『ドッグ・イート・ドッグ』 ボギー!俺も男だ

 『タクシー・ドライバー』の脚本などで知られるポール・シュレイダーの監督作品。
 タイトルは同業者同士の潰し合い(共食い)のことだとか。

ポール・シュレイダー 『ドッグ・イート・ドッグ』 トロイ(ニコラス・ケイジ)とマッド・ドッグ(ウィレム・デフォー)のふたり。

 出所したトロイ(ニコラス・ケイジ)は刑務所内で知り合ったマッド・ドッグ(ウィレム・デフォー)とディーゼル(クリストファー・マシュー・クック)というふたりと再会する。3人は長らく刑務所にいたらしく、どうにも娑婆の空気とはズレている。マトモに生きる術を持っているわけもなく、3人で裏家業の仕事に手を出すことになる。
 最初にやった仕事でたまたま金を稼いだものの、それぞれ女と楽しもうと意気込んでみたものの何だかんだでうまくいかない。そうこうしているうちに金もなくなり新しい仕事に手をつけることになるのだが、この仕事は赤ん坊の誘拐で最初から嫌な予感がしているようにロクでもない展開になっていく。

 ※以下、ネタバレもあり!

『ドッグ・イート・ドッグ』 冒頭のシーン。ピンク色のファンシーな部屋にウィレム・デフォーという違和感。今回も脇役だけれどインパクトあり!

 タイトルからするとニコラス・ケイジとウィレム・デフォーが潰し合うのかと思っていたのだが、刑務所仲間の3人の男たちが自滅していくという話だった。といっても3人がカッコよく散るわけもなく、ブラックコメディの味わいの作品だった。
 冒頭、ピンクの部屋のなかにラリっているマッド・ドッグが登場してくるという「違和感あり」のシーンからして、生きる時代と場所を間違えてしまったかのようにも感じられる。おかしいのは3人が自分のことを悪党だとはまったく思っていないこと。マッド・ドッグは何人も殺しているくせに未だにやり直せると考えていて、仲間のディーゼルに泣きついてみたりもする。マッド・ドッグは本気なんだろうと思うのだけれど、傍から見ている者にとっては悪い冗談にしか思えない。悪党には報いがあるはずで、彼らは坂を転がるように堕ちていくほかない。
 ニコラス・ケイジ扮するトロイは映画ファンでハンフリー・ボガート好きという設定。この作品内でもトロイはボガートっぽくカッコつけて見せることになるわけで、『ドッグ・イート・ドッグ』の3人はボガートが悪役を演じた『必死の逃亡者』のキャラとどこか似ていなくもない。ボガートを真似てもやっぱり悪役になってしまうところがトロイという男の哀しいところだろうか。ラストで闇のなかに浮かぶダイナーからのエピソードはデヴィッド・リンチの映画を思わせた。

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Date: 2017.06.25 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『セールスマン』 もやもや感がクセになる?

 『別離』『ある過去の行方』などのアスガー・ファルハディの最新作。
 アカデミー賞では『別離』に続いて二度目の外国語映画賞を受賞した。

アスガー・ファルハディ 『セールスマン』 『彼女が消えた浜辺』でも共演しているタラネ・アリドゥスティとシャハブ・ホセイニが主演。

 夫婦が新しく引っ越した家で、ある事件が起きる。妻のラナ(タラネ・アリドゥスティ)は夫のエマッドが帰宅したと勘違いをし、玄関の鍵を開けてしまうのだが、実は訪ねてきていたのは別の男で、ラナは頭部にケガを負うことになる。
 その事件によって夫婦の関係もぎくしゃくしてくる。夫のエマッド(シャハブ・ホセイニ)は事件を警察に届け出ることを望むが、ラナはそれを承知しない。警察が入れば事件について詳細を語らなければならないことになるし、イラン社会では女性が性犯罪に巻き込まれると被害者である女性自身にも落ち度があったとされる傾向があるからだ。事件後のラナはひとりでいることを怖がるようになり、襲われた浴室を使うことも拒否するようになる。エマッドはそんなラナの姿を見て独自に犯人を捜すことになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり! 結末についても触れているので要注意!!


『セールスマン』 劇中劇の『セールスマンの死』での扮装。ふたりが演じるのは演劇内でも夫婦。

 上記では“性犯罪”としているのだけれど、作品内ではその部分の描写はないために詳細は不明だ。実際に作品内で語られているのは、ラナがシャワーを浴びている最中に侵入してきた男によってケガを負わされたということだけだ。映画評論家の文章なんかにもこの事件を“レイプ”とまで書いているものもあるのでちょっと驚いたのだけれど、私にはそうとは思えなかった。
 というのは、事件の犯人である男は病気持ちの老人だからだ。しかもエマッドが犯人と相対したときにこだわっていたのは、「浴室に入ったのか否か」という部分だ。エマッドが気にしているのは「妻の裸を犯人の男が見ていたか否か」ということなのではないか(ケガを負わされたという恨みもあるが)。エマッドがレイプすら疑っていたのだとしたら、「浴室に入ったか否か」など問題にならないことだからだ。
 イランのようなイスラム社会では、女性は顔と手以外を隠すことになっている。そんな社会では裸に対する禁忌の念も大きいのではないだろうか。かといってイスラム社会の人たちだって性的欲求はあるわけで、実際に犯人の男が売春婦との長年の付き合いがあったことが伏線ともなっている。

 イスラム社会の禁忌には日本とか欧米諸国からすると厳格すぎるようにも感じられるところもある。作品内で同時進行する演劇『セールスマンの死』では、裸の女性を実際に裸では登場させることができない滑稽さが描かれている。イスラム社会でそんなことをすれば、舞台自体が上映できなくなってしまうのだろう。そのためにその裸役の女性はなぜか真っ赤なトレンチコートを着ることになる。
 『セールスマンの死』はアメリカ演劇の代表的な傑作とされている作品だ。当然イランにおいてもそうした評判は届いているけれど、イランでそれをやろうとすると様々な制約があるということになるだろう。
 ちなみに『セールスマンの死』では、かつては父親ウイリーを慕っていたビフがある出来事がきっかけとなり、父親のことをインチキ呼ばわりすることになる。その出来事というのが、ウイリーが出張先のホテルで女と会っていたところへビフが訪ねて行ってしまったという場面。映画『セールスマン』のなかで真っ赤なトレンチコートの女が登場してくる場面だ。ビフはそれまで崇めていた父親ウイリーに幻滅することになるのだ。
 このウイリーの姿と重なってくるのは舞台でそれを演じるエマッドでもあるけれど、同時に事件の犯人である老人でもある。老人は娘の結婚を間近に控えた家庭人であり、35年も妻と仲睦まじく暮らしてきた男だ。しかしそれは表の顔であり、こっそり売春婦とも会っていたという隠された一面もあるわけだ。
 ウイリーがビフに浮気を知られ父子の関係がぎくしゃくしてしまったように、犯人の老人もそんなことがバレたら身の破滅であることは間違いない。エマッドは老人のすべてを家族に晒そうとするが、ラナは老人の不憫な姿を見てそんなことはさせられないと思うのだが……。

 アスガー・ファルハディの作品は謎によって観客の興味を惹きつける。この作品でも一応は犯人探しによって物語を引っ張っていくわけだけれど、犯人が見つかったからといってすっきりと物事が解決するわけでもない。
 この作品で浮き彫りとなってくるのはイラン社会の矛盾のようなものなのだろうと思う。エマッドたちは欧米の演劇作品に取り組みながらも、表現の自由があるとは言えない状況がある。それでいて『セールスマンの死』の舞台がイランでも受け入れられるというのは、ウイリーのような男のことがイランの人たちにも理解できるからだろう。誰もが清廉潔白であるわけではないからだ。しかしイスラム社会では『別離』でも描かれたように、シャリーアという法体系が道徳的規範ともなっている。その厳しい規範においては「誰もが清廉潔白であれ」と求められているのかもしれないのだけれど、現実にはそうもいかないのが当然なわけで……。何とも説明が難しいのだけれど、あれかこれかという葛藤へと登場人物を導く脚本がいつもながらうまいし、やはり見応えがある作品となっていたと思う。

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Date: 2017.06.18 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『20センチュリー・ウーマン』 “ジャズの時代”と“パンクの時代”のすき間

 『人生はビギナーズ』『サムサッカー』マイク・ミルズ監督の最新作。
 原題は「20th Century Women」

マイク・ミルズ 『20センチュリー・ウーマン』 劇中のアビーの写真論から生み出されたポスターだろうか? とってもシャレている。

 マイク・ミルズの前作『人生はビギナーズ』は父親のことがモデルで、今回の『20センチュリー・ウーマン』では母親のことをモデルにしている。一応の主人公はジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)という15歳の少年なのだが、タイトルにもあるように“20世紀の女性たち”の姿が描かれていくことになる。
 そのひとりはジェイミーの母親ドロシー(アネット・ベニング)で、もうひとりは間借り人のアビー(グレタ・ガーウィグ)で、加えて近くに住むジェイミーの幼なじみジュリー(エル・ファニング)もいる。舞台は1979年のサンタバーバラで、ジェイミーは3人の女たちに様々なことを学んでいくことになる。

 母親のドロシーは60年代半ばに40歳でジェイミーを産んだ。その年齢差はきっちり40年であり、音楽の流行りから言うと“ジャズの時代”と“パンクの時代”ほどの差があることになる。パンク世代の若者にはジャズがかったるく感じられ、ジャズ世代のくたびれた大人にはパンクはうるさくてヘタなだけにしか感じられない。その差は結構大きいのだ。だからドロシーはジェイミーのことを理解できないかもしれないと心配し、ジェイミーの人生の指南役にアビーとジュリーを指名することになるのだが……。

 ※ 以下、ちょっとネタバレもあり!

『20センチュリー・ウーマン』 アビー(グレタ・ガーウィグ)とジュリー(エル・ファニング)。

 前作の『人生はビギナーズ』にしても、本作にしても起承転結のはっきりとした物語があるわけではない。マイク・ミルズは語るべきテーマから物語を構築していくスタイルではなく、近しい人をモデルとしたキャラクターの造形のほうが優先されるようだ。
 ドロシーはマイク・ミルズの母親がモデルとなっているし、アビーとジュリーのキャラはふたりの姉がモデルとなっているようだ。エル・ファニングの演じたかわいらしい等身大の女の子ジュリーも、グレタ・ガーウィグが演じたがんを恐れるパンキッシュな赤い髪の女アビーも、どの人物も類型的なキャラに収まっていないように思えた。
 そうして生まれたキャラクターが、それと分かちがたい時代背景と一緒になって作品を構築していく。『人生はビギナーズ』では年老いた父親がゲイであるとカミング・アウトするという設定のため同性愛界隈の動きが背景になってもいたし、『20センチュリー・ウーマン』では主人公を取り巻くのが女たちということもあってフェミニズムの動きなんかも背景となってくる。

 そんなドロシーの試みは結局のところ失敗に終わることになる。というのは、ジュリーは夜な夜なジェイミーのベットにもぐり込むほど親しいのだけれど、それ以上は“おあずけ”という拷問でジェイミー翻弄するばかりだし、アビーのフェミニズムの教えはあまりに急進的すぎてドロシーを戸惑わせることになるからだ。人生は一度きりで、誰にとってもビギナーであることに変わりはないという点では前作と同じだ。子育てだってわからないながらも自分なりに試しながらやっていくほかないということなのだろう。
 とりたててカタルシスがあるわけでも、ほろっとさせるというわけでもないのだけれど、そのセンスのよさで見せてしまうといった印象。劇中でもパンクはパンクでもハード・コアなブラック・フラッグとかではなく、トーキング・ヘッズのような「いけすかないアート野郎(Art Fag)」のほうを擁護していたが、それがマイク・ミルズのセンスなのだろう。トーキング・ヘッズほどクセのある感じはしないけれどとてもシャレている。

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   ↑ 先ごろ亡くなったジョナサン・デミ監督のトーキング・ヘッズのライヴ作品。

Date: 2017.06.08 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『メッセージ』 避けられない事態をどう扱うか?

 監督は『複製された男』『ボーダーライン』などのドゥニ・ヴィルヌーヴ
 原作はテッド・チャン『あなたの人生の物語』
 原題は「Arrival」

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『メッセージ』 宇宙船はこの位置からは柿の種のように見えるのだが……。主人公のルイーズ(エイミー・アダムス)と同僚のイアン(ジェレミー・レナー)。

 異星人とのファーストコンタクトを描いた作品。人類が初めて出会った地球外生命体とのコミュニケーションを丁寧に描いていくのだが、そのことが主人公に何をもたらすことになるのかという部分が見どころとなっている。
 原作はSFの有名な賞を受賞している感動作なのだが、由緒正しきタコ型エイリアンはB級っぽくなりそうで敬遠されそうだし、重要な要素として映像化の難しい異星人の言語を扱っているために、映画化は難しいんじゃないかというのが大方の予想だったのではないだろうか。
 今回の映画版である『メッセージ』は原作の驚きの部分は残しつつ、異星人とのやり取りを巡る国際情勢なんかも取り入れてサスペンスフルな展開を見せる。ヘプタポッド(七本脚)と名付けられた異星人との遭遇場面では、彼らの声は『フラッシュバック・メモリーズ 3D』で演奏されていたディジュリドゥみたいに響き、それに合わされるヨハン・ヨハンソンの音楽は能舞台で聴く類いのもののようで妖しい雰囲気を演出していた。
 また主人公ルイーズ(エイミー・アダムス)が研究することになるヘプタポッドの文字は、墨汁で一筆書きに描いた円のような独特なものだったし、ヘプタポッドの乗る宇宙船(?)の造形は巨大な米粒のようでもあり柿の種のようでもあり、一部ではお菓子の「ばかうけ」に似ているとして話題を提供している。

 以下、原作と映画版の違いについて。ネタバレもあり!

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『メッセージ』 宇宙船内の謁見の間。透明な壁の向こうに異星人が現れる。


◆避けられない事態
 原作者のテッド・チャンはこの原作を「人が避けられない事態に対処する話」と要約している(文庫本の「作品覚え書き」より)。「避けられない事態」とはルイーズの場合は、彼女の娘ハンナが若くして亡くなってしまうことだろう。そして、原作ではその対処の仕方として物理学の変分原理(フェルマーの最小時間の原理)が持ち出されるわけだけれど、それによって「避けられない事態」がどうにかなるわけではない。ここが大きなポイントだろう。
 「避けられない事態」、これは一切変更することはできないのだ。不幸な未来が見えたからそれを回避するというのでは、それは現実とはまったく乖離した絵空事になってしまうわけで、原作は「避けられない事態」に関してはまったく変更していないのだ。
 一方の映画版である『メッセージ』を観ると、ルイーズの決断によって未来が変わったかのようにも見えてしまう。ルイーズは中国のシャン上将を翻意させることで地球や人類を救うことになるのだが、ルイーズの行動がきっかけとなってシャン上将が考えを変えたように見えてしまうのだ。

◆視点の差異
 また、原作と映画ではルイーズの視点にも違いがある。
 原作ではルイーズはすべてを見通した視点から語り始める。読者はルイーズがすべてのことが終わった時点から(つまりはハンナが死んだあとから)語っているのだと勘違いする。実際にはハンナを産む前の時点が現在時として示されていて、そこから物語は語られていることが明らかになる。
 映画版では視点がちょっと違う。冒頭にダイジェスト版でハンナの人生が描かれることになる。ここはすべてを見通した視点から描かれているのだが、その後の異星人が現れる部分から物語はルイーズが体験する現在時を辿っていくことになる。
 冒頭のハンナの人生はルイーズの過去の出来事だとミスリードされているわけだが、しばらくハンナは登場しない。ルイーズがヘプタポッドの独特な言語を少しずつ理解する段階になって、間歇的にハンナの姿が現れることになる。それでもルイーズはハンナの姿を自分の娘とは理解していない。徹夜続きの疲れた頭が見せた幻影か何かのようにしか見ていないのだ。そして、映画版ではルイーズが覚醒する瞬間が描かれ、それによってハンナの姿は実はルイーズの未来の出来事であると判明することになる。

 原作は過去を振り返るような視点で物語られるのに対し、映画版では冒頭以外はヘプタポッドとの交渉に従事するという現在がリアルタイムで追われていくことになる。原作はヘプタポッドのようにすべてを見通した視点から語られるのに、映画版では途中までは未来のことを知りえない人間的な視点で描かれていくのだ。
 人間的な視点では、原因があって結果があるという因果関係が重要だ。それまで戦争に傾いていた国際情勢がルイーズの行動によって変わったとなれば、ルイーズの行動が原因となって新しい結果が生じたと考えるのが普通だろう(だからこそ最後にルイーズがハンナを産むという決断をすることが感動的にもなるのだ)。
 しかし、実際にはルイーズの行動しなかった未来が示されるわけではないし、ルイーズが何を見ていたのかもわからないわけで、未来が変化したのかどうかはわからない。その後のシャン上将との会話ではルイーズは自分がやったことを把握していないかのようにも描かれているから、映画版でも一応はルイーズの選択によって未来が変わったのか否かという部分は曖昧にされているとも言える。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『メッセージ』 ヘプタポッドの文字。どころなくウロボロスを思わせなくもないような……。

◆因果律的/目的論的
 だが、原作では「未来を知ることは自由意志を持つことと両立しない」と明確に書かれているのだ。ルイーズの決断によってハンナが生まれるのであれば、未来は変えられることになり、未来を変えられるならばハンナが死なないことだってあり得るということになってしまうわけで、では最初に見たはずの未来は何だったのかということになってしまう。つまりはパラドックスが生じるわけだ。
 原作では「避けられない事態」はまったく変わらない。では何が変わるのかと言えば、ルイーズの認識である。原作者のテッド・チャンは変分原理というものでわれわれの考え方そのものを揺さぶることになる。
 人間は過去があって現在があり、その先に未来があると世界を把握している。そんな順番でしか理解できないのだ。原因があって結果が生じるというのが因果律で、人間はそれによって世界を把握しているからだ。したがって人間の言語も因果律に基づいていて、人間は物事を逐次的に把握していくことになる(逐次的認識様式)。
 ヘプタポッドの言語はそれとは異なる。現在・過去・未来を見通す彼らは、同時にそれらすべてを把握する。彼らにとって未来はすでに決まっている。その決まったところへ目的論的に進むことになる。ヘプタポッドにとってはすでに目的地はわかっていて、それに向かって最短の道筋を通るように進んでいくことになる。現在・過去・未来を同時に見通すならば、そんな世界の把握の仕方になるということだ(同時的認識様式)。
 因果律的な見方と目的論的な見方。それによって事象が異なるものになるわけではないし、「避けられない事態」にも何の変化もない。ただ、見方が異なると事象の捉え方も変わってくるのではないか。テッド・チャンはそんな別の視点を提示しているのだ。

◆ヘプタポッドとトラルファマドール星人
 テッド・チャン『あなたの人生の物語』は、カート・ヴォネガット『スローターハウス5』と比較して語られることも多い。というのも、ヘプタポッドのように現在・過去・未来のすべて見通す目を持っている異星人は『スローターハウス5』にすでに登場しているからだ。
 しかし、ヴォネガットはすべてを見通す異星人(トラルファマドール星人)の存在を主人公ビリーの妄想のように描いている。第二次大戦の生き残りであるビリーのPTSDが、現在も過去も未来も一緒くたにしてしまうという症状として表れているということだ。
 一方の『あなたの人生の物語』は、そんな異星人の認識を物理学で説明しようとするのだ。大森望によれば「トラルファマドール星人の時間意識に科学的裏付けを与えた話」ということになる。テッド・チャンは変分原理を利用して、人間とは別の見方もあり得るのだと読者を納得させることに成功しているのだ。

 すべてを見通す目を獲得したものの、「避けられない事態」はどうしようもない。結末を知っていながらもそれに向けて着々と生きていくというのでは自動人形と同じではないか。そんなツッコミも当然あるだろう。
 『スローターハウス5』はどちらかと言えば悲観的で、「そういうものだ」というつぶやきに特徴的なように諦念に満ちている。(*1)しかし『あなたの人生の物語』はもっと前向きなものを感じさせる。子供が何度も同じおとぎ話を聞きたがるように、積極的に同じ道筋を辿ることもあり得るのではないか。そんなことを思わせる読後感になっている。

 自由は幻想ではない。逐次的意識という文脈において、それは完璧な現実だ。同時的意識という文脈においては、自由は意味をなさないが、強制もまた意味をなさない。文脈が異なっているにすぎず、一方の妥当性が他方より優れているとか劣っているとかではない。    『あなたの人生の物語』 p.263


 「避けられない事態」というものは誰にでも起こりうる。その受け入れ方も様々だろう。たとえばルイーズのように大切な人を亡くした人はどうするだろうか? ギリシャ神話の時代なら冥界まで亡くなった人を迎えに行けばいいのかもしれないし、SF映画だったらタイムトラベルでもって遠い未来に行って解決策を探してくればいいのかもしれない。ただ、どちらもあまりに現実からはかけ離れているとも言える。
 そんななかで『あなたの人生の物語』は「避けられない事態」への対処方法として、とてもスマートな解釈をしてみせたということになると思う。見方が変われば「避けられない事態」はそのままに受け入れるということがあり得るかもしれないのだ。
 しかし、映画版ではそうした認識の変容を描くのは難しい。どうしても主人公のアクション(行動)として物語を描いていく必要があったわけで、変分原理の部分を省いて構成するほかなかったということだろう。映画版を先に見ていたとしたら絶賛していたのかもしれないのだけれど、原作が好きなものだから微妙な違いが気になった。とはいえ、この作品の設定において自由意志の有無は、大きな違いなんじゃないかとも思うのだ。

(*1) ヴォネガットは『スローターハウス5』において、「自由意志といったものが語られる世界は、地球だけだったよ」とトラルファマドール星人に語らせている。また、『タイムクエイク』は10年間の時が巻き戻され、もう一度同じ10年間を寸分違わずに繰り返すという話だが、この作品も自由意志が問題となっている。

『メッセージ』(オリジナル・サウンドトラック)


あなたの人生の物語


スローターハウス5 (ハヤカワ文庫SF ウ 4-3) (ハヤカワ文庫 SF 302)


タイムクエイク (ハヤカワ文庫SF)


Date: 2017.05.28 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (11)

『夜に生きる』 ベン・アフレックの白スーツが気になる

 『アルゴ』でアカデミー賞作品賞を獲得したベン・アフレック監督の最新作。
 原作は『ミスティック・リバー』などの原作も手がけているデニス・ルヘインの同名小説。

ベン・アフレック 『夜に生きる』 ベン・アフレック監督・主演作。ゆったりとしたクラシカルなスーツが決まっている?

 禁酒法時代末期、ギャングの世界で名を挙げていく男の一代記。戦争から帰ってきたジョー(ベン・アフレック)は、戦場で善人ばかりが死んでいくのを見てきた。ルールを作る奴らはそれを守らない。だから自分は無法者として誰の支配もされずに「夜に生きる」ことを選ぶ。
 そんなふうにカッコつけて無法者の世界を生きるつもりのジョーなのだが、無法者には無法者のしきたりなんかがあったりして、結局、その世界のいざこざに巻き込まれていくことになる。

 最初の舞台はボストンだが、そこではイタリア系とアイルランド系のマフィアの争いに巻き込まれ、よせばいいのにボスの女(シエナ・ミラー)にも手を出したりして酷い目に遭う。それでも父親は警察のお偉いさんということもあって、何とか生き延びると舞台はフロリダ・タンパへと移る。ここは移民たちの街で、白人ばかりではなくキューバ人たちの勢力があったり、その反対にKKKの連中がちょっかいを出してきたりと厄介事は尽きない。

『夜に生きる』 ロレッタ(エル・ファニング)は民衆の聖母のような存在になるのだが……。

 舞台がタンパに移ってからのごった煮感はおもしろい。『ゴッドファーザー』みたいに美学に貫かれているという印象でもないし、エピソードを詰め込みすぎた感があるのだけれど、当時の歴史をジョーという男を狂言回しにして描いたということだろうか。
 クラシックカーでのカーチェイスや、何人かの女とのロマンスとか、最後には壮絶な銃撃戦もあり、なかなかのエンターテインメント作品となっていたと思う。監督・主演のベン・アフレックはおいしいところをすべてさらっていくし、テレンス・マリック風に波打ち際で妻役のゾーイ・サルダナと戯れるという『トゥ・ザ・ワンダー』のセルフ・パロディみたいなことまでやっている。

 登場してくるキャラもそれぞれにいい味を出している。ジョーの父親(ブレンダン・グリーソン)は警察幹部でありながらやっていることは裏家業と似通っていて凄みがあったし、KKKの手先であるRD(マシュー・マー)の完全にとち狂った感じも秀逸だったし、ジョーを取り巻く3人の女性も賑やかだった。
 ギャングたちの成り上がりとはあまり関係ないのに印象に残るのが、ロレッタ(エル・ファニング)のエピソード。ロレッタはハリウッドで女優になるつもりが、悪い奴らにだまされてクスリ漬けにされてポルノ女優にさせられてしまう(この時代のハリウッドはポルノ産業と裏で結びついていた部分があったらしい)。その後のロレッタは罪悪感から信仰に目覚めたのか、民衆の前で自分の体験を語り、民衆の聖母のような存在になっていく。
 エル・ファニングは総じて澄ました表情をしているのだけれど、最期にジョーの前で一瞬だけとてもあどけない笑顔を見せる。『ネオン・デーモン』でもそうだったけれど、エル・ファニングは大人びて見えるときもあれば子供っぽく感じられるときもあり妙に危なっかしい……。

夜に生きる〔上〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)


夜に生きる〔下〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)


Date: 2017.05.21 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)
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Author:Nick
新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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