『バンコク・ナイツ』 「ここではないどこか」についてのあれこれ
「空族(クゾク)」という映像作家集団の最新作。
監督・脚本・主演には富田克也。共同脚本には相澤虎之助。

バンコクの歓楽街タニヤ通りに集う娼婦や、祖国を逃げ出してそこに居ついている日本人などを描く群像劇。中心となるのはラック(スベンジャ・ポンコン)という娼婦と、彼女の昔の恋人オザワ(富田克也)との関係になるけれど、物語はあってないようなもの。3時間を越える上映時間には、妖しげなネオン街、ひな壇に並ぶ娼婦たち、イサーン地方の美しい風景、共産ゲリラの幻影、さらにはタイ独特な音楽などのあれやこれやがまとめて詰め込まれている。
日本人がタニヤ通りに集まるのは、ひとつには女目的ということになるわけだけれど、沈没組などと呼ばれる人たちもいて日本に居られなくなった人たちもいる。そこで日本人観光客のガイドをしてみたり、タイ人娼婦のヒモになったり、日本人をカモしたあやしげな商売を企てたりしながら生きている。主人公のオザワ自身も「日本に俺のいるとこなんてねえもん。エコノミック・ダウン。メルト・ダウン。エブリシング・ダウン」と語るように、日本を逃げ出してきたひとりということになる。
一方でタイ人の女の子がタニヤ通りにやってくるのは、故郷の家族たちを食べさせるためだ。彼女たちの多くはタイ北部のイサーン地方から出稼ぎに来ていて、彼女たちの稼いだ金で田舎の家族たちは生計を立てている。

私が空族の映画を観たのは今回が初めて。彼らの作品はゆるやかな関わりを持つ「空族サーガ」を形成しているらしい。今回は『バンコク・ナイツ』のほかに『国道20号線』(2006年)『サウダーヂ』(2011年)短編『チェンライの娘』(2012年)を観ることができた。ちなみに空族の作品はDVD化もされないらしい(吉本興業の資本が入っている『チェンライの娘』は例外的にDVD化されている)。
『国道20号線』の主人公がいる世界は、パチンコ屋と郊外型ショッピングセンターと消費者金融のATMばかりのロードサイド。どこにも行けそうにない場所で、主人公はシンナーによる幻影のなかに「ここではないどこか」を見る。『サウダーヂ』の地方都市・甲府は、バブル崩壊後の不景気で商店街はシャッター通りと化し、土方の主人公は仕事もなくなりタイ人の女の子と日本を逃げ出すことばかりを考えている。そうした感覚において『バンコク・ナイツ』は過去の作品と関わりを持ってくることになる。
『バンコク・ナイツ』では冒頭でラックの「Bangkok shit」という台詞で始まるわけで、ラックはバンコクをクソだと思っている。どうしてクソなのかと言えば、金のためとはいえ日本人のエロジジイたちのお相手をしなければならないからだろう。そんなふうに今いるところが気に入らないという気持ちが「ここではないどこか」へと結びついていくことになるわけだけれど、それを求めて向かった先にあるのが楽園となるとは限らない。
たとえば『サウダーヂ』では、一度東京へ出てから地元の甲府へとUターンしてきたまひるという登場人物は、東京への憧れを語る友達に対して「Tokyo shit」と言い放つ。田舎が気に入らなくて東京へと出たはずのまひるは、「ここではないどこか」を求めていたはずが結局は東京もクソだと知ることになる。
そうしたことは『サウダーヂ』のブラジル移民たちにも言えて、日本に行けば稼げると思っていたのに、来てみれば不況と言葉の問題で仕事もなく居場所もない。そんな彼らが「ここではないどこか」を逆に故郷へと求めること(=郷愁)も理解しやすい道筋だろう。
ちなみにブラジル移民たちが住んでいるのは山王団地という場所で、この団地は登場人物のひとりである猛の想い出の場所でもある。ブラジル移民にとっては幻滅した場所だったかもしれないのに、猛にとっては外国人に占拠されたような団地こそが「ここではないどこか」を指すものとなっている。また、ここでは「サウダーヂ」と「サンノウダンチ」が混同されるのだが、ブラジル人と日本人とで話が通じているようでいて実はまったく違う「ここではないどこか」を考えているようでもある。
こんなふうに空族の作品では「ここではないどこか」というものが追求されていく。『国道20号線』や『サウダーヂ』の主人公は未だ日本のなかに留まっていて、ドラッグや過去の幻影という「ここではないどこか」に逃げ込んでいたとも言えるわけだけれど、今回の『バンコク・ナイツ』では日本を飛び出して実際にバンコクへと渡ることになる。

◆バンコクは楽園となったのか?
オザワはラックと共に彼女の故郷であるイサーン地方へと渡り、その後、自衛隊時代の上司の頼みもあってラオスまで渡っていく。イサーン地方は昔のままの風景が残っている場所で、オザワも現実の日本の故郷とは別の「故郷の原風景」のようなものを感じたのかもしれない。オザワはラックの故郷に留まるのかとも思えたのだが、結局ふたりは別れることになり、オザワはバンコクへと帰ることになる。つまりはイサーン地方もバンコクもオザワにとっては楽園とはならなかったようだ。
ちょっと唐突な感じもあるふたりの別れには、夢見がちな男と現実的な女という対立よりも、オザワが外国人であったということ大きかったのかもしれない。同じ日本人でも金城(川瀬陽太)のように為替レートの差をいいことに、女の子と羽目を外すことばかりが目的の男には、オザワは軽蔑の目を向けている。それは訪れた国の事情にあまりに無頓着だからだろう。
元自衛隊員のオザワはかつてカンボジアにPKOで派遣されたりしていて、そのあたりには敏感でラオス国境付近では大地に穿たれた大きな穴を目にすることになる。それはかつての戦争の爆撃によってつくられた傷跡なのだ。オザワが「ここではないどこか」を求めて海外まで放浪した先にあったのはそうした歴史である(空族の作品『花物語バビロン』には「それを歴史は許さない」という台詞があるらしい)。
ただ、オザワがちょっとだけタイやその周辺諸国の歴史を知った気になったとしても、日本人が旅行気分で知ることはたかが知れているわけで、ラックが故郷へ戻ることの意味合いとオザワがそこに形だけの「故郷の原風景」を見出すのとはわけが違う。そうした差が唐突なふたりの別れとなったように思えた。
実はすでに『サウダーヂ』のブラジル移民との関係にもそうした結末の萌芽は示されていたのかもしれないのだけれど、それを実地で検証してみせたのがこの『バンコク・ナイツ』ということになるのかもしれない。実際にバンコクに入り、現地の人たちと親しくなって撮影して出来上がったこの作品は、ドキュメンタリー作品とは違うけれども空族が追求してきたことと現地で体験したことが交じり合った現時点での答えが示されている。
先日の新宿K's cinemaでの『サウダーヂ』のレイトショーでは、空族の富田克也と相澤虎之助のふたりと、出演者の川瀬陽太による舞台挨拶があった。川瀬陽太は冗談まじりに空族のことを「政治結社」だと語っていたのだが、確かに何らかの運動めいた雰囲気もなくはない。『バンコク・ナイツ』は決してまとまりがいい作品ではないとも思うけれど、空族の今後の活動にさらなる期待を抱かせるには充分の熱量を持っている作品だった。


↑ 短編『チェンライの娘』のこのオムニバス作品の一編となっている。
監督・脚本・主演には富田克也。共同脚本には相澤虎之助。

バンコクの歓楽街タニヤ通りに集う娼婦や、祖国を逃げ出してそこに居ついている日本人などを描く群像劇。中心となるのはラック(スベンジャ・ポンコン)という娼婦と、彼女の昔の恋人オザワ(富田克也)との関係になるけれど、物語はあってないようなもの。3時間を越える上映時間には、妖しげなネオン街、ひな壇に並ぶ娼婦たち、イサーン地方の美しい風景、共産ゲリラの幻影、さらにはタイ独特な音楽などのあれやこれやがまとめて詰め込まれている。
日本人がタニヤ通りに集まるのは、ひとつには女目的ということになるわけだけれど、沈没組などと呼ばれる人たちもいて日本に居られなくなった人たちもいる。そこで日本人観光客のガイドをしてみたり、タイ人娼婦のヒモになったり、日本人をカモしたあやしげな商売を企てたりしながら生きている。主人公のオザワ自身も「日本に俺のいるとこなんてねえもん。エコノミック・ダウン。メルト・ダウン。エブリシング・ダウン」と語るように、日本を逃げ出してきたひとりということになる。
一方でタイ人の女の子がタニヤ通りにやってくるのは、故郷の家族たちを食べさせるためだ。彼女たちの多くはタイ北部のイサーン地方から出稼ぎに来ていて、彼女たちの稼いだ金で田舎の家族たちは生計を立てている。

私が空族の映画を観たのは今回が初めて。彼らの作品はゆるやかな関わりを持つ「空族サーガ」を形成しているらしい。今回は『バンコク・ナイツ』のほかに『国道20号線』(2006年)『サウダーヂ』(2011年)短編『チェンライの娘』(2012年)を観ることができた。ちなみに空族の作品はDVD化もされないらしい(吉本興業の資本が入っている『チェンライの娘』は例外的にDVD化されている)。
『国道20号線』の主人公がいる世界は、パチンコ屋と郊外型ショッピングセンターと消費者金融のATMばかりのロードサイド。どこにも行けそうにない場所で、主人公はシンナーによる幻影のなかに「ここではないどこか」を見る。『サウダーヂ』の地方都市・甲府は、バブル崩壊後の不景気で商店街はシャッター通りと化し、土方の主人公は仕事もなくなりタイ人の女の子と日本を逃げ出すことばかりを考えている。そうした感覚において『バンコク・ナイツ』は過去の作品と関わりを持ってくることになる。
『バンコク・ナイツ』では冒頭でラックの「Bangkok shit」という台詞で始まるわけで、ラックはバンコクをクソだと思っている。どうしてクソなのかと言えば、金のためとはいえ日本人のエロジジイたちのお相手をしなければならないからだろう。そんなふうに今いるところが気に入らないという気持ちが「ここではないどこか」へと結びついていくことになるわけだけれど、それを求めて向かった先にあるのが楽園となるとは限らない。
たとえば『サウダーヂ』では、一度東京へ出てから地元の甲府へとUターンしてきたまひるという登場人物は、東京への憧れを語る友達に対して「Tokyo shit」と言い放つ。田舎が気に入らなくて東京へと出たはずのまひるは、「ここではないどこか」を求めていたはずが結局は東京もクソだと知ることになる。
そうしたことは『サウダーヂ』のブラジル移民たちにも言えて、日本に行けば稼げると思っていたのに、来てみれば不況と言葉の問題で仕事もなく居場所もない。そんな彼らが「ここではないどこか」を逆に故郷へと求めること(=郷愁)も理解しやすい道筋だろう。
ちなみにブラジル移民たちが住んでいるのは山王団地という場所で、この団地は登場人物のひとりである猛の想い出の場所でもある。ブラジル移民にとっては幻滅した場所だったかもしれないのに、猛にとっては外国人に占拠されたような団地こそが「ここではないどこか」を指すものとなっている。また、ここでは「サウダーヂ」と「サンノウダンチ」が混同されるのだが、ブラジル人と日本人とで話が通じているようでいて実はまったく違う「ここではないどこか」を考えているようでもある。
こんなふうに空族の作品では「ここではないどこか」というものが追求されていく。『国道20号線』や『サウダーヂ』の主人公は未だ日本のなかに留まっていて、ドラッグや過去の幻影という「ここではないどこか」に逃げ込んでいたとも言えるわけだけれど、今回の『バンコク・ナイツ』では日本を飛び出して実際にバンコクへと渡ることになる。

◆バンコクは楽園となったのか?
オザワはラックと共に彼女の故郷であるイサーン地方へと渡り、その後、自衛隊時代の上司の頼みもあってラオスまで渡っていく。イサーン地方は昔のままの風景が残っている場所で、オザワも現実の日本の故郷とは別の「故郷の原風景」のようなものを感じたのかもしれない。オザワはラックの故郷に留まるのかとも思えたのだが、結局ふたりは別れることになり、オザワはバンコクへと帰ることになる。つまりはイサーン地方もバンコクもオザワにとっては楽園とはならなかったようだ。
ちょっと唐突な感じもあるふたりの別れには、夢見がちな男と現実的な女という対立よりも、オザワが外国人であったということ大きかったのかもしれない。同じ日本人でも金城(川瀬陽太)のように為替レートの差をいいことに、女の子と羽目を外すことばかりが目的の男には、オザワは軽蔑の目を向けている。それは訪れた国の事情にあまりに無頓着だからだろう。
元自衛隊員のオザワはかつてカンボジアにPKOで派遣されたりしていて、そのあたりには敏感でラオス国境付近では大地に穿たれた大きな穴を目にすることになる。それはかつての戦争の爆撃によってつくられた傷跡なのだ。オザワが「ここではないどこか」を求めて海外まで放浪した先にあったのはそうした歴史である(空族の作品『花物語バビロン』には「それを歴史は許さない」という台詞があるらしい)。
ただ、オザワがちょっとだけタイやその周辺諸国の歴史を知った気になったとしても、日本人が旅行気分で知ることはたかが知れているわけで、ラックが故郷へ戻ることの意味合いとオザワがそこに形だけの「故郷の原風景」を見出すのとはわけが違う。そうした差が唐突なふたりの別れとなったように思えた。
実はすでに『サウダーヂ』のブラジル移民との関係にもそうした結末の萌芽は示されていたのかもしれないのだけれど、それを実地で検証してみせたのがこの『バンコク・ナイツ』ということになるのかもしれない。実際にバンコクに入り、現地の人たちと親しくなって撮影して出来上がったこの作品は、ドキュメンタリー作品とは違うけれども空族が追求してきたことと現地で体験したことが交じり合った現時点での答えが示されている。
先日の新宿K's cinemaでの『サウダーヂ』のレイトショーでは、空族の富田克也と相澤虎之助のふたりと、出演者の川瀬陽太による舞台挨拶があった。川瀬陽太は冗談まじりに空族のことを「政治結社」だと語っていたのだが、確かに何らかの運動めいた雰囲気もなくはない。『バンコク・ナイツ』は決してまとまりがいい作品ではないとも思うけれど、空族の今後の活動にさらなる期待を抱かせるには充分の熱量を持っている作品だった。
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↑ 短編『チェンライの娘』のこのオムニバス作品の一編となっている。
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