『淵に立つ』 過去の出来事の残響が……
監督・脚本・編集は『ほとりの朔子』『さようなら』の深田晃司。
公式ホームページによれば題名の「淵に立つ」とは平田オリザの言葉で、「人間を描くということは、崖の淵に立って暗闇を覗き込む」危険な行為で、「人間の心の奥底の暗闇をじっと凝視するような作品になって欲しい」という監督の想いが込められているとのこと。

金属加工工場を営む鈴岡利雄(古舘寛治)は、妻・章江(筒井真理子)と娘・蛍と暮らしている。ある日、何の予告もなしに八坂草太郎(浅野忠信)という男が現れる。八坂は利雄の古い友達で、最近まで刑務所に服役していたのだという。利雄は八坂に借りがあるのか、仕事を与え部屋まで提供して一緒に生活することになる。
白いシャツに身をまとい姿勢を正した八坂は、刑務所での暮らしの癖が抜けない。それでも物腰は丁寧で蛍に対してオルガンを教えてやる親切さもあってか次第に鈴岡家に馴染んでいき、次第に章江とも接近していくことになる。
八坂が何を目的として鈴岡家にやってきたのかは謎だ。本当に静かな生活をしたかっただけなのかもしれないし、利雄に対する復讐だったのかもしれない。結局のところよくわからない。いつも白を身にまとっていた八坂だが、その下に忍ばせていた真っ赤なシャツが露わになるとき良からぬ出来事が生じることになる。
※ 以下、ネタバレもあり! 結末にも触れているので要注意!

◆決定的な出来事のあとで……
この作品では決定的な出来事は描かれない。八坂の去ったあとに真っ赤な血を流した蛍が横たわる姿があるという帰結だけが示される。しかし、その出来事によってこの映画は明確に前半と後半に分けられる。後半はその出来事の8年後である。章江は病的なほど潔癖症となりくたびれた様子で姿を見せる(筒井真理子は前半部では妖しい浅野忠信によろめく色気を感じさせたのに、後半には体型まで変える熱演だった)。その後に登場する蛍の変わり果てた姿にも驚かされることになる。ここで奇妙なのは利雄の様子で、利雄は前半よりもなぜか生き生きとしている。
利雄は八坂が8年前に起こした出来事は、夫婦の罪に対する罰だと感じている。利雄は八坂が服役することになった過去の殺人事件の共犯者でもあり、章江は八坂と(精神的な?)不倫関係にあったから、その罰として夫婦に下されたのが蛍の障害なのだと利雄は考えている。すでに罰は下ったわけで、利雄は八坂の影からは逃れている。
一方の章江はそうではない。もともとプロテスタントとして八坂に手を差し延べることに意義を見出していたようだが、その出来事のあと章江は信仰心を捨て去ったように見える。信仰心などなかった利雄のほうが「罪と罰」という考えに安堵し、逆に章江はそれを受け入れられない。というよりも章江は八坂に心を奪われる瞬間はあったにしても最後は八坂を拒んでいたわけだから、犯した罪に対して与えられた罰があまりに理不尽なものに思えたのかもしれない。これは言い換えれば自らの罪を認めていないということにもなり、だからこそ章江はその後も八坂の影に怯えることになる。
ちなみに母親を食べてしまう蜘蛛の子供たちのエピソードにも、ふたりの理解には相違がある。章江の場合は自己を犠牲にした母蜘蛛は救われることになるが、利雄の場合はその母蜘蛛も元はと言えば子供のときに母親を食ってくるわけでどちらも救われないことになる。このあたりの違いもその後の出来事に対する対処の違いとして生じてくるのだろう。
◆過去の出来事の残響
冒頭のメトロノームの音や食事の際の音が印象的に聞こえてくるほどに静かに進んでいく作品だ。それにも関わらず衝撃的なことが描かれていく。というのも決定的な出来事を描くことが避けられているから静かな展開をしているようにも見えるのだが、それでいて心のなかに蠢くものははかり知れない。これは突発的な出来事そのものよりも、それがもたらす影響のほうに主眼があるということでもある。
思えば前半部で夫婦のよそよそしい関係には、すでに利雄が共犯となった過去の殺人事件の残響のようなものが感じられないだろうか。利雄は八坂に後ろめたさを感じ、家庭での幸福を素直に享受することをためらっていたのかもしれないし、利雄が八坂に「おれを甘やかすなよ」と語るのは罰を求めているようにも聞こえてくるからだ。
過去の殺人事件にしても、蛍が犠牲となる決定的な出来事も直接には描かれない。それでも登場人物は過去の出来事がもたらす残響のなかにいる。しかし、ラストの出来事だけは直接的に描かれている(一部に幻想を交えているけれど)。
寝たきりの母親が「死なせてくれ」と懇願したという八坂の息子・孝司(太賀)の言葉に導かれるように、章江は蛍と心中を図ることになる。ここだけは出来事の真っ最中を描いているのだ。しかし出来事の渦中に映画はそのまま終わってしまい、その帰結が明らかにされることはない。観客は利雄の荒い息遣いを聞きながら、その出来事の只中に置き去りにされることになる。利雄と章江が過去の出来事の残響に囚われていたように、最後の出来事の残響は観客を囚われの身にするだろう。
情に訴えかけることのない冷徹な描き方が素晴らしかったと思う。最後に突き放されるように終わったことで、カタルシスを感じることもなければこの作品を理解した気にもなれないのだけれど、いつまでも何かが引っかかったように頭を離れない。







公式ホームページによれば題名の「淵に立つ」とは平田オリザの言葉で、「人間を描くということは、崖の淵に立って暗闇を覗き込む」危険な行為で、「人間の心の奥底の暗闇をじっと凝視するような作品になって欲しい」という監督の想いが込められているとのこと。

金属加工工場を営む鈴岡利雄(古舘寛治)は、妻・章江(筒井真理子)と娘・蛍と暮らしている。ある日、何の予告もなしに八坂草太郎(浅野忠信)という男が現れる。八坂は利雄の古い友達で、最近まで刑務所に服役していたのだという。利雄は八坂に借りがあるのか、仕事を与え部屋まで提供して一緒に生活することになる。
白いシャツに身をまとい姿勢を正した八坂は、刑務所での暮らしの癖が抜けない。それでも物腰は丁寧で蛍に対してオルガンを教えてやる親切さもあってか次第に鈴岡家に馴染んでいき、次第に章江とも接近していくことになる。
八坂が何を目的として鈴岡家にやってきたのかは謎だ。本当に静かな生活をしたかっただけなのかもしれないし、利雄に対する復讐だったのかもしれない。結局のところよくわからない。いつも白を身にまとっていた八坂だが、その下に忍ばせていた真っ赤なシャツが露わになるとき良からぬ出来事が生じることになる。
※ 以下、ネタバレもあり! 結末にも触れているので要注意!

◆決定的な出来事のあとで……
この作品では決定的な出来事は描かれない。八坂の去ったあとに真っ赤な血を流した蛍が横たわる姿があるという帰結だけが示される。しかし、その出来事によってこの映画は明確に前半と後半に分けられる。後半はその出来事の8年後である。章江は病的なほど潔癖症となりくたびれた様子で姿を見せる(筒井真理子は前半部では妖しい浅野忠信によろめく色気を感じさせたのに、後半には体型まで変える熱演だった)。その後に登場する蛍の変わり果てた姿にも驚かされることになる。ここで奇妙なのは利雄の様子で、利雄は前半よりもなぜか生き生きとしている。
利雄は八坂が8年前に起こした出来事は、夫婦の罪に対する罰だと感じている。利雄は八坂が服役することになった過去の殺人事件の共犯者でもあり、章江は八坂と(精神的な?)不倫関係にあったから、その罰として夫婦に下されたのが蛍の障害なのだと利雄は考えている。すでに罰は下ったわけで、利雄は八坂の影からは逃れている。
一方の章江はそうではない。もともとプロテスタントとして八坂に手を差し延べることに意義を見出していたようだが、その出来事のあと章江は信仰心を捨て去ったように見える。信仰心などなかった利雄のほうが「罪と罰」という考えに安堵し、逆に章江はそれを受け入れられない。というよりも章江は八坂に心を奪われる瞬間はあったにしても最後は八坂を拒んでいたわけだから、犯した罪に対して与えられた罰があまりに理不尽なものに思えたのかもしれない。これは言い換えれば自らの罪を認めていないということにもなり、だからこそ章江はその後も八坂の影に怯えることになる。
ちなみに母親を食べてしまう蜘蛛の子供たちのエピソードにも、ふたりの理解には相違がある。章江の場合は自己を犠牲にした母蜘蛛は救われることになるが、利雄の場合はその母蜘蛛も元はと言えば子供のときに母親を食ってくるわけでどちらも救われないことになる。このあたりの違いもその後の出来事に対する対処の違いとして生じてくるのだろう。
◆過去の出来事の残響
冒頭のメトロノームの音や食事の際の音が印象的に聞こえてくるほどに静かに進んでいく作品だ。それにも関わらず衝撃的なことが描かれていく。というのも決定的な出来事を描くことが避けられているから静かな展開をしているようにも見えるのだが、それでいて心のなかに蠢くものははかり知れない。これは突発的な出来事そのものよりも、それがもたらす影響のほうに主眼があるということでもある。
思えば前半部で夫婦のよそよそしい関係には、すでに利雄が共犯となった過去の殺人事件の残響のようなものが感じられないだろうか。利雄は八坂に後ろめたさを感じ、家庭での幸福を素直に享受することをためらっていたのかもしれないし、利雄が八坂に「おれを甘やかすなよ」と語るのは罰を求めているようにも聞こえてくるからだ。
過去の殺人事件にしても、蛍が犠牲となる決定的な出来事も直接には描かれない。それでも登場人物は過去の出来事がもたらす残響のなかにいる。しかし、ラストの出来事だけは直接的に描かれている(一部に幻想を交えているけれど)。
寝たきりの母親が「死なせてくれ」と懇願したという八坂の息子・孝司(太賀)の言葉に導かれるように、章江は蛍と心中を図ることになる。ここだけは出来事の真っ最中を描いているのだ。しかし出来事の渦中に映画はそのまま終わってしまい、その帰結が明らかにされることはない。観客は利雄の荒い息遣いを聞きながら、その出来事の只中に置き去りにされることになる。利雄と章江が過去の出来事の残響に囚われていたように、最後の出来事の残響は観客を囚われの身にするだろう。
情に訴えかけることのない冷徹な描き方が素晴らしかったと思う。最後に突き放されるように終わったことで、カタルシスを感じることもなければこの作品を理解した気にもなれないのだけれど、いつまでも何かが引っかかったように頭を離れない。
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