。
 「あのころに戻れるだろうか」という問いは、たとえば『コースト・ガード』で民族統一の見果てぬ夢としても描かれていたわけだけれど、そこでは不可能性が強く感じられるからこそノスタルジアがあった。(*2)しかし、今回の『俳優は俳優だ』では、「あのころに戻れるだろうか」という問いは不可能なものとされるのではなく、すぐに昔の地位にまで戻ってやり直しを図るヨンの姿がある。夢を見ていたころが一番よかったというのは、いかにも安易なところで終わってしまったという気もするし、娯楽作としてもいまひとつで、K-POPアイドルの力ばかりに寄りかかった映画といったところだろうか。

 作品中で「メビウス」という映画が何度か言及されるのは、自作の引用が得意のギドクならではの愛敬だろうか。ギドクの最新作『メビウス』は、ようやく12月6日から日本でも劇場公開される。

(*1) 社会学者・見田宗介の整理によれば、“現実”という語は、3つの反対語を持つ。“理想”と“夢”と“虚構”がその3つだ。これらはそれぞれ「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」などと、現実の反対語として一般的に用いられている。

(*2) ボルヘス『永遠の歴史』で、永遠はノスタルジアが生み出すものが典型だとし、そうした永遠は人の願望が呼び寄せるものだと論じているが、だとすれば不可能なものこそノスタルジアに満ちていることになるだろう。人が願うのは、それがなかなか叶わないものだからだ。

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Date: 2014.11.30 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (0)

ギドク脚本作  『レッド・ファミリー』 不可能だと知りつつ夢見ること

 12月6日から最新作『メビウス』の公開が迫っているキム・ギドクが、脚本、編集、エグゼクティブプロデューサーを務めた作品。監督は本作が初の長編作となるイ・ジュヒョン
 出演はキム・ユミ、チョン・ウ、ソン・ビョンホ、パク・ソヨンなど。
 第26回東京国際映画祭では観客賞を受賞した作品とのこと。
キム・ギドク脚本作『レッド・ファミリー』隣の家族は北朝鮮のスパイだった。
 理想的な家族に見える一家は、実は北朝鮮のスパイ一味だった。『レッド・ファミリー』はそんな設定から始まる。その隣に住むのは資本主義に毒された韓国の家族たち。北側のスパイたちは、年長者たちに対する敬意という儒教的な心を忘れていない家族と見える。一方で韓国の家族は、贅沢な食事にも文句をいい、借金してまで無駄な金を使い、自由すぎるあまり自己主張が強く夫婦げんかが絶えない。韓国側は特にその嫁を中心にしてバカな家族として描かれているのだ。北側のスパイたちはそれを傍目に見て「資本主義の限界」だとし、北朝鮮の思想に対する想いを強くするのだが……。

 北側の家族構成は、若い夫婦とその娘と祖父。隣家も構成は似ていて、若夫婦と息子に祖母。伴侶のいない子供たちと老人たちは惹かれ合うようになり、次第にふたつの家族は近づいていく。この映画は、北のスパイが韓国社会に触れて変っていくというのが大筋だが、それ以上に家族のあり方を再考する映画となっているようだ。
 スパイの4人は、北朝鮮に残してきた家族のために、スパイ活動をどうしても成功させねばならない使命を帯びている。北の思想にかぶれてスパイをしているのではなく、家族を人質に捕られてやむなくスパイとなっているのだ。
 そんなスパイたちが韓国のバカ家族と触れ合ううちに、家族のかけがえのなさを改めて感じる。国家や国境というものは幻想にすぎないが、家族だけは確固として存在する。そして家族は一緒に暮らすものだ。そんな想いを最初はやや滑稽に、最後は大泣き泣かせる展開で描いている。

 ギドク作品にはありがちだが、色々とツッコミどころも多い映画である。まず隣家の声が北側のスパイには筒抜けになっているというのが不自然だ(隣家を盗聴していることにでもすればよかったのに)。それから暗殺の場面が何回も登場するが、アクション描写がヘタである。とにかく色々と拙い部分があるのだ。監督は初の長編作品だというし、それも仕方がないのかもしれないが、ギドクが担当した編集も奇妙な部分が目立った気がする。
 たとえば韓国の少年が北側の家族に車で送ってもらう場面。少年はチョコレートバーらしきものを北の少女に差し出すのだが、彼女は上官(スパイグループの班長)を気遣ってチョコをもらおうとはしない。それを見た班長はチョコをもらっておくようにと諭す。これは班長もそれを食べてみたかったというオチなのだと思うが、その処理の仕方がとても素っ気ない。チョコを皆で食べる場面はあるのだが、すぐに別のシークエンスになってしまい、オチをオチと感じさせる間もないのだ。
 また予告編にも登場している金日成たちの肖像画を隠す場面でも、予告編では丁寧なつながりになっているのに、本編では短くカットされている。肖像画を外すときに将軍様に謝る部分がカットされ、ちょっとわかりづらいものになっている。編集の意図としては、全体的にテンポを上げ上映時間の短縮を目指しているのかもしれないのだが、シーン間のつながりが分断されるようで気にかかるところも多かった(まさかここで南北分断を表現しようというのではないだろうし、ギドクの編集でも拙さは隠せなかったということだろうか)。

 ※ 以下、ネタバレもあり。ラストにも触れていますのでご注意を。



 ギドク作品のなかで南北分断について描いたものには、まず『プンサンケ』(脚本)がある。これは韓国と北朝鮮の境界線を行き来する運び屋を描いていた。そのほかにも『コースト・ガード』では38度線が消えることを夢想する場面がラストを飾り、『ワイルド・アニマル』ではフランスを舞台に韓国出身の画家見習いと脱北者の元兵士の交流がテーマとなる。これらの作品のどれもが悲劇的な終わり方をするわけで、この作品もそうなる運命にある。ただラストに関しては監督イ・ジュヒョンの意向で、ギドク脚本とは異なるものとなっているようだ。

 ラスト、北のスパイたちは作戦失敗の名誉挽回として、隣家の家族を殺すように命じられる。だが、それを果たすことができない。彼らがスパイ活動をしているのは、北朝鮮に残してきた家族のためだ。自分の家族のために、別の家族を皆殺しにするというのは途轍もないジレンマだ。それが同じ民族であり、特段憎いわけでもない隣人ならなおさらだろう。スパイたちは結局捕えられる。そんな絶体絶命のときに、彼らはなぜか韓国のバカ家族が演じていた寸劇を涙ながらに真似をするのだ。
 あの芝居で事態が変わるわけではない。彼らはもう北朝鮮の家族に会うことも叶わず、海に沈められることになる。そんなときに彼らの胸に去来するのは、隣のバカ家族たちの寸劇なのだ。彼らスパイたちはそれぞれの部屋にこもり、北朝鮮に残してきた家族を想いつつ、バカ家族の会話を聞いていた。けんかばかりの韓国のバカ家族には、北朝鮮ではあり得ない自由な家族の姿があった。資本主義で堕落したはずの家族の姿が、北側のスパイたちからは羨望の目で見つめられるのだ。
 彼らがそれを涙ながらに真似するのは、それが夢でもあり、憧れでもあるからだ。叶わない夢だからこそ自己憐憫の涙が流れるのだろう。彼らスパイたちにとって、そんな家族にはなり得るはずもないという「不可能性」を感じさせるのだ。観客としてもそれが理解できるから、ただむせび泣くほかないのだ(私もヘタだと文句を言いつつも、このあたりでは泣かされた)。もちろん、脚本を書いたギドクとしては、そんな「不可能性」を描くことで、南北の統一を夢見ているのだろうと思う。
 不可能だと知りつつ夢見るというのは「ロマンティシズム」だとか言ってみたい気もするが、ここでは次の言葉を引用しておきたい。『不可能性の時代』という本の著者であり、社会学者の大澤真幸はこんなことを言っている。 

 現実主義だリアリズムだと言って、可能なことだけを追求するというのは単に、船が沈むのを座して待つということにしかなりません。みんなが可能なことしか求めなかったら、可能なことしか起きないじゃないですか。沈まない別の船を求めるのならば、不可能なこと、現時点ではあり得ないようなことを要求する方がむしろ現実的です。歴史的には何度も不可能だったはずのことが起きている。それは不可能なことを求める人がいたからに他なりません。自分が本当は何を望んでいるのか。どんな社会を目指したいのか。まずは口にしてみましょうよ。あなたが口にすることによって、不可能は可能になる可能性をはらむのです。


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Date: 2014.10.09 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (6)
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