『湯を沸かすほどの熱い愛』 ぬくもり程度では納得できない
監督・脚本は『チチを撮りに』の中野量太。『チチを撮りに』は、最初は自主制作としてスタートしたものの、映画祭などで評判がよかったために劇場公開された作品とのこと。
今回の『湯を沸かすほどの熱い愛』が商業映画デビュー作ということになる。

幸野双葉(宮沢りえ)は娘の安澄(杉咲花)とふたりだけの生活。実は1年ほど前に夫が姿を消し、経営する銭湯も休業状態なのだ。そんなある日、双葉はバイト先で突然倒れる。病院で診察を受けると末期がんとの宣告を受け、一度は茫然とする。しかし双葉は絶望することもなく、残された日々でやらなければならないこと考える。
よくある「余命宣告もの」である。日本映画にはなぜこうした題材が多いのだろうか。(*1)そんなふうにいぶかしむほどにこの種の作品は多い。これだけ多いとかえって食傷気味で敬遠されそうでもある。実際にこのブログで取り上げたことのある「余命宣告もの」は、『トイレのピエタ』くらいだろうか。奇しくも『湯を沸かすほどの熱い愛』でも重要な役柄を演じる杉咲花が準主役で、脇役として宮沢りえも顔を出す。
そんなわけで『湯を沸かすほどの熱い愛』という作品もお涙頂戴といった湿っぽい感じになるのを懸念していたのだが、そこはうまく回避していた。主人公の双葉は子供たちには病気のことは一言も告げずに、やるべきミッションを達成していくのだ。
そうしたことを家族は見てきているから、病気がわかってからも最後まで前向きに双葉の死にも立ち向かうことになる。もちろん色々と泣かせるところはあるのだけれど、やるべきことはやりきったという達成感のほうが強く残る。
(*1) 余命宣告ものの映画が多いのは、実際にがんで亡くなる人が多いという現実から生じているのだろう。この作品にもちょっとだけ顔を出しているりりィは昨日がんで亡くなったそうだ。ちょっと前の『リップヴァンウィンクルの花嫁』でも重要な役柄を演じていたのに……。
◆死ぬまでにこなすべきミッション
宮沢りえが演じる双葉という主人公は、世間並みの母親からはズレている。娘の安澄に自分を「お母ちゃん」と呼ばせているあたりは野暮ったいし、対人関係ではおせっかいで押し付けがましい。人から嫌われないように相手の気持ちを慮るような態度とも縁がなさそうだ。
双葉は『死ぬまでにしたい10のこと』のように、自分の欲望に正直になるのではない。多分、そちらのほうが普通なのではないかと思うのだが、双葉は誰かのためにやらなければならないことを数え上げてそれをこなしていくのだ。
まず旦那の一浩(オダギリジョー)を連れ戻し家業である銭湯「幸の湯」を建て直す。学校でいじめに遭っている安澄にはその対処法を授け、一浩の連れ子である鮎子(伊東蒼)をしゃぶしゃぶの儀式で家族として迎い入れる。たまたま出会ったヒッチハイカー(松坂桃李)にはご丁寧にも目標を設定して奮起を促す。そんなふうにして新しく生まれ変わった「幸の湯」と、そこに集う人たちに今後の道筋をつけていくことになる。
※ 以下、ネタバレあり!


◆双葉の極端な対処法
いじめから目を逸らそうとする安澄に対し、双葉は「逃げちゃダメ」と諭す。安澄は「何にもわかってない」と反発するのだが、双葉は半ば強引に安澄を学校へと追いやる。
ここでのいじめに立ち向かうことが大事だという方法論はかなり危険を伴う。逃げ場を失ったことでさらに追い込まれて自殺などというケースなども起こりうるからで、通常ならば逃げ場を与えることが対処法とされているのではないだろうか。
たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ(14歳)はいつも「逃げちゃダメだ」を繰り返していた。同じ言葉でもこちらは「逃げること」の効用を理解している。「逃げること」で一時は楽になるし、それで解決することもあるかもしれない。だからシンジは何度も逃げ出してもいる。それでもほかにエヴァに乗れる人は限られているわけで、自ら納得した上で「逃げちゃダメだ」と自分に言い聞かせていたわけだ。ほかの誰かが「逃げるな」と説教しているわけではない。
そこから考えると双葉のやり方がいかにも極端で無茶があることだとわかるだろう。それでも余命宣告を受けた双葉には時間がないわけで、のんびり時が解決してくれることを待つわけにはいかない。だから双葉の劇薬の役目を果たす必要があったということだろう。
◆「逃げること」の遺伝子
双葉は「立ち向かうこと」を教えるわけだけれど、それには生い立ちに理由があるのかもしれない。というのも新しい幸野家のメンバーには「逃げること」の遺伝子がまとわりついているからだ。
旦那の一浩は家業を放って逃げ出していたし、鮎子の母も鮎子を一浩に押し付けて出て行ってしまった。そして安澄の本当の母親は双葉ではなく、自らの障害を理由にして子育てから逃げてしまった女性だったのだ。さらにはダメ押しで双葉自身も母親から捨てられていたことも明らかになる。
幸野家は頼りないけれど憎めない一浩が生み出してしまった、そんな女性たちの集合体なのだ。幸野家の人々は「逃げること」の遺伝子を受け継いでいるかもしれず、だからこそ双葉は「逃げること」を拒否して「立ち向かうこと」を選んだのかもしれない。
双葉は一浩にはお玉で一撃を喰らわすし、安澄の母・君江(篠原ゆき子)にも無言でビンタをお見舞いし、さらには自分の母親(りりィ)の家にも石を投げつけるほど、「逃げること」に対しては感情的になるのだ。そういう双葉の姿勢があったからこそ、「逃げちゃダメ」という言葉も単なる処世訓以上の強さで家族のみんなに影響を与えていくことになったのだろう。
ラストに関しては10人が10人納得するというものではない。人と人のつながりを確認するのにはハグするというのが一番わかりやすい。たとえば『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』はそういった場面で泣かせるのだが、この『湯を沸かすほどの熱い愛』はそんなぬくもり程度では納得できないとでも言うように極端なほうへと突っ走る。これは逃げないで双葉の死に立ち向かったということだし、双葉の熱い愛は家族に十分に受け継がれたことを示していたと思う。







今回の『湯を沸かすほどの熱い愛』が商業映画デビュー作ということになる。

幸野双葉(宮沢りえ)は娘の安澄(杉咲花)とふたりだけの生活。実は1年ほど前に夫が姿を消し、経営する銭湯も休業状態なのだ。そんなある日、双葉はバイト先で突然倒れる。病院で診察を受けると末期がんとの宣告を受け、一度は茫然とする。しかし双葉は絶望することもなく、残された日々でやらなければならないこと考える。
よくある「余命宣告もの」である。日本映画にはなぜこうした題材が多いのだろうか。(*1)そんなふうにいぶかしむほどにこの種の作品は多い。これだけ多いとかえって食傷気味で敬遠されそうでもある。実際にこのブログで取り上げたことのある「余命宣告もの」は、『トイレのピエタ』くらいだろうか。奇しくも『湯を沸かすほどの熱い愛』でも重要な役柄を演じる杉咲花が準主役で、脇役として宮沢りえも顔を出す。
そんなわけで『湯を沸かすほどの熱い愛』という作品もお涙頂戴といった湿っぽい感じになるのを懸念していたのだが、そこはうまく回避していた。主人公の双葉は子供たちには病気のことは一言も告げずに、やるべきミッションを達成していくのだ。
そうしたことを家族は見てきているから、病気がわかってからも最後まで前向きに双葉の死にも立ち向かうことになる。もちろん色々と泣かせるところはあるのだけれど、やるべきことはやりきったという達成感のほうが強く残る。
(*1) 余命宣告ものの映画が多いのは、実際にがんで亡くなる人が多いという現実から生じているのだろう。この作品にもちょっとだけ顔を出しているりりィは昨日がんで亡くなったそうだ。ちょっと前の『リップヴァンウィンクルの花嫁』でも重要な役柄を演じていたのに……。
◆死ぬまでにこなすべきミッション
宮沢りえが演じる双葉という主人公は、世間並みの母親からはズレている。娘の安澄に自分を「お母ちゃん」と呼ばせているあたりは野暮ったいし、対人関係ではおせっかいで押し付けがましい。人から嫌われないように相手の気持ちを慮るような態度とも縁がなさそうだ。
双葉は『死ぬまでにしたい10のこと』のように、自分の欲望に正直になるのではない。多分、そちらのほうが普通なのではないかと思うのだが、双葉は誰かのためにやらなければならないことを数え上げてそれをこなしていくのだ。
まず旦那の一浩(オダギリジョー)を連れ戻し家業である銭湯「幸の湯」を建て直す。学校でいじめに遭っている安澄にはその対処法を授け、一浩の連れ子である鮎子(伊東蒼)をしゃぶしゃぶの儀式で家族として迎い入れる。たまたま出会ったヒッチハイカー(松坂桃李)にはご丁寧にも目標を設定して奮起を促す。そんなふうにして新しく生まれ変わった「幸の湯」と、そこに集う人たちに今後の道筋をつけていくことになる。
※ 以下、ネタバレあり!


◆双葉の極端な対処法
いじめから目を逸らそうとする安澄に対し、双葉は「逃げちゃダメ」と諭す。安澄は「何にもわかってない」と反発するのだが、双葉は半ば強引に安澄を学校へと追いやる。
ここでのいじめに立ち向かうことが大事だという方法論はかなり危険を伴う。逃げ場を失ったことでさらに追い込まれて自殺などというケースなども起こりうるからで、通常ならば逃げ場を与えることが対処法とされているのではないだろうか。
たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ(14歳)はいつも「逃げちゃダメだ」を繰り返していた。同じ言葉でもこちらは「逃げること」の効用を理解している。「逃げること」で一時は楽になるし、それで解決することもあるかもしれない。だからシンジは何度も逃げ出してもいる。それでもほかにエヴァに乗れる人は限られているわけで、自ら納得した上で「逃げちゃダメだ」と自分に言い聞かせていたわけだ。ほかの誰かが「逃げるな」と説教しているわけではない。
そこから考えると双葉のやり方がいかにも極端で無茶があることだとわかるだろう。それでも余命宣告を受けた双葉には時間がないわけで、のんびり時が解決してくれることを待つわけにはいかない。だから双葉の劇薬の役目を果たす必要があったということだろう。
◆「逃げること」の遺伝子
双葉は「立ち向かうこと」を教えるわけだけれど、それには生い立ちに理由があるのかもしれない。というのも新しい幸野家のメンバーには「逃げること」の遺伝子がまとわりついているからだ。
旦那の一浩は家業を放って逃げ出していたし、鮎子の母も鮎子を一浩に押し付けて出て行ってしまった。そして安澄の本当の母親は双葉ではなく、自らの障害を理由にして子育てから逃げてしまった女性だったのだ。さらにはダメ押しで双葉自身も母親から捨てられていたことも明らかになる。
幸野家は頼りないけれど憎めない一浩が生み出してしまった、そんな女性たちの集合体なのだ。幸野家の人々は「逃げること」の遺伝子を受け継いでいるかもしれず、だからこそ双葉は「逃げること」を拒否して「立ち向かうこと」を選んだのかもしれない。
双葉は一浩にはお玉で一撃を喰らわすし、安澄の母・君江(篠原ゆき子)にも無言でビンタをお見舞いし、さらには自分の母親(りりィ)の家にも石を投げつけるほど、「逃げること」に対しては感情的になるのだ。そういう双葉の姿勢があったからこそ、「逃げちゃダメ」という言葉も単なる処世訓以上の強さで家族のみんなに影響を与えていくことになったのだろう。
ラストに関しては10人が10人納得するというものではない。人と人のつながりを確認するのにはハグするというのが一番わかりやすい。たとえば『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』はそういった場面で泣かせるのだが、この『湯を沸かすほどの熱い愛』はそんなぬくもり程度では納得できないとでも言うように極端なほうへと突っ走る。これは逃げないで双葉の死に立ち向かったということだし、双葉の熱い愛は家族に十分に受け継がれたことを示していたと思う。
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