『武曲 MUKOKU』 命懸けの剣の道

 『海炭市叙景』『私の男』などの熊切和嘉監督の最新作。
 原作は藤沢周『武曲』

熊切和嘉 『武曲 MUKOKU』 矢田部研吾(綾野剛)と羽田融(村上虹郎)。ふたりの対決の物語。

 父親から仕込まれた剣の腕前でその父親を植物状態へと追いやった矢田部研吾(綾野剛)と、荒削りだが天賦の才を見せる羽田融(村上虹郎)。そんなふたりの対決の物語。
 研吾の父親・将造(小林薫)は剣道を精神的な修練やスポーツの類いとは考えておらず、斬るか斬られるかという命のやり取りとして考えている。武士でもないのにそんなことを考えるのは、将造が「剣の道を極め国家に尽くしたい」と励んできたにも関わらず、現実社会では報われていないという屈折した思いがあるからで、息子に剣を仕込んで本当の殺し合いをしたいと願っているかのように見える。一方の羽田融はラップにはまっている高校生なのだが、ひょんなことから剣道を始めることになり、次第に研吾との対決を望むようになっていく。

 ※ 以下、ネタバレもあり!


『武曲 MUKOKU』 クライマックスは雨のなかでの剣での闘い。『私の男』みたいにまた血(泥)のような雨も降ってきた。

 私は一応剣道の経験者なのだけれど真剣にはさわったこともないし、剣道は実際の真剣勝負とはまったく違うものだとも聞く。だから剣道は武道ではなくスポーツだとも揶揄されたりもするらしい。真剣では刃を引かなければ斬れないものらしいのだが、剣道では竹刀を当てることがポイントになるというもので、剣道の鍛錬が真剣勝負の練習となるのか否かはよくわからない。そんなわけで剣道をやる人が常に命のやり取りをしているわけもなく、剣道部は極めて健全な場所だったように記憶しているので、『武曲 MUKOKU』の研吾や融が防具もなしに木刀で打ち合ったりするのは狂気の為せる業ということになるだろう。
 どちらかと言えば研吾の狂気はわかりやすい。研吾に関しては将造との対決も描かれるし、その後の酒浸りの日々や剣道部での大暴れなども丹念に追われるからだ。一方でラップから剣道へと鞍替えすることになる融のほうはわかりづらい気もする。
 融を剣の道に導くことになる光邑師範(柄本明)はお坊さんという設定で、禅の用語がいくつも登場する。「不立文字」「直指人心」「『心』以前の心」といった用語は、どれも言葉では伝えられない何かを含んでいる。そのあたりがラップで韻を踏むリリックを書くことを趣味としていた融とつながるのだろうとは思うのだけれど、作品内では融の内面までに踏み込んでいかないのではっきりとはしない。ただ融は洪水の被害で一度死に掛けたというトラウマがあり、一度は死に近づいた融がタナトスに魅入られたようにして研吾との対決を望んでいくことになる。
 そんな意味ではふたりの関係はアンバランスにも思えるのだけれど、この作品は最後のふたりの対決という一点に向かって強引に展開していく。言ってみればふたりを対決させるためにこの作品はあり、設定の強引さなんてどうでもいいのだろう。
 実際に豪雨のなかでの対決シーンは、役者ふたりの心技体のすべてにおいて頂点となっていたんじゃないだろうか。闘い方もカンフー映画の剣術めいたものにはなっておらず、決定打が“突き”だというのも剣道らしくてよかったと思う。

 対決に向けてすべてが収束していったわけだけれど、物語にはその先がある。命懸けの対決をしたふたりは憑き物が落ちたように真っ当な剣道部員としての稽古を開始することになるからだ。つまりは狂気からの快復、あるいはトラウマの克服といった物語になっているのだ。
 原作小説は読んではいないのだけれど、「武道系部活小説」とか評している人もいるようで、映画版の狂気とはちょっと違う味わいになっているのかもしれない。原作小説では続編すら書かれているらしいのだけれど、健全すぎる剣道部映画なんてあまり興味を惹くとは思えないし、このアレンジでよかったんじゃないかとも思う。

 主役の綾野剛『日本で一番悪い奴ら』では堕ちていく男の悲哀を感じさせたが、今回の作品でも酒に溺れて涎まみれの酷い姿を晒しつつ、最後にはそこから復活して精悍な姿を見せ付ける。復活後の上半身の筋肉のつき方が尋常ではなく、カメラもそれをなめ回すように撮っている。ゲイ役だった『怒り』でも裸になっていたけれどあのときは特段目立つものではなかったわけで、いつの間にあんな身体を作り上げたのだろうかと感心。
 近藤龍人の撮影は将造の幼い研吾に対するしごきの場面などの枯れた色合いは味があったし、薄暗い日本家屋の奥から捉えた庭の緑の鮮やかさも素晴らしかったと思う。
 男同士の対決に女は邪魔とでもいうのか、女優陣に対する扱いが結構雑で、前田敦子も顔出し程度のほとんど意味のない役だったりもするのだけれど、個人的には片岡礼子がチョイ役でも登場していたのは嬉しかったところ。橋口亮輔作品にいつも顔を出していた片岡礼子だけれど、『恋人たち』には出ていなかったようなので……。

武曲 (文春文庫)


武曲II


スポンサーサイト
Date: 2017.06.12 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『私の男』 近親相姦という顰蹙を買いそうな題材だが……

 桜庭一樹が直木賞を受賞した同名小説の映画化。
 監督は『海炭市叙景』などの熊切和嘉
 主演には浅野忠信二階堂ふみ。中学生から結婚間近の女までをごく自然に演じ、かなりきわどい役を乗りこなしている二階堂ふみはやっぱりすごい。モスクワ映画祭で主演男優賞を獲得した浅野忠信は、銀座の街を赤い傘を差しながらサンダルで歩くという落ちぶれた姿がよかった。『さよなら歌舞伎町』でもエロかった河井青葉は、この映画でも後ろから攻められている(背中の傷を見せるために)。
 昨年6月に劇場公開され、今月DVDが発売された。

熊切和嘉 『私の男』 主役の浅野忠信と二階堂ふみ。殺人を犯したふたりは逃亡生活に入る。


 奥尻島を襲った津波で家族を喪った少女・花(山田望叶)は、避難所で遠い親戚である淳悟(浅野忠信)に拾われる。ここからふたりの生活が始まる。津波の記憶にPTSDに襲われる花に対し、淳悟は「俺はお前のものだ」と囁き、その小さな手をそっと握る。

 震災で孤児になった少女を助ける行為は、「あしながおじさん」的な善意を感じさせる。淳悟も震災で家族を亡くしており、「家族が欲しいんです」という彼の言葉に嘘はないだろう。しかし彼をよく知る大塩(藤竜也)には「あんたには家族のつくり方なんてわからんよ」と否定されるような一面も持つ。
 家族を知らない淳悟と花のふたりが一緒に暮らしていくということは、ごく一般的な家族の結びつきとは違うものとなる。映画のなかで詳しい説明があるわけではないが、このふたりは実は本当の父娘である。同じ血が流れているということをふたりは感じているし、そのことが互いをかけがえのない存在にしている。そして普通の家族を知らないふたりには、小さな手を握り締めたやさしさがやがて愛撫へと変っていくことを阻む障壁はとても低い。
 インセスト・タブーを侵犯する行為は、たとえば『オイディプス王』では行為者たちがそれを知らなかったから成立したわけで、その事実が判明したときオイディプス王は盲になって荒野をさまよう。そのくらい忌まわしいタブーとされているわけで、それを認識しながら侵犯する行為はさらに背徳的だと言える。

 『私の男』は冷たい冬の海から流氷に這い上がる花(二階堂ふみ)の笑みから始まる。この笑みは中盤に描かれる出来事で明らかにされる。淳悟と花の関係を知ってしまった世話焼きの大塩は、その関係を「神様が許さない」と咎めるが、花は「私は許す、何したって。あれは私の全部だ。」と絶叫する。そう言い切った満足感があの笑みだ。
 そんなわけで養父に手篭めにされたとも見える花だけれど、彼女は単なる被害者ではない。淳悟はもしかすると少女好きの変態なのかもしれないが、花はそんな男が育ててしまった社会性の欠如した一種のバケモノである(その後の淳悟はダメな男になっていく)。

『私の男』 陸に接岸する流氷が広がる。撮影はさぞかし大変だったろうと思う。

 最初の殺人は流氷の上で行われる。流氷は陸地と海の境界に位置している。花は一度は津波に襲われながらも、海から陸地へと這い上がってきた。そしてこの映画の冒頭でも、大塩を流氷の上に放置して、自分は海を渡って流氷の上に這い上がり、再び陸地まで戻ってきた。流氷は生と死の境目にあるもので、花はそうした境界をうろつきつつ“生”のほうへ戻ってくる(戸籍上の父の「生きろ」という言葉に促されて)。
 そうした境界線はほかにもあって、それは社会という枠組みの境目だろう。花と淳悟はその枠組みから外れたところにいる。ただ完全にその枠組みから逃れては生きることはできない。ギリギリのところで踏みとどまるしかない。だから社会的なタブーからも完全に自由になれるわけでもなく、ふたりが交わるシーンで血の雨が降るのはそうした後ろめたさからだろう。ラストのふたりだけの世界は、そんなギリギリのところで“生”のほうに踏み止まったふたりの妥協としてあるわけだし、最後の瞬間に鈍い輝きを増す、そんな輝きだったのかもしれない(あの先にふたりの未来はないわけだから)。

 『私の男』に歓喜させられたのは、このラストシーンがギドクの『うつせみ』のそれとよく似ているからだ。以下はキム・ギドクのファンとして……。
 花は生きるために生活力のある男のもとへ嫁ぐことになるが、心のなかではいつも淳悟とつながっている。『うつせみ』で夫との結婚生活に戻った女が、夫ではなく幻想の男を見つめているところと被っているのだ。そして『私の男』の花が最後に淳悟に語りかける言葉がミュートされているのは、『うつせみ』でそれまで一言もしゃべらなかった女が最後に言葉を発する逆を狙ったのかと妄想した。
 監督の熊切和嘉がそれを意識しているかどうかは知らない。『海炭市叙景』はとても真っ当ないい作品だったが、一方で『私の男』と同時に発売された『鬼畜大宴会』は大いに顰蹙を買うような作品となっている。(*1)『私の男』もタブーに切り込んでいったあたりは顰蹙を買う部分もあるだろうし、いつも顰蹙ものの作品となってしまうギドクを意識している可能性もないこともないような……。
 ギドクが『メビウス』で来日したころの雑誌のインタビューでは、『私の男』や原作者・桜庭一樹の名前への言及があって、ギドクがこの作品に自分に近いものを感じていたということなのだろうと思う。(*2)

(*1) PFFで準グランプリとなった『鬼畜大宴会』は、連合赤軍のリンチ殺人事件をスプラッターでパロディにするという作品。大学の卒業制作ということもあって、悪ふざけの部分も多分に感じられる。顰蹙を買うのが狙いだったところもあるようで、実際にこの映画を見せると「中途半端な付き合いだったヤツは本当にみんなサーっと引いていった」んだとか。さもありなん。

(*2) このページを読むと原作者はギドクのファンということで、原作のほうがギドクの世界に惹きつけられているのかもしれない。

私の男 [DVD]


私の男 [Blu-ray]


私の男 (文春文庫)


鬼畜大宴会 [DVD]


Date: 2015.02.28 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)
プロフィール

Nick

Author:Nick
新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

最新記事
最新トラックバック
最新コメント
月別アーカイブ
10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03 
カテゴリ
カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

タグクラウド

広告



検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
このブログをリンクに追加する
Powered By FC2ブログ


ブログランキングに参加しました。

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

QRコード
QR