阿部和重 『クエーサーと13番目の柱』 「引き寄せの法則」と“可能世界”

 物語はハリウッドのスパイ映画のように展開する。何かを監視しているモニタリング眼鏡と丸刈りのふたり組。男たちの注視する先に闖入者が現れる。野球帽のふたり組だ。野球帽たちは、眼鏡たちが監視のターゲットとしている人物の部屋に忍び込むのだ。それを発見した眼鏡たちは、野球帽たちを排除するために行動を開始する。

『クエーサーと13番目の柱』 ニューロマンサーを思わせる装丁

 導入はスパイ物だが、『クエーサーと13番目の柱』では国家的な陰謀など登場せず、眼鏡の男(タカツキ)たちの対象はアイドルの女の子だ。安っぽいアイドルを追いかけるパパラッチ的存在と、それを出し抜こうとする見えない敵との戦いが繰り広げられる。
 そこには阿部和重的な誇大妄想満載の登場人物が関わっている。タイトルの“クエーサー(準恒星状天体)”とは、限りなく遠くにあっても強く輝いている天体のこと。モニタリング作戦の首謀者(タカツキの雇い主)曰く、「天体観測者の愛」というのが、アイドルとファンとの関係なんだとか。あまりに遠すぎて絶対に近づけないけれども、その輝きだけは見ることが出来る。だから監視はするけれども、それ以上近づこうとはしない。

 タカツキはそんな雇われ仕事のなかで、別の誇大妄想者のニナイケントに出会う。ニナイの妄想は「引き寄せの法則」という言葉で示される。これはいわゆる成功哲学で、思考は必ず実現するという考えだ。(*1)ニナイは、その法則に従って正しく思考することさえできれば、どんな願望も自らに引き寄せることができると考える。
 ニナイの願望とは母親を蘇らせることである。これだけでも普通とは言えないが、その方法がまた変わっている。ニナイの母親がダイアナ元皇太子妃と同じ時期に同じ状況で亡くなったことから、そのときの事故を再現し、彼が新たなダイアナとするアイドル(エクストラ・ディメンションズのミカ)を助けることによって母が蘇るというのだ。完全に狂気である。

 ニナイが担う「引き寄せの法則」について、作者の阿部和重はこんなふうに語る。

「引き寄せの法則は投資などをする人が読むようなありふれた成功哲学です。そのスピリチュアルな面を虚構的に俗っぽく強調することで、何か違った意味を持たせられたらと意図しました。世間で紋切型として扱われている言葉や概念を更新することは、文学のひとつの役割だと思っています」(*2)

 この作品では「引き寄せの法則」は、“可能世界”や“輪廻”などの考え方と結び合って、それまでの意味合いとは違ったものとして生まれ変わる。
 この作品の冒頭は1997年8月31日日曜日から始まる。これはダイアナ元皇太子妃が事故死した日だ。作者は事実とされることだけを連ね、その事故の詳細をごく客観的に報告している。また、モニタリング作戦中の2009年12月17日木曜日には、伊豆で震度5の地震が起きたことが触れられる。これも事実だ。つまりわれわれの生きている現実を舞台にした話なのだ。(*3)
 しかし一方で、この物語のなかには“可能世界”や“輪廻”を思わせるガジェットに溢れている。“可能世界”論とは、今ある形の現実世界は、あまたあるほかの形の世界のうちのひとつでしかなく、たまたま偶然に(あるいは神様のご意志により)こんな形になっているとする考え方だ。“輪廻”も「今の生が唯一の生ではない」という意味で、“可能世界”論と重なる部分も多いだろう。
 作中、Beyonce「Deja Vu」やRadiohead「Airbag」などの曲が引用される。デジャヴとは、輪廻転生における過去生の記憶の蘇りという説もある。また、「Airbag」でも直接的に輪廻が表現されているし、「ドイツ車に乗っていて、エアバッグで生き残った」と要約される歌詞の内容は、ダイアナを襲った現実とは別の“可能世界”を感じさせる。
 さらに言えば、スピリチュアルな曲という印象はあるが、引用の意図が明瞭でないEarth Wind & Fire「Fantasy」では、“12番目(twelfth)”という言葉が記されている。(*4)タイトルにもある“13番目の柱”とは、ダイアナを乗せたベンツ280Sが激突したのが、アルマ・トンネル内の13番目の柱だったからだ。これは史実であるかもしれないが、13番目の柱に激突したことに特別な意味はないはずだ。
 あえて13番目という言葉を意味ありげに示しておいて、その傍に12番目という言葉が隠されているのだ。現実世界では13番目だったけれども、“可能世界”においては12番目ということも当然あり得る。もしかしたら柱に激突しない世界もあるかもしれない。どんな世界も可能性はある。そんなことを感じさせるのだ。
 もちろんこれは私の妄想だが、ニナイの計画がタカツキに「ご都合主義の妄想」と指摘されるように、この小説はそんな都合のいい解釈も可能なようにも、、書かれていると思う。

 物語の最後で起きる出来事は、ニナイの夢の実現ではない。願望を引き寄せてしまうのはタカツキだ。それはタカツキが抱える後悔の念から生じているのかもしれない。事故で後輩の妻子を奪ってしまった過去があるのだ。後悔という強烈な感情が、思考を現実化するのだろうか。
 眼鏡の男として登場したタカツキは、いつの間にか眼鏡を必要としなくなる。さらに見失ったターゲットの行き先を勘で言い当ててしまう。ニナイから「引き寄せの法則」を聞かされたことが影響してか、知らぬ間に願ったことを引き寄せてしまっているのだ。そして、落雷により純白に染めあげられた世界が、瞬時に新たな世界のイメージとして再生されるのを知って、タカツキは覚醒する。「おれにはすべてのイメージが鮮明に見えている」と語るように、様々な“可能世界”のなかから唯一の正しい世界を選択し、新たなダイアナ(ミカ)を助け出すのだ。救出のエピソードは『マトリックス』のラストみたいな爽快感だ。

(*1) ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』という本が、「引き寄せの法則」の代表的なものとされているようだ。自己啓発的な内容らしい。

(*2) この認識は、フローベール『紋切型辞典』などにある問題意識を引き継いだものだ。

(*3) ここでわざわざ地震のエピソードが記されるのは、その後に起きるはずの3.11を意識してのことだと思われる。もし狂った地震学者なんかが登場して、震災に対する警鐘を鳴らしていたならば……。

(*4) “12番目”という言葉はこんなふうに使われている。
  Our voices will ring together 僕らの声はひとつになって鳴り響く
  until the twelfth of never 永久に、いつまでも…
  We all will live love forever as one 僕らはみんな愛の世界に生きることになる 永遠に…
 「the twelfth of never」で、「永遠に」という意味になる。




阿部和重の作品
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Date: 2012.11.30 Category: 小説 Comments (0) Trackbacks (0)

トルストイ 『コザック ハジ・ムラート』

 『コザック』『幼年時代』(1852)『少年時代』(1854)の後に書かれたトルストイの初期作品。
 『ハジ・ムラート』はトルストイが死んでから発表された作品である。

トルストイ 『コザック ハジ・ムラート』


『コザック』
 「コザック(コサック)」とは、領主の支配の強化を嫌って辺境のステップ地帯に逃亡した農民の集団からなり、19世紀に入って「貴族・聖職者・農民・商人とならぶ階級の一つとなり、税金免除の引き換えに騎兵として常の兵役の義務が課された」(Wikipediaより)軍事共同体だという。『戦争と平和』でもナポレオン軍を迎え撃つコサック兵が描かれているが、『コザック』でもチェチェン人との戦いの先陣を切る役割を果たしている。
 『コザック』では、オレーニンという若者の青春時代が描かれる。モスクワでの貴族生活を捨ててカフカーズ(コーカサス)へとやってきた主人公は、そこに暮らすコザックたちのなかで生活することになる。オレーニンは「ここいらで見る人間は、人間ではない。彼らのうちには、誰ひとりおれを知るものもなければ、将来だって、おれのいたモスクワの社交界などへ出入りする気づかいはないのだから、おれの過去を知るはずもないのだ。」などと考え、過去からの解放感を覚えつつ新たな土地で新たな出発を夢見る若者なのだ。そこでの生活には人生をいかに生きるべきかという悩みがあり、チェチェン人との戦いがあり、猟に耽溺する楽しみがあり、そして初めて愛するということを知ることになるのだ。

 ここでは著作『ロシア的人間』でトルストイを論じている井筒俊彦の言葉を借りたい。「まず何よりも地的な、純粋に地上的な「生」に対する素朴で無羞恥な愛、一日一日を生きていくことの尽きせぬ悦び、ここにこそトルストイの真の偉大さがある。」と井筒俊彦は記している。そしてそんな「人間における自然性」を体現した存在が、『コザック』におけるエローシカだと論じている。

人間における自然性を、その窮極的形態に捉えて、これを見事に生きた人間として受肉させたトルストイ芸術のすぐれた創造物の一つである。絶対に無条件な存在の受容、徹底した生の肯定、それがこの老コサックの精神である。

 
 そして「自然と一つに成ること」が、「エローシカ的モラル」だと井筒は記し、「ちょっと見ると何の訳もない簡単なことのように思われるけれど、実はここにこそ人生の意義に百八十度の旋廻を強いる大きな意味が含まれている」と続けている。井筒は『ロシア的人間』において、トルストイの章の大半を『コザック』に費やしている。『戦争と平和』でもなく、『アンナ・カレーニナ』でもなく、『コザック』にこそトルストイの「生の肯定」が表れていると考えているのだ。
 また、この本の解説において、『ドストエフスキー』という著作もある山城むつみはこう記している。「ドストエフスキー本人は、天がトルストイ作品に与えたとしか言いようのない極上の恵みに比べれば自分の書くものなど、健全さに欠けた、ヤクザな二流品ではないのかと心のどこかで疑っていたと思います」。トルストイの健全さは、ドストエフスキーを嫉妬させもするのだが、一方で表面的には道徳的で安易な印象を与えかねない(日本ではドストエフスキーのほうが人気のようだ)。井筒俊彦もトルストイが誤解されてきたことに注意を促している。ここでは詳しく触れる余裕はないから、あの『意識と本質』(手元に置きたい本とはまさにこの本!)を書いた井筒俊彦が絶賛しているのだからトルストイは素晴らしい、とその権威にすがって言っておこう。


『ハジ・ムラート』 
 『ハジ・ムラート』は『コザック』から30年以上のちに記されたトルストイ最後の小説。冒頭、作者と思わしき「私」が、野道を散歩していると「だったん草(野アザミ)」を見つける。それは車輪の下敷きになったらしく、ひどく痛めつけられ傷ついていた。その草はこう描写される。

まさにからだの一部をむしりとられ、腸を露出し、片手をもがれ、眼をとびださせられているのであった。しかも彼は、依然として立ち、周囲の同胞をことごとく滅ぼしつくした人間に、降参しようとはしていないのであった。


 この印象的な場面から、ひとつの出来事を思い出し回想に入っていく。それが「ハジ・ムラート」という実在の人物の物語だ。
 ハジ・ムラートがチェチェン人の村に秘かに現れる冒頭から始まって、ハジ・ムラートの投降を受け入れるロシア側のざわめきに場面を展開していきつつ、イスラム神秘主義者たちの反ロシア運動に巻き込まれるハジ・ムラートの人生も語られていく。ハジ・ムラートはロシアとイスラム勢力の狭間を行き来し、寝返りを繰り返す。ラスト、母親たちを助けるためにロシア側から逃げ出してイスラム側に戦いを挑もうとするが、ロシア側の兵士に囲まれて壮絶な最期を遂げるのだ(藪のなかに立てこもり反撃する場面は西部劇のよう)。このハジ・ムラートの姿が冒頭の「だったん草」に描写されるものなのだ。

 トルストイ作品の登場人物が自伝的要素を含んでいることはつとに指摘されているが、最晩年に記したハジ・ムラートの姿にも、トルストイは自分の姿を見ていたのだろうか。
 トルストイは「だったん草」に対し、≪なんという精力だろう!≫≪人間はすべてに打ち勝ち、幾百万の草を絶滅したが、これだけはついに降参しようとしないのだ≫と記す。これはそのままハジ・ムラートについての評言だ。だがそこには生の肯定というよりは、つまり降参しなかったことの賛美よりは、痛めつけられる「だったん草」(=ハジ・ムラート)に対する悲哀のほうが強く感じられるのは私だけだろうか。
 トルストイは『ハジ・ムラート』を書き上げた6年後、すべてを捨てて家出をし、旅先の駅で野垂れ死ぬようにこの世を去るわけだ。

トルストイの作品
Date: 2012.06.30 Category: 小説 Comments (0) Trackbacks (0)

恩田陸 『月の裏側』

 ジャック・フィニイ『盗まれた街』にオマージュを捧げた作品。
 恩田陸はフィニイの短編集『レベル3』のあとがきも書いているし、こうして1冊の本を書き上げてしまうくらいだからフィニイのファンなのだろう。私もジャック・フィニイが好きだ。どの作品を読んでもおもしろい。タイムスリップを題材にした作品で、その瞬間を、『ふりだしに戻る』ほど見事に描いたものはないんじゃないかと思う。
 
恩田陸 『月の裏側』

 フィニイ『盗まれた街』は何度も映画化されている(『SF/ボディ・スナッチャー』『インベージョン』)。宇宙から来た“何か”が人の体を奪い取りボディ・スナッチ、ひとつの街が侵略インベージョンされていくというのが筋だ。ここで不気味なのは乗っ取られた人が、外見的にはまったく人間の姿をしているということ。身近な誰かが知らぬうちにまったく別の“何か”に成り果てているというのが恐怖の源だ。
 『月の裏側』もそのあたりは踏襲されている。箭納倉という水郷を舞台とし、張り巡らされた掘割に満ちた水のなかから“何か”が襲ってくる。水辺に面した家に住む人間から失踪し、戻ってきたときには<人間もどき>になっているのだ。
 『盗まれた街』では宇宙からの侵略だったが、『月の裏側』では、アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』のような人類の新たな進化という壮大な話になる。人間はもとをたどれば海から上がってきた生き物だ。水のなかに棲んでいたとき、われわれは「ひとつ」だった。今あるわれわれの多様な姿は、生物の戦略として求められたものだった。しかし、長い長い時を経た今となっては、また「ひとつ」に戻ることが求められている。そんな危険な考えが披瀝される。これは『新世紀エヴァンゲリオン』「人類補完計画」めいたものだ。エヴァではもちろんそれは否定された。「ひとつ」になることよりは、多様性に留まることが選ばれるのだ。
 『月の裏側』ではどうなるか。結局、登場人物たち皆が「盗まれて」しまう。箭納倉の街のすべての人間が、人間ではない<人間もどき>に成り下がったのだ。これは不幸な結末か? そうではない。
 『盗まれた街』では乗っ取られた人間は、外見は似ていても得体の知れぬ“何か”として描かれていた。『月の裏側』では「盗まれた」人間も意識ある存在として描かれている。ただ無意識のレベルでは水のなかに棲む“何か”に奪われているのだ。
 『月の裏側』の最後の4つの章は、4人の登場人物たちの1人称で進む(11章までは3人称で視点が次々に移動する)。登場人物それぞれの1人称で心内語が綴られるが、最後の藍子の章は「盗まれた」後のことで、藍子は<人間もどき>の存在だ。それでもその語りにほかの3人との違いは見られない。最初は<人間もどき>にされることが恐怖の対象になっていたのだが、実際になってみると恐ろしいものでもなかったのだ。このあたりの価値の相対化は藤子・F・不二雄『流血鬼』に通じるものがある(吸血鬼に血を吸われて自分もその仲間になってみると、意外なことに別の素晴らしい世界が待っている)。

 最後に、伏線としての「鳩笛」の役割について。
 藍子は<人間もどき>として戻ってきたとき鳩笛を持っている。なぜ自分が鳩笛を持っているのか、それが自分の自由な行動によるものか、水のなかに棲む“何か”に操られているのか悩む。
 『月の裏側』では鳩笛の響きは、水のなかに棲む“何か”の呼び声とされている。それは主人公多聞が探し回って発見したことだ。だが、それが藍子に伝えられたとは書かれていない。「そう言えば、あの音の正体がわかったよ」と多聞が言い、「ほんと?」と藍子が応えるだけだ(p280)。そのあと「昼間彼等が目にしたものを話し合った」という記載や、「河童も鳩笛も――結局、昔の人は薄々気が付いていたんですね」という多聞のつぶやきはある(p288)。しかし藍子が鳩笛に関して触れることはないままだ。にもかかわらず、最終章の藍子は唐突に鳩笛に言及し始める。
 

 小さな鳩笛をシャツの裾できゅっきゅっと磨く。
 泥の落ちた素焼きの鳩のつぶらな目は彼の目に似ていた。
 鳩笛は、日の暮れの音色。
 黒い雲に紫色の光がゆっくりと消えていく。
 私はそっと鳩笛を唇に当てた。


 何度もこだわり過ぎなくらいに鳩笛が登場する。無理に解釈すれば、藍子が無意識のレベルで多聞や箭納倉の人たちとつながって「ひとつ」になっていることの表れと考えられないだろうか。「鳩笛は、日の暮れの音色」とは、昔流行った歌の歌詞だ。藍子にとって箭納倉は故郷ではない(何度か訪れてはいるが)。そんな藍子が突然、箭納倉の郷土品である鳩笛について語りだし、なつかしのメロディまで想い出すのだ。だから藍子が鳩笛の響きの秘密を聞いていないのだとすれば、無意識のなかで多聞とつながって大切なものを受け取ったとも読めるような気がするのだ。そうでなければ伏線として鳩笛が回収できていないし、そうであればこそ藍子が抱いた多聞への秘かな愛にも慰めが与えられるのだから。

恩田陸の作品
ジャック・フィニイの作品
Date: 2012.06.25 Category: 小説 Comments (0) Trackbacks (0)

吉田修一 『横道世之介』

 吉田修一の本は、『悪人』『パレード』など映画化されることも多い。この『横道世之介』も映画化され、来年公開予定である(映画版についてはこちら)。

吉田修一 『横道世之介』

 『横道世之介』は大学に入学したばかりの横道世之介の1年間を、同じ1年間の期間をかけて新聞連載として描いたものだ。ただ時代は80年代のバブル期の設定だ。章立ても月ごとに分かれ、入学式や夏休み、クリスマスにバレンタインなど、大学生らしいイベントが盛り込まれている。
 そんな<現在>の流れに、突然将来の出来事が挿入されてくる。これは小説の流れから見れば将来だが、連載時(2008年4月から2009年3月まで)の話ということになる。ここでは世之介が出会った友人たちのその後が描かれる。サンバサークルの倉持と唯、ゲイの加藤、お嬢様の祥子、憧れの片瀬千春など、世之介とは離れそれぞれの道で生きている。この設定(<現在>への将来の挿入?)は読んでいて不思議な気持ちになった。

 時間が一方向にしか流れないように、現実世界では、現在から過去を振り返ることしかできない(未来は未定だから)。小説では、現在から過去を振り返る「回想シーン」は、登場人物の現在を説明する常套手段だろう。例えば犯人探しのミステリーなら、過去の不幸な出来事が、現在の悲惨な事件の引き金になるといった手法だ。
 そんなとき、何故か「偶有性」の問題がつきまとう。簡単に言えば「そうでない人生も可能だったのに……」という感覚だ。もちろんすべての「回想」がそういった後悔の念を生じさせるわけではないはずで、回想の幼年時代がその人にとっての黄金時代である場合もあるはずだ。だが多くの「回想シーン」は何らかの「偶有性」を感じさせるものとなっている。

 吉田修一作品でも『さよなら渓谷』では、過去を振り返ることが作品の核になっている。

「……あの事件を起こさなかった人生と、かなこさんと出会った人生と、どちらかを選べるなら、あなたはどっちを選びますか?」


 これは過去の事件を秘密にして生きてきた主人公に向けられた言葉だ。主人公はその事件を起こしたことで自分の人生を狂わせ、それ以上に被害者の人生をも狂わせたわけだが、現在から振り返れば「事件を起こさなかった人生」が常に主人公の頭のなかに去来する。現実には「事件を起こさなかった人生」ではなかったからこそ、「事件を起こさなかった人生」を思い描かざるを得ないのだ。

 翻って『横道世之介』だが、読者は突然、それまで大学生だった登場人物の20年後に出くわすことになる。その印象は登場人物ぞれぞれで違うだろうが、残念(あるいは痛快)に思うかもしれないし、意外な感に襲われるかもしれない。けれども読んでいくにつれ「なるべくしてそうなった」と思わされる。納得させられてしまうのだ。それは当然と言えば当然で、20年後の現在は厳然としてそこにあるのだから、受け入れざるを得ないのだ。しかし、それは<現在>として描かれる学生時代があったからこその納得なのだと思う。「宿命」とか大げさな言葉は似合わないが、その20年後の姿を肯定するほかない気持ちにさせられるのだ(私が感じた不思議な感覚はこのあたりにあるのだと思う)。

 主人公世之介について、作者(吉田修一)はこんなふうに描く。

 九月になっても一向に涼しくならない。すでに十時間以上も寝ているくせに、まだ眠れるんじゃないかと汗臭い枕に顔を押しつけているのが世之介である。これが三日ぶりの睡眠であるならば話も分かるが、地元から戻って以来、気分が悪くなるほど世之介は寝てばかりいる。


 このあと友人の加藤がたこ焼きを持って訪ねてくると、世之介は「寝起きで、たこ焼きかぁ」とつぶやきつつもたこ焼きに手を出すのだが、作者は「食べるくせに文句は言うのである。」とツッコミを入れる。何だかアニメ『ちびまる子ちゃん』のナレーションのような語りである。この語りは客観的というよりは、世之介の側で彼を見守っているような暖かい雰囲気なのだ。
 世之介という愛すべきキャラクターは、「横道」という名前に反して、ひたすら「真っ直ぐ」である。彼女だった祥子はこう語る。

「いろんなことに、『YES』って言ってるような人だった」「もちろん、そのせいでいっぱい失敗するんだけど、それでも『NO』じゃなくて、『YES』って言ってるような人」


 加藤曰く、世之介に出会ったことで人生で何かが変るわけではないが、なぜか得をした気持ちになる、世之介はそんな人物なのだ。
 吉田修一は何でもない1年間を平易な言葉で記しつつも、エンターテインメントとして読ませてしまう。ある種道徳的でさえある世之介の最期の行動も、説教臭くなり過ぎないところも絶妙だ。暗くて深いばかりが小説ではないし、屈折して頭でっかちな思想を巡らすような主人公ばかりでもつまらないだろう。世之介という、ごく普通の愛らしい青年の、ちょっとあり得ないくらいの「真っ直ぐ」さも、描く価値があるモチーフだと感じさせられた1冊だった。

横道世之介


その他の吉田修一作品

Date: 2012.05.13 Category: 小説 Comments (0) Trackbacks (0)

読書するギドク 『ブリーダ』について

 手にしたきっかけは、ギドク『アリラン』のなかでこの本を読むシーンがあったから。作者のパウロ・コエーリョについてはあまり知らないので、以下ギドクとの関係で記します。

パウロ・コエーリョ 『ブリーダ』

 章立てが「夏と秋」「冬と春」となっており『春夏秋冬そして春』を想起させるが、季節はあまり重要な要素ではない。冒頭に「アイルランド 1983年8月‐1984年3月」とあり、ブリーダという主人公に起こった出来事の記録になっている。夏ごろから始まり、秋と冬を経て、春までのお話というだけで、そこに特段の意味合いを込めたわけではないようだ。
 また、「分身」という主題が出てくるが、これもギドクがアリランでやった意味での「分身」ではない。もっともギドクの「分身」は心内語や葛藤を観客に見せるためのサービスみたいなものだが……。

 ギドク映画では自作の引用はよく見られるが、聖書や仏教説話以外の現代作家の作品が導入されることは珍しい。例外的に『絶対の愛』では、G.ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』が登場する。ギドクの映画の登場人物たちが夢や幻想に逃避するように、マジックリアリズム的な箇所に惹かれたのかもしれないが、作品テーマとの関係が私には見えなかった。
 『ブリーダ』は果たしてどんな小説か。ギドクはどんな意図で『ブリーダ』を引用したのか。

「魔術を習いたいんです」娘は言った。


と唐突に始まる『ブリーダ』の物語は、魔術師やウィッカと呼ばれる魔女などが登場する世界だ。それでも『ハリー・ポッター』みたいにホウキにまたがって空を飛んだりはしない。ブリーダの「魔術とは何なのですか」という問いに対して、魔術師はこう答える。

魔術は橋だ。目に見える世界から目に見えぬ世界へと渡っていける橋だ。そうして双方の世界から学びを受ける。


 その橋を渡るには2つの方法があるとされ、こう説明される。

太陽の伝説、それは空間を、われわれの周りにあるものを通して秘密を教えてくれる。そして月の伝説は時を、時の記憶の中に封じ込められたものを通して教えてくれる。


 この2つの伝説をブリーダは魔術師とウィッカのそれぞれから学ぶわけだが、このあたりの用語はファンタジーの要素を感じさせる。しかし呪文を唱えて何かを動かしてみたり、悪役が登場して魔力合戦に応じるわけでもない。だからブリーダが魔女なのか何なのかよくわからない。
 修行の過程で“過去生”の自分を体験したり、宇宙に思いを馳せる神秘的な体験をしたりはするが、突拍子もないものではない。幻覚や幻想の類いとも言えるし、やや神秘主義的な宗教に近く、ブリーダの魂の遍歴(=自分探しを描いているように思える。最初に魔術師から課される修行は、サソリや蛇が生息する森のなかで一夜を明かすことだが、その体験を経てブリーダはこんなことを考える。

信仰とは夜の闇に説明なく潜ること


 この言葉は信仰の要諦を捉えている。どこの馬の骨かわからない新興宗教の教祖の言葉は信じられない。しかし、論理的にわかるレベルではなく信仰する段階となれば、キリストにしても仏陀にしても同じことなのだ。最後は目をつぶって飛び込むしかないのだから。

 それから「分身」というテーマだが、この小説では転生するとき男と女に別れるとされている。すると魂は弱まっていくから「分身」は再会することがある。この再会を“愛”と呼ぶのだそうだ。
 だから本当の“愛”は「分身」との間に生じるはずだが、われわれは愚かな人間だから間違いはつきもので、自らの「分身」以外を愛してしまうこともある。それに気がつくと別れが訪れ、また「分身」探しの日々が始まる。
 ブリーダも愛する彼氏と自らの「分身」である魔術師との間で揺れ動く。魔術師はブリーダが「分身」と知っていても、ブリーダはそれを知らないからだ。広い世界では「分身」に出会うこと自体が難しく、つまりは本当の“愛”に出会うのも難しいことなのだ。
 パウロ・コエーリョはいわゆるスピリチュアル系の作家とされているようで、ブリーダもそんな体験をしていく。闇に潜り、“過去生”を知り、イニシエーションとしての新たなセックスで宇宙を感じ、春分の日のパーティーでは裸で踊り出し魔女になる儀式をする。こんな体験が重要なのか私には疑問だし、理解できず退屈なところもあるのだが、一方で現実的に役に立つ言葉もある。師匠のひとりであるウィッカは、存在の真なる理由、自分が何のためにいるのかという質問には答えはないと語る。

勇気のある者と太陽と月の伝説を知る者のみが、この問いに対する唯一の答えらしきものを知っている。「わからない」ってね。


至極真っ当な答えだろう。そして次のように続ける。

自分の夢を追う、ってこと。自分の望む方向に向けて足を踏み出す勇気を持つということは、私たちが神を信じるということのたったひとつの表現法なんだわ。


 結局ブリーダにとって、魔術を学ぶことは神について考えることと等しく、それはわれわれが“自分探し”と呼ぶものと何も変らないのだ。だからスピリチュアル系でない人でも親近感を持って理解できるだろう。ギドクもひきこもりに苦しみながら、そんな“自分探し”をするブリーダに自らを重ねたのかもしれない。

パウロ・コエーリョの作品
Date: 2012.04.01 Category: 小説 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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