『ダゲレオタイプの女』 溝口的怪談と小津的階段

 『岸辺の旅』『クリーピー 偽りの隣人』などの黒沢清監督の最新作。
 今回は監督以外のキャスト・スタッフはすべて外国人で、全編フランス語の作品となっている。

黒沢清 『ダゲレオタイプの女』 マリー(コンスタンス・ルソー)はジャン(タハール・ラヒム)によって拘束器具に固定される。


 ジャン(タハール・ラヒム)はパリ郊外の屋敷で写真家ステファン(オリヴィエ・グルメ)の助手として働き始める。ステファンはダゲレオタイプという古い形式の写真に魅せられている。露光時間が長いダゲレオタイプは、モデルに長時間の拘束という苦痛を強いることになり、モデルである娘のマリー(コンスタンス・ルソー)は次第に恐怖を感じるようになる。

 『アンジェリカの微笑み』にもあったように、死者の最期の姿を写真に留めるということが19世紀にはよくあったようで、この『ダゲレオタイプの女』でも幼くして亡くなった子供をダゲレオタイプで撮影するエピソードがある。この方式は露光時間がかなり長いようで、その間、モデルはまばたきすらできないわけで遺体を撮影するのは理に適っているとも言える。
 逆に生きているモデルがそれをするとなるとかえって無理がかかる。この作品では、マリーは身体を固定する拘束器具で動きを封じられたまま長時間の撮影に耐えることになる。死体と同じように動かぬままで過ごすことはモデルにとって魂を抜き取られるような感覚だったのかもしれない。マリーが亡くなった子供の撮影を見ると少々取り乱すことになるのは、自分が死に近づいているような感覚に襲われたからかもしれない。実際に出来上がったダゲレオタイプの写真はモデルの姿を永遠に閉じ込めたような質感を持っていて、撮影する父親ステファンはさらなる完璧さを要求するようになっていく。
 助手として働くうちにマリーに惹かれていったジャンは、次第に狂気じみてくるステファンからマリーを助けようと画策することになる。


 ※ 以下、ネタバレもあり!

『ダゲレオタイプの女』 ダゲレオタイプの写真はこんな感じ。とても生々しい。

 主人公のジャンがステファンの屋敷に足を踏み入れ、カメラがゆっくりと動き出すと妖しい空気が漂い始める。扉が音もなくひとりでに開き、目に見えない何かがそこを通り抜けていくかのように感じられたかと思うと、いつの間にかに薄暗い階段の上に青いドレスをまとった女性の姿が現れる。いかにも黒沢作品らしい雰囲気を感じさせる始まりになっている。
 蓮實重彦「小津と溝口の宿命的な融合」と指摘しているように、この作品は溝口健二『雨月物語』のような怪談話であり、小津安二郎『風の中の牝鶏』の有名な階段場面を再現した映画となっていて、ファンではなくともまさに「必見」の作品となっている。

 怪談話であるからには幽霊が登場しなくてはならないわけで、マリーはある事故によって瀕死の重傷を負い、一度消えたあとに姿を現す。マリーが一度消える場所は川のそばとなっている。民俗学者によれば川岸など水辺の境界地は“この世”と“あの世”の境界を意味するという。マリーがいささか不自然にも車でその場所まで運ばれてから姿を消すのは、そうした境界というものが意識されているからで、マリーはその場所で幽霊となって姿を現すことになる。
 ちなみにジャンはその後にわざわざその場所を確認に出向いている(一度目は夜だったため)。するとその場所には川が流れ、すぐ上には高架線が走っていて電車の音が響いている。『クリーピー 偽りの隣人』のときに記したことだが、モンスターのような登場人物たちは境界に棲みつくものであり、実際に『クリーピー』のなかでも舞台のすぐそばには川を類推させる線路が走っていた。『ダゲレオタイプの女』という作品にも明確に境界が示されているわけで、“この世”と“あの世”が交じり合うような世界が描かれていくことになる。
 そうした世界を描いた作品としては『岸辺の旅』があり、『岸辺の旅』では“この世”に残された妻が幽霊となった夫と過ごすことで、最後にはその死を了解することになる。一方、『ダゲレオタイプの女』のジャンはマリーの死を認めたくないようだし、マリーも自らの死に気づいていないのかもしれない。生と死も曖昧となったような旅がしばらく続くことになるわけだが、それも長くは続かない。『岸辺の旅』がハッピーエンディングだとすれば『ダゲレオタイプの女』はその逆で、ジャンのラストの泣き笑いの表情はちょっと切ない。

 前半の妖しい雰囲気に比べ、後半に屋敷の売買のためにジャンが策を弄したりするという展開はちょっと首を捻るところがあったし、ステファンが恐れる妻ドゥニーズの幽霊はなぜかまったく怖いところがなくて、けれん味には欠けたような気もする。また、黒沢映画の名物みたいなスクリーン・プロセスで撮影されたドライブシーンもあったようなのだけれど、夜の場面(瀕死のマリーを運んで病院へ向かう場面)だったからかスクリーン・プロセスで撮影されたものとは気づかなかった。私がぼんやりしていただけなのか、いつものスタッフではなかったからいつものスタイルとなっていなかったのか……。
 とはいえ、黒沢清の映画で『ロゼッタ』『息子のまなざし』オリヴィエ・グルメ『預言者』『ある過去の行方』タハール・ラヒムの共演を見ることができたのは、それだけで価値があろうというもの。コンスタンス・ルソーの儚い感じもよかった。

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Date: 2016.10.18 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『クリーピー 偽りの隣人』 境界に危ないものが棲みつく

 黒沢清監督の最新作。
 原作は日本ミステリー文学大賞新人賞に輝いた前川裕の小説『クリーピー』だが、かなり改変されている模様。
 「クリーピー」とは「ぞっとする」とか「身の毛がよだつ」という意味。

黒沢清 『クリーピー 偽りの隣人』 西野家の玄関前。高倉(西島秀俊)が妻と一緒に挨拶に伺うと妖しげな風が……。


 犯罪心理学を学んでいた刑事・高倉(西島秀俊)は、犯人の気持ちを理解しているつもりになって大きな失敗をしてしまう。その後、高倉は犯罪心理学者として大学で教鞭をとることになり、妻・康子(竹内結子)と共に新居に移り新しい生活を始める。しかし、隣の西野家には奇妙な男(香川照之)がいて……。

 この作品でも黒沢演出はいかにも何かが起こりそうという雰囲気を醸し出している。隣家に挨拶に出かけると急に風が吹き荒れたり、ある事件の生存者・早紀(川口春奈)のインタビューでは、光あふれるガラスばりの大学の部屋が次第に真っ暗になったりもする。ラストあたりではいつものように異空間を飛んで行くようなドライブ・シーンもあったりして、いかにも黒沢映画らしい演出が楽しめる作品になっていると思う。さらにいつもながら何かしらやってくれる香川照之は今回も健在で、いかにも安定した薄気味悪さを見せてくれる。

 黒沢作品は境界というものを意識させるものが多い。前作の『岸辺の旅』では境界とはこの世とあの世の境界であったし、『リアル~完全なる首長竜の日~』では夢と現実の境界だった。今回の作品に関しても『キネマ旬報』のインタビューを読むと、黒沢監督は「境界に危ないものが棲みつく」ということを語っている。
 また『黒沢清、21世紀の映画を語る』という本では、『宇宙戦争』『グエムル』など川が描かれる映画を参照しつつ、川というものが「三途の川を例に挙げるまでもなく、河岸と彼岸を表現するのに、監督や脚本家が、自然と選び取る場所なのでしょう。」と記している。川というものが境界に位置することが明確に意識されている。
 そして『クリーピー 偽りの隣人』では、川を類推させるようなものが登場する。それは住宅街のなかを切り裂くように走る線路だ。早紀だけが残された一家失踪事件現場ではすぐ近くに電車が走っていくし、主人公・高倉が引っ越した家の近くにも高架線が通っている。加えて言えば、崩壊寸前の危うい状態にある家族を描いた『トウキョウソナタ』の主人公の家も線路沿いにあったわけで、線路というものも何かしらの境界線として意識されているのかもしれない。

 この作品には幽霊や超自然現象が登場するわけではない。あくまでも人間しか出てこないのだが、その人間のなかにはちょっと常人とはかけ離れた人物もいる。高倉が研究する犯罪心理学においては、犯人の類型として「秩序型」「無秩序型」があり、さらにそのふたつの「混合型」があるという。「秩序型」「無秩序型」に関してはこれまでの研究により詳細な分析が可能だが、未だに「混合型」に関してはお手上げの状態。そして高倉の隣人・西野もその「混合型」の人間だ。常人のはかり知れない行動をする彼は、まさしく境界にいる存在なのだろう。そして西野の家の奥には外側から窺い知ることができない妖しい部屋が潜んでいる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!



『クリーピー 偽りの隣人』 高倉(西島秀俊)と隣人の西野(香川照之)。後ろには高架線が走っているのが見える。

 この映画ではかつての未解決事件と隣人・西野が結びついてくる。西野の娘(藤野涼子)が言うところによれば、西野は「全然知らない人」。なぜ知らない人が父親のフリをしているのかと言えば、隣家はすでにその男に乗っ取られているからだ(この原作自体が北九州一家監禁殺人事件をモデルにしている)。
 劇中では父親はすでに殺され、母親は薬を打たれ、娘は心理的に西野のコントロール下にある。なぜ隣家が乗っ取られたのかはわからないのだけれど、ひとりで家を守る高倉の妻・康子が次第にいかにも妖しい西野に近づいていくことからも、ごく普通の家族には何かしら付け入る隙があるものなのだろうとも思う。

 かつての共同体では隣近所の人となりくらいはわかっていたはずだが、今では隣に誰が住んでいるのかも知らない。高倉のもうひとつの隣家・田中家も愛想がよくないし近所付き合いも遠慮がちで、家のなかでは要介護の誰かの叫び声が聞こえる。昔ならば共同体のなかで処理されていたかもしれないそうした物事は、今では家庭のなかに閉じ込められる。内に閉じ込められた家族は問題を抱えていても、外に助けを乞うわけにもいかない状況にある。そんななかでその閉じ込められた内側に潜り込むことができた西野のような男は、秘密を共有した新しい家族として受け入れられることもある。ちょっと通常では想像できないような状況なのだけれど、人の心理をうまくコントロールする術に長けた人物によればそうしたことが可能になるらしい。そんな意味では幽霊なんかよりも怖いかもしれない。

 ただ、家族のなかに付け込む隙があるとすれば、康子が西野に引き込まれたのも家族の問題があったはずなのだけれど、この映画では西野が康子を陥れる描写がほとんど抜けているので、康子が勝手に罠にはまってしまったようにも見えた。
 夫である高倉は早紀には「あなたには心がない」と指摘され、康子からもあきらめられているのだが、それは単純に元刑事の悪癖であり、夫婦喧嘩によくある売り言葉に買い言葉にも感じられる。しかし最後の康子の絶叫から鑑みるに、高倉の心には康子をあれほどまで追い込むような異様な部分があったのかもしれないのだが、そのあたりがあまり感じられないためラストは唐突だったようにも思えた。野暮な説明などしないほうがいいということなのだろうとは思うのだけれど……。

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黒沢清、21世紀の映画を語る


キネマ旬報 2016年6月下旬号 No.1718


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Date: 2016.06.20 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (6)

『岸辺の旅』 ふたりの間にある不自然な柱

 『CURE』『回路』『リアル~完全なる首長竜の日~』などの黒沢清監督の最新作。
 第68回カンヌ国際映画祭・「ある視点」部門では監督賞を受賞した。
 原作は湯本香樹実の同名小説。

黒沢清監督 『岸辺の旅』 死んだ優介(浅野忠信)と一緒に瑞希(深津絵里)は旅に出る。


 3年前に失踪した夫・優介(浅野忠信)が、ある日突然、瑞希(深津絵里)の前に現れる。「俺、死んだよ」と他人事みたいに報告する優介を、瑞希もすんなりと受け入れる。優介は富山の海で溺れ、身体は蟹に喰われて見つからないのだという。そんな優介に誘われて、3年の間さまよい歩いた場所へ旅をすることになる。

 優介の登場は唐突である。瑞希がキッチンで白玉を作っていると、いつの間にかに靴を履いたままの優介が部屋のなかに現れる。実体らしきものはあるようで、瑞希の作った白玉を「熱いな」などと言いながら口にしたりもする。その後の旅で示されるように、瑞希以外の人とのコミュニケーションもあることから、優介は瑞希の妄想の産物ではない。この作品世界では、死者と生者の差はあまりなく、ともに暮らしているのだ。
 失踪の3年間、優介はそれぞれの場所で仕事をしながら、周囲の人たちとも馴染んで暮らしていたようだ。そして優介だけが特別な存在ではなく、優介と同じような死者もあちこちに登場する。原作には「死んだ人のいない家はない」とも記されているとのことで、どの場所でも死者が生者とともにいるのだ。

『岸辺の旅』 色あざやかな部屋だが、実はそこは廃墟だったことがわかることに……。

 優介が死者であるということは最初から明らかにされている。題名の「岸辺」とはあの世(彼岸)とこの世(此岸)の境界のことだ。ふたりが最後にたどり着く場所は海辺だったし、三途の川のような幹線道路を挟んでふたりが向き合う場面も生と死の境界を意識させるものだった。
 生者と死者は見分けがつかないわけだが、演出上の境界線は常に意識されている。冒頭は瑞希が教え子にピアノの指導をするシークエンスだが、言葉を交わす教え子の母親と瑞希の間にはリビングには不自然な柱が立っている。これは失踪した夫を想ってなかば死んだように虚ろに生きている瑞希と、現実世界に根を張っている者との境界線を示しているのだろう。
 そして優介が唐突に部屋に現れる場面でも、優介と瑞希の間には黒々とした太い柱が境界線を作っている。これはもちろん生者と死者の境界線だ。この作品の題名が『岸辺の旅』であるように、その境界は曖昧なものであり、登場人物は生と死のあわいを行ったり来たりすることになるわけで、瑞希は画面上でふたりを遮っている境界線を越えて優介の胸に飛び込んでいくことになる。

 黒沢清はホラー映画の監督としても有名だが、この映画はメロドラマである。メロドラマの部分はよくあるパターンな気がしてあまり惹かれなかったのだけれど、生の領域を死の領域が侵犯していくような演出には見るべきものが多かった。光(照明)の加減を調節し、風でカーテンが揺れ出すと、いつの間にかに世界がこの世のものでなくなっていく。そんな場面にはホラー映画で培った手腕が存分に活かされていたと思う。
 浅野忠信がいかにも普通っぽい男を演じているのが妙な感じもして、瑞希(深津絵里)にベッドで接触を迫られ、幽霊のくせにそれを拒むあたりがかわいらしくて笑ってしまった。それから1シーンのみの登場だけれど、主役の深津絵里と対峙することになる蒼井優の笑顔の怖さも特筆すべきところがあったと思う。

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Date: 2015.10.06 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (8)

『リアル~完全なる首長竜の日~』 実は黒沢清監督のホラー映画

 黒沢清監督作品。主演のふたりには佐藤健綾瀬はるかで、原作には『このミス』で大賞になった作品という、黒沢清監督作品には珍しくメジャー系の雰囲気を持つ映画である。(*1)
 自殺未遂で昏睡状態にある淳美(綾瀬)を助けるために、恋人の浩市(佐藤)が<センシング>というシステムで意識に入り込んで救出を試みるという物語。

 ※ 以下、ネタばれあり。

『リアル~完全なる首長竜の日~』 主演の佐藤健と綾瀬はるか

 実際に『リアル~完全なる首長竜の日~』を観ると、これはメジャー系の作品などではなく、まぎれもない黒沢清の映画になっている。ただ一応はテレビ局などが製作陣に加わっていることもあるからか、宣伝は昏睡状態の伴侶を助ける物語を前面に出しているし、ラストでは首長竜が登場して『ジュラシック・パーク』的スペクタクルの真似事をしてみたりする。
 こんなとってつけたみたいなラストは、製作陣を納得させるための黒沢清のアリバイ工作にも思える。金を出した製作陣の望む映画と、監督の望む映画が分離しているような印象なのだ。もしかすると製作陣をうまく騙して、黒沢清が勝手なホラー映画にしてしまっているのかもしれないが……。
 黒沢清らしいのは前半部分。(*2)現実と非現実(意識下の世界)があいまいになっていき、漫画家である淳美の描く世界が現象化する展開は、監督のやりたい放題のホラー映画として楽しめる。黒沢清は『アカルイミライ』『トウキョウソナタ』みたいな作品もあるが、『地獄の警備員』『回路』『叫』などのホラー映画の監督でもあるのだ。

『リアル~完全なる首長竜の日~』 中谷美紀は研究所の医者なのだが…

 『リアル』と題されたこの映画がまったくリアルでないのは、現実そのものがリアルでないからなのかもしれない。『マトリックス』でも描かれているように、そうした認識はごく一般的に共有されているとも言える。現実は、機械につながれて生かされているゾンビたちの見る夢に過ぎず、夢見ている当人もそれに気がつかない。だから登場人物たちがあまりに生気を欠き、役者たちが感情のこもってない平板な演技だとしてもそれは当然のことだろう。
 実際に、映画中盤でそれまでの現実と非現実的世界という構図はひっくり返される。それまで現実だと思っていたすべてが、浩市の意識下の世界だったことになる。どちらにしてもこの映画のなかでは現実も非現実的世界も似たようなものであり、確固たる現実など存在しないようだ。だから最後に一応ハッピーエンドらしきものがあるにはあるが、それが真の現実だとは言えないのかもしれない。浩市は最後に目を覚ますが、映画はそれで終わってしまう。安堵の笑みを見せるのでもなく、ただ目が開いただけなのだ。その浩市が意識のない、人の抜けがらである“フィロソィカル・ゾンビ”である可能性も捨てきれない。
 “フィロソィカル・ゾンビ”とは、現実が非現実的な夢のように思えるのと同じく、他人が本当の人間ではなく、意識のない人の抜けがら(ゾンビ)と思えるということだ。(*3)そうした見方は、研究所の中谷美紀のあやしさに始めから露呈されていたと言ってもいいかもしれない。“親身な医者”というキャラクターを、ロボットが演じてでもいるかのような不気味さが中谷美紀にはあるからだ。だから途中でそれが“フィロソィカル・ゾンビ”だったと知ってかえって安心させられるわけだ。
 しかし中谷美紀の存在は、淳美(綾瀬)が生きるとりあえずの現実の世界でもあやしい。中谷が現実の世界でにっこりと笑うシーンでは、なぜか密閉された空間である研究所に風が巻き起こり中谷の髪をなびかせる。このあたりは『叫』での葉月里緒奈演じる幽霊が近づいてくる場面を思わせ、中谷が現実的な存在なのか疑ってしまう。そんな映画だから、ラストの浩市の存在もあやしいものに思えてくるのだ。黒沢清は一応ハッピーエンドみたいなものを見せたけれど、それを素直に受け取っていいものだろうか。

(*1) 原作『完全なる首長竜の日』は未読なのだが、映画では恋人らしく見えないふたりは、原作では兄妹の関係なんだとか。映画化に際してかなりの脚色が施されているようだ。

(*2) ほかにもあまり意味のない廃墟シーンも黒沢清らしいかもしれない。車での移動シーンが異世界を走っているようなのもいつもの黒沢清。

(*3) こうした問題は哲学者の永井均の本に詳しい。『マンガは哲学する』のなかでは、諸星大二郎の漫画「夢見る機械」を題材にし、「夢の懐疑とロボットの懐疑」について論じている。ここでのロボットとは『リアル』での“フィロソィカル・ゾンビ”のようなものである。


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黒沢清の作品
Date: 2013.06.03 Category: 日本映画 Comments (2) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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