『リトル・フォレスト 冬・春』 神様に奉納するもののリスト
原作は五十嵐大介の同名マンガ。『重力ピエロ』などの森淳一が監督。
出演陣は橋本愛、三浦貴大、松岡茉優、桐島かれん。
『リトル・フォレスト 夏・秋』の続き。構成は前作のときと同じ。いち子(橋本愛)のナレーションから始まり、小森(リトル・フォレスト)の美しい「冬と春」が描写される。今回もそれぞれの季節の食材を活かした料理が数多く登場する。

今回は冬から始まるわけだが、冬には季節の食材というものも限られてくる。冬の寒さが重要となる凍み大根なんかも登場するけれど、あとは保存が効く食材をうまく活用している。じゃがいもがそのいい例で、保存用のじゃがいものためには雪がふる前に準備が必要になる。
まず畑が雪解け水で水浸しにならないように農業用ビニールをかけておく。雪が融けたらビニールを裂いて種芋を植え、暖かくなって芽が出ても芽の数を調整したり(小さくなりすぎないように)して、ようやく一冬を越せるようなじゃがいものストックができる。冬を越すためには、その1年前の雪が降る前に準備をしておかなければならないのだ。
田舎の生活では、冬のあとには春が来るし、その後再び冬が巡ってくること揺るぎはない。都会の会社勤めなら職場環境は変わるだろうし、1年後のことはよくわからないかもしれない。田舎では変らない生活がある。だから1年先のことを考えてじゃがいも作りに励むことができる。そこに居を構え生活していく者にとっては、季節はそれぞれ別の相貌を表すけれど、つながっていくものもあるわけで、田舎の生活は繰り返される季節のサイクルと密接に結びついている。
母親・福子の手紙のなかには“円”だとか“螺旋”だとかいう言葉が記されていた。福子もいち子と同様に色々なことに失敗し、それでもまた同じことを失敗してみたりもし、結局同じところを“円”のように回っているようにも感じるけれど、実はそれは“螺旋”なんじゃないかと考えるのだ。かなり抽象的だが、これも季節が巡ることと似たようなものなのかもしれない。前作のときも書いたことだけれど、それぞれの季節が毎年の繰り返しであるのと同時に、新たな始まりでもあるということだ。“円”のように同じところを回っているようでもあるけれど、“螺旋”ならば少しずつどこかへ向かっているわけで、そうやって季節のサイクルを繰り返すことで、時は流れていくということだ。

「秋」篇の最後では、いち子の失踪した母親・福子(桐島かれん)からの手紙が届いた。「冬」篇と「春」篇ではそのあたりが掘り下げられるのかと推測していたが、ちょっと違ったようだ。結局、最後まで一皿ごとの料理の紹介というスタイルは崩さず、後日談はデザートということになっている。
それでも心地いい場面ばかりだった『リトル・フォレスト 夏・秋』から比べると、『リトル・フォレスト 冬・春』は幾分いち子の内面にも踏み込んでいる。いち子は周囲の友人に「人と向き合っていない」とか「大事なことから逃げている」などと非難されることになるからだ。ただその具体的な対象が何かはよくわからない。誰と向き合っていないのか、大事なこととは何かという点になると曖昧なのだ。田舎を出て行った母親との関係があるのかもしれないけれど、はっきりと明示されるわけではない。
だから「大事なことから逃げている」というのは、もしかしたらこの映画そのものとも言えるのかもしれない。いち子は突然村を去ることを決め、後日談として描かれる5年後に旦那と一緒に村に帰ってくる。いち子が自らの問題をどのように解決して、村で生きる決意をしたのかはまったく描かれないのだ。
ただ「傷ついた人の再生」といったテーマは、なぜか日本映画にはありふれているわけで、むしろそういった食傷気味な部分はあえて避けているのかもしれない(だからとても口当たりがいい)。福子がパン・ア・ラ・ポム・ド・テール(じゃがいもパン)のレシピをいち子に教えようとしないのも、福子には福子のレシピがあり、いち子にはいち子のレシピがあるという信念であり、自分の問題には自分の解決法を見つけ出せという意味とも考えられるからだ。
いち子の歩んだ道程は、ユウ太(三浦貴大)の跡を辿っている。ユウ太も一度村を出た上で、村で生きることを決意して戻ってくる。いち子は街の生活から逃げるように小森に戻っていた。この4部作で描かれる1年は傷ついたいち子の充電期間だったわけで、いち子は積極的な選択として村を選び直すために、「春」篇の最後で再び村を去らなければならない(田舎は都会で傷ついた人を癒す場所ではないということか)。
いち子は5年の月日を経て小森に帰ってくるわけだが、決意を持って戻ってきた人にとって小森は神様から与えられた楽園のようなもの。だから最後には、いち子は神様に捧げる踊りである“神楽”を舞うことになる。そんなふうに考えると、季節ごとに見目麗しく提示され数え上げられていく料理も、神様に奉納するもののリストとしてあるようにも思えてきた。そんな意味では、田舎礼賛のための四季と料理のカタログのような映画で、それはとても心地いい感覚に溢れている。(*1)料理好きの人ならば、何かこの映画をヒントに何か作ってみたくなるだろうし、田舎暮らしに憧れを抱く人もいるだろうと思う。個人的には“ばっけみそ(ふきみそ)”がとても美味しそうだった。
(*1) 前作のときには単純な「田舎礼賛ではないかも」と推測していたのだが、ここでも予想は外れた。一応は「都会の人の癒しの場所ではない」とクギも刺しているわけだけれど。


出演陣は橋本愛、三浦貴大、松岡茉優、桐島かれん。
『リトル・フォレスト 夏・秋』の続き。構成は前作のときと同じ。いち子(橋本愛)のナレーションから始まり、小森(リトル・フォレスト)の美しい「冬と春」が描写される。今回もそれぞれの季節の食材を活かした料理が数多く登場する。

今回は冬から始まるわけだが、冬には季節の食材というものも限られてくる。冬の寒さが重要となる凍み大根なんかも登場するけれど、あとは保存が効く食材をうまく活用している。じゃがいもがそのいい例で、保存用のじゃがいものためには雪がふる前に準備が必要になる。
まず畑が雪解け水で水浸しにならないように農業用ビニールをかけておく。雪が融けたらビニールを裂いて種芋を植え、暖かくなって芽が出ても芽の数を調整したり(小さくなりすぎないように)して、ようやく一冬を越せるようなじゃがいものストックができる。冬を越すためには、その1年前の雪が降る前に準備をしておかなければならないのだ。
田舎の生活では、冬のあとには春が来るし、その後再び冬が巡ってくること揺るぎはない。都会の会社勤めなら職場環境は変わるだろうし、1年後のことはよくわからないかもしれない。田舎では変らない生活がある。だから1年先のことを考えてじゃがいも作りに励むことができる。そこに居を構え生活していく者にとっては、季節はそれぞれ別の相貌を表すけれど、つながっていくものもあるわけで、田舎の生活は繰り返される季節のサイクルと密接に結びついている。
母親・福子の手紙のなかには“円”だとか“螺旋”だとかいう言葉が記されていた。福子もいち子と同様に色々なことに失敗し、それでもまた同じことを失敗してみたりもし、結局同じところを“円”のように回っているようにも感じるけれど、実はそれは“螺旋”なんじゃないかと考えるのだ。かなり抽象的だが、これも季節が巡ることと似たようなものなのかもしれない。前作のときも書いたことだけれど、それぞれの季節が毎年の繰り返しであるのと同時に、新たな始まりでもあるということだ。“円”のように同じところを回っているようでもあるけれど、“螺旋”ならば少しずつどこかへ向かっているわけで、そうやって季節のサイクルを繰り返すことで、時は流れていくということだ。

「秋」篇の最後では、いち子の失踪した母親・福子(桐島かれん)からの手紙が届いた。「冬」篇と「春」篇ではそのあたりが掘り下げられるのかと推測していたが、ちょっと違ったようだ。結局、最後まで一皿ごとの料理の紹介というスタイルは崩さず、後日談はデザートということになっている。
それでも心地いい場面ばかりだった『リトル・フォレスト 夏・秋』から比べると、『リトル・フォレスト 冬・春』は幾分いち子の内面にも踏み込んでいる。いち子は周囲の友人に「人と向き合っていない」とか「大事なことから逃げている」などと非難されることになるからだ。ただその具体的な対象が何かはよくわからない。誰と向き合っていないのか、大事なこととは何かという点になると曖昧なのだ。田舎を出て行った母親との関係があるのかもしれないけれど、はっきりと明示されるわけではない。
だから「大事なことから逃げている」というのは、もしかしたらこの映画そのものとも言えるのかもしれない。いち子は突然村を去ることを決め、後日談として描かれる5年後に旦那と一緒に村に帰ってくる。いち子が自らの問題をどのように解決して、村で生きる決意をしたのかはまったく描かれないのだ。
ただ「傷ついた人の再生」といったテーマは、なぜか日本映画にはありふれているわけで、むしろそういった食傷気味な部分はあえて避けているのかもしれない(だからとても口当たりがいい)。福子がパン・ア・ラ・ポム・ド・テール(じゃがいもパン)のレシピをいち子に教えようとしないのも、福子には福子のレシピがあり、いち子にはいち子のレシピがあるという信念であり、自分の問題には自分の解決法を見つけ出せという意味とも考えられるからだ。
いち子の歩んだ道程は、ユウ太(三浦貴大)の跡を辿っている。ユウ太も一度村を出た上で、村で生きることを決意して戻ってくる。いち子は街の生活から逃げるように小森に戻っていた。この4部作で描かれる1年は傷ついたいち子の充電期間だったわけで、いち子は積極的な選択として村を選び直すために、「春」篇の最後で再び村を去らなければならない(田舎は都会で傷ついた人を癒す場所ではないということか)。
いち子は5年の月日を経て小森に帰ってくるわけだが、決意を持って戻ってきた人にとって小森は神様から与えられた楽園のようなもの。だから最後には、いち子は神様に捧げる踊りである“神楽”を舞うことになる。そんなふうに考えると、季節ごとに見目麗しく提示され数え上げられていく料理も、神様に奉納するもののリストとしてあるようにも思えてきた。そんな意味では、田舎礼賛のための四季と料理のカタログのような映画で、それはとても心地いい感覚に溢れている。(*1)料理好きの人ならば、何かこの映画をヒントに何か作ってみたくなるだろうし、田舎暮らしに憧れを抱く人もいるだろうと思う。個人的には“ばっけみそ(ふきみそ)”がとても美味しそうだった。
(*1) 前作のときには単純な「田舎礼賛ではないかも」と推測していたのだが、ここでも予想は外れた。一応は「都会の人の癒しの場所ではない」とクギも刺しているわけだけれど。
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