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『ホットギミック ガールミーツボーイ』 ライバルは多いほうがいい?

 『溺れるナイフ』などの山戸結希監督の最新作。
 原作は相原実貴の漫画『ホットギミック』

山戸結希 『ホットギミック ガールミーツボーイ』 乃木坂46の堀未央奈が主役を演じる。

 主役を演じるのが乃木坂46の堀未央奈で、女子高校生の主人公が3人の男子に言い寄られる話と聞くと、よくある“キラキラ映画”なのかと思うのかもしれない。しかし冒頭すぐにそれは間違いだったと気づくことになる。
 主人公のはつみが妹・茜(桜田ひより)に渡すのは、妊娠検査薬とコンドームであったりするところからして“キラキラ映画”とは言い難い。さらにその妊娠検査薬を亮輝(清水尋也)という元いじめっ子に取られてしまい、弱みを握られることになった初は、亮輝の奴隷として過ごすはめになる。
 亮輝のちょっかいに困っている初を助ける王子様キャラとして登場するのがモデルの梓(板垣瑞生)だが、観客のほうが気恥ずかしくなるほどのうぬぼれ度合いで、初に対して「かわいい」を連発して迫ることになる。そして、それらを見守る形で兄の凌(間宮祥太朗)がいるのだが、凌は初に近親相姦的感情を抱いているらしい。

『ホットギミック ガールミーツボーイ』 亮輝(清水尋也)に奴隷として扱われることになる初(堀未央奈)。

◆違和感?
 とにかく前半部分の違和感が著しい。原作漫画をちょっとだけ読んでみると、映画版とほぼ同様のストーリーなのだが、漫画のほうにはそれほど違和感はない。というのも亮輝に奴隷扱いされる初は、漫画では心のなかでこっそりとツッコミを入れている分、不快な印象がやわらぐのだ。それに対して映画版では、ほとんど一方的に亮輝に小突き回されているように感じられてしまう。しかも映画版ではこうした残酷な場面に、なぜかカノンという心洗われるような旋律を重ねることで、さらに違和感を強調しているようなのだ。
 前半部分に感じた違和感は、観ている側が勝手に予想していた女子高校生の青春模様とはまったく相容れないものだったからなのだろうと思う。ポスターなんかのビジュアルから想像するジャンルからすると予想もしない展開だからこそ、観客として居心地が悪く不快なものを感じるのだろう。
 ちなみに『ハウス・ジャック・ビルト』というシリアル・キラーものを撮ったラース・フォン・トリアーも、観客の期待とは違ったもの作ることを狙っていたようだ。そうして出来た作品はやはり不快なものとなっていたわけで、その部分では似ているところがあるのかもしれない。
 ただ、本作は途中でそうした違和感はなくなっていくようにも感じられた。というのは梓というキャラの本来の目的が判明することで、女の子が恋に悩むとかの青春を描くつもりはないということが理解できるようになるからだ。

◆「ボーイ・ミーツ・ガール」ではなく……
 山戸監督の作品『おとぎ話みたい』『5つ数えれば君の夢』ではそれなりにキラキラした女の子の世界が描かれていたように思えるが、『溺れるナイフ』では主人公の女の子は男の子との関わりで葛藤しつつも、それを乗り越えていったとも言える。
 今回の『ホットギミック ガールミーツボーイ』では、初は初恋の人である梓でもなく、いつも初のことを肯定してくれる凌でもなく、初のことをバカ扱いする亮輝を選ぶことになる。そんな亮輝というキャラは、ツンデレを極端に誇張したような人物でなかなか屈折している。
 亮輝は初に「おれの言うことが正しいから従え」と言いつつも、もっと自立することを求めるし、奴隷にすると言いつつも彼女にしてやってもいいと譲歩したりもする。自信過剰な亮輝からすれば、求められたからと言って梓に裸を見せてしまうような優柔不断で確固たる自分を持っていない初は、自分と一緒にいれば多少はバカじゃなくなって、自立することを学び、最終的には多くの男のなかでおれ様のことを選ぶことになるということなのだろう。つまり、亮輝は「ボーイ・ミーツ・ガール」のような通常の恋愛ものの図式を否定していて、タイトルにも「ガール・ミーツ・ボーイ」とあるように、初の自立を促しつつ、もっと主体的であることを求めているのだろう。
 山戸監督の『おとぎ話みたい』や『5つ数えれば君の夢』における女の子の自己完結的なモノローグならば、その意識の流れを把握することはそれほど骨は折れないのだが、頭脳明晰な亮輝の突飛とも言える論理展開についていくのは、初ではなくともなかなか大変だったという気もする。

◆山戸結希が次世代を担う?
 先日、テレビのドキュメンタリー番組『7RULES』で山戸結希監督が出演している回を観たのだが、そのちょっとうつむき加減で話す印象とは違い、今回の作品でも果敢にさまざまなことを試している。
 前作では長回しが印象的だったが、本作ではかなり細かいカットをつなげていく。初などの主人公たちの姿はあくまで美しく撮りつつも、周囲で悪評を流す女の子の描写では、瞳は血走りし悪口をもらす口元を極端なアップで異様なものとして映し出していく。予想されたジャンルとはズレていくように感じるのも、積極的な攻めの姿勢なのだろう。
 先のドキュメンタリー番組では、山戸監督は後輩となる女性監督への支援について語っていた。『21世紀の女の子』というオムニバス作品では、山戸監督がプロデュースを買って出てまで後進の女性監督の育成に努めているとのこと。「ライバルが多いほうがもっと遠くに行けるはず」という言葉もあり、その静かな言葉とは裏腹に山戸監督自身の映画に対する意欲を感じさせる番組だった。本作の初が主体的に生き方を選んでいくというのも、女性監督としてのメッセージが込められているようでもあり、今後もやはり注目しておいたほうがいい監督だと思えた。

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Date: 2019.07.06 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『凪待ち』 時化るときも凪のときも

 『凶悪』『彼女がその名を知らない鳥たち』など白石和彌監督の最新作。
 本作はオリジナル脚本で担当は加藤正人。ノベライズ本も出ている。

白石和彌 『凪待ち』 ギャンブル依存症の木野本郁男を演じるのは香取慎吾。


 ギャンブル依存症の木野本郁男(香取慎吾)は、恋人・亜弓(西田尚美)と一緒に彼女の地元の石巻でやり直すことを決意する。石巻では末期ガンの亜弓の父・勝美(吉澤健)と、まだ高校生の亜弓の娘・美波(恒松祐里)との生活が始まるのだが、ある日、亜弓が殺されるという事件が起きる。

 やり直しを図って田舎へと向かった郁男。未だ籍は入れていない郁男と亜弓だが、娘の美波は口うるさい亜弓よりも郁男のほうに馴染んでいるくらい。しかし、事件は悪い偶然が重なって起きてしまう。
 その日、美波は母親の亜弓とけんかし、友達と遊びに行ったまま母親からの電話を無視し続ける。心配になった亜弓が郁男と一緒に美波を探しているうちに、些細なことでふたりは言い争いになり、郁男は亜弓を車から放り出してしまう。そして、その後に亜弓は殺される。
 郁男は亜弓の死を自分のせいだと考え、自分を責めることになる。さらには石巻ではよそ者である郁男を、周囲の目が追い詰める。警察は郁男を犯人と疑い、職場の同僚も都合の悪いことを郁男のせいにするようになる。自暴自棄となった郁男が向かうのはギャンブルであり、際限なくそれにのめりこんでいくことになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『凪待ち』 郁男を見守る亜弓の娘・美波(恒松祐里)と亜弓の父・勝美(吉澤健)

◆凪と時化しけ
 『凪待ち』では海という自然現象とわれわれ人間の状態が重ねて描かれていくことになる。舞台となるのは石巻であり、東日本大震災の被害が甚大だった場所だ。劇中の石巻の海の様子は特に荒れた様子もなく凪いでいる。しかし、海は常に凪いでいるわけではない。時に大時化になるときもあるし、地震が来れば津波を引き起こすこともある。
 タイトルの「凪待ち」は亜弓の死後、荒れに荒れて自暴自棄な行動を繰り返す郁男に対する周囲の気持ちを表しているのだろう。郁男は決して悪い人間ではないのだが、ギャンブルとなると自制が効かないこともあり、亜弓のへそくりにも手を出したりもする。それでも亜弓は郁男のことを信じていたし、亜弓亡き後は周囲の人々が郁男を助けることになる。
 亜弓の家に出入りする小野寺(リリー・フランキー)もそのひとりで、小野寺は身を挺して暴漢から郁男を救い、金も用立て、仕事まで世話したりもする。それから最初は素っ気なかった亜弓の父・勝美も、郁男を助けるために自らの船を売ってまで金を作ることになる。そこまでして郁男を助けるのは、郁男は今は荒れているけれど、時が来れば必ず収まるはずだという気持ちがあるからだろう。

 登場人物がそんなふうに考えるのは、海も荒れるときもあれば凪のときもあることを知っているからだ。亜弓は津波によって全部ダメになったと語っていたが、漁師である勝美が見るにはそんなことはない。石巻の海は津波で一度は壊滅的な被害を受けたかもしれないが、それによって新たな海に生まれ変わったというのだ。
 だから郁男も堕ちるところまで堕ちたあとには、生まれ変わることも可能だということなのだろう。ただ、ラストでカメラが捉えた石巻の海の底には、未だに津波で流された家財道具などが沈んでいる。穏やかな海上とはまったく違った世界が垣間見られるわけで、郁男の今後の人生も凪と時化を繰り返していくことになるのだろう。

◆犯人は? ネタバレ注意!
 凪と時化を繰り返すのはほかの人も同様で、勝美はかつて暴力団にも恩義を売っていたほどの人物。それが亜弓の母と出会ったことで落ち着いたとされている。亜弓の元夫(音尾琢真)もかつては亜弓に暴力を振るう男だったが、今では別の女性と新たな家庭に収まっている。
 そして、実は亜弓を殺した張本人であった小野寺も同様だったのだろう。普段の小野寺は凪の状態にあるように見えるが、時化るときもあったのだ。だから小野寺が郁男に示した親切も決して嘘というわけでもないのだろう。何か魔が差した瞬間があって亜弓を殺してしまったわけだが、小野寺は亜弓のことが昔から気になっていたのだ(元夫が語るように亜弓は地元の人気者だったらしい)。だから亜弓が行きたがっていた島のことも覚えていた。亜弓を殺した後の親切は、もしかすると罪悪感も手伝っていたのかもしれない。自暴自棄の郁男に「あんたは生まれ変わった」と諭していた小野寺だが、その言葉は自らも大時化の時を迎えたからこそ出た言葉だったのかもしれない。

 本作の郁男は憑かれたようにギャンブルに金をつぎ込み、自殺を望んでいるかのような行動に走っていく。引き返すチャンスは何度もある。ただ次の勝負で逆転できるかもしれないというギャンブル熱(世の中が傾くようなシーンが印象的)は、郁男をさらなるどん底に叩き落とすことになる。郁男も自らがどうしようもないろくでなしだとわかっているからこそ痛々しい作品だった。
 主役を演じた香取慎吾は白石組の個性的な面々のなかにあっても違和感なかったし、その佇まいはよかったと思う。郁男の同僚を演じた黒田大輔の小悪党ぶりもよかった。郁男に追われてゲロを吐きつつ逃げるところがウケた。

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凪待ち


Date: 2019.07.01 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『ウィーアーリトルゾンビーズ』 ダサくてもエモいほうがいい

 第33回サンダンス映画祭短編部門グランプリの『そうして私たちはプールに金魚を、』長久允の長編デビュー作。

長久允 『ウィーアーリトルゾンビーズ』 主役は4人の少年少女だが、脇役には豪華な面子が顔を揃えている。
 
 火葬場で出会った4人の少年少女の物語。それぞれの理由で両親を亡くし、その日火葬場で出会った4人は、あまりの突然のことだったからか、単に悲しくないからか、涙を流すこともない。LITTLE ZOMBIESというのは死んでるみたいに生きている4人の少年少女のこと。

 監督の長久允はCM業界出身とのこと。4人の少年少女(二宮慶多水野哲志奥村門土中島セナ)のどちらかと言えば醒めた印象とは違い、映像のテンションは高い。会話は細かいカットをテンポよくつないで見せるし、ドラクエのような真上から捉えたショットとか、ビビッドな色合いの映像(時にモノクロシーンも)も冴えている。火葬場の粉(骨)がなぜかミートソースの粉チーズにつながるとか、葬式の鯨幕が虎のいる檻へと移行するあたりのイメージの広がりもよかったと思う。
 こんなふうに書くと大絶賛みたいにも聞こえるかもしれないのだが、MVのような高いテンションのまま2時間を引っ張ろうとしたからか、途中からはかえって平坦なものにも感じられた。
 軸となる物語がないのは、親を喪って進むべき方向を見失った子供たちだからこその展開なのかもしれないのだが、劇中の言葉を使えばダサくてもエモい部分は必要だったんじゃないだろうか。というよりも、監督の様々なテクニックを詰め込んだものを見せられているようでちょっと鼻につくところがあるのだ。LITTLE ZOMBIESというバンドの結成も、その唐突な終わりも、特段必要性があるというよりはおもしろいからやってみたという感じで、ラストも取ってつけたものに感じられた。
 LITTLE ZOMBIESの曲はヘタウマ(ヘタヘタ?)で聴かせるものがあると思うのだが、なぜバンドをやりたかったのかはまったくわからないわけで、映画のなかで大人が子供たちを利用するのと同様に、電通の社員だという監督の売らんかなという意識なのかとも思えてしまった。

Date: 2019.06.18 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『町田くんの世界』  町田くんがうまく現実に着地できれば……

 『舟を編む』『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』などの石井裕也監督の最新作。
 主役のふたりにはオーディションで選ばれた新人の細田佳央太関水渚
 原作は安藤ゆきの同名漫画。

石井裕也 『町田くんの世界』 フレッシュな新人細田佳央太と関水渚が主役。


 町田くん(細田佳央太)はあり得ないほどいい人だ。困っている人を見つけると助けないではいられない。そんな町田くんが「人が嫌い」な同級生・猪原さん(関水渚)と出会い……。

 こんなクソみたいな世の中で、なぜ町田くんは素直に善意の人でいられるのか。一応、物語上の説明はある。町田くんは幼いころに枯れた井戸に落ちて一度死に、新たに生まれ変わった。そのときの後遺症もあるのか、町田くんはちょっと愚鈍なところがあり、健忘症気味のところすらある。しかも勉強はできないし、走る姿はひどくみっともない。そんな欠点ばかりにも見える町田くんだが、それらの欠点を補うほどの善意に満ちている。

 偶然なのか時代の要請かは不明だが、町田くんのようなキャラクターが登場する作品がちょっと前に取り上げた『幸福なラザロ』。どちらも極端な善意の人を描いていて、一度死んで生き返るところまで一緒だ。
 ただ、このふたつの作品を比べてみると、それぞれの主人公が置かれた世界が異なっているとも感じられる。ラザロの場合は世間から隔絶された昔ながらのイタリアの村であり、村人たちは牧歌的な世界に生きている。それに対して、町田くんのいる現代日本では、世の中は悪意に満ちている。猪原さんは有名芸能人である母親が不倫をしたことで学校でも爪弾きにされているし、そうした芸能人を食い物にしている雑誌記者・吉高(池松壮亮)もクソみたいな世の中にうんざりしている。
 ラザロの村では村人たちはのんびりと生活していて、ラザロも特別に村人たちから乖離している感じはない。ラザロという善意の人も、「そういう人間もいるものだ」というくらいで違和感はなく、みんなの役に立つ(利用価値がある)人として村に受け入れられている。
 それに対して『町田くんの世界』の主人公はもっとファンタジックな存在だ。現代日本では清廉潔白な印象の芸能人も裏では何をしているかわからないし、一生懸命に頑張っても報われる世の中となっているわけでもない。いつも世間はギスギスしていて、多くの人が焦燥感に駆られている。そうしたなかで、ただひとり町田くんだけは、薄汚い世界を見たことがないかのように純粋さを保ち、善意を持って人々に接している。ほとんどあり得ないその姿に周囲の人々は驚かされ、「町田、マジか」(友人役の前田敦子の台詞)とつぶやかざるを得ない。
 「人が嫌い」と言ってみんなを避けていた猪原さんも、町田くんの素直の言葉と裏表のない純粋な行動に心を揺さぶられることになる。「大切な人」という言い方を町田くんはするのだが、これには町田くんにとっては深い意味はない。町田くんは人のことが大好きで、誰もが大切な人だからだ。しかし孤独な猪原さんにはそんな言葉が愛の言葉のようにも思え、勘違いを肥大化させていく。そうなるとそんな彼女と相対する町田くんもこれまで抱いたことのない感情に混乱していく。

『町田くんの世界』 最初は澄ましていた猪原さん(関水渚)もだんだんと崩れていくところがかわいらしい。

 ラザロのときに触れた“聖なる愚者”。こうしたキャラはラストに死んでしまう(あるいは死んだようになってしまう)運命にある。ラザロもそうだったし、ムイシュキン公爵もそうだ。なぜ彼らが死ななければならないかと言えば、あまりにも現実離れしているからかもしれない。そんなキャラがその作品世界でうまく居場所を見出だし「長らく幸せに暮らしましたとさ」という展開に着地させるのはなかなか難しい。
 そんなわけで町田くんだってそういう危機はあったはず。誰にでも優しい町田くんは、猪原さん以外の女の子でも、それこそ男の子でも、たまたま見かけたおばあさんでも、とにかく分け隔てなく接する。しかし誰にでも優しいということは猪原さんも特別な存在ではなくなるということで、彼女が不満気な表情を見せるのもその点だ。ちょっと頭が鈍い町田くんは猪原さんをほかの人よりも優先しなければならないということに気がつかないのだ。
 しかし町田くんが猪原さんへの愛に気づき、猪原さんを優先しほかの人を疎かにしたとしたら、町田くんは町田くんの存在意義を失ってしまうだろう。だから最後は奇跡という力技が必要だったということだろう。

 そもそも本作で「世の中をクソだ」と盛んに語っているのは雑誌記者の吉高。だが同時に彼は町田くんの素晴らしさの理解者でもある。吉高と町田くんが会話するシーンでは、なぜかふたりは似ていて兄弟のようにも見える。多分、吉高はスポイルされた町田くんなんだろうと思う。もともとの純粋さも世の中の悪意によって裏切られると、吉高のように世界をクソとしか思えなくなる。世界がみんな町田くんならそんなことはないはずなのに……。そうした想いが最後の奇跡には込められていたのかもしれない。
 前作『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』の感想を読み返してみたら、前作のときも奇跡が起きるかも云々と書いていて、同時に青臭いとも書いている。青臭いのは本作も同様なのだが、誰かがそれを語り続ける必要があるのかもしれないとも感じなくもない。現実にも町田くんの居場所があればいいと思うからだ。

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Date: 2019.06.15 Category: 日本映画 Comments (2) Trackbacks (3)

『さよならくちびる』 映画は音楽に嫉妬する

 監督・脚本・原案は『害虫』『どろろ』などの塩田明彦
 劇中の楽曲は秦基博あいみょんの提供したもの。

塩田明彦 『さよならくちびる』 ハル(門脇麦)とレオ(小松菜奈)のふたりでハルレオ。

 インディーズで売り出し中のデュオ「ハルレオ」は全国7カ所を巡るツアーに旅立つところ。しかしハルレオはそのツアーで解散することが決まっていた。
 高架下に停めた車にハルレオのふたりとローディーのシマ(成田凌)が勢ぞろいしたところから険悪な雰囲気。ハル(門脇麦)はレオのことをバカ女呼ばわりし、レオ(小松菜奈)もハルの存在を無視している。シマは改めて解散の意思について確認するものの、それは変わらないらしく、そのまま車はスタートすることに……。

 音楽映画というだけで映画ファンの評価の点数は甘くなるところがあるんじゃないかと常々思っているのだが、それはなぜかと言えばやはり音楽というものが魅力的だからということになる。『ボヘミアン・ラプソディ』があれだけの評判を獲得したのも、クイーンの楽曲の良さにあったことは間違いないだろう。
 この作品も秦基博、あいみょんの提供した楽曲によって魅力度を増している。そして、ハルを演じる門脇麦とレオを演じる小松菜奈は、実際にギターを弾きながら歌っている。ふたりの歌声のハーモニーが思った以上に素晴らしく、映画を観た人の多くがハルレオのCDが欲しくなるんじゃないだろうか。
 特に門脇麦の声は際立っていて、また芸達者な部分を見せてくれたように思う。相方の小松菜奈はマッシュルームカットが涼しげな目とぴったりマッチしていて、カリスマ的な人気を誇るレオにふさわしいビジュアルだった。そんなハルレオのライブを体験できただけでもう十分満足という作品だったと思う。



 映画の感想としてはすでに尽きているとも思うのだが、塩田明彦監督の『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』には本作を理解する上で役に立つかもしれないことが記されていたようにも思えたので、以下その点について書きたいと思う。
 『映画術』では音楽について書かれた章がある。塩田はここで黒沢清監督の言葉として「ただひとつ、映画が嫉妬するジャンルがあって、それが音楽なんだ」というものを挙げている。塩田はその言葉からスタートして「映画が音楽になる」ということはどういうことかという独自の論を展開していく。
 黒沢清がどんな意図でもって映画が音楽に嫉妬していると語ったのかについては塩田は触れていないのだが、ある程度推測することはできる。というのは黒沢清の言葉はウォルター・ペイターの「あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる」というものが元ネタだと推測できるからだ。
 私がこの言葉を知ったのはホルヘ・ルイス・ボルヘスの本(『詩という仕事について』)の引用で、ボルヘスはこの言葉にさらに解説を加えていて、なぜ「あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる」のかを論じている。

 ウォルター・ペイターが書いています。あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる、と。(もちろん、門外漢としての意見ですけれども)理由は明らかです。それは、音楽においては形式と内容が分けられないということでしょう。メロディー、あるいは何らかの音楽的要素は、音と休止から成り立っていて、時間のなかで展開する構造です。私の意見では、分割不可能な一個の構造です。メロディーは構造であり、同時に、それが生まれてきた感情と、それ自身が目覚めさせる感情であります。


 つまりこういうことだろう。何らかの感情なりテーマを表現しようとしたとき、音楽ならメロディーでそれを直接に表現できる。ベートーヴェンが交響曲第5番を作曲したとき、最初にあったのはメロディーであって、それで事足りているはずだ。
 ウィキペディアにあるエピソードによれば、交響曲第5番が「運命」と呼ばれたりするのは、「冒頭の4つの音は何を示すのか」という質問に対し「このように運命は扉をたたく」と答えたことに由来しているとか。ベートーヴェンは問われたからそう答えただけで、そうした説明は蛇足であるとも言えるだろう。
 また、そうしたテーマを言葉で表現するとすれば、物語という形式で伝えることはできるかもしれない。ただ、伝えようとする内容と、表現のための形式は分けられている。何らかの形式を媒介として内容を伝えるということになる。
 映画だって同様だろう。映画は映像メディアであるから映像を使って何かを表現することになるわけだが、伝えようとする内容と表現の形式は常に別個に考えられているんじゃないだろうか。しかしながら音楽だけは何の媒介もなしに表現することができる。だから映画は音楽に嫉妬している、そんなふうに黒沢清は語っているのだと思う。
 塩田が言う「映画が音楽になる」というのもそうした議論があってのこと。塩田が『映画術』のなかで挙げている例としては『曽根崎心中』『緋牡丹博徒 花札勝負』などの台詞回しがある。これらの作品では独特の台詞回しが音楽を感じさせるものとなっているのだ。

 今回の『さよならくちびる』について言えば、ハルレオのギター演奏とふたりの歌声はもちろん一番の見どころなのは間違いないのだが、ほかの部分でも「映画が音楽になる」瞬間があったような気もする。
 この作品は音楽映画と言いつつも使われている楽曲はそれほど多くはないし、よくある音楽映画のような高揚感には欠けるかもしれない。ハルレオのふたりとシマという男の奇妙な三角関係(というか三すくみ状態?)があって、それはほとんど変わらずにライブ会場を回っていく。そんな設定のドキュメンタリーのように見えるところもある。塩田監督はライブシーンではないロードムービーの部分にこそ「映画が音楽になる」瞬間を狙っていたのかもしれない。
 冒頭、シマがハルのアパートから荷物を運び出し、その後、ハルがギターを抱えてゆっくりとしたリズムで歩いていく。その先の車のなかにはレオが居て、三人のギクシャクした雰囲気が生まれる。そうしたシークエンスがとても心地よくて「映画が音楽になる」瞬間があったようにも感じられた。

さよならくちびる


【メーカー特典あり】 さよならくちびる【特典:ステッカー付】


映画術 その演出はなぜ心をつかむのか


詩という仕事について (岩波文庫)


Date: 2019.06.10 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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