『ひかりの歌』 そこはかとなく感じる
監督・脚本は『ひとつの歌』の杉田協士。
原作となっている短歌は、歌人・枡野浩一と監督・杉田協士らが開催した「光」をテーマにしてコンテストにおいて選ばれた4首。
雑誌『キネマ旬報』の星取表ではとても評価が高かった作品。

短歌が原作となって出来た映画と聞いて、詩集が原作となった『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年のキネ旬の日本映画ベストテン第1位)を思い出した。『夜空は』のほうは主人公の内面にまで踏み込んでいくが、短歌が原作となっている『ひかりの歌』のほうはもっとドライな感覚で描かれていたように思えた。
たとえば第1章では様々な片想いが描かれているのだが、生徒に告白されたりもする主人公の臨時教員・詩織(北村美岬)の気持ちはどこを向いているのかはわからない。夕食を一緒にしたりもする同僚(廣末哲万)のことを気に掛けているようでもあり、旅に出て行った雪子(笠島智が演じる第3章の主人公)を想っているようでもある。主人公の行動は描かれるが内面が語られることもないのだ。
4つの短歌には、それぞれの原作者の人生の一場面が描写されている。ただ、その場面がどんな状況で、その人がそれまでどんな人生を歩んできたのかは読者にはわからない。本作上映後の監督と歌人の二人(林あまりさんと東直子さん)トークショーでも、短歌では半分くらいは読者が想像で補うべきものだというようなことが語られていた。
なぜ自販機に謝らなければならなかったのか(第2章)、なぜ始発を待たなければならなかったのか(第3章)、そうしたことは読者が自分なりのイメージを膨らませて感じるものということなのだろう。だから、この映画は杉田協士監督が自分なりのイメージを膨らませて出来上がったということになる。
映画は短歌の一場面を利用しているが、その解釈を押し付けるというものではない。主人公となる4人の女性と、その周囲の人たちとの微妙な関係と、短歌に描かれている一場面に至るまでの出来事が描写されていく。それでも第2章の主人公・今日子(伊東茄那)がなぜランニングをしているのかは不明だし、第4章で失踪から戻ってきたらしい旦那(松本勝)が主人公・幸子(並木愛枝)にその理由について語り出すこともない。
短歌の読者が自由に膨らませる部分があるのと同じように、映画の観客がさらに想像をたくましくする部分が多いのだ。とはいえ観客にとってはそこはかとなく感じるものはあるはずで、観客それぞれが自らの人生に引き寄せつつ自由な解釈をすることになる。これはとても贅沢な時間だろう。とりあえずは153分という長尺でも、それを感じることはなかったとは言える。
林あまりさんが絶賛していたのは第2章に登場するキャラを演じていた小劇団の人たち(木ノ下歌舞伎という団体?)。第2章は、主人公を挟んで小劇団の人たちが猥歌を聴かせるという場面が賑やかで楽しいところ。タイトルにも『ひかりの歌』とあるだけに短歌だけではなく、音楽も重要な要素となっている。そのほかにもロック調の音楽や、ブルースもある。
原作となっている短歌は、歌人・枡野浩一と監督・杉田協士らが開催した「光」をテーマにしてコンテストにおいて選ばれた4首。
雑誌『キネマ旬報』の星取表ではとても評価が高かった作品。

第1章「反対になった電池が光らない理由だなんて思えなかった」
(原作短歌:加賀田優子)
第2章「自販機の光にふらふら歩み寄りごめんなさいってつぶやいていた」
(原作短歌:宇津つよし)
第3章「始発待つ光のなかでピーナツは未来の車みたいなかたち」
(原作短歌:後藤グミ)
第4章「100円の傘を通してこの街の看板すべてぼんやり光る」
(原作短歌:沖川泰平)
短歌が原作となって出来た映画と聞いて、詩集が原作となった『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年のキネ旬の日本映画ベストテン第1位)を思い出した。『夜空は』のほうは主人公の内面にまで踏み込んでいくが、短歌が原作となっている『ひかりの歌』のほうはもっとドライな感覚で描かれていたように思えた。
たとえば第1章では様々な片想いが描かれているのだが、生徒に告白されたりもする主人公の臨時教員・詩織(北村美岬)の気持ちはどこを向いているのかはわからない。夕食を一緒にしたりもする同僚(廣末哲万)のことを気に掛けているようでもあり、旅に出て行った雪子(笠島智が演じる第3章の主人公)を想っているようでもある。主人公の行動は描かれるが内面が語られることもないのだ。
4つの短歌には、それぞれの原作者の人生の一場面が描写されている。ただ、その場面がどんな状況で、その人がそれまでどんな人生を歩んできたのかは読者にはわからない。本作上映後の監督と歌人の二人(林あまりさんと東直子さん)トークショーでも、短歌では半分くらいは読者が想像で補うべきものだというようなことが語られていた。
なぜ自販機に謝らなければならなかったのか(第2章)、なぜ始発を待たなければならなかったのか(第3章)、そうしたことは読者が自分なりのイメージを膨らませて感じるものということなのだろう。だから、この映画は杉田協士監督が自分なりのイメージを膨らませて出来上がったということになる。
映画は短歌の一場面を利用しているが、その解釈を押し付けるというものではない。主人公となる4人の女性と、その周囲の人たちとの微妙な関係と、短歌に描かれている一場面に至るまでの出来事が描写されていく。それでも第2章の主人公・今日子(伊東茄那)がなぜランニングをしているのかは不明だし、第4章で失踪から戻ってきたらしい旦那(松本勝)が主人公・幸子(並木愛枝)にその理由について語り出すこともない。
短歌の読者が自由に膨らませる部分があるのと同じように、映画の観客がさらに想像をたくましくする部分が多いのだ。とはいえ観客にとってはそこはかとなく感じるものはあるはずで、観客それぞれが自らの人生に引き寄せつつ自由な解釈をすることになる。これはとても贅沢な時間だろう。とりあえずは153分という長尺でも、それを感じることはなかったとは言える。
林あまりさんが絶賛していたのは第2章に登場するキャラを演じていた小劇団の人たち(木ノ下歌舞伎という団体?)。第2章は、主人公を挟んで小劇団の人たちが猥歌を聴かせるという場面が賑やかで楽しいところ。タイトルにも『ひかりの歌』とあるだけに短歌だけではなく、音楽も重要な要素となっている。そのほかにもロック調の音楽や、ブルースもある。
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