『武曲 MUKOKU』 命懸けの剣の道

 『海炭市叙景』『私の男』などの熊切和嘉監督の最新作。
 原作は藤沢周『武曲』

熊切和嘉 『武曲 MUKOKU』 矢田部研吾(綾野剛)と羽田融(村上虹郎)。ふたりの対決の物語。

 父親から仕込まれた剣の腕前でその父親を植物状態へと追いやった矢田部研吾(綾野剛)と、荒削りだが天賦の才を見せる羽田融(村上虹郎)。そんなふたりの対決の物語。
 研吾の父親・将造(小林薫)は剣道を精神的な修練やスポーツの類いとは考えておらず、斬るか斬られるかという命のやり取りとして考えている。武士でもないのにそんなことを考えるのは、将造が「剣の道を極め国家に尽くしたい」と励んできたにも関わらず、現実社会では報われていないという屈折した思いがあるからで、息子に剣を仕込んで本当の殺し合いをしたいと願っているかのように見える。一方の羽田融はラップにはまっている高校生なのだが、ひょんなことから剣道を始めることになり、次第に研吾との対決を望むようになっていく。

 ※ 以下、ネタバレもあり!


『武曲 MUKOKU』 クライマックスは雨のなかでの剣での闘い。『私の男』みたいにまた血(泥)のような雨も降ってきた。

 私は一応剣道の経験者なのだけれど真剣にはさわったこともないし、剣道は実際の真剣勝負とはまったく違うものだとも聞く。だから剣道は武道ではなくスポーツだとも揶揄されたりもするらしい。真剣では刃を引かなければ斬れないものらしいのだが、剣道では竹刀を当てることがポイントになるというもので、剣道の鍛錬が真剣勝負の練習となるのか否かはよくわからない。そんなわけで剣道をやる人が常に命のやり取りをしているわけもなく、剣道部は極めて健全な場所だったように記憶しているので、『武曲 MUKOKU』の研吾や融が防具もなしに木刀で打ち合ったりするのは狂気の為せる業ということになるだろう。
 どちらかと言えば研吾の狂気はわかりやすい。研吾に関しては将造との対決も描かれるし、その後の酒浸りの日々や剣道部での大暴れなども丹念に追われるからだ。一方でラップから剣道へと鞍替えすることになる融のほうはわかりづらい気もする。
 融を剣の道に導くことになる光邑師範(柄本明)はお坊さんという設定で、禅の用語がいくつも登場する。「不立文字」「直指人心」「『心』以前の心」といった用語は、どれも言葉では伝えられない何かを含んでいる。そのあたりがラップで韻を踏むリリックを書くことを趣味としていた融とつながるのだろうとは思うのだけれど、作品内では融の内面までに踏み込んでいかないのではっきりとはしない。ただ融は洪水の被害で一度死に掛けたというトラウマがあり、一度は死に近づいた融がタナトスに魅入られたようにして研吾との対決を望んでいくことになる。
 そんな意味ではふたりの関係はアンバランスにも思えるのだけれど、この作品は最後のふたりの対決という一点に向かって強引に展開していく。言ってみればふたりを対決させるためにこの作品はあり、設定の強引さなんてどうでもいいのだろう。
 実際に豪雨のなかでの対決シーンは、役者ふたりの心技体のすべてにおいて頂点となっていたんじゃないだろうか。闘い方もカンフー映画の剣術めいたものにはなっておらず、決定打が“突き”だというのも剣道らしくてよかったと思う。

 対決に向けてすべてが収束していったわけだけれど、物語にはその先がある。命懸けの対決をしたふたりは憑き物が落ちたように真っ当な剣道部員としての稽古を開始することになるからだ。つまりは狂気からの快復、あるいはトラウマの克服といった物語になっているのだ。
 原作小説は読んではいないのだけれど、「武道系部活小説」とか評している人もいるようで、映画版の狂気とはちょっと違う味わいになっているのかもしれない。原作小説では続編すら書かれているらしいのだけれど、健全すぎる剣道部映画なんてあまり興味を惹くとは思えないし、このアレンジでよかったんじゃないかとも思う。

 主役の綾野剛『日本で一番悪い奴ら』では堕ちていく男の悲哀を感じさせたが、今回の作品でも酒に溺れて涎まみれの酷い姿を晒しつつ、最後にはそこから復活して精悍な姿を見せ付ける。復活後の上半身の筋肉のつき方が尋常ではなく、カメラもそれをなめ回すように撮っている。ゲイ役だった『怒り』でも裸になっていたけれどあのときは特段目立つものではなかったわけで、いつの間にあんな身体を作り上げたのだろうかと感心。
 近藤龍人の撮影は将造の幼い研吾に対するしごきの場面などの枯れた色合いは味があったし、薄暗い日本家屋の奥から捉えた庭の緑の鮮やかさも素晴らしかったと思う。
 男同士の対決に女は邪魔とでもいうのか、女優陣に対する扱いが結構雑で、前田敦子も顔出し程度のほとんど意味のない役だったりもするのだけれど、個人的には片岡礼子がチョイ役でも登場していたのは嬉しかったところ。橋口亮輔作品にいつも顔を出していた片岡礼子だけれど、『恋人たち』には出ていなかったようなので……。

武曲 (文春文庫)


武曲II


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Date: 2017.06.12 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『光』 映像を言葉にすることの難しさ

 『あん』『2つ目の窓』など河瀨直美の最新作。
 映画の“音声ガイド”という珍しい仕事を取り扱った作品。

河瀨直美 『光』 カンヌ国際映画祭ではエキュメニカル賞を受賞した。


 映画の“音声ガイド”の仕事をしている美佐子(水崎綾女)は、その仕事で弱視のカメラマン・雅哉(永瀬正敏)と出会う。美佐子の仕事に対して遠慮なくズケズケと意見を述べる雅哉に苛立ちつつも、美佐子は雅哉のことが気にかかるようになり……。

 映画の音声ガイドとは、視覚障がい者の人に映像を伝える仕事。音声ガイドは登場人物の動作や舞台となる場所の情景を言葉にして伝えていく。『光』では、音声ガイドの仕事ができあがっていく過程を追っていくことになるのだが、普段あまり触れることの機会のないこの仕事に注目したところがよかったと思う。
 映画作品はまず最初に脚本という言葉で書かれたものがあって、それを元に映像化したものが生み出される(言葉⇒映像)。音声ガイドはその逆に、出来上がった映像を再び言葉に直して再構築することになる(映像⇒言葉)。
 そんなわけだからブログで映画の感想をしたためたりしている人にとっては、映像から言葉をつむぐという点では何かしらの共通点を感じるんじゃないかと思う。音声ガイドは映画作品と視覚障がい者をつなぐ役割を果たしているわけだけれど、こうした映画ブログも映画作品をまだ観ていない人とつなぐ役割をしている部分もあるからだ。もちろん映画ブログは宣伝や紹介ばかりではないわけで、好き勝手な解釈を述べ立てるというものもある(このブログはどちらかと言えば後者)。
 しかし音声ガイドはそうした主観が交じってしまってはいけないという点が難しいところ。それは押し付けがましいものになってしまうからだ。見えている音声ガイドが、見えない視覚障がい者に自分の見方を一方的に押付ける。これでは作品の豊かな世界が音声ガイドによって矮小化されてしまうかもしれないのだ。

河瀨直美 『光』 主人公・美佐子(水崎綾女)は音声ガイドの仕事をしている。クローズアップに勝ち気そうな表情が映える。

◆映像と言葉
 映像と言葉では情報量が違う。そんな意味のことを村上龍だか誰かがどこかで言っていた。これは比喩でも何でもなく、端的に記録媒体に保存するときの容量の話だ。たとえば一番上に貼り付けたこの作品のポスター映像であるJPEGファイルは約45キロバイトの容量だが、このレビューのすべての文字をテキストファイルにしても約5キロバイトにしかならない。
 上の映像を見るのは一瞬でも見た気になれるけれど、この文章をすべて読もうとするとそれなりの時間がかかる。それでも情報量は映像のほうが断然大きいということになる。映像は一瞬でも感じ取れるかもしれないけれど、細かい部分を見ようとすればもっと読み取れるものもあるのだ。
 『光』の劇中では美佐子の故郷の村の場面があるが、村を遠くから捉えたワンシーンにも色々に読み取れるものがある。人里離れた山奥の村であるとか、木々の季節感とか、山の向こうの空の様子とか、人によって見るところは様々だ。しかもこのシーンではよく目を凝らすと張り出した木の枝にはセミの抜け殻がぶら下がっていたりもする。たった2、3秒のシーンでもそうした様々な情報が読み取れるわけで、音声ガイドはそのどこかを取捨選択していかなければならない。

◆人の表情
 それから人の表情を言葉で説明することも難しい。美佐子はある架空の作品にたずさわっているのだが、その劇中劇は主人公の男(藤竜也)と介護されている認知症らしき女の物語だ。美佐子は主人公の表情を「希望に満ちた」という主観的な表現をして雅哉(永瀬正敏)に批判されることになる。
 実際に主人公がそんな表情をしていたのかはわからない。ただ美佐子の選んだ言葉では、受け取った側はほかにどんな解釈の仕様もないわけで、音声ガイドとしては問題ありということになる。この失敗は美佐子がまだ初心者ということが原因でもあるのだが、それ以上に美佐子のプライベートな部分とも関わっている。美佐子は自分が認知症の母親を抱えているという現実もあって、劇中劇の主人公にも希望を見出そうとしてしまうのだ。
 このブログはごく個人的な感想なり解釈なりを書き散らしているものだけに、様々なバイアスがかかっていることも前提となっているし、見方に偏りがあることも当然なわけだけれど、音声ガイドはそうした主観的なものを排除してできるだけ客観的な言葉を選んでいかなければならないのだ。

 『光』という作品は、そうした映画の見方の色々を考えさせる内容となっているところが魅力だろうと思う。たとえば劇中劇では主人公が寄り添っている女にスカーフをかけてやる場面がある。ここでは寒さを気遣う主人公のやさしさが描かれてもいるのだけれど、それと同時にそのスカーフは女の首を絞めるようにも見える。認知症ですべてを忘れてしまっている女を殺して楽にしてやろうという葛藤が見え隠れしているわけだけれど、それを言葉にしようとするとどうしてももたついてしまう(ブログを書いていても日々実感すること)。映像に合わせてそれを的確な言葉に置き換えていくという音声ガイドの仕事は、とてつもなく難しい仕事のようにも思えた。

河瀨直美 『光』 美佐子(水崎綾女)と雅哉(永瀬正敏)は次第に近づいていき……。

◆ふたりのラブ・ストーリー?
 『光』は極端なクローズアップで美佐子と雅哉のことを映し出していく。これは弱視という設定の雅哉の視点に影響されているということなのだろう。弱視の人は対象に近づかなければそれが見えないし、逆に見られる側の美佐子としても相手の目があまり見えていないという意識があるから接近することにも抵抗感が少なくなるからだ。
 そんなふたりが結びつくという展開に必然性がないといった意見もあるようだけれど、それまで極端なアップでふたりを見ていただけに、後半にふたりが急に近づいていってもそれほど違和感はなかった。近くにいれば親近感は湧くわけだから……。ただ「一番大切なものを捨てなければならないなんてつらすぎる」とつぶやいてしまうあたりの過剰な丁寧さと比べると、追いつけないものを追いかけてしまうというふたりの共通点なんかはわかりづらいのかもしれない。映像として描かれていることとそれを言葉に直して理解していくことの乖離がこんなところにも表れているのかもしれないとも思う。

 美佐子のキャラはどことなく河瀨直美監督自身を思わせる。父親が失踪してしまったというエピソードは河瀨監督の体験そのものだからだ。そんな美佐子を演じる水崎綾女だが、クローズアップで映される表情はとても勝ち気な印象で、ひよっ子のくせに言い負かされたくないという美佐子の造形には水崎綾女自身のキャラも交じっているのかもしれない。
 さらに今回の作品では永瀬正敏のエピソードでも、永瀬自身のエピソードを混ぜ込んでいるようだ。『キネマ旬報』によれば、永瀬は実際にカメラマンとしても活動しているのだとか。それから大事なカメラを盗まれるというエピソードはカメラマンをやっていた永瀬の祖父の体験から来ているようだ。それだけに永瀬が演じる雅哉の姿は悲痛なものなっていたように思う。

河瀨直美の作品


キネマ旬報 2017年6月上旬特別号 No.1747


Date: 2017.06.04 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『美しい星』 どこまで本気なのか

 原作は『金閣寺』『憂国』などの三島由紀夫。
 監督・脚本は『桐島、部活やめるってよ』『紙の月』などの吉田大八

吉田大八 『美しい星』大杉重一郎(リリー・フランキー)はある日火星人として目覚め……。 

 ある平凡な家族が宇宙人として覚醒するという何とも荒唐無稽な話。父親の大杉重一郎(リリー・フランキー)は火星人、長男・一雄(亀梨和也)は水星人、妹・暁子(橋本愛)は金星人であることに突然気づく。なぜか母親の伊余子(中嶋朋子)は相変わらず地球人のままなのだが、ほかの家族が宇宙人になったものだから最後まで彼らに付き合うことになる。
 お天気キャスターをしている重一郎は空飛ぶ円盤を見て以来、火星人としての使命に目覚め、番組内で地球人に向けて訴えかける。地球は温暖化によって危機的状況になっている。今、悔い改めなければ大変なことになる。しかし、重一郎の訴えに真っ向から反対する勢力もいる。温暖化なんて嘘だと言い切る連中の側には黒木(佐々木蔵之介)という議員秘書がいて、実はこの男も宇宙人である。

 空飛ぶ円盤と宇宙人というネタは古臭く感じるが、それもそのはずで原作は約50年も前に書かれたもの。そのころはそんなネタが流行りだったらしい。今回の映画では舞台は現代であるし、中身もかなり今風にアレンジされている。当時の差し迫った危機は原水爆だったのに対し、映画のほうでは地球温暖化になっていたりもする。
 原作者の三島由紀夫はこの作品を「実にへんてこりんな小説」と言っていたようだが、この映画のほうもそれに負けずへんてこりんなものを見せてくれる。金星人たる橋本愛が同郷仲間(若葉竜也)とUFOを呼び寄せる場面はノリノリに仕上がっているし、火星人リリー・フランキーのキメポーズも繰り出すたびにおかしくなってくる。
 どこを見てしゃべっているのかわからない佐々木蔵之介も宇宙人らしさを醸し出していたし、“美しさ”のあまり周囲にとけこめない橋本愛はとても金星人らしくて、『PARKSパークス』で吉祥寺をうろついている橋本愛よりも似つかわしく感じられた。

 ※ 以下、ネタバレもあり!


『美しい星』 暁子(橋本愛)は金星人として目覚め、処女懐胎することに……。こちらは金星人のポーズ?

 重一郎(リリー)と黒木(佐々木蔵之介)は環境問題を論じてはいるけれど、根っこには人間は滅びるべきか否かという対立があるのだろう。黒木は「“美しい自然”と人間が言うときに、そのなかに人間は含まれていない」みたいなことも語っていて、黒木は人間なんて救う価値もないと考える。しかし重一郎はそんな人間を守りたいと考えていて、重一郎がその最期に“美しさ”を見出すのは人間たちがつくったネオン街の明かりだった。
 それでもそうした対立に決着はつかず、ラストでは空飛ぶ円盤が大杉家の面々を出迎えることになる(映画では円盤内部まで描かれる)。宇宙人として覚醒するという突拍子もない設定は、頭のおかしな人間の妄想だったというオチをつけることもなく、実際に彼らは宇宙人だったという何とも説明のつかない終わり方をすることになるのだ。それにしても原作者の三島由紀夫はどんなつもりでこれを書いたのだろうか。

 三島由紀夫の最期は誰でも知っているけれど、当時、実際にクーデターを企てたりするとまで考えていた人はいたのだろうか。三島とほぼ同い歳の評論家・吉本隆明は事件後、こんな文章を書いているようだ(ウィキペディアから引用したもの)。

 三島由紀夫の劇的な割腹死・介錯による首はね。これは衝撃である。この自死の方法は、いくぶんか生きているものすべてを〈コケ〉にみせるだけの迫力をもっている。この自死の方法の凄まじさと、悲惨なばかりの〈檄文〉や〈辞世〉の歌の下らなさ、政治的行為としての見当外れの愚劣さ、自死にいたる過程を、あらかじめテレビカメラに映写させるような所にあらわれている大向うむけの〈醒めた計算〉の仕方等々の奇妙なアマルガムが、衝撃に色彩をあたえている。そして問いはここ数年来三島由紀夫にいだいていたのとおなじようにわたしにのこる。〈どこまで本気なのかね〉。つまり、わたしにはいちばん判りにくいところでかれは死んでいる。この問いにたいして三島の自死の方法の凄まじさだけが答えになっている。そしてこの答は一瞬〈おまえはなにをしてきたのか!〉と迫るだけの力をわたしに対してもっている。   — 吉本隆明「暫定的メモ」


 事件が起きるまでは三島の政治的活動は「どこまで本気なのか」と思われていたのだろう。そして、事件が起きてからは「そこまで本気だったのか」と驚かせたのだろうか(同時代を生きているわけではないので推測でしかないのだが)。三島は自己演出にも長けた人だったのだろうとは思うのだけれど、さすがにまったくの冗談で割腹自殺はするはずもないだろうし、やはり本気なのだろう。

 この『美しい星』という作品も、三島という人と同じように受け止められた部分があるようにも思える。リアルタイムで読んでいた人は、三島は「どこまで本気なのか」と思ったのかもしれない。そして呆気に取られる結末は一体どんなふうに受け止められたのだろうか。
 この作品において主人公の重一郎が宇宙人でなければならない理由は、大局的な視点から地球というものを見るためだろう。小説のほうにはこんな文章もある。

 未来を現在に於て味わい、瞬間を永遠に於て味わう、こういう宇宙人にとってはごく普通の能力を、何とかして人間どもに伝えてやり、それを武器として、彼らが平和と宇宙的統一に到達するのを助けてやる、これが私の地球へやってきた目的でした。   『美しい星』 新潮文庫 p.283


 この「未来を現在に於て味わい」というあたりは、前回取り上げた『メッセージ』の異星人のものの見方とそっくりだし、ヘプタポッドがそうした能力を「武器」として人間に与えて手助けしてくれるというのもよく似ている。宇宙人は人間より進化した存在であるから、大局的に地球を見て近視眼的な人間を導いてくれるというのが、どちらの作品にも共通しているところだ。
 三島は重一郎と同様に、宇宙人のような視点で日本を見ていたのかもしれない。そして宇宙人・三島からすれば日本は危機的な状況にあって、何を措いても行動をしなければという憂国の情に駆られていた。
 『美しい星』でも重一郎が地球の問題を解決することはなかったけれど、最後に重一郎が宇宙人であることだけは明確に示された。これは言い換えれば、大局的な視点から地球を憂慮していることは明確にされたということだろう。それと同様に三島も、クーデターは失敗に終わることになったけれど、その衝撃的な自死で憂国の志だけは明確に示したということなのだろうか。
 映画はそんな面倒なことを考えずとも笑わせてくれるへんてこりんな作品になっているのだけれど、三島の最期と合わせるとそんなことも思う。

美しい星 (新潮文庫)


映画『美しい星』オリジナル・サウンドトラック


吉田大八の作品
Date: 2017.05.31 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』 青臭くても無様でも……

 原作は詩集としては異例のベストセラーになっているという、最果タヒによる詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』
 監督・脚本は『舟を編む』などの石井裕也
 新人の石橋静河原田美枝子石橋凌の娘さんとのこと。

石井裕也 『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』 美香(石橋静河)と慎二(池松壮亮)は東京の街で出会う。


 主人公の看護師・美香(石橋静河)は病院で働きながらも、夜にはガールズバーでバイトをしている。もうひとりの主人公慎二(池松壮亮)は建設現場で日雇いとして働いている。そんなふたりが偶然出会って……。

 冒頭から東京の街の情景に美香の詩がモノローグでかぶさっていく。たとえばこんな感じ。

   都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
   塗った爪の色を、きみの体の内側に探したって見つかりやしない。
   夜空はいつでも最高密度の青色だ。
   きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、
   きみはきっと世界を嫌いでいい。
   そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。


 美香は幼いころに母親(市川実日子)を亡くしているのだが、それが自殺だったのではないかという疑いを抱いている。だとすれば美香は母親から棄てられた娘ということになるというわけで、その辺が美香の屈託となり詩の言葉を紡ぐ要因ともなっているようだ。
 一方の相手役である慎二だが、彼にも抱えているものがあって、慎二は左目がほとんど見えない。慎二の視点へと移行すると、スクリーンの左半分が黒くマスクされ、外界はスクリーンの右半分に開かれた覗き穴から見たような状態となるわけで、こうした視野は慎二が自らの内面に閉じこもっていることを感じさせる。
 そんなふたりが何度かの偶然も重なったりしつつ近づいていくことになるのだが、美香は「この星に、恋愛なんてものはない」とも詠っているだけにふたりの関係もすんなりとはいかずに行ったり来たり繰り返すことになる。

『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』 新人の石橋静河は池松壮亮を相手にしても存在感があった。

 舞台は東京で、ふたりは身近に「死」を感じつつ生きている。ちなみにウィキペディアによれば原作者の最果タヒ(さいはて・たひ)の「タヒ」とは、漢字の「死」から採られたらしい。看護師の美香は病院で死んでいく患者たちを目の当たりにするし、慎二は友人である智之(松田龍平)や隣人の突然死に遭遇したり、仕事の過酷さにズボンのチャックも上げられない同僚・岩下(田中哲司)の自殺を心配してみたりもする。そして、美香と慎二の最初の共通点というのが、「嫌な予感がする」という部分でふたりが深く納得したことだった。
 おもしろいのはふたりの恋愛(もしくは腐れ縁?)が、いつ成就したのかは描かれないということだ。ふたりの関係がそれなりに確固たるものとなっても、それによって世界がバラ色に変わるわけではないし、「嫌な予感がする」という状態も続いている。ただ、ふたりが一緒にいれば美香の内面の声は減り、慎二の自閉も解消され、自然と対話の場面が多くなる。
 元々詩を詠うことも誰かに何かを伝えたいということなのだろうし、隣に誰かがいれば自分の気持ちをその隣の人に伝えることになるのは当然だろう。そして、ときには予想もしないレスポンスが生まれる場合もある。「嫌な予感」はどんな悪いことでも起きる可能性であると同時に、「いいことだって起こるかもしれない」ことでもあるのだ。これは美香ひとりでは到達できなかったところと言えるのかもしれないし、そこには少しだけ希望がある。
 しつこいくらい何度も登場する路上歌手(野嵜好美)が最後に成功を勝ち取るのは、まさにそんな奇跡なのかもしれない。「それでもみんなガンバレ」みたいな応援歌を恥ずかしげもなく謳い上げる歌手は、その歌声も容貌も「中の下」(『川の底からこんにちは』の登場人物たちと同様に)で、絶対売れることはないという見方がごく普通だろう。しかし、その予想は外れることになるわけで、ふたりの未来だってもしかすると奇跡的ないいことだって起こり得るかもしれないのだ。

 詩から発想された映画ということで、繊細と同時に青臭くも感じられる作品で好みは分かれそう。私自身は青臭いのを自覚しているので、嫌いではない。
 池松壮亮の慎二はその微妙なバランスを醸し出している。弱味につけこまれるのを嫌い、読書で何かから自分を防御しているようでいて、カラオケではなぜか「CHE.R.RY」を歌って呆れられるという浅薄さ。だけどスレてないところが美点だろうか。
 新人の石橋静河は、最近の『PARKSパークス』にも顔を出していて、今の世代とは異質な昭和の女を演じていても違和感がなかった。まだまだ若い人なのだけれど流行りなどには影響されない人なのかもしれない。この作品でもポケットに手を突っ込んで歩くたたずまいが堂々としていて、新人らしからぬ雰囲気があったと思う。

夜空はいつでも最高密度の青色だ


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Date: 2017.05.19 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『バンコク・ナイツ』 「ここではないどこか」についてのあれこれ

 「空族(クゾク)」という映像作家集団の最新作。
 監督・脚本・主演には富田克也。共同脚本には相澤虎之助

富田克也 『バンコク・ナイツ』 ラック(スベンジャ・ポンコン)はバンコクの娼婦。日本語も結構うまい。

 バンコクの歓楽街タニヤ通りに集う娼婦や、祖国を逃げ出してそこに居ついている日本人などを描く群像劇。中心となるのはラック(スベンジャ・ポンコン)という娼婦と、彼女の昔の恋人オザワ(富田克也)との関係になるけれど、物語はあってないようなもの。3時間を越える上映時間には、妖しげなネオン街、ひな壇に並ぶ娼婦たち、イサーン地方の美しい風景、共産ゲリラの幻影、さらにはタイ独特な音楽などのあれやこれやがまとめて詰め込まれている。

 日本人がタニヤ通りに集まるのは、ひとつには女目的ということになるわけだけれど、沈没組などと呼ばれる人たちもいて日本に居られなくなった人たちもいる。そこで日本人観光客のガイドをしてみたり、タイ人娼婦のヒモになったり、日本人をカモしたあやしげな商売を企てたりしながら生きている。主人公のオザワ自身も「日本に俺のいるとこなんてねえもん。エコノミック・ダウン。メルト・ダウン。エブリシング・ダウン」と語るように、日本を逃げ出してきたひとりということになる。
 一方でタイ人の女の子がタニヤ通りにやってくるのは、故郷の家族たちを食べさせるためだ。彼女たちの多くはタイ北部のイサーン地方から出稼ぎに来ていて、彼女たちの稼いだ金で田舎の家族たちは生計を立てている。

『バンコク・ナイツ』 お店のなかはこんな感じらしい。

 私が空族の映画を観たのは今回が初めて。彼らの作品はゆるやかな関わりを持つ「空族サーガ」を形成しているらしい。今回は『バンコク・ナイツ』のほかに『国道20号線』(2006年)『サウダーヂ』(2011年)短編『チェンライの娘』(2012年)を観ることができた。ちなみに空族の作品はDVD化もされないらしい(吉本興業の資本が入っている『チェンライの娘』は例外的にDVD化されている)。
 『国道20号線』の主人公がいる世界は、パチンコ屋と郊外型ショッピングセンターと消費者金融のATMばかりのロードサイド。どこにも行けそうにない場所で、主人公はシンナーによる幻影のなかに「ここではないどこか」を見る。『サウダーヂ』の地方都市・甲府は、バブル崩壊後の不景気で商店街はシャッター通りと化し、土方の主人公は仕事もなくなりタイ人の女の子と日本を逃げ出すことばかりを考えている。そうした感覚において『バンコク・ナイツ』は過去の作品と関わりを持ってくることになる。

 『バンコク・ナイツ』では冒頭でラックの「Bangkok shit」という台詞で始まるわけで、ラックはバンコクをクソだと思っている。どうしてクソなのかと言えば、金のためとはいえ日本人のエロジジイたちのお相手をしなければならないからだろう。そんなふうに今いるところが気に入らないという気持ちが「ここではないどこか」へと結びついていくことになるわけだけれど、それを求めて向かった先にあるのが楽園となるとは限らない。
 たとえば『サウダーヂ』では、一度東京へ出てから地元の甲府へとUターンしてきたまひるという登場人物は、東京への憧れを語る友達に対して「Tokyo shit」と言い放つ。田舎が気に入らなくて東京へと出たはずのまひるは、「ここではないどこか」を求めていたはずが結局は東京もクソだと知ることになる。
 そうしたことは『サウダーヂ』のブラジル移民たちにも言えて、日本に行けば稼げると思っていたのに、来てみれば不況と言葉の問題で仕事もなく居場所もない。そんな彼らが「ここではないどこか」を逆に故郷へと求めること(=郷愁)も理解しやすい道筋だろう。
 ちなみにブラジル移民たちが住んでいるのは山王団地という場所で、この団地は登場人物のひとりである猛の想い出の場所でもある。ブラジル移民にとっては幻滅した場所だったかもしれないのに、猛にとっては外国人に占拠されたような団地こそが「ここではないどこか」を指すものとなっている。また、ここでは「サウダーヂ」と「サンノウダンチ」が混同されるのだが、ブラジル人と日本人とで話が通じているようでいて実はまったく違う「ここではないどこか」を考えているようでもある。

 こんなふうに空族の作品では「ここではないどこか」というものが追求されていく。『国道20号線』や『サウダーヂ』の主人公は未だ日本のなかに留まっていて、ドラッグや過去の幻影という「ここではないどこか」に逃げ込んでいたとも言えるわけだけれど、今回の『バンコク・ナイツ』では日本を飛び出して実際にバンコクへと渡ることになる。

『バンコク・ナイツ』 イサーン地方には昔の風景が残っている。後ろの家はラックがクスリ漬けの母親に買ってやったもの。

◆バンコクは楽園となったのか?
 オザワはラックと共に彼女の故郷であるイサーン地方へと渡り、その後、自衛隊時代の上司の頼みもあってラオスまで渡っていく。イサーン地方は昔のままの風景が残っている場所で、オザワも現実の日本の故郷とは別の「故郷の原風景」のようなものを感じたのかもしれない。オザワはラックの故郷に留まるのかとも思えたのだが、結局ふたりは別れることになり、オザワはバンコクへと帰ることになる。つまりはイサーン地方もバンコクもオザワにとっては楽園とはならなかったようだ。
 ちょっと唐突な感じもあるふたりの別れには、夢見がちな男と現実的な女という対立よりも、オザワが外国人であったということ大きかったのかもしれない。同じ日本人でも金城(川瀬陽太)のように為替レートの差をいいことに、女の子と羽目を外すことばかりが目的の男には、オザワは軽蔑の目を向けている。それは訪れた国の事情にあまりに無頓着だからだろう。
 元自衛隊員のオザワはかつてカンボジアにPKOで派遣されたりしていて、そのあたりには敏感でラオス国境付近では大地に穿たれた大きな穴を目にすることになる。それはかつての戦争の爆撃によってつくられた傷跡なのだ。オザワが「ここではないどこか」を求めて海外まで放浪した先にあったのはそうした歴史である(空族の作品『花物語バビロン』には「それを歴史は許さない」という台詞があるらしい)。

 ただ、オザワがちょっとだけタイやその周辺諸国の歴史を知った気になったとしても、日本人が旅行気分で知ることはたかが知れているわけで、ラックが故郷へ戻ることの意味合いとオザワがそこに形だけの「故郷の原風景」を見出すのとはわけが違う。そうした差が唐突なふたりの別れとなったように思えた。
 実はすでに『サウダーヂ』のブラジル移民との関係にもそうした結末の萌芽は示されていたのかもしれないのだけれど、それを実地で検証してみせたのがこの『バンコク・ナイツ』ということになるのかもしれない。実際にバンコクに入り、現地の人たちと親しくなって撮影して出来上がったこの作品は、ドキュメンタリー作品とは違うけれども空族が追求してきたことと現地で体験したことが交じり合った現時点での答えが示されている。
 先日の新宿K's cinemaでの『サウダーヂ』のレイトショーでは、空族富田克也相澤虎之助のふたりと、出演者の川瀬陽太による舞台挨拶があった。川瀬陽太は冗談まじりに空族のことを「政治結社」だと語っていたのだが、確かに何らかの運動めいた雰囲気もなくはない。『バンコク・ナイツ』は決してまとまりがいい作品ではないとも思うけれど、空族の今後の活動にさらなる期待を抱かせるには充分の熱量を持っている作品だった。

バンコクナイツ Bangkok Nites


同じ星の下、それぞれの夜 [DVD]



  ↑ 短編『チェンライの娘』のこのオムニバス作品の一編となっている。
Date: 2017.03.15 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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