『あゝ、荒野 後篇』 ボクシング≒生きること
寺山修司原作、岸善幸監督の『あゝ、荒野 前篇』の続き。

◆親と子の関係
冒頭は競馬のシーン。競馬では血統というものが重要視されるらしい。優秀な血筋の親から生まれた子ならば、子も優秀である可能性が高いということだろう。それでもそうした血に抗おうとする子だっている。鳶(トンビ)から生まれても鷹(タカ)になろうともがくのだ。
前篇から引き続いてこの後篇でも多くの親子関係が描かれている。新次(菅田将暉)とその母・京子(木村多江)、建二(ヤン・イクチュン)とその父・建夫(モロ師岡)、芳子(木下あかり)とその母・セツ(河井青葉)など。それぞれ親が子を棄てたり、子が親を見棄てたりする関係となっているのだが、クライマックスの試合会場ではみんなが勢揃いすることになる。
◆それぞれの戦う理由
新宿新次はボクシングを始めるきっかけでもあった裕二との戦いに向けて気持ちを盛り上げていく。新次は勝つためには何でもするといった戦いを展開し、最後は判定で勝つことになるのだが、新次にとってこの勝利は目標達成により目標を見失うことにもつながる。新次は「これで終わりか」と裕二に問いかけるのだが、その後の新次は一種の燃え尽き症候群となってしまう。
そんな新次の新たな相手として登場するのがバリカン建二だ。ボクシングでは相手を憎まなければ勝つことはできない。しかし建二は最後まで人を憎むことはできない。建二は新次に対する憧れを理由に新次と戦うことになる。
なぜ建二が新次を相手として選んだのか? 建二は吃音の赤面症で、なぜか歩き方すらぎこちない。そんな建二は前篇において自殺抑止研究会の一員として登場した恵子(今野杏奈)とベッドインまでしておきながら、「あなたとはつながれない」と途中で逃げ出してしまう。建二がつながりたかったのは新次という憧れの男のほうなのだ。
建二はベッドの上でも女のなされるがままで、何をやっても常にぎこちなさを感じさせる。ただ建二はボクシングだけは人並み以上なのだ。ボクシングならば自然に身体が動くのだ。建二にとって新次と会話するよりもグローブを交えるほうが多くを語れるということなのだろう。

◆誰と戦うべきなのか
この作品においてボクシングとは生きることそのものだ。生きることは戦うこととも言えるのかもしれない。そんな世界を受け入れられない人は自殺していくことになる。クライマックスの試合は壮絶ではあるけれど、無様なものにも感じられた。というのもこの試合はテクニック以上にふたりの生き方の表れたものであって、その戦いは技の応酬ではなくて感情の応酬だからだ。
だからふたりの試合が終わったときの感覚は、スポ根ものの作品にあるようなカタルシスとは無縁のものとなるだろう。建二は新次とつながろう(=愛されよう)として自殺めいた戦いをすることになるし、新次はそうした意図を知りつつも徹底的に建二を殴り続ける。結果、建二は死んだのかもしれず、新次は呆然としたまま何かを見つめている。
そもそもふたりは戦うべき相手だったのだろうか。新次にとってボクシングは裕二を殺すためのものだったわけで、建二とやりあう必然性はないはずだ。それから建二にとってボクシングは自分を変えるための手段ではあったかもしれないけれど、憧れである新次と戦う必要があったのかはよくわからない。
ちなみに試合会場の外では、前篇から登場していたデモ隊が行進している。彼らの敵は徴兵制度を推進しようとする政府なのかもしれないのだが、その政府の姿は作品中ではよく見えない。さらにそのデモ隊を狙ったのか爆弾テロも発生するものの、これもその意図が明らかになるわけでもない。自分が戦うべき相手のことが見えていないようにも感じられるのだ。

◆負けは必至!
建二は新次とつながりたいと感じ、新次との試合を切望する。試合会場では新次と建二は観客の声援を受け、ふたりはつながることになったのかもしれない。しかし会場に集合したふたりの家族や仲間たちは、結局バラバラのままだ。
ベッドで建二とつながろうした恵子はその会場には来ていないし、後篇の途中で新次の元を去ることになる芳子は会場に姿を見せるものの新次とのコンタクトはない。さらに芳子の母もそこにはいるけれど、母娘は互いにそれに気づくこともない。会場に連れて来られた建二の父は建二の姿を見ることはできないし、ジムの社長(高橋和也)とその愛人である京子も会場では別々の席に座っている。つまりはつながっているのは新次と建二だけで、そのほかは会場入りしていてもバラバラのままなのだ。そうなると建二がつながりを求めたこと自体が勘違いだったようにも思えてくる(人は勘違いや思い込みがあるからこそ生きていけるわけだけれど)。
ボクシングは生きることそのものだと言ったが、生きることは独りで立つことなのだ。ジムの社長は新次に向かってこんな台詞を吐く。「不完全な死体として生まれ、何十年かかって完全な死体となる」と。この戦いでは負けは必至なのだ。そうしたことが受け入れられない人はやはり自殺に走るだろう。でも一方ではそれに抗う人もいる。新次の母・京子は旦那を自殺で亡くすことになるけれど、それでも「生きるって決めたの」と宣言して息子である新次を棄ててまで独りで生きていくことになる。
人生はルールもよくわからぬまま放り出されたリングのようなものなのだ。定められた目標などない。ただ、その世界で生きていくためには戦わなければならない。だから建二と戦い終えたあとの新次の表情にはやりきれないような憮然としたものが感じられなかっただろうか。新次も建二も誰も彼も、わけもわからぬままに戦わざるを得ないからだ。
前篇ほどの高揚感はなかったような気もするけれど、やはり今年を代表する作品のひとつになることは間違いないんじゃないだろうか。5時間以上を費やしても未だまとまりきらない部分もあって、サイドストーリーの自殺抑止研究会のエピソードがどこかへ消えてしまったり、クライマックスのふたりの戦いの間に割り込んでくるデモ隊の場面が(誰もが戦っているという意図はわかるとしても)流れを阻害してしまったりと悪い部分も多々ある。それでも暑苦しいほどの菅田将暉とヤン・イクチュンの戦いには涙を禁じえないものがあったと思う。長丁場を気にしている人には、一度見始めればそんなことは一切気にならないとだけは言っておきたい。



寺山修司の作品


◆親と子の関係
冒頭は競馬のシーン。競馬では血統というものが重要視されるらしい。優秀な血筋の親から生まれた子ならば、子も優秀である可能性が高いということだろう。それでもそうした血に抗おうとする子だっている。鳶(トンビ)から生まれても鷹(タカ)になろうともがくのだ。
前篇から引き続いてこの後篇でも多くの親子関係が描かれている。新次(菅田将暉)とその母・京子(木村多江)、建二(ヤン・イクチュン)とその父・建夫(モロ師岡)、芳子(木下あかり)とその母・セツ(河井青葉)など。それぞれ親が子を棄てたり、子が親を見棄てたりする関係となっているのだが、クライマックスの試合会場ではみんなが勢揃いすることになる。
◆それぞれの戦う理由
新宿新次はボクシングを始めるきっかけでもあった裕二との戦いに向けて気持ちを盛り上げていく。新次は勝つためには何でもするといった戦いを展開し、最後は判定で勝つことになるのだが、新次にとってこの勝利は目標達成により目標を見失うことにもつながる。新次は「これで終わりか」と裕二に問いかけるのだが、その後の新次は一種の燃え尽き症候群となってしまう。
そんな新次の新たな相手として登場するのがバリカン建二だ。ボクシングでは相手を憎まなければ勝つことはできない。しかし建二は最後まで人を憎むことはできない。建二は新次に対する憧れを理由に新次と戦うことになる。
なぜ建二が新次を相手として選んだのか? 建二は吃音の赤面症で、なぜか歩き方すらぎこちない。そんな建二は前篇において自殺抑止研究会の一員として登場した恵子(今野杏奈)とベッドインまでしておきながら、「あなたとはつながれない」と途中で逃げ出してしまう。建二がつながりたかったのは新次という憧れの男のほうなのだ。
建二はベッドの上でも女のなされるがままで、何をやっても常にぎこちなさを感じさせる。ただ建二はボクシングだけは人並み以上なのだ。ボクシングならば自然に身体が動くのだ。建二にとって新次と会話するよりもグローブを交えるほうが多くを語れるということなのだろう。

◆誰と戦うべきなのか
この作品においてボクシングとは生きることそのものだ。生きることは戦うこととも言えるのかもしれない。そんな世界を受け入れられない人は自殺していくことになる。クライマックスの試合は壮絶ではあるけれど、無様なものにも感じられた。というのもこの試合はテクニック以上にふたりの生き方の表れたものであって、その戦いは技の応酬ではなくて感情の応酬だからだ。
だからふたりの試合が終わったときの感覚は、スポ根ものの作品にあるようなカタルシスとは無縁のものとなるだろう。建二は新次とつながろう(=愛されよう)として自殺めいた戦いをすることになるし、新次はそうした意図を知りつつも徹底的に建二を殴り続ける。結果、建二は死んだのかもしれず、新次は呆然としたまま何かを見つめている。
そもそもふたりは戦うべき相手だったのだろうか。新次にとってボクシングは裕二を殺すためのものだったわけで、建二とやりあう必然性はないはずだ。それから建二にとってボクシングは自分を変えるための手段ではあったかもしれないけれど、憧れである新次と戦う必要があったのかはよくわからない。
ちなみに試合会場の外では、前篇から登場していたデモ隊が行進している。彼らの敵は徴兵制度を推進しようとする政府なのかもしれないのだが、その政府の姿は作品中ではよく見えない。さらにそのデモ隊を狙ったのか爆弾テロも発生するものの、これもその意図が明らかになるわけでもない。自分が戦うべき相手のことが見えていないようにも感じられるのだ。

◆負けは必至!
建二は新次とつながりたいと感じ、新次との試合を切望する。試合会場では新次と建二は観客の声援を受け、ふたりはつながることになったのかもしれない。しかし会場に集合したふたりの家族や仲間たちは、結局バラバラのままだ。
ベッドで建二とつながろうした恵子はその会場には来ていないし、後篇の途中で新次の元を去ることになる芳子は会場に姿を見せるものの新次とのコンタクトはない。さらに芳子の母もそこにはいるけれど、母娘は互いにそれに気づくこともない。会場に連れて来られた建二の父は建二の姿を見ることはできないし、ジムの社長(高橋和也)とその愛人である京子も会場では別々の席に座っている。つまりはつながっているのは新次と建二だけで、そのほかは会場入りしていてもバラバラのままなのだ。そうなると建二がつながりを求めたこと自体が勘違いだったようにも思えてくる(人は勘違いや思い込みがあるからこそ生きていけるわけだけれど)。
ボクシングは生きることそのものだと言ったが、生きることは独りで立つことなのだ。ジムの社長は新次に向かってこんな台詞を吐く。「不完全な死体として生まれ、何十年かかって完全な死体となる」と。この戦いでは負けは必至なのだ。そうしたことが受け入れられない人はやはり自殺に走るだろう。でも一方ではそれに抗う人もいる。新次の母・京子は旦那を自殺で亡くすことになるけれど、それでも「生きるって決めたの」と宣言して息子である新次を棄ててまで独りで生きていくことになる。
人生はルールもよくわからぬまま放り出されたリングのようなものなのだ。定められた目標などない。ただ、その世界で生きていくためには戦わなければならない。だから建二と戦い終えたあとの新次の表情にはやりきれないような憮然としたものが感じられなかっただろうか。新次も建二も誰も彼も、わけもわからぬままに戦わざるを得ないからだ。
前篇ほどの高揚感はなかったような気もするけれど、やはり今年を代表する作品のひとつになることは間違いないんじゃないだろうか。5時間以上を費やしても未だまとまりきらない部分もあって、サイドストーリーの自殺抑止研究会のエピソードがどこかへ消えてしまったり、クライマックスのふたりの戦いの間に割り込んでくるデモ隊の場面が(誰もが戦っているという意図はわかるとしても)流れを阻害してしまったりと悪い部分も多々ある。それでも暑苦しいほどの菅田将暉とヤン・イクチュンの戦いには涙を禁じえないものがあったと思う。長丁場を気にしている人には、一度見始めればそんなことは一切気にならないとだけは言っておきたい。
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