『散歩する侵略者』 人類の最強の武器は?

 『岸辺の旅』『クリーピー』などの黒沢清の最新作。
 原作は前川知大が主宰する劇団イキウメの舞台とのこと。

黒沢清 『散歩する侵略者』 真治(松田龍平)と鳴海(長沢まさみ)の夫婦、ジャーナリストの桜井(長谷川博己)が主要な3人。

 黒沢清と言えば、その作品の多くが幽霊が出てくるホラーということになるわけだけれど、今回はSFである。幽霊の話は狭い範囲のものになりがちだ。幽霊は誰かを恨みに思ったり、場所に憑いたりはするけれど、生者の世界の転覆までは考えないからだ(『回路』はそれを狙っていたらしい)。それに対してSFであるこの作品は、宇宙人の侵略を描くことになるために、国家が関わったりもしていて派手なアクションもあったりするエンターテインメントになっている(コメディタッチの部分も多い)。
 土台となっているのはジャック・フィニイの原作『盗まれた街』を映画化した『SF/ボディ・スナッチャー』あたりのボディ・スナッチものなのだけれど、おもしろいのはその侵略者たる宇宙人が人間から“概念”を収集していること。
 たとえば「仕事」という概念を奪われると、奪われた人間は「仕事」という“概念”だけがすっぽりと抜け落ちた人間になってしまう。また「自分」という“概念”を奪われた人間は、「自分」と「他人」といった二分法の考えから解放されることにもなる。“概念”は人間にとって物事を説明するために便利なものであると同時に、それによって縛り付けられて不自由にもなっているということが仄めかされることになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『散歩する侵略者』 真治(松田龍平)は散歩しながら概念を収集している。

 松田龍平はいつも何を考えているんだかよくわからない印象な気もするのだけれど、今回の役柄は宇宙人に乗っ取られた加瀬真治という男。病院で保護された旦那を迎えに来た妻の鳴海(長沢まさみ)は様子がおかしいことには気がつくものの、真治の浮気が発覚したばかりということもあって、心配するよりは怒ってばかりいる。
 『盗まれた街』では、自分の伴侶が「外見はまったく変わらなくとも中身が別のものになってしまったら」というところに恐怖があったのだけれど、『散歩する侵略者』の加瀬夫婦の場合はちょっと違う。憎むべき中身が変わったから関係性も新たになるのだ。宇宙人に乗っ取られて今はまだ修行中のような新・真治が真っ当に成長してくれれば鳴海は構わないらしい(これも愛の為せる業なのかもしれないが)。
 もうひとつの筋では、ジャーナリストの桜井(長谷川博己)が作品冒頭に起きる一家惨殺事件を追う過程でふたりの宇宙人に出会う。ひとりは一家惨殺事件の生き残りである女子高生・立花あきら(恒松祐里)と、彼女を探していた天野(高杉真宙)という青年。こちらではなぜか桜井と宇宙人である天野との間に友情関係のようなものが成立してしまう。

 結末は製作に名を連ねている某テレビ局の「愛は地球を救う」のスローガンのように展開していくことになるのだが、そもそも「愛」という“概念”がなぜ宇宙人をやっつけたのか。
 宇宙人たちは奪った“概念”を共有していたようでもあるし、個体の「死」というものに恐怖を感じてはいなかったように思う。もしかすると個体差みたいなものは彼らにはないのかもしれない。分裂したひとつが真治であり、天野であり、あきらである。もともとひとつのものだし、分裂しても互いに通じているものがあるから個体の「死」にもあまりこだわりはない。
 「愛」の反対は「憎しみ」とか「無関心」だとか言うけれど、どのみち個体差がなければ「愛」も「憎しみ」も「無関心」もない。だから「愛」という“概念”も理解不能だったのかもしれない(だからと言って逃げ帰る必要があるのかはわからないけど)。ただ、真治だけは妻である鳴海と常に一緒に生活していただけに、鳴海という人間から何かを学んで「愛」を感じることができるようになったのかもしれない。

 東出昌大はこの作品ではゲスト的な出演だが、牧師姿で「愛」を語るというおいしいところを演じている。ちなみに東出昌大はこの作品のスピンオフドラマ『予兆 散歩する侵略者』のほうにも出演するらしい。個人的に一番ツボだったのは、長沢まさみの「いやんなっちゃうなあ、もう」という台詞が、古い映画に出てくる杉村春子あたりが言いそうな口ぶりだったところ。

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Date: 2017.09.19 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『三度目の殺人』 「嘘の回想シーン」の受け入れ難さ

 『そして父になる』などの是枝裕和監督の最新作。
 主演は『そして父になる』以来のタッグとなる福山雅治

是枝裕和 『三度目の殺人』 中心となるのはこの3人。よく見ると頬の血の付いているのが福山雅治だけ右頬となっている。


 弁護士の重盛(福山雅治)は友人の摂津(吉田鋼太郎)に頼まれ、殺人の前科を持つ男・三隅(役所広司)の弁護を引き受ける。三隅は解雇された工場の社長を殺し、死体に火をつけたことを認めている。勝ちにこだわる重盛にとっては、この事件に関わることは気が進まない。接見を重ねるたびに三隅の主張はころころと変わり、真実など興味もなかったはずの重盛も事件の真実を追い求めるようになり……。

◆事件のあらまし
 最初から結末に触れてしまうけれど、この映画を最後まで見てもこの事件の全貌がわかることはない。三隅が「空っぽの器」のようだと称されるのは、空っぽだからこそ中身に何でも詰め込めるからだろう。三隅はサイコパスにも見えるし、世界の理不尽な選別に怒る正義漢にも、単なる人のいいおじさんにも見えるのだ。
 三隅の最初の殺人は約30年前に借金取りを二人殺したというもの。この事件の裁判官であった重盛の父(橋爪功)はそのときの判決を振り返って、あのとき死刑にしておけば今回の二度目の殺人は起きなかったと反省の弁を述べる。一方で社会のあり方が犯罪者を生み出すという考えが支配的だったとも語る。三隅は何らかの社会の歪みによって生み出されたモンスターだったということだろう。
 二度目の殺人に関して後半になると明らかになってくるのは、殺された被害者の娘・山中咲江(広瀬すず)が関わっているらしいということ。そして、咲江は殺された父親に性的虐待を受けていたことを重盛たちに告白する。咲江と親しい関係にあった三隅は計画的にその父親を殺し、咲江を虐待から救ったのかもしれないのだ。「空っぽの器」である三隅には何かしらの正義感が入り込んだかのようだ。裁判官であった重盛の父に手紙を出しているところをみると、彼の裁きによって生かされたことの意味を、自分の娘の姿とも重ねられる咲江を救うことに見出したのかもしれない。
 ただ、こうしたことはすべて観客である私の推測だ。三隅が語るように、凡人である多くの人は物事を「いい話」として理解しがちだから、もしかすると真実は別にあるのかもしれないのだ。

『三度目の殺人』 重盛(福山雅治)は三隅(役所広司)との接見を重ねるのだが……。

◆3人の関係性
 三隅が「空っぽの器」だとすれば、重盛もそうだろう。この作品は拘置所でのふたりの対峙が大きなウェイトを占める。繰り返される接見でふたりは次第に近づいていく。ふたりを真横から捉えた場面では、ふたりを遮るガラス板の存在はほとんど無化されて、ふたりの男は鼻をくっ付けんばかりの位置で見つめ合う。さらにその後の場面では、ガラスの映り込みのなかでふたりの顔が重ね合わされることになる。
 重盛の空っぽさはかつて父親のような裁判官を目指していたのに、今では逆の立場である弁護士となっているところにも表れているし、検察官が重盛に放った「犯罪者が罪と向き合うことを妨げている」という言葉を自分のなかに吸収し、今度はそれを三隅に向かって投げかけるところにも表れているだろう。

 3人が雪のなかで雪合戦に興じる妄想の場面では、最後に三人が並んで雪の上に寝転がる。ここでは三隅と咲江が「十字架の形」となっているのに対し、重盛は「大の字」となっている。これは三隅と咲江が何らかの罪を背負っているということなのだろう。三隅と咲江は共謀して咲江の父を殺したのかもしれない。
 また、殺された男の返り血を浴びる場面もそれぞれに描かれている。頬に飛び散った血を、三隅は自分の身体の内側へと向けて拭いさるのに対し、咲江はそれを外側に拭い去る(これは予告編で確認できる)。咲江が降りかかる災難を払いのけるように罪を犯したのに対し、三隅は罪を自ら引き受けたようにも感じられる仕草と言えるのではないだろうか。さらに実際は犯行現場にいるはずもない重盛も返り血を浴びる妄想を抱くのだが、彼は三隅と同様に自分の身体の内側へと拭っている。これは三隅と重盛の立場が同じということでもあるのだろう。タイトルとなっている「三度目の殺人」とは、三隅が自らを死刑にするという結末のことであり、それは重盛の手助けがあって成り立ったのだから。

◆回想の嘘
 裁判の行方は混沌とし、三隅は殺しは被害者の妻(斉藤由貴)に頼まれたからと言い出してみたり、最後には殺人現場には行っていないと裁判の前提部分までひっくり返すまでに至る。これは「いい話」に解釈すれば咲江を守るためということになるわけだが、結局のところ「真実は藪の中」というところに落ち着く。さらにこの作品は返す刀で司法の問題点にまで踏み込んでいき、見どころは多いのだが、なぜだか釈然としない感じも残る。
 作品の冒頭で三隅が男を撲殺し、その死体に火をかける場面が映し出される。神の視点から描かれたかのようなこの場面は、最初の前提となっている。しかし三隅は後半でこの最初の前提をひっくり返すことになる。神の視点かと思われた冒頭の場面は、三隅の証言(=回想)を映像化したものだったということになる。つまりこの作品は「嘘の回想シーン」から始まっていたことになる。
 「嘘の回想シーン」はヒッチコック『舞台恐怖症』という作品で試みていて、それを失敗だったと断じている。

「奇妙なことに、映画のなかである人物が嘘の話をしても、観客はごく自然にうけいれる。あるいはまた、ある人物が過去の話をするときに、それがまた現在起こっているかのようにフラッシュ・バックで描かれても、だれもふしぎには思わない。ところが、フラッシュ・バックで語られる内容が嘘だと観客はまるっきりうけつけない……」(『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』より)

 何が問題なのかと言えば、映像として描かれることは観客にとって真実のように見えてしまうということなのではないか。「私が男を殺しました」と告白するだけならば、証拠はどこにあるのかとすぐには信じがたいわけだが、映像として観客の前に殺人事件が繰り広げられたならば、それが夢でもない限り真実らしいものとして受け入れられてしまう。だからそんな回想シーンが「嘘でした」とひっくり返されるのは観客としてはどうにも受け入れにくいものなのだ。
 もちろん「嘘の回想シーン」をうまく作品に取り込んでいる『羅生門』のような傑作もある。この作品の原作は芥川龍之介『藪の中』だが、この小説ではある事件の当事者3人がそれぞれに異なる証言(回想)をすることになる。つまりは「真実は藪の中」ということだ。しかしこれを映像化するにあたって黒澤明が追加している部分がある。それが当事者以外の木こりの証言だ。
 『羅生門』では当事者3人がそれぞれに自分に「都合のいい話」を語ることになるのだが、それはまるで見てきたかのように映像化されて観客の前に提示される。これはヒッチコックの言う「嘘の回想シーン」ということになる。単なる言葉だけではなく、映像として嘘が展開されると、それは観客には真実とも嘘とも判別することができないし、映像化されたものは真実らしいものとして受け取られることになる。しかし『羅生門』では嘘を並べて終わるのではなく、より客観的な木こりの証言を最後に提示することで真実らしきものを見せ、観客にもすんなりと受け取りやすいものにしていたとも言えるかもしれない(実際には木こりの話にも嘘は存在するのだが)。
 『三度目の殺人』について言えば、「真実は藪の中」というよりも、すべてが嘘ばかりで観客自体も映画そのものに騙されているような気分になってくるのかもしれない。その感覚はラストで重盛がたたずむ十字路と似たようなものなのかもしれないのだけれど、やっぱりモヤモヤしたものを感じてしまう。

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Date: 2017.09.16 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (6)

『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』 リーゼントも乱れない

 監督は『テラフォーマーズ』などの三池崇史
 原作は荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部。

三池崇史 『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』 みんなキャラが濃い!

 連載を読んでいた子供のころは登場人物たちの背後霊のように現れるスタンドを、そのキャラの守護神のように理解していたのだけれど、『ジョジョ』は「超能力を視覚化した」などと評価されるのだとか。
 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』の分析によれば、たとえば『ドラゴンボール』や『キン肉マン』はトーナメント型で、『ジョジョ』のようなマンガはカードゲームのようなバトルロイヤル型になる(まとめ方は違っているかも)。トーナメント型の強さは数値で表され、強さがどんどんインフレーションして際限がなくなっていくのに対して、バトルロイヤル型のほうは様々な能力のキャラが同時に立ち並ぶことになる。
 『ジョジョ』のなかに登場するスタンドは、登場人物ごとに使う特殊能力も異なる。たとえば「時を止める」とか、「念写する」とか、「炎を操る」とか、独自な能力があるところが子供心にも楽しかった。今回の『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』の主人公仗助のスタンドは「人のケガや壊れた物を修復する」という能力で、単に修復するだけではなく、闘いのなかで策士らしいアイデアとともにそれを披露するところが見どころのひとつ。

 私自身は原作に関しては第3部の途中までは読んでいるという中途半端な状態。とりあえずは第4部へたどり着くまでの前提条件くらいは知っているけれど、細かいネタでは置いてきぼりになるところも。知っている人は楽しめるという部分も多々あるようで、この映画から入った人にとっては消化不良な部分もある。
 続篇ありきの作品だからラストで物語が完結するわけでもないし、途中から始まって途中で終わってしまったという感じは否めない。第4部から始まって、人気が続くようだったら遡って第1部から第3部もやろうという『スター・ウォーズ』のような商法を考えているかもしれない。個人的には第2部の波紋の闘いを見てみたい気もするけれど……。

『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』 仗助(山崎賢人)のスタンド(クレイジー・ダイヤモンド)はこんな感じ。

 スタンドの表現はCG技術の進歩もあって見栄えがするし、スタンド同士の闘いはマンガを知らなくても十分に楽しめる出来となっていたんじゃないだろうか(ぼんやりとした見え方がよかった)。さらに『ジョジョ』の独特な世界を生み出すためにわざわざスペインまで行って撮影しただけあって、奇妙な違和感がある世界となっていた。スペインの街並みをリーゼントの学ラン姿が闊歩するというのは何とも形容しがたい世界だった。それから役者陣のなりきりぶりも仗助のリーゼントと同様に気合いが入っていたと思う。國村隼は逆にコスプレを禁じられたかのように國村隼にしか見えなかったけれど……。
 
 テーマとしては“家族”を設定しているようだ。主人公の仗助(山崎賢人)は祖父・東方良平(國村隼)の「この街を守る」という意志を受け継ぐことになるし、最初の敵である片桐安十郎(山田孝之)は父親を恨み、父殺しまでやらかす。次の敵となる虹村形兆(岡田将生)と億泰(新田真剣佑)の兄弟は父親の存在に苦しんでいる。なぜかバケモノと化した父親は、過去も忘れ、ただ生きているだけで、殺そうとしても殺すこともできない。これは認知症を患った親を思わせる設定のような気もするのだけれど、続篇ではどんな展開となるんだろうか?

『ジョジョの奇妙な冒険』


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Date: 2017.08.08 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『武曲 MUKOKU』 命懸けの剣の道

 『海炭市叙景』『私の男』などの熊切和嘉監督の最新作。
 原作は藤沢周『武曲』

熊切和嘉 『武曲 MUKOKU』 矢田部研吾(綾野剛)と羽田融(村上虹郎)。ふたりの対決の物語。

 父親から仕込まれた剣の腕前でその父親を植物状態へと追いやった矢田部研吾(綾野剛)と、荒削りだが天賦の才を見せる羽田融(村上虹郎)。そんなふたりの対決の物語。
 研吾の父親・将造(小林薫)は剣道を精神的な修練やスポーツの類いとは考えておらず、斬るか斬られるかという命のやり取りとして考えている。武士でもないのにそんなことを考えるのは、将造が「剣の道を極め国家に尽くしたい」と励んできたにも関わらず、現実社会では報われていないという屈折した思いがあるからで、息子に剣を仕込んで本当の殺し合いをしたいと願っているかのように見える。一方の羽田融はラップにはまっている高校生なのだが、ひょんなことから剣道を始めることになり、次第に研吾との対決を望むようになっていく。

 ※ 以下、ネタバレもあり!


『武曲 MUKOKU』 クライマックスは雨のなかでの剣での闘い。『私の男』みたいにまた血(泥)のような雨も降ってきた。

 私は一応剣道の経験者なのだけれど真剣にはさわったこともないし、剣道は実際の真剣勝負とはまったく違うものだとも聞く。だから剣道は武道ではなくスポーツだとも揶揄されたりもするらしい。真剣では刃を引かなければ斬れないものらしいのだが、剣道では竹刀を当てることがポイントになるというもので、剣道の鍛錬が真剣勝負の練習となるのか否かはよくわからない。そんなわけで剣道をやる人が常に命のやり取りをしているわけもなく、剣道部は極めて健全な場所だったように記憶しているので、『武曲 MUKOKU』の研吾や融が防具もなしに木刀で打ち合ったりするのは狂気の為せる業ということになるだろう。
 どちらかと言えば研吾の狂気はわかりやすい。研吾に関しては将造との対決も描かれるし、その後の酒浸りの日々や剣道部での大暴れなども丹念に追われるからだ。一方でラップから剣道へと鞍替えすることになる融のほうはわかりづらい気もする。
 融を剣の道に導くことになる光邑師範(柄本明)はお坊さんという設定で、禅の用語がいくつも登場する。「不立文字」「直指人心」「『心』以前の心」といった用語は、どれも言葉では伝えられない何かを含んでいる。そのあたりがラップで韻を踏むリリックを書くことを趣味としていた融とつながるのだろうとは思うのだけれど、作品内では融の内面までに踏み込んでいかないのではっきりとはしない。ただ融は洪水の被害で一度死に掛けたというトラウマがあり、一度は死に近づいた融がタナトスに魅入られたようにして研吾との対決を望んでいくことになる。
 そんな意味ではふたりの関係はアンバランスにも思えるのだけれど、この作品は最後のふたりの対決という一点に向かって強引に展開していく。言ってみればふたりを対決させるためにこの作品はあり、設定の強引さなんてどうでもいいのだろう。
 実際に豪雨のなかでの対決シーンは、役者ふたりの心技体のすべてにおいて頂点となっていたんじゃないだろうか。闘い方もカンフー映画の剣術めいたものにはなっておらず、決定打が“突き”だというのも剣道らしくてよかったと思う。

 対決に向けてすべてが収束していったわけだけれど、物語にはその先がある。命懸けの対決をしたふたりは憑き物が落ちたように真っ当な剣道部員としての稽古を開始することになるからだ。つまりは狂気からの快復、あるいはトラウマの克服といった物語になっているのだ。
 原作小説は読んではいないのだけれど、「武道系部活小説」とか評している人もいるようで、映画版の狂気とはちょっと違う味わいになっているのかもしれない。原作小説では続編すら書かれているらしいのだけれど、健全すぎる剣道部映画なんてあまり興味を惹くとは思えないし、このアレンジでよかったんじゃないかとも思う。

 主役の綾野剛『日本で一番悪い奴ら』では堕ちていく男の悲哀を感じさせたが、今回の作品でも酒に溺れて涎まみれの酷い姿を晒しつつ、最後にはそこから復活して精悍な姿を見せ付ける。復活後の上半身の筋肉のつき方が尋常ではなく、カメラもそれをなめ回すように撮っている。ゲイ役だった『怒り』でも裸になっていたけれどあのときは特段目立つものではなかったわけで、いつの間にあんな身体を作り上げたのだろうかと感心。
 近藤龍人の撮影は将造の幼い研吾に対するしごきの場面などの枯れた色合いは味があったし、薄暗い日本家屋の奥から捉えた庭の緑の鮮やかさも素晴らしかったと思う。
 男同士の対決に女は邪魔とでもいうのか、女優陣に対する扱いが結構雑で、前田敦子も顔出し程度のほとんど意味のない役だったりもするのだけれど、個人的には片岡礼子がチョイ役でも登場していたのは嬉しかったところ。橋口亮輔作品にいつも顔を出していた片岡礼子だけれど、『恋人たち』には出ていなかったようなので……。

武曲 (文春文庫)


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Date: 2017.06.12 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『光』 映像を言葉にすることの難しさ

 『あん』『2つ目の窓』など河瀨直美の最新作。
 映画の“音声ガイド”という珍しい仕事を取り扱った作品。

河瀨直美 『光』 カンヌ国際映画祭ではエキュメニカル賞を受賞した。


 映画の“音声ガイド”の仕事をしている美佐子(水崎綾女)は、その仕事で弱視のカメラマン・雅哉(永瀬正敏)と出会う。美佐子の仕事に対して遠慮なくズケズケと意見を述べる雅哉に苛立ちつつも、美佐子は雅哉のことが気にかかるようになり……。

 映画の音声ガイドとは、視覚障がい者の人に映像を伝える仕事。音声ガイドは登場人物の動作や舞台となる場所の情景を言葉にして伝えていく。『光』では、音声ガイドの仕事ができあがっていく過程を追っていくことになるのだが、普段あまり触れる機会のないこの仕事に注目したところがよかったと思う。
 映画作品はまず最初に脚本という言葉で書かれたものがあって、それを元に映像化したものが生み出される(言葉⇒映像)。音声ガイドはその逆に、出来上がった映像を再び言葉に直して再構築することになる(映像⇒言葉)。
 そんなわけだからブログで映画の感想をしたためたりしている人にとっては、映像から言葉をつむぐという点では何かしらの共通点を感じるんじゃないかと思う。音声ガイドは映画作品と視覚障がい者をつなぐ役割を果たしているわけだけれど、こうした映画ブログも映画作品をまだ観ていない人とつなぐ役割をしている部分もあるからだ。もちろん映画ブログは宣伝や紹介ばかりではないわけで、好き勝手な解釈を述べ立てるというものもある(このブログはどちらかと言えば後者)。
 しかし音声ガイドはそうした主観が交じってしまってはいけないという点が難しいところ。それでは押し付けがましいものになってしまうからだ。見えている音声ガイドが、見えない視覚障がい者に自分の見方を一方的に押付ける。これでは作品の豊かな世界が音声ガイドによって矮小化されてしまうかもしれないのだ。

河瀨直美 『光』 主人公・美佐子(水崎綾女)は音声ガイドの仕事をしている。クローズアップに勝ち気そうな表情が映える。

◆映像と言葉
 映像と言葉では情報量が違う。そんな意味のことを村上龍だか誰かがどこかで言っていた。これは比喩でも何でもなく、端的に記録媒体に保存するときの容量の話だ。たとえば一番上に貼り付けたこの作品のポスター映像であるJPEGファイルは約45キロバイトの容量だが、このレビューのすべての文字をテキストファイルにしても約5キロバイトにしかならない。
 上の映像を見るのは一瞬でも見た気になれるけれど、この文章をすべて読もうとするとそれなりの時間がかかる。それでも情報量は映像のほうが断然大きいということになる。映像は一瞬でも感じ取れるかもしれないけれど、細かい部分を見ようとすればもっと読み取れるものもあるのだ。
 『光』では美佐子の故郷の村の場面があるが、村を遠くから捉えたワンシーンにも様々に読み取れるものがある。人里離れた山奥の村であるとか、木々の季節感とか、山の向こうの空の様子とか、人によって見るところは様々だ。しかもこのシーンではよく目を凝らすと張り出した木の枝にはセミの抜け殻がぶら下がっていたりもする。たった2、3秒のシーンでもそうした様々な情報が読み取れるわけで、音声ガイドはそのどこかを取捨選択していかなければならない。

◆人の表情
 それから人の表情を言葉で説明することも難しい。美佐子はある架空の作品にたずさわっているのだが、その劇中劇は主人公の男(藤竜也)と介護されている認知症らしき女の物語だ。美佐子は主人公の表情を「希望に満ちた」という主観的な表現をして雅哉(永瀬正敏)に批判されることになる。
 実際に主人公がそんな表情をしていたのかはわからない。ただ美佐子の選んだ言葉では、受け取った側はほかにどんな解釈の仕様もないわけで、音声ガイドとしては問題ありということになる。この失敗は美佐子がまだ初心者ということが原因でもあるのだが、それ以上に美佐子のプライベートな部分とも関わっている。美佐子は自分が認知症の母親を抱えているという現実もあって、劇中劇の主人公にも希望を見出そうとしてしまうのだ。
 このブログはごく個人的な感想なり解釈なりを書き散らしているものだけに、様々なバイアスがかかっていることも前提となっているし、見方に偏りがあることも当然なわけだけれど、音声ガイドはそうした主観的なものを排除してできるだけ客観的な言葉を選んでいかなければならないのだ。

 『光』という作品は、そうした映画の見方の色々を考えさせる内容となっているところが魅力だろうと思う。たとえば劇中劇では主人公が寄り添っている女にスカーフをかけてやる場面がある。ここでは寒さを気遣う主人公のやさしさが描かれてもいるのだけれど、それと同時にそのスカーフは女の首を絞めるようにも見える。認知症ですべてを忘れてしまっている女を殺して楽にしてやろうという葛藤が見え隠れしているわけだけれど、それを言葉にしようとするとどうしてももたついてしまう(ブログを書いていても日々実感すること)。映像に合わせてそれを的確な言葉に置き換えていくという音声ガイドの仕事は、とてつもなく難しい仕事のようにも思えた。

河瀨直美 『光』 美佐子(水崎綾女)と雅哉(永瀬正敏)は次第に近づいていき……。

◆ふたりのラブ・ストーリー?
 『光』は極端なクローズアップで美佐子と雅哉のことを映し出していく。これは弱視という設定の雅哉の視点に影響されているということなのだろう。弱視の人は対象に近づかなければそれが見えないし、逆に見られる側の美佐子としても相手の目があまり見えていないという意識があるから接近することにも抵抗感が少なくなるからだ。
 そんなふたりが結びつくという展開に必然性がないといった意見もあるようだけれど、それまで極端なアップでふたりを見ていただけに、後半にふたりが急に近づいていってもそれほど違和感はなかった。近くにいれば親近感は湧くわけだから……。ただ「一番大切なものを捨てなければならないなんてつらすぎる」とつぶやいてしまうあたりの過剰な丁寧さと比べると、追いつけないものを追いかけてしまうというふたりの共通点なんかはわかりづらいのかもしれない。映像として描かれていることと、それを言葉に直して理解していくことの乖離が、こんなところにも表れているのかもしれないとも思う。

 美佐子のキャラはどことなく河瀨直美監督自身を思わせる。父親が失踪してしまったというエピソードは河瀨監督の体験そのものだからだ。そんな美佐子を演じる水崎綾女だが、クローズアップで映される表情はとても勝ち気な印象で、ひよっ子のくせに言い負かされたくないという美佐子の造形には水崎綾女自身のキャラも交じっているのかもしれない。
 さらに今回の作品では永瀬正敏のエピソードでも、永瀬自身のエピソードを混ぜ込んでいるようだ。『キネマ旬報』によれば、永瀬は実際にカメラマンとしても活動しているのだとか。それから大事なカメラを盗まれるというエピソードはカメラマンをやっていた永瀬の祖父の体験から来ているようだ。それだけに永瀬が演じる雅哉の姿は悲痛なものなっていたように思う。

河瀨直美の作品


キネマ旬報 2017年6月上旬特別号 No.1747


Date: 2017.06.04 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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