『花筐 HANAGATAMI』 女は悲しく、男はかわいそう
大林宣彦監督の最新作。
古里映画『この空の花 長岡花火物語』『野のなななのか』に続く作品。
原作は檀一雄の処女短編集。

前2作と同じように古里映画という形式を採っているのだけれど、原作では舞台は「架空の町であってもよい」と記されているだけで具体的には特定されていない。大林監督がこの作品の脚本を書いたのは、商業デビュー作『HOUSE ハウス』を撮る前のことで、原作者の壇一雄から助言もあって唐津が舞台となったようだ。
ただ唐津らしい風景を切り取るつもりはなかったようで、自由な想像力で様々に唐津の風景がコラージュされた大林ワンダーランドが展開されていくことになる。それでも「唐津くんち」の場面は実際の祭りの風景が捉えられていて賑やかな雰囲気が伝わってくる。
古里映画『この空の花 長岡花火物語』『野のなななのか』では2作とも戦争が題材となっていて、長岡と芦別のそれぞれの戦争の記憶が描かれていた。この『花筐 HANAGATAMI』がちょっと毛色が異なるのは戦争前の話となっているところだろうか。戦争後の話も老いた主人公によってわずかに語られはするけれど、そのほとんどが戦争前の若者たちの青春の描写に費やされる。つまりは決定的な出来事は未だ起きておらず、戦争の予感のなかで展開していく話なのだ。
ちなみに原作では戦争の影はほとんど感じられない。映画で常盤貴子が演じる主人公のおば圭子は未亡人となっているが、原作では夫が死んだ理由は書かれていない。もっとも原作が書かれた時代(日中戦争の前)ならば、戦争は今そこにある危機だったのかもしれない。しかし、現在の読者が読む限りそこに戦争の予感はあまり感じないんじゃないだろうか。
映画では時代が第二次大戦前の1941年に変えられている。印象的なのが「青春が戦争の消耗品だなんてまっぴらだ」という主人公の台詞で、これは原作にはないもので大林監督は戦争の予感のなかの青春を際立たせている。
映画冒頭では大学予備校の授業を抜け出していく3人の男たちのエピソードが描かれる。これは原作では先生の授業が退屈だからというように読めるのだけれど、映画のほうでは戦争の予感が色濃くあるために「こんなことしてはいられない」といった焦燥感が授業を抜け出させたかのように感じられるのだ。

鵜飼(満島真之介)は有り余る生命力をどこに向けて発散していいのか困惑している。対照的に病気で寝てばかりだった吉良(長塚圭史)は虚無僧のようだと形容される屈折したキャラだ。そして主人公・榊山俊彦(窪塚俊介)はそんなふたりに憧れている。
そんな若者の焦燥感は吉良の言葉によく表れている。吉良は鵜飼の「お前は何を待っているんだ」という言葉に対し、「来ないものを待っている」といった禅問答のような回答をする。
戦争は確かに近づいているらしい。それは誰もが感じているし、実際に召集されている人もいる。それでも実際に戦争の只中に行くことになるのかどうかはよくわからない。不治の病で死んでゆくことになる美那(矢作穂香)の死ほど確実ではないし、戦争は近づいているのかしれないけれどそれを信じることもできない。そんなどっちつかずな状態が「来ないものを待っている」という言葉になっているように思えた。
もっともこれも原作にある言葉なのだけれど、映画のなかでは近づく戦争を感じさせる言葉として機能している。だからこそ「女は悲しく、男はかわいそう」という映画オリジナルな台詞も染みるものとなったと思う。男たちは若い時代を戦争で消耗し、女たちは夫を亡くし恋人を奪われることになるのだ。
とにかく大林映画としか言いようのないような作品だった。独特なテンポと台詞回し、アニメとは違うけれど隅々までコントロールされた映像表現で169分もの長尺を見せてしまう。この作品は前2作ほどの情報量ではないけれど、後半は死んでゆく美那の妄想などとも相俟って混沌としてもいる。美那と圭子のヴァンパイアチックな描写とか、丸裸の男ふたりが裸馬に乗って駆けていくといった同性愛を思わせる場面もあったりして、大林監督の妄想が際限なく広がっていくような作品でもあった。
撮影前にはガンが見つかり余命宣告まで受けていたという大林監督だが、作品のテンションはそんなことを感じさせない大作だった。最後に出てきたディレクダーズ・チェアにはどんな意味合いが込められていたのだろうか?
血を吐き若き身空で死んでいく美那を演じるのは、いかにも正統派の美少女の矢作穂香。『江ノ島プリズム』のときは未来穂香という名前だったが、改名したらしい。池畑真之介がママを演じるバーの場面で登場する女の子も印象に残った(地元のエキストラなんだろうか)。やっぱり大林監督は美少女が好きなのね。

古里映画『この空の花 長岡花火物語』『野のなななのか』に続く作品。
原作は檀一雄の処女短編集。

前2作と同じように古里映画という形式を採っているのだけれど、原作では舞台は「架空の町であってもよい」と記されているだけで具体的には特定されていない。大林監督がこの作品の脚本を書いたのは、商業デビュー作『HOUSE ハウス』を撮る前のことで、原作者の壇一雄から助言もあって唐津が舞台となったようだ。
ただ唐津らしい風景を切り取るつもりはなかったようで、自由な想像力で様々に唐津の風景がコラージュされた大林ワンダーランドが展開されていくことになる。それでも「唐津くんち」の場面は実際の祭りの風景が捉えられていて賑やかな雰囲気が伝わってくる。
古里映画『この空の花 長岡花火物語』『野のなななのか』では2作とも戦争が題材となっていて、長岡と芦別のそれぞれの戦争の記憶が描かれていた。この『花筐 HANAGATAMI』がちょっと毛色が異なるのは戦争前の話となっているところだろうか。戦争後の話も老いた主人公によってわずかに語られはするけれど、そのほとんどが戦争前の若者たちの青春の描写に費やされる。つまりは決定的な出来事は未だ起きておらず、戦争の予感のなかで展開していく話なのだ。
ちなみに原作では戦争の影はほとんど感じられない。映画で常盤貴子が演じる主人公のおば圭子は未亡人となっているが、原作では夫が死んだ理由は書かれていない。もっとも原作が書かれた時代(日中戦争の前)ならば、戦争は今そこにある危機だったのかもしれない。しかし、現在の読者が読む限りそこに戦争の予感はあまり感じないんじゃないだろうか。
映画では時代が第二次大戦前の1941年に変えられている。印象的なのが「青春が戦争の消耗品だなんてまっぴらだ」という主人公の台詞で、これは原作にはないもので大林監督は戦争の予感のなかの青春を際立たせている。
映画冒頭では大学予備校の授業を抜け出していく3人の男たちのエピソードが描かれる。これは原作では先生の授業が退屈だからというように読めるのだけれど、映画のほうでは戦争の予感が色濃くあるために「こんなことしてはいられない」といった焦燥感が授業を抜け出させたかのように感じられるのだ。

鵜飼(満島真之介)は有り余る生命力をどこに向けて発散していいのか困惑している。対照的に病気で寝てばかりだった吉良(長塚圭史)は虚無僧のようだと形容される屈折したキャラだ。そして主人公・榊山俊彦(窪塚俊介)はそんなふたりに憧れている。
そんな若者の焦燥感は吉良の言葉によく表れている。吉良は鵜飼の「お前は何を待っているんだ」という言葉に対し、「来ないものを待っている」といった禅問答のような回答をする。
戦争は確かに近づいているらしい。それは誰もが感じているし、実際に召集されている人もいる。それでも実際に戦争の只中に行くことになるのかどうかはよくわからない。不治の病で死んでゆくことになる美那(矢作穂香)の死ほど確実ではないし、戦争は近づいているのかしれないけれどそれを信じることもできない。そんなどっちつかずな状態が「来ないものを待っている」という言葉になっているように思えた。
もっともこれも原作にある言葉なのだけれど、映画のなかでは近づく戦争を感じさせる言葉として機能している。だからこそ「女は悲しく、男はかわいそう」という映画オリジナルな台詞も染みるものとなったと思う。男たちは若い時代を戦争で消耗し、女たちは夫を亡くし恋人を奪われることになるのだ。
とにかく大林映画としか言いようのないような作品だった。独特なテンポと台詞回し、アニメとは違うけれど隅々までコントロールされた映像表現で169分もの長尺を見せてしまう。この作品は前2作ほどの情報量ではないけれど、後半は死んでゆく美那の妄想などとも相俟って混沌としてもいる。美那と圭子のヴァンパイアチックな描写とか、丸裸の男ふたりが裸馬に乗って駆けていくといった同性愛を思わせる場面もあったりして、大林監督の妄想が際限なく広がっていくような作品でもあった。
撮影前にはガンが見つかり余命宣告まで受けていたという大林監督だが、作品のテンションはそんなことを感じさせない大作だった。最後に出てきたディレクダーズ・チェアにはどんな意味合いが込められていたのだろうか?
血を吐き若き身空で死んでいく美那を演じるのは、いかにも正統派の美少女の矢作穂香。『江ノ島プリズム』のときは未来穂香という名前だったが、改名したらしい。池畑真之介がママを演じるバーの場面で登場する女の子も印象に残った(地元のエキストラなんだろうか)。やっぱり大林監督は美少女が好きなのね。
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