『叫びとささやき』 ささやきについての個人的な考察
イングマール・ベルイマンの1972年のカラー作品。
先日取り上げた『仮面/ペルソナ』と同時にレンタルにも登場したもの。

真っ赤な壁に真っ赤な絨毯、すべてが赤に彩られた邸宅がすこぶる印象的な作品。フェードイン、フェードアウトまで真っ赤な画面にしてしまうほど徹底して赤にこだわっている。『ベルイマンは語る』という本によれば、作品のアイディアはベルイマンが見た夢が元になっているとのこと。「真赤な部屋に、昔風の白いローブを身につけた女性が三人」というイメージからこの作品が生み出されている。
題名にもあるようにこの作品は「叫び」と「ささやき」がテーマとなる。以前にこの作品を観たとき、「ささやき」とは何だったのだろうかとぼんやりと疑問に感じていた。
「叫び」のほうはわかりやすい。次女のアングネス(ハリエット・アンデション)は死の床にある。長女と三女もその邸宅に集まり、夜もすぐそばで様子を見守っている。アングネスの病は苦痛を伴うもので、耐え切れない痛みにアングネスが叫び声を挙げるのが何とも痛ましい。「叫び」は人生の“苦”の側面を表している。
一方の「ささやき」の場面も印象的に描かれている。疎遠でいがみ合っているようにも見える長女と三女が一度だけ和解し、親しげに顔を寄せ合って言葉を交わすところだ。ここではベルイマンの遺作『サラバンド』でも使われたバッハの「サラバンド」が流れ、交わされる言葉の中身はわからないのだがふたりは幸せそうに見える。
今回久しぶりに観て改めて気がついたのは、「ささやき」は姉妹たちの母親と幼いころの三女との間でも交わされていることだ。次女アングネスがその関係をうらやむほど親密な「ささやき」となっている。ここで母親を演じているのも、大人になった三女を演じているのもリヴ・ウルマンであり、母親と三女は似たもの同士ということになっている。アングネスはそれに疎外感を覚える。ふたりの間で交わされる「ささやき」はアングネスの羨望の対象となっているわけで、「叫び」のような“苦”とは反対の価値が与えられていることになるだろう。

この作品のなかで「ささやき」の場面は少ない。男女の睦言みたいなものもあるのだが、男と女の関係は問題ばかり引き起こしている。三女マリーア(リヴ・ウルマン)は医者(エルランド・ヨセフソン)と浮気をして、気弱な旦那に自殺未遂事件を起こさせてしまう。また、長女カーリン(イングリッド・チューリン)は旦那とのウソばかりの関係に嫌気が差し、自らの股間を傷つけて血化粧をするという狂気を演じる。長女の場合も三女の場合も、男女の関係は苦悩の原因となるばかりなのだ。
そんなわけで『叫びとささやき』という映画全体では、アングネスの「叫び」に集約されるような“苦”の側面が前面に出てきているように感じられる。ちなみに長女と三女の「ささやき」は1回限りであって、次の日には親しく語りあったことも幻だったかのような険悪な関係に戻ってしまう。
ラストで召使のアンナに読まれることになるアングネスの日記には、“苦”とは反対の“至福の瞬間”のことが書かれている。病が小康状態にあるとき、三姉妹で散歩に出かけたときのことだ。死んでいったアングネスはそのときのことをこんなふうに記していた。
人生において「ささやき」の場面は数少ない。アングネスが感じる“至福の瞬間”も同様で、「“時よ 止まれ”と願った」とあるように、そうした時間はごく限られていてしかも長くは続かないものとなっているようだ。
映画は日記のエピソードで唐突に終わりを告げることになる。「叫びもささやきもかくして沈黙に帰した」という言葉が最後に字幕として示される。人間の営みのすべてが無に帰したというわけだが、ラストで描かれる“至福の瞬間”は日記として残されており、それがアンナに受け継がれ、その後も読まれていくことが期待されるところに救いを感じなくもない。もしかすると日記の言葉も「ささやき」のひとつだったと言えるのかもしれない。
『トイレのピエタ』のあとに観たからかもしれないが、召使のアンナ(カリ・シルヴァン)が死の淵から甦ったアングネスを抱きかかえる場面は「ピエタ」を模しているようにも感じられた。アンナという登場人物も重要な位置を占めている。アンナは幼い娘を亡くしており、アングネスに自分の子供の姿を重ねているものと思われ、姉妹以上にアングネスに対し哀れな感情を抱いていて最後まで彼女のそばを離れずにいるのだ。



先日取り上げた『仮面/ペルソナ』と同時にレンタルにも登場したもの。

真っ赤な壁に真っ赤な絨毯、すべてが赤に彩られた邸宅がすこぶる印象的な作品。フェードイン、フェードアウトまで真っ赤な画面にしてしまうほど徹底して赤にこだわっている。『ベルイマンは語る』という本によれば、作品のアイディアはベルイマンが見た夢が元になっているとのこと。「真赤な部屋に、昔風の白いローブを身につけた女性が三人」というイメージからこの作品が生み出されている。
題名にもあるようにこの作品は「叫び」と「ささやき」がテーマとなる。以前にこの作品を観たとき、「ささやき」とは何だったのだろうかとぼんやりと疑問に感じていた。
「叫び」のほうはわかりやすい。次女のアングネス(ハリエット・アンデション)は死の床にある。長女と三女もその邸宅に集まり、夜もすぐそばで様子を見守っている。アングネスの病は苦痛を伴うもので、耐え切れない痛みにアングネスが叫び声を挙げるのが何とも痛ましい。「叫び」は人生の“苦”の側面を表している。
一方の「ささやき」の場面も印象的に描かれている。疎遠でいがみ合っているようにも見える長女と三女が一度だけ和解し、親しげに顔を寄せ合って言葉を交わすところだ。ここではベルイマンの遺作『サラバンド』でも使われたバッハの「サラバンド」が流れ、交わされる言葉の中身はわからないのだがふたりは幸せそうに見える。
今回久しぶりに観て改めて気がついたのは、「ささやき」は姉妹たちの母親と幼いころの三女との間でも交わされていることだ。次女アングネスがその関係をうらやむほど親密な「ささやき」となっている。ここで母親を演じているのも、大人になった三女を演じているのもリヴ・ウルマンであり、母親と三女は似たもの同士ということになっている。アングネスはそれに疎外感を覚える。ふたりの間で交わされる「ささやき」はアングネスの羨望の対象となっているわけで、「叫び」のような“苦”とは反対の価値が与えられていることになるだろう。

この作品のなかで「ささやき」の場面は少ない。男女の睦言みたいなものもあるのだが、男と女の関係は問題ばかり引き起こしている。三女マリーア(リヴ・ウルマン)は医者(エルランド・ヨセフソン)と浮気をして、気弱な旦那に自殺未遂事件を起こさせてしまう。また、長女カーリン(イングリッド・チューリン)は旦那とのウソばかりの関係に嫌気が差し、自らの股間を傷つけて血化粧をするという狂気を演じる。長女の場合も三女の場合も、男女の関係は苦悩の原因となるばかりなのだ。
そんなわけで『叫びとささやき』という映画全体では、アングネスの「叫び」に集約されるような“苦”の側面が前面に出てきているように感じられる。ちなみに長女と三女の「ささやき」は1回限りであって、次の日には親しく語りあったことも幻だったかのような険悪な関係に戻ってしまう。
ラストで召使のアンナに読まれることになるアングネスの日記には、“苦”とは反対の“至福の瞬間”のことが書かれている。病が小康状態にあるとき、三姉妹で散歩に出かけたときのことだ。死んでいったアングネスはそのときのことをこんなふうに記していた。
苦痛は消えた
一番大切な人たちがそばにいる
(中略)
“時よ 止まれ”と願った
これが幸福なのだ
もう望むものはない
至福の瞬間を味わうことができたのだ
人生において「ささやき」の場面は数少ない。アングネスが感じる“至福の瞬間”も同様で、「“時よ 止まれ”と願った」とあるように、そうした時間はごく限られていてしかも長くは続かないものとなっているようだ。
映画は日記のエピソードで唐突に終わりを告げることになる。「叫びもささやきもかくして沈黙に帰した」という言葉が最後に字幕として示される。人間の営みのすべてが無に帰したというわけだが、ラストで描かれる“至福の瞬間”は日記として残されており、それがアンナに受け継がれ、その後も読まれていくことが期待されるところに救いを感じなくもない。もしかすると日記の言葉も「ささやき」のひとつだったと言えるのかもしれない。
『トイレのピエタ』のあとに観たからかもしれないが、召使のアンナ(カリ・シルヴァン)が死の淵から甦ったアングネスを抱きかかえる場面は「ピエタ」を模しているようにも感じられた。アンナという登場人物も重要な位置を占めている。アンナは幼い娘を亡くしており、アングネスに自分の子供の姿を重ねているものと思われ、姉妹以上にアングネスに対し哀れな感情を抱いていて最後まで彼女のそばを離れずにいるのだ。
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