『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』 巨人の謎、世界の謎
前篇『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』を受けての後篇。
前篇からの期間が短いのはいいのだけれど、前篇が色々な意味で評判が悪かったので、その印象が薄れないうちに公開がかえって逆効果だったのか、公開初日にも関わらず空席が目立つあり様だった。

前篇のほうは突っ込みどころも満載だったけれど圧倒される部分もあった。しかし、この後篇は謎解きと物語を終わらせるのに精一杯で、狭い世界になってしまったように思えた。後篇では人間に見えてしまう通常サイズ巨人がほとんど登場せず、主要キャラ以外のエキストラの姿もなく、ごく限られた範囲の話になっているからだ。そして、エレン(三浦春馬)たちの目的が壁の穴を塞ぐことばかりで、巨人の強大な力を獲得してもやってる仕事に妙にこじんまりとした感があったのは否めない。
原作はまだ終了していないということで、後篇は前篇以上に原作とは別のものとなっている。映画では脚本を担当した町山智浩が巨人の謎を解き明かす独自な展開を考えたようだ(今月の『映画秘宝』にはそのあたりが詳しく書かれている)。特にエレンの兄の存在は映画のオリジナルだ。ただ、それが誰のことなのかはうやむやになってしまう(大体の察しはつくのだがすっきりするわけでもない)。『2001年宇宙の旅』を思わせる白い部屋の場面で明らかにされる過去では、誰が巨人化するのかわからないなどという説明もあったのだが、どのようにしてそれが拡散したのだろうか(巨人化するのはウィルス性の病みたいなものなのだろうか)。
※ 以下、ネタバレもあり!

『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』では、巨人誕生の謎は意外にもすぐに明らかにされる。巨人は人間が人間を薬で改造して作り上げた兵器のようなものだったのだ。しかし脚本の眼目は、それよりも巨人を利用した新たな世界の構築のほうにあるのだろう。
かつては自由で日々進歩していく世界があった。そこでは人間は驕り高ぶって人と争い、他国と戦争を始めたりもする。だから進歩を生み出す科学技術を捨て、昔ながらの生活を取り戻すのをどこかの誰かが選択した。
そのために必要とされたのが巨人の恐怖だ。人間を喰らう巨人という敵を避けるため、人間たちは自分たちを壁の内側へと閉じ込めることになる。そこでは貧しくても皆が平等な世界がある。これは例えれば、焼夷弾を避けて防空壕に逃げ込んだ人間たちが、狭くて不便な防空壕のなかで一時の平安を得ているようなものだ。
しかし巨人の恐怖も長くは続かない。人間は人類の敵のことすら忘れてしまうからだ。恐怖を忘れた人間が外部に興味を抱き、調査兵団が壁の外側へ出ていくことになったとき、壁が壊され再び巨人たちが姿を現すのは、巨人の恐怖を改めて人間に思い知らせるためだ。そして子々孫々にまで恐怖を伝え、壁の外側へ出ようと考えることすらしないように人間を矯正するのだ。
そんなわけで一部の人間が世界をコントロールして、家畜のように人類を飼育しているということが明らかになる。シキシマ(長谷川博己)はそうしたすべてをぶち壊して革命を起こそうと考える(前篇の反乱分子はシキシマの手下だったようだ)。クバル(國村隼)は世界の残酷さには人類は耐えられないからと、壁の内側の世界を保守することを選ぶ。
脚本の町山智浩によれば、これは右と左の対立であり、この映画ではその両翼がぶつかってどちらもつぶれていくことになる。そしてエレンたち若者が未来を担うというのだが、映画ではエレンたちはどっちつかずで壁の穴はふさがれたけれど元の状態に戻っただけのようにも見える。もちろんエレンは壁の外の世界を見ることになったわけで、そこは違うわけだけれどエンドロール後のオチでも明らかなように、世の中を牛耳っているごく一部の人間がいなくなったわけではないのだから。
“特定秘密違反”という言葉が作品のなかに登場するのは、「特定秘密保護法案」を意識しているのだろう。この作品の登場人物は日本人という設定なのだし、壁のなかの世界も日本を意識しているはず。特定の秘密は大衆には知らせずに、ときおり恐怖を煽って大衆をコントロールするというのはまさに日本の現状なのかも。
そんな意味では巨人というのは戦争のメタファーなのかもしれない。それが忘れられてしまったから隣の国が攻めてくるかもしれないという空気を何となく醸成し、安保法案までもなし崩しに変えてしまおうする(あるいは外に出ることで戦争の恐怖を呼び込むつもりなのかもしれない)。壁の内側へ閉じこもるか、世界へ出て行こうとするかでは正反対なのだけれど、恐怖を煽り一部の人間が大衆を支配するという点では似ている。
このあたりにこの作品の社会批判がほの見えなくもないのだけれど、出来上がった作品はあちこちで人間から巨人へと変身する者が現れて、登場人物たちはやたらに叫びまくるばかりといった感じで、つい冷めた目でスクリーンを見つめていたというのが正直なところだろうか。




前篇からの期間が短いのはいいのだけれど、前篇が色々な意味で評判が悪かったので、その印象が薄れないうちに公開がかえって逆効果だったのか、公開初日にも関わらず空席が目立つあり様だった。

前篇のほうは突っ込みどころも満載だったけれど圧倒される部分もあった。しかし、この後篇は謎解きと物語を終わらせるのに精一杯で、狭い世界になってしまったように思えた。後篇では人間に見えてしまう通常サイズ巨人がほとんど登場せず、主要キャラ以外のエキストラの姿もなく、ごく限られた範囲の話になっているからだ。そして、エレン(三浦春馬)たちの目的が壁の穴を塞ぐことばかりで、巨人の強大な力を獲得してもやってる仕事に妙にこじんまりとした感があったのは否めない。
原作はまだ終了していないということで、後篇は前篇以上に原作とは別のものとなっている。映画では脚本を担当した町山智浩が巨人の謎を解き明かす独自な展開を考えたようだ(今月の『映画秘宝』にはそのあたりが詳しく書かれている)。特にエレンの兄の存在は映画のオリジナルだ。ただ、それが誰のことなのかはうやむやになってしまう(大体の察しはつくのだがすっきりするわけでもない)。『2001年宇宙の旅』を思わせる白い部屋の場面で明らかにされる過去では、誰が巨人化するのかわからないなどという説明もあったのだが、どのようにしてそれが拡散したのだろうか(巨人化するのはウィルス性の病みたいなものなのだろうか)。
※ 以下、ネタバレもあり!

『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』では、巨人誕生の謎は意外にもすぐに明らかにされる。巨人は人間が人間を薬で改造して作り上げた兵器のようなものだったのだ。しかし脚本の眼目は、それよりも巨人を利用した新たな世界の構築のほうにあるのだろう。
かつては自由で日々進歩していく世界があった。そこでは人間は驕り高ぶって人と争い、他国と戦争を始めたりもする。だから進歩を生み出す科学技術を捨て、昔ながらの生活を取り戻すのをどこかの誰かが選択した。
そのために必要とされたのが巨人の恐怖だ。人間を喰らう巨人という敵を避けるため、人間たちは自分たちを壁の内側へと閉じ込めることになる。そこでは貧しくても皆が平等な世界がある。これは例えれば、焼夷弾を避けて防空壕に逃げ込んだ人間たちが、狭くて不便な防空壕のなかで一時の平安を得ているようなものだ。
しかし巨人の恐怖も長くは続かない。人間は人類の敵のことすら忘れてしまうからだ。恐怖を忘れた人間が外部に興味を抱き、調査兵団が壁の外側へ出ていくことになったとき、壁が壊され再び巨人たちが姿を現すのは、巨人の恐怖を改めて人間に思い知らせるためだ。そして子々孫々にまで恐怖を伝え、壁の外側へ出ようと考えることすらしないように人間を矯正するのだ。
そんなわけで一部の人間が世界をコントロールして、家畜のように人類を飼育しているということが明らかになる。シキシマ(長谷川博己)はそうしたすべてをぶち壊して革命を起こそうと考える(前篇の反乱分子はシキシマの手下だったようだ)。クバル(國村隼)は世界の残酷さには人類は耐えられないからと、壁の内側の世界を保守することを選ぶ。
脚本の町山智浩によれば、これは右と左の対立であり、この映画ではその両翼がぶつかってどちらもつぶれていくことになる。そしてエレンたち若者が未来を担うというのだが、映画ではエレンたちはどっちつかずで壁の穴はふさがれたけれど元の状態に戻っただけのようにも見える。もちろんエレンは壁の外の世界を見ることになったわけで、そこは違うわけだけれどエンドロール後のオチでも明らかなように、世の中を牛耳っているごく一部の人間がいなくなったわけではないのだから。
“特定秘密違反”という言葉が作品のなかに登場するのは、「特定秘密保護法案」を意識しているのだろう。この作品の登場人物は日本人という設定なのだし、壁のなかの世界も日本を意識しているはず。特定の秘密は大衆には知らせずに、ときおり恐怖を煽って大衆をコントロールするというのはまさに日本の現状なのかも。
そんな意味では巨人というのは戦争のメタファーなのかもしれない。それが忘れられてしまったから隣の国が攻めてくるかもしれないという空気を何となく醸成し、安保法案までもなし崩しに変えてしまおうする(あるいは外に出ることで戦争の恐怖を呼び込むつもりなのかもしれない)。壁の内側へ閉じこもるか、世界へ出て行こうとするかでは正反対なのだけれど、恐怖を煽り一部の人間が大衆を支配するという点では似ている。
このあたりにこの作品の社会批判がほの見えなくもないのだけれど、出来上がった作品はあちこちで人間から巨人へと変身する者が現れて、登場人物たちはやたらに叫びまくるばかりといった感じで、つい冷めた目でスクリーンを見つめていたというのが正直なところだろうか。
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