『君が君で君だ』 幻想を捨てて現実に生きる?

 監督は『私たちのハァハァ』『アズミ・ハルコは行方不明』などの松居大悟で、脚本も松居大悟が長年温めてきたオリジナルとのこと。
 タイトルは登場人物が合唱する尾崎豊「僕が僕であるために」を受けてのものかと思われる。

松居大悟 『君が君で君だ』 坂本竜馬(大倉孝二)、尾崎豊(池松壮亮)、ブラッド・ピット(満島真之介)になったつもりの三人。
 
 わかりやすくこの作品を紹介するとすれば、ストーカーを描いたものということになるのだろうと思うのだけれど、実際にこんなストーカーがいるのかどうかはわからない。登場する三人の男たちは、ソン(キム・コッピ)という韓国人の女性を好きになり、彼女の家の向かいに住み込み、彼女を監視するストーカー行為を続ける。その間、なんと10年間。
 さらに風変わりなのは、彼らは自分の名前すら捨てて、ソンが好む人物に成りきって生きていること。ひとりはブラッド・ピット(満島真之介)に、ひとりは坂本竜馬(大倉孝二)に、ひとりは尾崎豊(池松壮亮)になったつもりなのだ。というのもソンはブラピのような顔が好きで、坂本竜馬のような生き方に憧れ、尾崎豊の歌をよく聴いていたから。
 そんなふうに彼女の好きな人物に成りきったとしても無駄とすら思えるのは、彼らはソンを遠くから見守るだけで干渉しようとはしないから。ソンを見守り、彼女と一緒のことをして彼女に同化しようとし、彼女の気持ちを知ろうとはするものの、彼女と接触を試みるのは避けているのだ。

 ↓ キム・コッピ演じるソンは映画のなかでは「ブスなのに」とか言われているけれど、実は松居監督のお気に入りらしい。



 松居大悟の作品ではどこかとち狂った人が登場することが多いけれど、『君が君で君だ』はオリジナル作品だけあって主要三人のこじらせ方が異様だった。そもそもの始まりはプラピがソンのことが気に入ったからで、尾崎豊はそれを見守るような立場だった。しかしそこにさらにソンの元彼だった坂本竜馬まで加わって、姫と呼ぶソンの日常を垣間見ては悦に浸るという監視生活を続けてきたらしい。
 ソンに干渉することを禁じているのは、そうすることで長らく続いてきた監視生活が壊れてしまうことを恐れていたのかもしれない。実際にソンのピンチに三人が干渉してしまったことで、そうした関係性が壊れていくことになる。
 ソンは現在のクズ彼氏・宗太(高杉真宙)の借金を肩代わりする羽目になっているのだけれど、その借金取りたち(YOU向井理の二人組)はソンのことを監視している三人からも金を取り立てようと部屋に乗り込んでくる。そして素朴な疑問として「何のためにそんなことをしているのか」と聞いてみるのだが、三人の答えは「姫を守っている」などと言いつつも、借金のためにソンがピンサロで働くことすらも止めようとしないわけで、三人が何を守っているのかはよくわからないのだ。

 そもそも最初は何をしたかったのか。それがわからなくなっているのに、それに気づかないフリをしている。もはや意味不明だが、やり始めたからやる。わけがわからないけどもはや止められない。男のこじらせ方にはそんなところがあるというのは何となくわかる気がする。
 この三人の男たちの壊れ方はすさまじくて気味が悪いほど。ただ、それを通り越すと次第におもしろくなってきて、彼らが愛おしく感じられるかもしれない。もちろん三人を受け入れ難いという人もいるだろう。そもそものきっかけをつくったブラピですらも、尾崎豊がソンの切り落とした髪を食べるという段になって目が覚めるように、彼らにドン引きするかもしれない。それまではブラピに追随していたようにも見えた尾崎豊は、女性用の下着に身を包んだままモリモリ髪を食べてソンと同一化しようとするのだ。このシーンにはちょっと唖然とさせられた。

 一応の結末としては三人の幻想も終わりを告げることにはなる。しかし一方では、監督・脚本の松居大悟は幻想のなかで映画を終わらせたがっているようにも思えた。ラストでは尾崎豊がソンとひまわりの咲く場所で結婚式を挙げるという妄想が描かれるけれど、そこに留まることはせずにとりあえずは現実に着地する。ゴスロリの少女が主人公だった『ワンダフルワールドエンド』が、幻想のなか(桜と菜の花が咲く場所)で映画を終えていたのと比べると結末は抑制されている。というのは松居大悟にとって女の子自体がすでに幻想だからなのだろう。一方でこじらせた男たちを幻想のなかに放置するのはあまりにグロテスクすぎるという判断があったのかもしれない。もう若くはない男たちも幻想が崩壊することで現実を生きていくということになるのだろうか。松居監督は未だにちょっと逡巡しているようにも思えたのだけれど……。

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Date: 2018.07.12 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『パンク侍、斬られて候』 嘘っぽい世の中をやり過ごすには

 原作は町田康の同名小説。脚本には宮藤官九郎
 監督は『爆裂都市 BURST CITY』『シャニダールの花』などの石井岳龍

石井岳龍 『パンク侍、斬られて候』 主人公を演じるのは綾野剛。『シャニダールの花』『ソレダケ / that’s it』に続き、3作目の石井監督とのコンビ。


 時は江戸時代。とある街道沿いで主人公の掛十之進(綾野剛)が腹ふり党の残党だと思わしき男を斬り殺す。それを目撃した黒和藩藩士・長岡主馬(近藤公園)は「なにゆえ男を斬ったのか」と問いかけると、掛十之進は腹ふり党と呼ばれる邪教の恐ろしさを語り出す。

 腹ふり党という宗教があったことは本当のことだし、それによって混乱が生じた藩もあったらしいのだが、実は殺された男は腹ふり党とはまったく関係ない人物。掛十之進は間違って斬ってしまったのだ。というのも牢人(浪人)としての生活は楽ではないし、この辺でそろそろ仕官して安定した暮らしがしたかったから。
 間違いとはいえ斬ってしまったものはもう生き返らないしとばかりに掛十之進は嘘八百を続け、その嘘を利用しようと企む内藤帯刀(豊川悦司)の手助けもあってうまく立ち回ったものの、腹ふり党の元幹部・茶山半郎(浅野忠信)を担ぎ出して腹ふり党再興プロジェクトを立ち上げてみたところとんでもない大騒ぎに発展してしまう。

『パンク侍、斬られて候』 カラフルな衣装も映える北川景子が演じるろんの正体は?

 腹ふり党とは何か? 彼らの教義によればこの世界は巨大なサナダ虫の腹の中なのだという。そんな世界から抜け出すためにはサナダ虫の腹をくださなければならない。腹をくださせるにはサナダ虫にとっての毒になる必要がある。毒となればサナダ虫はそれを排出しようするわけで、悪事でも何でもやり放題をすれば、この世界から抜け出し――つまりはサナダ虫の肛門から排出され――真正世界を垣間見ることができる。
 もちろんこうした教義は狂っている。わけがわからないし、ありがたみもなさそうだ。ただ、「この世が嘘である」という一事においては当たっている。真正世界はどこか別にあって、間違った嘘の世界で苦しんでいる。その部分では誰もが認識を同じくしている。
 腹をふれば真正世界に抜け出せるわけではないのだが、嘘の世界に留まっているだけは何のおもしろみもない。そんなわけで「同じ阿呆なら踊らにゃ損々」となかばやけくそ気味に腹をふり始めると、それなりに楽しくなってきて真似するものも出てくる。みんながやっていると右へ倣えが続いていき、段々収拾がつかなくなってくる。

 主人公はすべての発端にいながらも自分で巻き起こした大騒動に驚くばかりだし、藩の治世を担う黒和直仁(東出昌大)や内藤たちにとっても腹ふり党はやっかいな代物だったわけだけれど、それなりにこのバカ騒ぎを楽しんでもいたようにも見える。どうもこの世は嘘っぽいという感覚は江戸時代も共通していて、だからどうすればいいのかというと「パンクであれ」ということなのだろう。となると「パンクとは何か」と問われることになるわけだが、そこはよくわからないのだけれど……。
 『爆裂都市 BURST CITY』(石井聰亙名義)では、重要な役柄で登場していた町田町蔵は、劇中で一言も口をきかず「あー」とか唸り声とも叫び声とも言える音を発していた。そんな町田康が作家となって書き上げた『パンク侍、斬られて候』は、その語り口こそがパンクなんじゃないんだろうか。つまりはパンクとは嘘っぽい世の中をやり過ごすための方策みたいなものなのだろう。
 その映画化である本作は、原作の語り口を活かし、ある登場人(?)物によるナレーションで心内語を描写し、混沌としたエネルギーをぶちまけるテンションの高い作品となっている。本作にとってはこの熱量こそがパンクということになるだろうか。
 時代は江戸なのに横文字ばかりが登場するというデタラメさに、カラフルな衣装、サル軍団の大立ち回り、超能力による人間花火、そして大人数での腹踊りの賑やかさなど見どころは多い(腹黒い内藤を演じる豊川悦司と綾野剛の掛け合いもおもしろい)。超人的剣客を自称する掛十之進と、それを暗殺しようとする真鍋五千郎(村上淳)の闘いはスピードがあってよかったし、“人間炬燵”という秘儀をプロレス技に移行させるなど遊び心もあって楽しめる作品となっていたと思う。原作に気を使ったのか、それに忠実すぎてエネルギーを削がれているように感じられたのが惜しいところかも。『爆裂都市 BURST CITY』なんてもっと混沌としていたような気がするし。

パンク侍、斬られて候 (角川文庫)



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ソレダケ/that’s it


シャニダールの花


石井岳龍の作品
Date: 2018.07.08 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『万引き家族』 童貞なのに父になる?

 『そして父になる』『海街diary』などの是枝裕和監督の最新作。
 カンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作。これは日本映画としては『うなぎ』(今村昌平監督)以来21年ぶりの快挙。

是枝裕和 『万引き家族』 カンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作。

 タイトルにあるように“万引き”をするシーンもあるけれど、中心となる元ネタとしては2010年に明らかとなった年金不正受給問題が扱われている。是枝監督は『海街diary』とか『そして父になる』のように稼ぎたいどこか(テレビ局?)からの持ち込み企画と思わしき作品をやりつつも、『誰も知らない』や本作のように社会問題を取り上げてみたりもする。
 さらにそのどちらも商業作品としてある程度成功させつつも、映画作家としてかねてからのテーマ「家族のあり方」を問う作品ともなっている。商業性と作家性の両輪をうまく回しているあたりは稀有な存在なのかもしれない。この『万引き家族』は泣かせる作品にもできたのだろうがそうはせず、冷静な目で家族の行く末を追っていく作品となっている。

 年金不正受給のような問題がメディアで取り上げられる際には、皮相だけを見て「けしからん奴らだ」という論調になりがちだ。個人的にはそういった怒りよりも、親の死を隠蔽してまでその年金を受け取り続けなければ生きていけない家族があちこちにいることが驚きだった。是枝監督は、もしかしたら実際にはこんな事情があったのかもというところに想像力を働かせてこの作品を作り出している。
 ここで登場する家族は、治(リリー・フランキー)が作品冒頭で拾ってきたリン(佐々木みゆ)を含めて6名。治が祥太(城桧吏)に教えているのは“万引き”だから清廉潔白ではないにしても、子供を冬空のベランダに放り出して省みないリンの親よりはマシな家族だろうという気にもなる。しかし実際には、この家族は偽りの家族であることが次第にわかってくることになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『万引き家族』 亜紀(松岡茉優)と信代(安藤サクラ)は拾ってきたリン(佐々木みゆ)を家族としてかわいがる。

◆なぜ偽りの家族が必要だったのか?
 息子に見えた祥太は治が拾ってきた子だし、治と信代(安藤サクラ)も夫婦ではない。祖母に見える初枝(樹木希林)と、治あるいは信代との間にも血縁関係はない。亜紀(松岡茉優)は初枝の元旦那が新しい奥さんとこしらえた子供だから、ここにも血縁関係はない。結局、6人に血のつながりは皆無ということになる。
 それではなぜ偽家族が必要なのか。亜紀は実家に居場所がなくて初枝のところで暮らしている。そのほかも似たようなもので、居場所がないからそこにいるということになるだろう。治たちが初枝の年金をあてにしているように、初枝自身も亜紀との関係を利用しているフシもあり、その絆は善意だけのものではない。しかし、たとえ偽家族がそれぞれを利用し合うような関係だとしても、祥太が語る絵本『スイミー』のエピソードではないけれど、みんなで身を寄せ合うことで生き永らえているという意味で偽家族は必要とされているのだろう。
 おもしろいのは治と信代の関係。ふたりの過去には信代の元旦那を治が殺したという事件があった。しかしそれでいて治と信代は肉体関係がなかったらしい。ふたりのセックスのあとに、治は「できたな」と驚いている。最初は「久しぶりにできた」という意味かと私は思っていたのだけれど、『キネマ旬報』金原由佳の作品評によれば、治は童貞という設定なんだとか。なぜふたりがそんな関係だったのかと言えば、治は様々なことを学ぶ機会がなかったからなんじゃないだろうか(真っ当な男女関係のことすら学ばなかった)。

◆祥太の学んだこと
 この偽りの家族が崩壊するのは、祥太が起こした事件がきっかけとなる。自分が“万引き”をするところまでは許容できた祥太も、妹のようなリンを巻き込むことはためらいがある。家族のことが外部の大人に知られてしまうと、家族の関係性そのものが崩壊してしまうというのは『誰も知らない』にもあったシチュエーションだ。
 しかし『誰も知らない』の明(柳楽優弥)には、学ぶべき大人の存在がなかった。一方で『万引き家族』の治には、“万引き”しか教えられないダメな偽りの父親だったとしても近くに大人がいた。治のような親でも反面教師になることがあるわけで、祥太は治を見てこのままではいけないということを悟ったのだろうと思う。その意味では『誰も知らない』の明よりは、『万引き家族』の祥太のほうがずる賢く生きる力を学んだということになるだろう。
 世の中には様々な家族の形がある。リンの家族は血縁関係があるけれど、共同生活は機能しておらず、リンは存在を否定されている。信代たち偽りの家族がハグによって「ここに居てもいいんだよ」とリンに教えたのとは対照的だ。どんな家族が正しいのかに答えなどないわけで、ダメな家族なら逃げ出す自由があったほうがいい。それに縛られて苦しむくらいならそれを捨てて、血縁とは別の家族のあり方を模索するのも悪くはないのだろう。

 JK見学店で働く松岡茉優のいつもの笑顔とは違う役柄も印象的だったし、樹木希林のおばあさん役もさすがで毒のあることをやりつつも何となく許せてしまうあたりは独壇場だった。なかでも一番光っていたのは安藤サクラだろうか。後半警察に捕まってからの表情には憑き物が落ちて生まれ変わったような美しさがあった。

キネマ旬報 2018年6月下旬号 No.1782


Date: 2018.06.20 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (6)

『Vision ビジョン』 自己陶酔の新しい形?

 『光』『あん』などの河瀨直美監督の最新作。
 カンヌ映画祭の常連の河瀨直美が、そこでジュリエット・ビノシュと出会って出来上がった作品らしい。
 なぜかプロデューサーにはEXILE HIROが名前を連ねている。

河瀨直美 『Vision ビジョン』 ジュリエット・ビノシュ演じるジャンヌは、アキ(夏木マリ)に植物の話を聞くと……。


 フランス人エッセイストのジャンヌ(ジュリエット・ビノシュ)が奈良県吉野の山奥にやってきたのは“Vision”という植物を探すため。ジャンヌはそこで山守を務める智(永瀬正敏)と出会うことになり……。

 これまでの河瀨直美作品が特段難解だと思ったこともなかったのだけれど、この作品はまったく意味がわからなかったというのが正直なところ。
 トンネルを抜けて森の奥に入るとそこは異世界で、時間の感覚が狂い現在も過去も同時に存在するような世界になるらしい。森の中心に位置する神秘的な大木や、その前で森の神に奉納するかのような舞を踊るアキ(夏木マリ)なんかから推測するに、『朱花の月』にも垣間見られた神話的な世界を描こうとしているのだろう。
 ジャンヌが奈良へとやってきたのは“Vision”という植物のためということだったはずなのだけれど、それがいつの間にかに森のなかで起きようとしている1000年に一度の出来事への関心へと移行する。しかし後半では、“Vision”とどんな関わりがあるのかわからないジャンヌの過去の話へと移り、ジャンヌの息子らしき鈴(岩田剛典)という青年の話になっていく。そうこうするうちに森の一部が炎によって焼かれることで何かが回復したらしい。
 自分でも何を書いているのかわからないのだが、この作品をどのように解釈すればいいのか見当もつかない。森のなかの神話的世界に親しく接している人なら理解できるのだろうか。呪術的世界から離れて暮らす多くの凡庸な観客には共有している前提が違うのかもしれない。とにかく「わかる人にはわかる」といった作りになっていて、傲慢さすら感じさせる。
 あまりにわからないので悪口すら言い難いのだけれど、ジュリエット・ビノシュ永瀬正敏のセックスシーンは酷くぎこちなかった。フランスを代表する女優に遠慮してしまったのかもしれないし、河瀨組の演出方法が問題だったのかもしれない。
 河瀨組の撮影現場では役者陣は与えられた役になり切っていて、相手役の人と接するのも撮影のときに限られているのだとか。だから休憩時間や待ち時間に相手とコミュニケーションを図ることすらできないらしい。演出方法としてはおもしろいのかもしれないけれど、演じる場面によっては具合が悪いものにもなっているように感じられた。
Date: 2018.06.14 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『海を駆ける』 海からやってきた男は何者?

 『淵に立つ』『さようなら』などの深田晃司監督の最新作。
 インドネシアを舞台にした作品であり、重要な役柄を演じるディーン・フジオカは奥様がインドネシア系ということでインドネシア語も披露しているのだが、太賀鶴田真由もインドネシア語の台詞をこなしている。特に太賀の台詞は流暢で、風貌までインドネシア風に見えた。

『海を駆ける』 海からやってきた男を演じるディーン・フジオカ。

 海からやってきた男は何者なのか。
 とりあえずは「ラウ(海)」と名付けられることになった男は、記憶喪失なのか自分の名前すらわからない。たまたま日本語に反応したことから日本人である貴子(鶴田真由)に白羽の矢が立ち、貴子の家の居候としてしばらく暮らすことになる。
 作品の発端に登場するラウだが、その物語の中心に位置することはない。存在感を消し、周りを邪魔することもなく、人のよさそうな笑みを浮かべているだけなのだ。中心となるのは若者たちの青春だろうか。
 父親の遺骨を海に撒くために日本からやってきたサチコ(阿部純子)。そんなサチコのことが気にかかるクリス(アディパティ・ドルケン)は、彼女と仲良くなろうと必死。クリスの幼なじみであるイルマ(セカール・サリ)は、2004年の津波によって家族も家も失い、今はジャーナリストとして活動することを目指して勉強中。貴子の息子であるタカシ(太賀)は、イルマのことが気になっているらしい。
 ちょっと変わっているのは、4人の人種や宗教が様々だということ。サチコは日本人だし、タカシは日本とインドネシアのハーフ、ほかのふたりはインドネシア人。さらにイルマはイスラム教徒だが、クリスは違うらしい。そんな4人だけに色々と食い違いも生じる。クリスは日本人のサチコに告白するために、友人であるタカシに相談するのだが、インドネシアでの暮らしが長く、日本の事情に疎いタカシはクリスに変な言葉を教えることになる。
 「月が綺麗ですね」というのがその台詞。これは夏目漱石が「I love you」の日本語訳としたと言われているもの。シャイな日本人がはっきりと告白をするわけがなく、言うことに困ってそんな言葉をつぶやいてしまうということはあり得るだろう。ただ、文化が違う人との間ではそもそもの前提が共有されていないわけで、クリスの想いは通じることがない。月も出ていない晩にそんなことを言われたサチコは、意味がわからぬままクリスの告白をやり過ごすことに……。

『海を駆ける』 左からアディパティ・ドルケン、阿部純子、セカール・サリ、太賀の4人。

 若者たちのコミカルなやりとりの傍らでラウは何をしているのかと言えば、基本は空気のように佇んでいる。『淵に立つ』では、浅野忠信演じる男が消えたあともその存在感に作品が支配されていくようであったのと対照的だ。『海を駆ける』のラウは不思議な男ではあるけれど、目立つ存在ではないのだ。
 ラウは気が向くと死に掛けの魚を生き返らせてみたり、道端で倒れていた女の子に空中から水を取り出して飲ませてやったりもする。最後には海の上を駆けていくという場面もあって、それらの力は奇跡のようにも思える。
 そんなラウのことを「津波の被害者の魂」だと見る人もいた。しかし一方では、ラウは突然貴子の命を奪ったりもし、子供たちを水のなかに誘い込んで溺れさせたりもしたとも噂される。奇跡を行う一方で、見境なく命を奪いもする。それはまさに神ということなのかもしれない(神の御心は測り知れない)し、「ラウ」の呼び名のままに海の擬人化と捉えることもできるだろう。ラウが空気のように目立たないのは、自然そのものであるからなのだろう。
 不思議な作品ではあるのだが、やや食い足りなさも残る。作品の最初と最後をやさしく包み込むようだったディーン・フジオカ演じるラウ。人に害をなす悪いディーン・フジオカの姿が見られれば、さらに良かったのかもしれないとも思う。とは言うもののラウという役柄は、人助けと同じような笑みのまま、人に害をももたらすのだろう。神のことは知らないけれど、自然は何かの意図をもって人に恩恵を与えたり、生命を奪ってみたりするわけではないわけだから……。
Date: 2018.06.01 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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