『教誨師』 無意味な生をそのまま生きる
昨年亡くなった大杉漣がエグゼクティブ・プロデューサーを務め、最後の主演作となった作品。
監督は『ランニング・オン・エンプティ』などの佐向大。
昨年10月に劇場公開され、今年4月にソフトが発売された。

教誨師とは「受刑者の心の救済につとめ、彼らが改心できるよう導く人」のこと。本作は6人の死刑囚と教誨師である佐伯保(大杉漣)との対話劇となっている。ほぼ全編に亘り教誨室のなかでの対話が続いていくのだが、それでも飽きさせないのは重要な問題が論じられているからだろうか。
死刑囚はストーカー殺人を犯した鈴木(古舘寛治)、気のいいヤクザの吉田(光石研)、リンチ殺人の首謀者・野口(烏丸せつこ)、ホームレスの老人・進藤(五頭岳夫)、バットで隣人家族を殴り殺した小川(小川登)、社会をよくするために弱者を殺害したという高宮(玉置玲央)の6人。
6人はほぼ同じくらいの分量で登場することになるのだが、やはり一番インパクトを残すのは高宮という大量殺人犯だろう。というのも、この人物の造形は相模原障害者施設殺傷事件の犯人を思わせるからだ。監督の佐向大が脚本を書いているときに事件は起きたらしい。それもあって本作は相模原障害者施設殺傷事件の犯人と教誨師が向かい合っているようにも見えてくるのだ。

『教誨師』では、高宮の言葉を通し死刑制度の矛盾や、西欧諸国では廃止されている死刑制度を続けている日本社会の歪みなど、様々な問題が提示される形になっている。
高宮は牧師である佐伯とのやり取りを暇つぶしだと言い、キリスト教の教えをあざ笑い、悔い改めるどころか自説の正しさを主張する。頭脳明晰な高宮に理屈では勝ち目がない佐伯は、追い詰められて自分の兄が起こした殺人まで告白することになってしまう。
しかし、最後の教誨室での対面では佐伯が攻勢に出る。佐伯は開き直ったかのように高宮のことが怖いと語り、怖いのは高宮のことを知らないからであり、彼のそばにいることを改めて宣言し、聖職者の立場すら捨てて高宮に向き合うことになる。
そうした佐伯の姿に心を揺さぶられた高宮は、初めて弱音を吐く。高宮は自分のやったことによって社会が変わったわけではないことを知り、その虚しさを吐露するのだ。その後のふたりの対話はそんな虚しさを巡って展開しているように思えた。
というのも佐伯自身もそうした虚しさを感じているからだ。それは佐伯の教誨師としての仕事の推移を見てみるとよくわかる。鈴木は佐伯の言葉を曲解し、自分の殺人が正しいことだと思い込むに到る。野口は妄想のなかに生きていて、のべつ幕なしおしゃべりをするばかり。小川は死刑とならなくても済んだかもしれないのだが、裁判結果について横槍を入れるのは禁止されているために、佐伯は何をすることもできない。親切にも見えるヤクザの吉田は、実は佐伯を利用しようとしていることが明らかになる。洗礼を受けて信者となるホームレスの進藤(*1)を除けば、彼の教誨師としての仕事は、虚しさを感じても仕方ないものだったのかもしれない。
それでも佐伯は自分のやるべきことを理解する。佐伯の仕事は穴を見つめることだと言う。穴を開けないようにすることでも、誰がその穴を開けたかを問うことでもなく、ただ見つめること。そのことによって佐伯は、高宮がなぜあのような事件を起こしてしまったという部分に近づくことができたのかもしれない。
高宮は自分のしたことの無意味さに愕然としている。というよりも、そもそもの初めから高宮は自分の人生が無意味であることを恐れていたのかもしれない。だからこそ役に立たない弱者を殺すことで、自分の人生を意味あるものにしようと企んだわけだ。佐伯はそれを感じ取ったのか、理屈もなしにただこう言ってのける。「意味なんてないんですよ。生きているから生きるんです」と。高宮はその言葉に不意を衝かれたようにも見えた。
これは本作からは離れるが、たとえば座間9遺体事件の犯人も人生の無意味さについて父親に打ち明けていたのだとか。そうした空虚が必ずしも殺人に結びつくわけではないのはもちろんだが、それでも何か過剰なものを呼び込んでしまう場合もあるということだろう。すべてが無意味で無価値なら、自分なんてどうなったっていいし、他人を害することにも違いを感じないのかもしれない。
そんな人にかける言葉を考えると途方に暮れるほかないわけで、佐伯が絞り出した言葉は、「なぜ、そんな生でも生きるのか」という問いに対する答えにはなりそうもない「生きているから生きるんです」というものだったわけだ。これはほとんど決意表明なのだ。ただ、もはや理屈では高宮のような人間に届くわけもないわけで、そのくらいの力強い言葉が必要だったということなのだろうと思う。
死刑囚はいつ刑が執行されるのか知らされない。しかし、これは誰にとっても同じこととも言える。主役の佐伯を演じた大杉漣は、命日のその日までテレビドラマの撮影をしていたとのこと。本作のプロデューサーでもある大杉は、佐向監督と次回作の話もしていたというのに……。地味で静かな作品ながら、大杉漣扮する教誨師の力強い宣言はとても心に残るものとなった。
(*1) 佐伯から文字を学んだ進藤は、文字と対象(物)との関係についての疑問を投げかける。このエピソードは言葉を用いて教誨をする佐伯の仕事の難しさを、ほかの死刑囚とは別の形で示しているようでもある。進藤は「始めに言葉ありき」で始まる「ヨハネによる福音書」からの引用、「あなたがたのうち、だれがわたしにつみがあるとせめうるのか」という言葉を佐伯に贈るのだが、進藤はこの言葉に何を込めたのだろうか。




監督は『ランニング・オン・エンプティ』などの佐向大。
昨年10月に劇場公開され、今年4月にソフトが発売された。

教誨師とは「受刑者の心の救済につとめ、彼らが改心できるよう導く人」のこと。本作は6人の死刑囚と教誨師である佐伯保(大杉漣)との対話劇となっている。ほぼ全編に亘り教誨室のなかでの対話が続いていくのだが、それでも飽きさせないのは重要な問題が論じられているからだろうか。
死刑囚はストーカー殺人を犯した鈴木(古舘寛治)、気のいいヤクザの吉田(光石研)、リンチ殺人の首謀者・野口(烏丸せつこ)、ホームレスの老人・進藤(五頭岳夫)、バットで隣人家族を殴り殺した小川(小川登)、社会をよくするために弱者を殺害したという高宮(玉置玲央)の6人。
6人はほぼ同じくらいの分量で登場することになるのだが、やはり一番インパクトを残すのは高宮という大量殺人犯だろう。というのも、この人物の造形は相模原障害者施設殺傷事件の犯人を思わせるからだ。監督の佐向大が脚本を書いているときに事件は起きたらしい。それもあって本作は相模原障害者施設殺傷事件の犯人と教誨師が向かい合っているようにも見えてくるのだ。

『教誨師』では、高宮の言葉を通し死刑制度の矛盾や、西欧諸国では廃止されている死刑制度を続けている日本社会の歪みなど、様々な問題が提示される形になっている。
高宮は牧師である佐伯とのやり取りを暇つぶしだと言い、キリスト教の教えをあざ笑い、悔い改めるどころか自説の正しさを主張する。頭脳明晰な高宮に理屈では勝ち目がない佐伯は、追い詰められて自分の兄が起こした殺人まで告白することになってしまう。
しかし、最後の教誨室での対面では佐伯が攻勢に出る。佐伯は開き直ったかのように高宮のことが怖いと語り、怖いのは高宮のことを知らないからであり、彼のそばにいることを改めて宣言し、聖職者の立場すら捨てて高宮に向き合うことになる。
そうした佐伯の姿に心を揺さぶられた高宮は、初めて弱音を吐く。高宮は自分のやったことによって社会が変わったわけではないことを知り、その虚しさを吐露するのだ。その後のふたりの対話はそんな虚しさを巡って展開しているように思えた。
というのも佐伯自身もそうした虚しさを感じているからだ。それは佐伯の教誨師としての仕事の推移を見てみるとよくわかる。鈴木は佐伯の言葉を曲解し、自分の殺人が正しいことだと思い込むに到る。野口は妄想のなかに生きていて、のべつ幕なしおしゃべりをするばかり。小川は死刑とならなくても済んだかもしれないのだが、裁判結果について横槍を入れるのは禁止されているために、佐伯は何をすることもできない。親切にも見えるヤクザの吉田は、実は佐伯を利用しようとしていることが明らかになる。洗礼を受けて信者となるホームレスの進藤(*1)を除けば、彼の教誨師としての仕事は、虚しさを感じても仕方ないものだったのかもしれない。
それでも佐伯は自分のやるべきことを理解する。佐伯の仕事は穴を見つめることだと言う。穴を開けないようにすることでも、誰がその穴を開けたかを問うことでもなく、ただ見つめること。そのことによって佐伯は、高宮がなぜあのような事件を起こしてしまったという部分に近づくことができたのかもしれない。
高宮は自分のしたことの無意味さに愕然としている。というよりも、そもそもの初めから高宮は自分の人生が無意味であることを恐れていたのかもしれない。だからこそ役に立たない弱者を殺すことで、自分の人生を意味あるものにしようと企んだわけだ。佐伯はそれを感じ取ったのか、理屈もなしにただこう言ってのける。「意味なんてないんですよ。生きているから生きるんです」と。高宮はその言葉に不意を衝かれたようにも見えた。
これは本作からは離れるが、たとえば座間9遺体事件の犯人も人生の無意味さについて父親に打ち明けていたのだとか。そうした空虚が必ずしも殺人に結びつくわけではないのはもちろんだが、それでも何か過剰なものを呼び込んでしまう場合もあるということだろう。すべてが無意味で無価値なら、自分なんてどうなったっていいし、他人を害することにも違いを感じないのかもしれない。
そんな人にかける言葉を考えると途方に暮れるほかないわけで、佐伯が絞り出した言葉は、「なぜ、そんな生でも生きるのか」という問いに対する答えにはなりそうもない「生きているから生きるんです」というものだったわけだ。これはほとんど決意表明なのだ。ただ、もはや理屈では高宮のような人間に届くわけもないわけで、そのくらいの力強い言葉が必要だったということなのだろうと思う。
死刑囚はいつ刑が執行されるのか知らされない。しかし、これは誰にとっても同じこととも言える。主役の佐伯を演じた大杉漣は、命日のその日までテレビドラマの撮影をしていたとのこと。本作のプロデューサーでもある大杉は、佐向監督と次回作の話もしていたというのに……。地味で静かな作品ながら、大杉漣扮する教誨師の力強い宣言はとても心に残るものとなった。
(*1) 佐伯から文字を学んだ進藤は、文字と対象(物)との関係についての疑問を投げかける。このエピソードは言葉を用いて教誨をする佐伯の仕事の難しさを、ほかの死刑囚とは別の形で示しているようでもある。進藤は「始めに言葉ありき」で始まる「ヨハネによる福音書」からの引用、「あなたがたのうち、だれがわたしにつみがあるとせめうるのか」という言葉を佐伯に贈るのだが、進藤はこの言葉に何を込めたのだろうか。
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