映画『横道世之介』 “普通の人”と“『YES』って言ってるような人”
『南極料理人』『キツツキと雨』の沖田修一監督作品。

冒頭、大きな荷物を抱えた若者が新宿駅東口から出てくる。これが横道世之介である。都会の雰囲気のもの珍しさも手伝って、駅前のイベントスペースでアイドルの歌を堪能する。それから電車を乗り換え、大学生活のための新居に向かう。電車のなかではさっきのアイドルの鼻歌が出てくるほど上機嫌。都心からは離れ、隣に畑が広がる新居に着いて、何もない部屋に寝転がってみる。そして希望に満ちた新生活に想いを馳せる。そんな田舎から出てきた若者の多くが、実際に経験したであろう風景をゆったりとしたリズムで描写していく。
『横道世之介』で描かれるのは世之介の大学生活1年間であり、特別なことは何も起こらない。さまざまな人との出会いがあり、ごく普通の日常があるだけ。交わされる会話も何かを説明するようなものではなく、ほとんど意味のないやりとりばかりであり、それがうまくかみ合ってない様子もちょっとおかしい。
のんきで楽しい青春ものでありつつ、世之介のその後が知らされてからはちょっと切ない。160分の長尺だから観る前には尻込みしても、観始めてしまえば、いつの間にかその世界に入り込んで、いつまでも浸っていたいような気持ちにさせる作品だ。
以下、ネタばれあり。

多分、この映画は原作小説を読む前に観ていたならば、感想も違ってくるようにも思える(原作小説についての感想はこちら)。必ずしも映画と原作を並べて論じなくてもいいのだけれど、いまさら原作をなかったものとして映画を観ることもできないので、以下、原作と映画の違いについて記したい(ほぼ原作に忠実に映画化されているのだが)。
原作者の吉田修一は、公式ホームページにこんなコメントを寄せている。
この言葉は、みんなで海水浴とか、サンバのお祭り騒ぎとか、ふたりでのつつましいクリスマスなんかも、実際にはなかなか得難い青春の一場面だということだろう。しかし、それよりも作者がなぜ“普通”というキーワードで映画『横道世之介』を語っているかが重要だ。それは映画のなかの台詞が直接的に関わってくることだと思う。
映画版の祥子は、世之介を評して“普通の人”だと語る(脚本は前田司郎と監督の沖田修一が担当)。(*1)一方で原作のほうはどうか? “立派な人”ではないとは言っているが、“普通の人”とは言わない。その代わりにこんなふうに評する。
ここが映画と原作では大きな違いになっているのだと思う。“普通の人”と“『YES』って言ってるような人”。
原作を単純化して整理すれば、難民の子供を助けたエピソードがひとつのきっかけになる。祥子とともに世之介も自らの無力さを知る。世之介と同じように“真っ直ぐ”な祥子は、紆余曲折はあってもそれをきっかけに難民を助ける仕事を選ぶようになる。また世之介も、他人の窮地をただ見ているだけで諦めてしまうことはできない、そんな心を養う(世之介は後に線路に落ちた人を助けようとして死ぬ)。(*2)
ラストは映画でも原作でも、世之介の母親が祥子に宛てた手紙についてだ。ここでは原作のみ、事故についての母親の想いが語られている。
映画では、この箇所がない。自分を犠牲にして他人を助けようとしたという部分は強調されずに、事故に巻き込まれ若くして亡くなったという程度に処理されている。原作の横道世之介もごく普通の若者ではあるのだけど、その名前に似合わず“真っ直ぐ”な心が特に強調されている。世之介が最期に見せたような態度は、なかなか“普通の人”が発揮できるものではない。ただの“普通の人”は助けたいとは思ってもなかなか行動には移せないだろう。
映画では、世之介の最期は、登場人物の千春が読むニュースとして触れられるだけだ。事故に関して過剰な意味を持たせるのを避けているのだ。その分、“普通の人”であった世之介はわれわれにより近い存在になる。映画は“普通の人”世之介を懐かしむ、ノスタルジックな印象を残して終わる。(*3)
一方、原作では単なる“普通”ではなく、何ごとにも“『YES』って言ってるような人”であり、すべてを肯定的に捉えることができるという、何ごとにも代えがたい美点が強調され、そんな世之介の人生そのものを母親や祥子は肯定的に見出している。学生時代の想い出だけでなく、世之介の何ごとにも『YES』と言えるような存在が称揚されている。
もちろん原作の世之介が“普通の人”でないわけではない(つまり“普通”ってこと)のだけれど、“普通”にも一定の幅があり、濃淡があり、ピンキリがある。世之介は“普通の人”とは言え、ピンのほうに属するだろう。原作者が「普通っていうのは実はレベルが高い」と言っているのも、このあたりに関係しているのかもしれない。
映画と原作のどちらもいいのだが、やはり先に慣れ親しんだという意味で、とりあえず原作に思い入れがある。とは言うものの、映画版も捨てがたい。それは高良健吾の世之介と吉高由里子の祥子には、原作とは一味違っても、また会いたいと思わせる魅力があるからだ。
(*1) 前田司郎が書いた戯曲を映画化した『生きてるものはいないのか』(監督:石井岳龍)では、意味もわからず死んでゆく人間が描かれていた。ただただ多くの人の“死に方”が提示されていく。不条理劇などと言われている作品であり、何らかの意味に回収されるのを拒むような内容だ。
(*2) 新大久保駅乗客転落事故が世之介の最期のモデルになっている。
(*3) 後に祥子に贈られることになる写真を撮りながら通りを行く世之介を追って行くラストシーンは、そこに息子を悼む手紙を読む母親の声が合わせられる。それでも過度に泣かせようとせずに意外にあっさりしているのがいい。
沖田修一の作品


冒頭、大きな荷物を抱えた若者が新宿駅東口から出てくる。これが横道世之介である。都会の雰囲気のもの珍しさも手伝って、駅前のイベントスペースでアイドルの歌を堪能する。それから電車を乗り換え、大学生活のための新居に向かう。電車のなかではさっきのアイドルの鼻歌が出てくるほど上機嫌。都心からは離れ、隣に畑が広がる新居に着いて、何もない部屋に寝転がってみる。そして希望に満ちた新生活に想いを馳せる。そんな田舎から出てきた若者の多くが、実際に経験したであろう風景をゆったりとしたリズムで描写していく。
『横道世之介』で描かれるのは世之介の大学生活1年間であり、特別なことは何も起こらない。さまざまな人との出会いがあり、ごく普通の日常があるだけ。交わされる会話も何かを説明するようなものではなく、ほとんど意味のないやりとりばかりであり、それがうまくかみ合ってない様子もちょっとおかしい。
のんきで楽しい青春ものでありつつ、世之介のその後が知らされてからはちょっと切ない。160分の長尺だから観る前には尻込みしても、観始めてしまえば、いつの間にかその世界に入り込んで、いつまでも浸っていたいような気持ちにさせる作品だ。
以下、ネタばれあり。

多分、この映画は原作小説を読む前に観ていたならば、感想も違ってくるようにも思える(原作小説についての感想はこちら)。必ずしも映画と原作を並べて論じなくてもいいのだけれど、いまさら原作をなかったものとして映画を観ることもできないので、以下、原作と映画の違いについて記したい(ほぼ原作に忠実に映画化されているのだが)。
原作者の吉田修一は、公式ホームページにこんなコメントを寄せている。
世之介は「普通の学生」というのをキーワードに語られることが多いのですが、普通っていうのは実はレベルが高いんだなと映画をみて感じました。世之介が普通だとすると、自分も含めこんな幸福な学生生活を送った人はそんなにいないんだろうな、と。
この言葉は、みんなで海水浴とか、サンバのお祭り騒ぎとか、ふたりでのつつましいクリスマスなんかも、実際にはなかなか得難い青春の一場面だということだろう。しかし、それよりも作者がなぜ“普通”というキーワードで映画『横道世之介』を語っているかが重要だ。それは映画のなかの台詞が直接的に関わってくることだと思う。
映画版の祥子は、世之介を評して“普通の人”だと語る(脚本は前田司郎と監督の沖田修一が担当)。(*1)一方で原作のほうはどうか? “立派な人”ではないとは言っているが、“普通の人”とは言わない。その代わりにこんなふうに評する。
「いろんなことに、『YES』って言ってるような人だった」「もちろん、そのせいでいっぱい失敗するんだけど、それでも『NO』じゃなくて、『YES』って言ってるような人」 (p374)
ここが映画と原作では大きな違いになっているのだと思う。“普通の人”と“『YES』って言ってるような人”。
原作を単純化して整理すれば、難民の子供を助けたエピソードがひとつのきっかけになる。祥子とともに世之介も自らの無力さを知る。世之介と同じように“真っ直ぐ”な祥子は、紆余曲折はあってもそれをきっかけに難民を助ける仕事を選ぶようになる。また世之介も、他人の窮地をただ見ているだけで諦めてしまうことはできない、そんな心を養う(世之介は後に線路に落ちた人を助けようとして死ぬ)。(*2)
ラストは映画でも原作でも、世之介の母親が祥子に宛てた手紙についてだ。ここでは原作のみ、事故についての母親の想いが語られている。
未だに事故のことをよく想像してしまいます。どうして助けられるはずもないのに、あの子は線路なんかに飛び込んだんだろうかって。
でも、最近こんな風にも思うようになったのよ。あの子はきっと助けられると思ったんだろうなって。「ダメだ、助けられない」ではなくて、その瞬間、「大丈夫、助けられる」と思ったんだろうって。そして、そう思えた世之介を、おばさんはとても誇りに思うんです。 (p423)
映画では、この箇所がない。自分を犠牲にして他人を助けようとしたという部分は強調されずに、事故に巻き込まれ若くして亡くなったという程度に処理されている。原作の横道世之介もごく普通の若者ではあるのだけど、その名前に似合わず“真っ直ぐ”な心が特に強調されている。世之介が最期に見せたような態度は、なかなか“普通の人”が発揮できるものではない。ただの“普通の人”は助けたいとは思ってもなかなか行動には移せないだろう。
映画では、世之介の最期は、登場人物の千春が読むニュースとして触れられるだけだ。事故に関して過剰な意味を持たせるのを避けているのだ。その分、“普通の人”であった世之介はわれわれにより近い存在になる。映画は“普通の人”世之介を懐かしむ、ノスタルジックな印象を残して終わる。(*3)
一方、原作では単なる“普通”ではなく、何ごとにも“『YES』って言ってるような人”であり、すべてを肯定的に捉えることができるという、何ごとにも代えがたい美点が強調され、そんな世之介の人生そのものを母親や祥子は肯定的に見出している。学生時代の想い出だけでなく、世之介の何ごとにも『YES』と言えるような存在が称揚されている。
もちろん原作の世之介が“普通の人”でないわけではない(つまり“普通”ってこと)のだけれど、“普通”にも一定の幅があり、濃淡があり、ピンキリがある。世之介は“普通の人”とは言え、ピンのほうに属するだろう。原作者が「普通っていうのは実はレベルが高い」と言っているのも、このあたりに関係しているのかもしれない。
映画と原作のどちらもいいのだが、やはり先に慣れ親しんだという意味で、とりあえず原作に思い入れがある。とは言うものの、映画版も捨てがたい。それは高良健吾の世之介と吉高由里子の祥子には、原作とは一味違っても、また会いたいと思わせる魅力があるからだ。
(*1) 前田司郎が書いた戯曲を映画化した『生きてるものはいないのか』(監督:石井岳龍)では、意味もわからず死んでゆく人間が描かれていた。ただただ多くの人の“死に方”が提示されていく。不条理劇などと言われている作品であり、何らかの意味に回収されるのを拒むような内容だ。
(*2) 新大久保駅乗客転落事故が世之介の最期のモデルになっている。
(*3) 後に祥子に贈られることになる写真を撮りながら通りを行く世之介を追って行くラストシーンは、そこに息子を悼む手紙を読む母親の声が合わせられる。それでも過度に泣かせようとせずに意外にあっさりしているのがいい。
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