『海を駆ける』 海からやってきた男は何者?
『淵に立つ』『さようなら』などの深田晃司監督の最新作。
インドネシアを舞台にした作品であり、重要な役柄を演じるディーン・フジオカは奥様がインドネシア系ということでインドネシア語も披露しているのだが、太賀や鶴田真由もインドネシア語の台詞をこなしている。特に太賀の台詞は流暢で、風貌までインドネシア風に見えた。

海からやってきた男は何者なのか。
とりあえずは「ラウ(海)」と名付けられることになった男は、記憶喪失なのか自分の名前すらわからない。たまたま日本語に反応したことから日本人である貴子(鶴田真由)に白羽の矢が立ち、貴子の家の居候としてしばらく暮らすことになる。
作品の発端に登場するラウだが、その物語の中心に位置することはない。存在感を消し、周りを邪魔することもなく、人のよさそうな笑みを浮かべているだけなのだ。中心となるのは若者たちの青春だろうか。
父親の遺骨を海に撒くために日本からやってきたサチコ(阿部純子)。そんなサチコのことが気にかかるクリス(アディパティ・ドルケン)は、彼女と仲良くなろうと必死。クリスの幼なじみであるイルマ(セカール・サリ)は、2004年の津波によって家族も家も失い、今はジャーナリストとして活動することを目指して勉強中。貴子の息子であるタカシ(太賀)は、イルマのことが気になっているらしい。
ちょっと変わっているのは、4人の人種や宗教が様々だということ。サチコは日本人だし、タカシは日本とインドネシアのハーフ、ほかのふたりはインドネシア人。さらにイルマはイスラム教徒だが、クリスは違うらしい。そんな4人だけに色々と食い違いも生じる。クリスは日本人のサチコに告白するために、友人であるタカシに相談するのだが、インドネシアでの暮らしが長く、日本の事情に疎いタカシはクリスに変な言葉を教えることになる。
「月が綺麗ですね」というのがその台詞。これは夏目漱石が「I love you」の日本語訳としたと言われているもの。シャイな日本人がはっきりと告白をするわけがなく、言うことに困ってそんな言葉をつぶやいてしまうということはあり得るだろう。ただ、文化が違う人との間ではそもそもの前提が共有されていないわけで、クリスの想いは通じることがない。月も出ていない晩にそんなことを言われたサチコは、意味がわからぬままクリスの告白をやり過ごすことに……。

若者たちのコミカルなやりとりの傍らでラウは何をしているのかと言えば、基本は空気のように佇んでいる。『淵に立つ』では、浅野忠信演じる男が消えたあともその存在感に作品が支配されていくようであったのと対照的だ。『海を駆ける』のラウは不思議な男ではあるけれど、目立つ存在ではないのだ。
ラウは気が向くと死に掛けの魚を生き返らせてみたり、道端で倒れていた女の子に空中から水を取り出して飲ませてやったりもする。最後には海の上を駆けていくという場面もあって、それらの力は奇跡のようにも思える。
そんなラウのことを「津波の被害者の魂」だと見る人もいた。しかし一方では、ラウは突然貴子の命を奪ったりもし、子供たちを水のなかに誘い込んで溺れさせたりもしたとも噂される。奇跡を行う一方で、見境なく命を奪いもする。それはまさに神ということなのかもしれない(神の御心は測り知れない)し、「ラウ」の呼び名のままに海の擬人化と捉えることもできるだろう。ラウが空気のように目立たないのは、自然そのものであるからなのだろう。
不思議な作品ではあるのだが、やや食い足りなさも残る。作品の最初と最後をやさしく包み込むようだったディーン・フジオカ演じるラウ。人に害をなす悪いディーン・フジオカの姿が見られれば、さらに良かったのかもしれないとも思う。とは言うもののラウという役柄は、人助けと同じような笑みのまま、人に害をももたらすのだろう。神のことは知らないけれど、自然は何かの意図をもって人に恩恵を与えたり、生命を奪ってみたりするわけではないわけだから……。




インドネシアを舞台にした作品であり、重要な役柄を演じるディーン・フジオカは奥様がインドネシア系ということでインドネシア語も披露しているのだが、太賀や鶴田真由もインドネシア語の台詞をこなしている。特に太賀の台詞は流暢で、風貌までインドネシア風に見えた。

海からやってきた男は何者なのか。
とりあえずは「ラウ(海)」と名付けられることになった男は、記憶喪失なのか自分の名前すらわからない。たまたま日本語に反応したことから日本人である貴子(鶴田真由)に白羽の矢が立ち、貴子の家の居候としてしばらく暮らすことになる。
作品の発端に登場するラウだが、その物語の中心に位置することはない。存在感を消し、周りを邪魔することもなく、人のよさそうな笑みを浮かべているだけなのだ。中心となるのは若者たちの青春だろうか。
父親の遺骨を海に撒くために日本からやってきたサチコ(阿部純子)。そんなサチコのことが気にかかるクリス(アディパティ・ドルケン)は、彼女と仲良くなろうと必死。クリスの幼なじみであるイルマ(セカール・サリ)は、2004年の津波によって家族も家も失い、今はジャーナリストとして活動することを目指して勉強中。貴子の息子であるタカシ(太賀)は、イルマのことが気になっているらしい。
ちょっと変わっているのは、4人の人種や宗教が様々だということ。サチコは日本人だし、タカシは日本とインドネシアのハーフ、ほかのふたりはインドネシア人。さらにイルマはイスラム教徒だが、クリスは違うらしい。そんな4人だけに色々と食い違いも生じる。クリスは日本人のサチコに告白するために、友人であるタカシに相談するのだが、インドネシアでの暮らしが長く、日本の事情に疎いタカシはクリスに変な言葉を教えることになる。
「月が綺麗ですね」というのがその台詞。これは夏目漱石が「I love you」の日本語訳としたと言われているもの。シャイな日本人がはっきりと告白をするわけがなく、言うことに困ってそんな言葉をつぶやいてしまうということはあり得るだろう。ただ、文化が違う人との間ではそもそもの前提が共有されていないわけで、クリスの想いは通じることがない。月も出ていない晩にそんなことを言われたサチコは、意味がわからぬままクリスの告白をやり過ごすことに……。

若者たちのコミカルなやりとりの傍らでラウは何をしているのかと言えば、基本は空気のように佇んでいる。『淵に立つ』では、浅野忠信演じる男が消えたあともその存在感に作品が支配されていくようであったのと対照的だ。『海を駆ける』のラウは不思議な男ではあるけれど、目立つ存在ではないのだ。
ラウは気が向くと死に掛けの魚を生き返らせてみたり、道端で倒れていた女の子に空中から水を取り出して飲ませてやったりもする。最後には海の上を駆けていくという場面もあって、それらの力は奇跡のようにも思える。
そんなラウのことを「津波の被害者の魂」だと見る人もいた。しかし一方では、ラウは突然貴子の命を奪ったりもし、子供たちを水のなかに誘い込んで溺れさせたりもしたとも噂される。奇跡を行う一方で、見境なく命を奪いもする。それはまさに神ということなのかもしれない(神の御心は測り知れない)し、「ラウ」の呼び名のままに海の擬人化と捉えることもできるだろう。ラウが空気のように目立たないのは、自然そのものであるからなのだろう。
不思議な作品ではあるのだが、やや食い足りなさも残る。作品の最初と最後をやさしく包み込むようだったディーン・フジオカ演じるラウ。人に害をなす悪いディーン・フジオカの姿が見られれば、さらに良かったのかもしれないとも思う。とは言うもののラウという役柄は、人助けと同じような笑みのまま、人に害をももたらすのだろう。神のことは知らないけれど、自然は何かの意図をもって人に恩恵を与えたり、生命を奪ってみたりするわけではないわけだから……。
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