芦田愛菜ちゃんの主演作 『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』 子供から見た世の中
『世界の中心で、愛をさけぶ』『春の雪』『つやのよる』の行定勲の最新作。
テレビなどでも人気者の芦田愛菜ちゃんの主演作。先日、『告白』を観直してちょっと驚いたのだけれど、芦田愛菜ちゃんは中島哲也『告白』にも出演していて、主役の松たか子の娘役という重要な役どころだった。まだ小学生なのに、こんな出演履歴があるとは……。
行定勲監督はこの映画の製作に当たって、小津安二郎『生まれてはみたけれど』『お早う』や相米慎二『お引越し』などの子供映画を意識していたとのこと。これらの映画はもちろん名作だけれど、『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』もなかなか健闘してると思う。『円卓』は、より子供の視点が強調されていて、大人になって忘れてしまったかもしれない感覚を思い出させてくれる映画になっている。

担任の先生(丸山隆平)は、こっこ(芦田愛菜)が校庭の片隅で寝転がって顔にうさぎを乗せているのを見て、「子供の考えることはわからん」みたいなことを口走るのだけれど、そんな先生だって元は子供だったはずで、彼自身もそれほど成熟しているようにも見えないのだけれど、それでも子供のころの感覚はまったく忘れてしまっている。『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』は、そんな忘れてしまった子供の目線から見た世の中が描かれている。
こっこには6つの目がある。そのうち4つは髪をツインテールにするための髪留めについた飾りだが、これは世の中のことを漏れなく見てやろうという意欲の表れだ。こっこは珍しいもの・新しいものに興味津々で、新奇なるもの=カッコイイであり、こっこにとって世の中は発見と驚きに満ち溢れたところなのだ。
たとえば「ものもらい」という病気は、眼帯という見慣れない装いを伴うためにカッコイイのだ。また、「ものもらい」が別の言い方では「めばちこ」となったり、「ばくりゅうしゅ」となったりするというのも初めて知ることだし、こっこはそんな発見を誰にも見せることのないジャポニカ学習帳に書き留めて大切にしている。その最初のページに書かれているのが「こどく」という言葉で、父母と祖父祖母、姉は3つ子という賑やかなこっこの家庭では感じたことのないカッコイイものなのだ。
一方でこっこはカッコイイことを純粋に大事にするあまり、ちょっと困ったところもある。「ものもらい」がカッコイイから真似して眼帯をするくらいなら可愛らしいのだが、クラスメイトが不整脈で倒れたのも同じように扱うとなると話が違ってくる。こっことしては、初めて聞く病気や卒倒といった事態がカッコイイと感じられたわけだけれど、そんなことを真似されるのは傍迷惑なわけで、周囲からは「ウザハラ」(本名は渦原)と呼ばれるし、心配した先生からは嘘をたしなめられることになる。
こっこにはそんなことを真似してはいけないということがまだわからないのだ。吃音を真似してみたり、在日朝鮮人の存在もわけもわからずカッコイイと騒ぎ立てるのだが、そこに悪意はない。ただ純粋にカッコイイと思っているだけなのだが、傍から見ればこっこはKY(空気読めない)のときがあるのだ。
それでもこっこの周りには色々なことを学んでいくのに十二分な環境がある。意図せずしてクラスメイトを傷つけてしまっても、それについて相談するぽっさん(伊藤秀優)という親友がいるし、いつも円卓を囲んで食事をするような家族にも恵まれている。だからKYにならないような分別というものも、次第に学んでいくことになるだろう。こっこの祖父(平幹二朗)はあるヒントを出してくれる。それは「イマジン」という言葉だ。相手の立場になって想像することができるようになれば、こっこは少しだけ大人に近づくのだろう。

夏休みの暑い暑い昼下がり、こっこは奇妙な男(森山開次)に遭遇する。銀鼠色に輝くボディスーツを着た男が身体をくねらせながら現れたかと思うと、「ご尊顔を踏んでくれはるのん」と意味不明な言葉を発しつつ近づいてくるのだ。「うっさい、ボケ!」というのが口癖のこっこでも、これにはさすがに驚きは隠せなかったが、一応その奇妙な出来事に付き合うことになる。(*1)
こっこは変質者の立場になってイマジンしてみる。こっこにとって彼は珍しい存在ではあっても、カッコイイというよりは不気味だったに違いないはずだが、「変質者」という分類を知らないこっこは、彼の行動の意味をこっこなりにイマジンしてみるわけだ。こっこはとりあえず世話をしている学校のウサギを顔に乗せてみる。先生が出くわしたこっこの奇妙な行動は、そうした意味ある行動だったのだ。こっこがそれで快感を得たとは思えないが、世の中には様々な人がいるということを学ぶためのいい機会にはなっただろう。そんなイマジンの練習が、不登校がちなクラスメイトへの助け舟となり、こっこ自身の成長につながる。そんなラストのメッセージもきわめて真っ当なものだと思う。
芦田愛菜ちゃんをはじめとする子供たちは、自然というよりは演技過剰な部分もあるが、これは意図的なものだろう。常に先生に媚を売る女の子も登場するが、周囲の目を気にしない子供ってそんなわざとらしいところもあったような気がする。騒がしい関西風のノリも楽しい。
(*1) 変質者と小学生というかなりきわどい設定。うだるような夏の陽射しに朦朧とした頭が描いた妄想のようにも見えるが、後にしっかり現実として回収している。最後の鹿の登場も幻想的ではあるが、これも動物園からの脱走という現実であり、子供にとっては現実世界も奇妙な世界として現れているのかもしれない。
行定勲監督の作品

テレビなどでも人気者の芦田愛菜ちゃんの主演作。先日、『告白』を観直してちょっと驚いたのだけれど、芦田愛菜ちゃんは中島哲也『告白』にも出演していて、主役の松たか子の娘役という重要な役どころだった。まだ小学生なのに、こんな出演履歴があるとは……。
行定勲監督はこの映画の製作に当たって、小津安二郎『生まれてはみたけれど』『お早う』や相米慎二『お引越し』などの子供映画を意識していたとのこと。これらの映画はもちろん名作だけれど、『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』もなかなか健闘してると思う。『円卓』は、より子供の視点が強調されていて、大人になって忘れてしまったかもしれない感覚を思い出させてくれる映画になっている。

担任の先生(丸山隆平)は、こっこ(芦田愛菜)が校庭の片隅で寝転がって顔にうさぎを乗せているのを見て、「子供の考えることはわからん」みたいなことを口走るのだけれど、そんな先生だって元は子供だったはずで、彼自身もそれほど成熟しているようにも見えないのだけれど、それでも子供のころの感覚はまったく忘れてしまっている。『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』は、そんな忘れてしまった子供の目線から見た世の中が描かれている。
こっこには6つの目がある。そのうち4つは髪をツインテールにするための髪留めについた飾りだが、これは世の中のことを漏れなく見てやろうという意欲の表れだ。こっこは珍しいもの・新しいものに興味津々で、新奇なるもの=カッコイイであり、こっこにとって世の中は発見と驚きに満ち溢れたところなのだ。
たとえば「ものもらい」という病気は、眼帯という見慣れない装いを伴うためにカッコイイのだ。また、「ものもらい」が別の言い方では「めばちこ」となったり、「ばくりゅうしゅ」となったりするというのも初めて知ることだし、こっこはそんな発見を誰にも見せることのないジャポニカ学習帳に書き留めて大切にしている。その最初のページに書かれているのが「こどく」という言葉で、父母と祖父祖母、姉は3つ子という賑やかなこっこの家庭では感じたことのないカッコイイものなのだ。
一方でこっこはカッコイイことを純粋に大事にするあまり、ちょっと困ったところもある。「ものもらい」がカッコイイから真似して眼帯をするくらいなら可愛らしいのだが、クラスメイトが不整脈で倒れたのも同じように扱うとなると話が違ってくる。こっことしては、初めて聞く病気や卒倒といった事態がカッコイイと感じられたわけだけれど、そんなことを真似されるのは傍迷惑なわけで、周囲からは「ウザハラ」(本名は渦原)と呼ばれるし、心配した先生からは嘘をたしなめられることになる。
こっこにはそんなことを真似してはいけないということがまだわからないのだ。吃音を真似してみたり、在日朝鮮人の存在もわけもわからずカッコイイと騒ぎ立てるのだが、そこに悪意はない。ただ純粋にカッコイイと思っているだけなのだが、傍から見ればこっこはKY(空気読めない)のときがあるのだ。
それでもこっこの周りには色々なことを学んでいくのに十二分な環境がある。意図せずしてクラスメイトを傷つけてしまっても、それについて相談するぽっさん(伊藤秀優)という親友がいるし、いつも円卓を囲んで食事をするような家族にも恵まれている。だからKYにならないような分別というものも、次第に学んでいくことになるだろう。こっこの祖父(平幹二朗)はあるヒントを出してくれる。それは「イマジン」という言葉だ。相手の立場になって想像することができるようになれば、こっこは少しだけ大人に近づくのだろう。

夏休みの暑い暑い昼下がり、こっこは奇妙な男(森山開次)に遭遇する。銀鼠色に輝くボディスーツを着た男が身体をくねらせながら現れたかと思うと、「ご尊顔を踏んでくれはるのん」と意味不明な言葉を発しつつ近づいてくるのだ。「うっさい、ボケ!」というのが口癖のこっこでも、これにはさすがに驚きは隠せなかったが、一応その奇妙な出来事に付き合うことになる。(*1)
こっこは変質者の立場になってイマジンしてみる。こっこにとって彼は珍しい存在ではあっても、カッコイイというよりは不気味だったに違いないはずだが、「変質者」という分類を知らないこっこは、彼の行動の意味をこっこなりにイマジンしてみるわけだ。こっこはとりあえず世話をしている学校のウサギを顔に乗せてみる。先生が出くわしたこっこの奇妙な行動は、そうした意味ある行動だったのだ。こっこがそれで快感を得たとは思えないが、世の中には様々な人がいるということを学ぶためのいい機会にはなっただろう。そんなイマジンの練習が、不登校がちなクラスメイトへの助け舟となり、こっこ自身の成長につながる。そんなラストのメッセージもきわめて真っ当なものだと思う。
芦田愛菜ちゃんをはじめとする子供たちは、自然というよりは演技過剰な部分もあるが、これは意図的なものだろう。常に先生に媚を売る女の子も登場するが、周囲の目を気にしない子供ってそんなわざとらしいところもあったような気がする。騒がしい関西風のノリも楽しい。
(*1) 変質者と小学生というかなりきわどい設定。うだるような夏の陽射しに朦朧とした頭が描いた妄想のようにも見えるが、後にしっかり現実として回収している。最後の鹿の登場も幻想的ではあるが、これも動物園からの脱走という現実であり、子供にとっては現実世界も奇妙な世界として現れているのかもしれない。
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