『時間ループ物語論 成長しない時代を生きる』 “ループもの”と浦島太郎
元となったのは、著者の浅羽通明が大学で行った「日本現代文化論」という講義とのこと。この本は“ループもの”について網羅的に取り上げた本となっているが、著者はそれを日本現代文化論に結び付けている。
このブログでも『ミッション:8ミニッツ』や『ルーパー』など、“ループもの”とされる作品について記した。『時間ループ物語論』では、“ループもの”の代表作とされる『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』をはじめとして、多くの作品が紹介されている。
ただ惜しむらくは作品リストがついていない。あとがきに校正の時間もないと漏らしているから、単純にそれだけの理由かと思われる。(参考1)
著者による“ループもの”の分類は以下のようになる(p126より)。
①主人公が時間ループをネガティヴに受け止め、その苦しみを描いた物語
(例) 『ターン』「倦怠の檻」「タイムマシンの罠」
②主人公が時間ループをポジティヴに受け止め、その成長を描いた物語
(例) 『恋はデジャ・ブ』『未来の想い出』『リセット』
③主人公が時間ループを特定の問題の解決のために用いる物語
(例) 『七回死んだ男』『ひぐらしのなく頃に』『All You Need Is Kill』『Y』
④主人公が時間ループそのものを楽しんで肯定する物語
(例) 「秋の牢獄」『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』『ウロボロス』
この整理を見ると、ループという現象は同じだが、それを「肯定的に捉えるか」もしくは「否定的に捉えるか」の違いがあるということがわかる。
『時間ループ物語論』のなかで著者が紹介している分類がある。こちらのほうが単純でわかりやすい。それは「リプレイ派」と「ターン派」という分類だ。(参考2)単純化して説明すれば、「リプレイ派」とは繰り返される期間が長時間に渡り(数十年とか)、「ターン派」とは繰り返される期間が短い(1日など)ということになる。
「リプレイ派」とはループする時間が長いために、それまでの人生をやり直すという印象が強くなる。誰でも後悔のいくつかは抱えているから、やり直しにより後悔を回避(?)できるためにループは肯定的に捉えられる。一方で「ターン派」では、ループする時間が短いために、同じ現象の繰り返しの印象が強くなる。記憶は続いたとしても、徹夜して仕上げた仕事も朝には元通りになるから、何度も同じことを体験するハメになり、そこから抜け出せないことが苦しみと感じられる。
浅羽分類の③は、ループを謎解きや犯人探しに当てはめた場合であり、④は「ターン派」の特殊な例だろうか(同じことの繰り返しに耽溺してしまう)。
浅羽の分類は、後半の日本現代文化論のための整理となっている。
著者はそんな意図で、『ファウスト』、輪廻転生、永劫回帰、シジフォスの神話などを“ループもの”との関係で論じている。そして浦島太郎も“ループもの”の一種だとして論を展開させる(さらには漱石の前期三部作も)。
なぜ浦島太郎が“ループもの”と関係があるのか? ちょっとわかりづらいから言葉を補うと、例えば『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の場合、ループするのは学園祭の前日の1日だった。これはループの原因たるラムにとって、永遠に続いてほしいような充実した素晴らしい1日だった(ほかの登場人物たちはそこから逃げ出そうとするが)。ここではループは一種のユートピアなのだ。
仙境淹留譚 としての浦島太郎の昔話では、浦島は竜宮という仙境(ユートピア)に遊び、元の世界に戻って途方に暮れた。(*1)その意味で、これは“ループもの”のはらむある一面、④のようにユートピアに閉じこもる姿を描いたものではないかというのだ。
そして浅羽は河合隼雄の論に拠りながら、浦島太郎をユングの言う「永遠の少年」として論じる。現代のモラトリアム青年として浦島太郎を読もうとするのだ。
竜宮というユートピアに留まる浦島は、学生時代に留まりたがるモラトリアムや、現実社会を忌避するニート、アニメ等の虚構にはまる「おたく」になぞらえられる。元の世界に戻って途方に暮れる浦島は、ユートピアに浸りすぎて現実に適応できない若者になるだろう。
河合隼雄によれば、浦島の竜宮行きは無意識への退行とのこと。それは現実からの逃避とも言えるのだが、「「現実原則」に囚われて見えなくなったものへ心の視野を広げて、人生を掴み直して再出発するプロセスともなり得るもの」と積極的にも捉えられる。
浅羽はそうした解釈から、竜宮から持ち帰った玉手箱とは「無意識へ大きく退行した者だけが知った価値観、発想、イメージの総体ではないのか」とする。浅羽はそうしたイメージをクリエイティブな方向へ熟成することで現実に活かすことを提唱する。
ユートピアである虚構世界に留まる「おたく」たちだが、それらを熟成して送り手側になることはまれだ。それはブログなどで、ユートピアにおいて学んだことを小出しにして無駄にしてしまっているから。玉手箱を安易に開けずに、ユートピアで掴んだイメージを熟成させれば送り手側にもなれるかもしれない。本来なら玉手箱は有用な価値を持つマジックテクノロジーなのではないか。
浅羽は大方こんなふうに論じている。玉手箱に関しての一種の珍説とも思えるが、こんな牽強付会の説も嫌いではない。
(参考1) 丁寧にリストをつくったブログがあった。
http://blog.goo.ne.jp/s-matsu2/e/c0736ca9829bdcea00ad63dff254562f
(参考2) 下記のサイトで紹介されている分類だ。
http://www.ktr.to/Mystery/replay.html
(*1) 私は別の場所でキム・ギドク作品のなかの龍宮というユートピアについて記した。ギドク作品では、現実への回帰はあまり問題にならないが……。
![]() |

ただ惜しむらくは作品リストがついていない。あとがきに校正の時間もないと漏らしているから、単純にそれだけの理由かと思われる。(参考1)
著者による“ループもの”の分類は以下のようになる(p126より)。
①主人公が時間ループをネガティヴに受け止め、その苦しみを描いた物語
(例) 『ターン』「倦怠の檻」「タイムマシンの罠」
②主人公が時間ループをポジティヴに受け止め、その成長を描いた物語
(例) 『恋はデジャ・ブ』『未来の想い出』『リセット』
③主人公が時間ループを特定の問題の解決のために用いる物語
(例) 『七回死んだ男』『ひぐらしのなく頃に』『All You Need Is Kill』『Y』
④主人公が時間ループそのものを楽しんで肯定する物語
(例) 「秋の牢獄」『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』『ウロボロス』
この整理を見ると、ループという現象は同じだが、それを「肯定的に捉えるか」もしくは「否定的に捉えるか」の違いがあるということがわかる。
『時間ループ物語論』のなかで著者が紹介している分類がある。こちらのほうが単純でわかりやすい。それは「リプレイ派」と「ターン派」という分類だ。(参考2)単純化して説明すれば、「リプレイ派」とは繰り返される期間が長時間に渡り(数十年とか)、「ターン派」とは繰り返される期間が短い(1日など)ということになる。
「リプレイ派」とはループする時間が長いために、それまでの人生をやり直すという印象が強くなる。誰でも後悔のいくつかは抱えているから、やり直しにより後悔を回避(?)できるためにループは肯定的に捉えられる。一方で「ターン派」では、ループする時間が短いために、同じ現象の繰り返しの印象が強くなる。記憶は続いたとしても、徹夜して仕上げた仕事も朝には元通りになるから、何度も同じことを体験するハメになり、そこから抜け出せないことが苦しみと感じられる。
浅羽分類の③は、ループを謎解きや犯人探しに当てはめた場合であり、④は「ターン派」の特殊な例だろうか(同じことの繰り返しに耽溺してしまう)。
浅羽の分類は、後半の日本現代文化論のための整理となっている。
時間ループというエンタメでは、主人公へ感情移入した我々は、いかなる願望を充足され、いかなる悲嘆や不安や恐怖を体験して、洗い流されるのか? (p127)
著者はそんな意図で、『ファウスト』、輪廻転生、永劫回帰、シジフォスの神話などを“ループもの”との関係で論じている。そして浦島太郎も“ループもの”の一種だとして論を展開させる(さらには漱石の前期三部作も)。
なぜ浦島太郎が“ループもの”と関係があるのか? ちょっとわかりづらいから言葉を補うと、例えば『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の場合、ループするのは学園祭の前日の1日だった。これはループの原因たるラムにとって、永遠に続いてほしいような充実した素晴らしい1日だった(ほかの登場人物たちはそこから逃げ出そうとするが)。ここではループは一種のユートピアなのだ。
時間ループ物語を空間でなく時間が歪んで生じた隠れ里への淹留譚として読めるとしたら、逆に、隠れ里、仙境淹留譚にも時間ループ的な要素が認められないでしょうか? (p216)
そして浅羽は河合隼雄の論に拠りながら、浦島太郎をユングの言う「永遠の少年」として論じる。現代のモラトリアム青年として浦島太郎を読もうとするのだ。
竜宮というユートピアに留まる浦島は、学生時代に留まりたがるモラトリアムや、現実社会を忌避するニート、アニメ等の虚構にはまる「おたく」になぞらえられる。元の世界に戻って途方に暮れる浦島は、ユートピアに浸りすぎて現実に適応できない若者になるだろう。
河合隼雄によれば、浦島の竜宮行きは無意識への退行とのこと。それは現実からの逃避とも言えるのだが、「「現実原則」に囚われて見えなくなったものへ心の視野を広げて、人生を掴み直して再出発するプロセスともなり得るもの」と積極的にも捉えられる。
浅羽はそうした解釈から、竜宮から持ち帰った玉手箱とは「無意識へ大きく退行した者だけが知った価値観、発想、イメージの総体ではないのか」とする。浅羽はそうしたイメージをクリエイティブな方向へ熟成することで現実に活かすことを提唱する。
ユートピアである虚構世界に留まる「おたく」たちだが、それらを熟成して送り手側になることはまれだ。それはブログなどで、ユートピアにおいて学んだことを小出しにして無駄にしてしまっているから。玉手箱を安易に開けずに、ユートピアで掴んだイメージを熟成させれば送り手側にもなれるかもしれない。本来なら玉手箱は有用な価値を持つマジックテクノロジーなのではないか。
浅羽は大方こんなふうに論じている。玉手箱に関しての一種の珍説とも思えるが、こんな牽強付会の説も嫌いではない。
(参考1) 丁寧にリストをつくったブログがあった。
http://blog.goo.ne.jp/s-matsu2/e/c0736ca9829bdcea00ad63dff254562f
(参考2) 下記のサイトで紹介されている分類だ。
http://www.ktr.to/Mystery/replay.html
(*1) 私は別の場所でキム・ギドク作品のなかの龍宮というユートピアについて記した。ギドク作品では、現実への回帰はあまり問題にならないが……。
スポンサーサイト