『ビジランテ』 一郎、ニ郎、三郎、それぞれの呪縛
『SR サイタマノラッパー』シリーズなどの入江悠監督によるオリジナル脚本による最新作。
タイトルの“ビジランテ”とは「自警団」のこと。

地元の有力者であり、神藤家では暴君として振舞っていた父親が死に、二郎(鈴木浩介)は父親の市議会議員としての地盤を引き継ぎ、父親とは距離を保っていた三郎(桐谷健太)はデリヘルの店長として働いている。父親の持っていた土地がアウトレットモールの建設用地として浮上したころ、30年前に失踪した長男の一郎(大森南朋)が遺言状を持って姿を現す。
舞台となっているのは埼玉県の架空の市。東京などごく一部の大都市を除けばほとんどが北関東とさして変わらない地方都市なわけで、この作品で描かれる北関東の憂鬱は多くの人にあてはまる普遍的なものとなっているのだろう。
この地方都市は閉鎖的で、一部の有力者が暴力団などの裏社会ともつながり、利権を牛耳っている。どこまで行っても殺風景で特徴のない場所ばかりで、守るべきものなどあまりありそうにもないのだけれど、住民たちは自警団を結成し外国人労働者たちを排除しようとする。それは郷土愛というよりは鬱憤を晴らしにも見え、地方都市の退屈さの表れということなのだろうと思う。
こうした舞台設定や主題の選択は、『国道20号線』『サウダーヂ』などの空族の作品を思わせなくもない。ただ空族の作品では「ここではないどこか」として、たとえばタイという外国が挙げられたりもして、実際に『バンコク・ナイツ』では舞台をタイのバンコクへと移したりもすることになったのに対し、この『ビジランテ』では登場人物はその地方都市から逃れることはできないようだ。
二郎が地元に留まったのは、優柔不断で自ら決めることができないだけで、父親や妻の希望通りに動いていくことでその土地に自分を縛り付けている。一郎は借金を抱えているのだけれど、戻ってきた理由は金をつくることではないらしく、祖父が初めて買った土地に執着しているようでもある。
そして3人のなかでは一番魅力的に映る人物として三郎がいるわけだが、三郎もまた土地に縛られている。30年前に一郎が失踪した夜の出来事が作品冒頭に描かれる(闇のなかの川のシーンが印象的)。なぜか三郎はその事件の記憶を歪曲している。父親に対してナイフで切りつけたのは一郎だったと勘違いしているようなのだ。これはその土地から出て行くべき人間は一郎だったと自分を納得させるためなのだろうか(本当は自分が出て行くべき人間だったにも関わらず)。そんな無意識の後ろめたさが「もっと大事なことを三人で話そう」という嘆願となっていたのかもしれない。とにかく神藤家の三兄弟は三者三様にその土地の呪縛にあるのだ。

私は「地方都市の憂鬱」とか、「土地に縛られている」などと書いたわけだけれど、この作品の登場人物がその地方都市を退屈だと考えているのかどうかはわからない。退屈な地方都市出身で今では都会で暮らす観客としては、勝手な思い込みでそんなことを読み込んでいただけなのかも……。作品内の地方都市は確かに魅力的な場所としては描かれてはいないのだけれど、登場人物はそこから逃げ出そうとか外の世界を求めたりはしていないからだ。
一度は外部に出ていた一郎も邪魔だった父親がいなくなると自ら帰郷したわけだし、この作品のなかでその土地を出て行くのは一郎に酷い目に遭わされたデリヘル嬢だけで、しかもそれは外部に「ここではないどこか」を求めたわけでもないのだ。
それから二郎の妻(篠田麻里子)は夫が窮地に立たされたことを知ると、自らの身体で地元の有力者を篭絡してまでその土地で生きることを選ぶ。何が彼女にそこまでの覚悟を抱かせるのかはよくわからないし、神藤家の三兄弟をその土地に縛り付けるものも何なのかもわからない。そんな意味では投げやりだし、不親切な部分も多いとは思うのだけれど、『SR サイタマノラッパー』のような緩さとは打って変わった重苦しい神話的世界は悪くなかったと思う。
いつもはもっとテンション高く弾けるような演技を見せる桐谷健太は、今回は抑えた演技に徹している。それによってノワールな世界観とよくマッチする男になりきっていたのが新鮮だった。

入江悠の作品

タイトルの“ビジランテ”とは「自警団」のこと。

地元の有力者であり、神藤家では暴君として振舞っていた父親が死に、二郎(鈴木浩介)は父親の市議会議員としての地盤を引き継ぎ、父親とは距離を保っていた三郎(桐谷健太)はデリヘルの店長として働いている。父親の持っていた土地がアウトレットモールの建設用地として浮上したころ、30年前に失踪した長男の一郎(大森南朋)が遺言状を持って姿を現す。
舞台となっているのは埼玉県の架空の市。東京などごく一部の大都市を除けばほとんどが北関東とさして変わらない地方都市なわけで、この作品で描かれる北関東の憂鬱は多くの人にあてはまる普遍的なものとなっているのだろう。
この地方都市は閉鎖的で、一部の有力者が暴力団などの裏社会ともつながり、利権を牛耳っている。どこまで行っても殺風景で特徴のない場所ばかりで、守るべきものなどあまりありそうにもないのだけれど、住民たちは自警団を結成し外国人労働者たちを排除しようとする。それは郷土愛というよりは鬱憤を晴らしにも見え、地方都市の退屈さの表れということなのだろうと思う。
こうした舞台設定や主題の選択は、『国道20号線』『サウダーヂ』などの空族の作品を思わせなくもない。ただ空族の作品では「ここではないどこか」として、たとえばタイという外国が挙げられたりもして、実際に『バンコク・ナイツ』では舞台をタイのバンコクへと移したりもすることになったのに対し、この『ビジランテ』では登場人物はその地方都市から逃れることはできないようだ。
二郎が地元に留まったのは、優柔不断で自ら決めることができないだけで、父親や妻の希望通りに動いていくことでその土地に自分を縛り付けている。一郎は借金を抱えているのだけれど、戻ってきた理由は金をつくることではないらしく、祖父が初めて買った土地に執着しているようでもある。
そして3人のなかでは一番魅力的に映る人物として三郎がいるわけだが、三郎もまた土地に縛られている。30年前に一郎が失踪した夜の出来事が作品冒頭に描かれる(闇のなかの川のシーンが印象的)。なぜか三郎はその事件の記憶を歪曲している。父親に対してナイフで切りつけたのは一郎だったと勘違いしているようなのだ。これはその土地から出て行くべき人間は一郎だったと自分を納得させるためなのだろうか(本当は自分が出て行くべき人間だったにも関わらず)。そんな無意識の後ろめたさが「もっと大事なことを三人で話そう」という嘆願となっていたのかもしれない。とにかく神藤家の三兄弟は三者三様にその土地の呪縛にあるのだ。

私は「地方都市の憂鬱」とか、「土地に縛られている」などと書いたわけだけれど、この作品の登場人物がその地方都市を退屈だと考えているのかどうかはわからない。退屈な地方都市出身で今では都会で暮らす観客としては、勝手な思い込みでそんなことを読み込んでいただけなのかも……。作品内の地方都市は確かに魅力的な場所としては描かれてはいないのだけれど、登場人物はそこから逃げ出そうとか外の世界を求めたりはしていないからだ。
一度は外部に出ていた一郎も邪魔だった父親がいなくなると自ら帰郷したわけだし、この作品のなかでその土地を出て行くのは一郎に酷い目に遭わされたデリヘル嬢だけで、しかもそれは外部に「ここではないどこか」を求めたわけでもないのだ。
それから二郎の妻(篠田麻里子)は夫が窮地に立たされたことを知ると、自らの身体で地元の有力者を篭絡してまでその土地で生きることを選ぶ。何が彼女にそこまでの覚悟を抱かせるのかはよくわからないし、神藤家の三兄弟をその土地に縛り付けるものも何なのかもわからない。そんな意味では投げやりだし、不親切な部分も多いとは思うのだけれど、『SR サイタマノラッパー』のような緩さとは打って変わった重苦しい神話的世界は悪くなかったと思う。
いつもはもっとテンション高く弾けるような演技を見せる桐谷健太は、今回は抑えた演技に徹している。それによってノワールな世界観とよくマッチする男になりきっていたのが新鮮だった。
![]() |

入江悠の作品

スポンサーサイト