『レヴェナント:蘇えりし者』 ディカプリオ、何もそこまでしなくても……

 アカデミー賞作品賞を獲得した『バードマン』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの最新作。
 この作品はイニャリトゥに2年連続のアカデミー賞監督賞をもたらしたほか、主演男優賞と撮影賞などのアカデミー賞5部門を受賞した。
 音楽には坂本龍一も参加している。

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 『レヴェナント:蘇えりし者』 この映画でアカデミー賞主演男優賞を獲得したレオナルド・ディカプリオ。

 物語は単純で、一言で表せば復讐劇である。グリズリーに襲われて瀕死の重傷を負ったため、仲間のフィッツジェラルド(トム・ハーディ)から見放されたヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)は、動けない状態のまま息子を殺されるのを目にする。瀕死の状態にあったグラスはそのまま凍てついた大地に置き去りされるものの、息子の仇を討ちたいという気持ちが彼を蘇らせる。
 冒頭のネイティブ・アメリカン襲撃シークエンスの長回しで一気に物語の世界に引き込まれる。その後は主役を演じたディカプリオの独壇場で、台詞はあまりないものの艱難辛苦に耐え抜く表情で157分を引っ張っていく。グリズリーに散々かわいがられても死なないのは信じられないことだが、この作品は事実をもとにしているらしい(原作は『蘇った亡霊:ある復讐の物語』という小説)。瀕死の傷を負いながらも仇討ちのために匍匐前進していく不屈の精神には恐れ入った。

 この作品でアカデミー賞の主演男優賞を獲得したディカプリオだが、グリズリーに小突かれ振り回されるのが評価されたのかはともかくとして、実際に氷点下の撮影現場で過酷な試練をこなしているのも確かで、ほとんどスタントなしで本人がやっているのだからその根性は認めるほかないだろう。
 個人的には寒さだけでも遠慮したいところだが、川に落とされてみたり、土に埋められてみたり、食べ物がないために草を喰い、バイソンの生レバーまでむさぼり喰うのだから、さすがのアカデミー会員も根負けしての主演男優賞受賞というところだろうか(『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』を思わせるサバイバル術として、馬の腹のなかで一晩過ごす場面も強烈だった)。

『レヴェナント:蘇えりし者』 バッフォローの骨の山が……。自然光を使った撮影が見事。

 とにかく撮影の素晴らしさは圧倒的で、撮影監督のエマニュエル・ルベツキがアカデミー賞において3年連続の撮影賞獲得という史上初の快挙を成し遂げたのも納得だった。『ゼロ・グラビティ』は宇宙が舞台でCGに頼ったものだったが、『バードマン』は室内だけの全編ワンカットという技巧を凝らした作品だった。さらに今回は大自然こそが主役とも言えるほどに壮大な風景を捉えていて、前二作とはまったく違った映像を生み出している。
 この作品は自然光だけを使いマジックアワーと呼ばれる時間帯に撮影されたのだという。かつてそうしたアプローチで評価されたのがテレンス・マリック『天国の日々』(撮影監督はネストール・アルメンドロス)だったわけだが、『レヴェナント:蘇えりし者』はそんなテレンス・マリックを意識したような映像となっていたように思えた。
 というのもエマニュエル・ルベツキはすでにテレンス・マリックとのコンビで『ニュー・ワールド』『ツリー・オブ・ライフ』『トゥ・ザ・ワンダー』を撮っているし、そのときのプロダクションデザインのジャック・フィスクも『レヴェナント』に参加しているからだ。
 『ニュー・ワールド』も開拓地の風景を美しく描いていたが、『レヴェナント』はそれ以上の未開の地の厳しさが捉えられていて神秘的な美しさを感じさせる。それからテレンス・マリックほど宗教に傾いてはいないけれど、しきりに空を見上げるようなカットが挟まれるのは神に何かを祈るような『ツリー・オブ・ライフ』を思わせもし、『レヴェナント』はイニャリトゥ色よりもエマニュエル・ルベツキの手腕が際立っていたようにも見えた。広角レンズを使用したパンフォーカスで画面の隅々までクリアな映像を見せてくれるので、ぜひとも映画館の大きなスクリーンで観ておきたい作品になっていると思う。

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Date: 2016.04.26 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (10)

ラーマン版『華麗なるギャツビー』 豪華絢爛たるディカプリオのギャツビー

 バズ・ラーマン監督作品。主演は『ロミオ+ジュリエット』でもコンビを組んだレオナルド・ディカプリオ。原作はスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』であり、この作品は五度目の映画化。有名なのは1974年のレッドフォード主演のものだが、それですら一般的にはあまり評判がよくないらしい。さて、今回のラーマン=ディカプリオ版は?

バズ・ラーマン作品『華麗なるギャツビー』 


 物語は、語り手であるニック・キャラウェイ(トビー・マグワイア)が謎めいた人物であるギャツビー(ディカプリオ)について語るところから始まる。そして「「こんなものは絶対に我慢ならない」と考えるすべてを、そのまま具現化したような存在」(原作より)であったはずのギャツビーを、ニックがなぜ「偉大なギャツビー」と讃えるようになるのかが描かれる。



※物語は周知のものであるから、以下まとまりのない雑多な感想をいくつか。ネタバレもあり。


◆ ギャツビーの造形
 映画全体の雰囲気はレッドフォード版のほうがまっとうだと思うが、ギャツビーの造形という点で言えばディカプリオ版『華麗なるギャツビー』のほうがよかった。レッドフォード版のギャツビーはあまりに澄ましていて、ほとんど崩れることがない。一方、ディカプリオのギャツビーはレッドフォード版では見えなかった裏の顔も透けて見えるけれど、お茶会のシーンなど妙にかわいらしい部分がある。皇帝の甥だとか、殺人者などと噂されるギャツビーにそんな意外な部分があるからこそ、語り手であるニックも惹かれていくのだと思うのだ。
 あれだけ豪華な城を構え盛大なパーティを催して望むことが、かつて愛したデイジーとのお茶会なのだ。ささやかな願いじゃないだろうか。真っ白いスーツをあんなに着こなせるのもディカプリオならではだろうし、久しぶりのデイジーに恐れをなして雨の中を庭へと逃げ出して濡れ鼠のようになってしまう狼狽ぶりがいい。ギャツビーがとてもいじらしい人物と思える。幸福の絶頂といった感じの見つめ合うふたりの姿も含めて、とても楽しい場面だ。突っ込みどころも多いけれど、142分を飽きさせない。

◆ お祭り騒ぎと文学作品
 お祭り騒ぎは監督バズ・ラーマンの得意分野だ。豪華絢爛のパーティ場面では、ミュージカルをやりたそうにも見える。『ムーラン・ルージュ』もそうだが、処女作『ダンシング・ヒーロー』もミュージカル(というかダンスの映画)であり、とにかく楽しいのだ。しかし、『華麗なるギャツビー』は古典文学の映画化だけに、お祭り騒ぎだけに終わらせるわけにもいかない。
 ミュージカルは基本的にはお祭り騒ぎが盛り上がればいいわけだが、この作品ではそれは背景にすぎない。お祭り騒ぎはデイジーのための撒き餌みたいなものなのだ。だからお祭り騒ぎを盛り上げることだけに徹するわけにもいかず、騒ぎのなかにニックの文学的なナレーションが混じるのだが、それがちぐはぐな印象を与えているのかもしれない。

『華麗なるギャツビー』 ギャツビーの派手な登場シーン

 ラーマンは原作への思い入れが強いのか、原作の印象的な場面を忠実に映像化しようとする。湾の向こうの緑の灯火に手を伸ばす場面や、ニックがギャツビーに賛辞を贈る場面など。そのほかにもギャツビーの登場場面は、原作ではこう描かれている。

 彼はとりなすようににっこりと微笑んだ。いや、それはとりなすなどという生やさしい代物ではなかった。まったくのところそれは、人に永劫の安堵を与えかねないほどの、類い稀な微笑みだった。そんな微笑みには一生のあいだに、せいぜい四度か五度くらいしかお目にかかれないはずだ。 (『グレート・ギャツビー』 訳:村上春樹)


 このあともっと続くのだが、ラーマンはこうした文学的言辞を映像化することに苦心している。背景に打ちあがる花火の前で、ディカプリオがこれ以上ないくらいの微笑みを見せるのだが、けれん味あふれるラーマン演出とはいえ大げさすぎてマンガみたいだった。
 一方では、脚本も担当しているラーマンは、映像に工夫を凝らすのではなく、原作の文章をそのまま映画のナレーションにも使用している。『ロミオ+ジュリエット』では難解な古語を現代の若者に語らせていたが、それはシェクスピアの書いたものが戯曲だからこそ成立したのかもしれない。古語とはいえ、役者が読み上げることを意図して書かれているからだ。しかし『華麗なるギャツビー』は小説であり、聞き流すには(もしくは字幕で読むには)難解な箇所もあって、そうした文章を映像に重ねるのが効果的かは疑問だ。(*1)

(*1) そんな箇所に関してひとつ疑問を。
 ギャツビーがデイジーとの想い出(最初のキス)を語る場面では、ニックはこんなふうに語る。「彼女は彼の花になり、神は人間に化身した」。ちなみに原作ではこうなる。

Then he kissed her. At his lips’ touch she blossomed for him like a flower and the incarnation was complete.
(それから彼女に口づけをした。唇と唇が触れた瞬間、彼女は花となり、彼のために鮮やかな蕾を開いた。そのように化身は完結した。) 訳:村上春樹


 字幕の間違いなのか、ラーマンの脚本にそう書かれているのか、英語を聞き取ることのできない私には判断がつかなかったが、もし脚本に「神は人間に化身した」と記されていたとすれば、ギャツビーは「神になろうとした男」ということになるだろう。
 そんな解釈もまったく不可能ではなさそうで、この映画では、ニックはギャツビーに出会う前からその視線を感じている。こうしたギャツビーの視線は、神の視線と重ね合わせになっているとも言える。神の視線とは、原作にも登場する看板「エックルバーグ博士の眼」のことだ。この看板は、ギャツビーを銃撃することになるウィルソンが語るように、「神様はすべてをごらんになっている」という神の視線を象徴したものだった。
 ギャツビーはデイジーにも「多くを望みすぎる」と非難されるが、それは彼が「神になろうとした男」だからだ。ギャツビーは自分の視線の届く範囲においては(もちろんすべてを見渡せるわけではない)、自分の思い通りに事を進めたいと考えている。そうしたことがよく表れているのが「過去はくり返せる」という台詞なのだ。「過去はくり返せる」とは、端的には叶わなかった恋をやり直すことだが、過去にもう一度戻ってすべてをやり直すことは神でもなければできないことだ。もしかするとラーマン版ではそんな意味合いを込められているのかもしれない。単に字幕の間違いだとすれば、私の思い込みだが……。


◆ ラーマン版『華麗なるギャツビー』の独自のラストについて
 ラスト、ギャツビーはデイジーからの電話を待っている。ようやく通じた電話を「ギャツビーさまもお喜びに」などと召し使いが取り次ぐ。ここではデイジーが電話をかけていると思わせる編集がなされている(実際に電話の向こうにいたのはニック)。
 ギャツビーはデイジーからの電話だと信じたまま、銃で打たれてプールに沈む。電話に出られなかったからこそ、ギャツビーは最後まで失望とは無縁のままなのだ。これは「希望を見いだす非凡な才能」というギャツビーの偉大な部分を讃えているのだと思う。ディカプリオの目は緑色に輝いたまま。それは湾の向こう側にある緑の灯火の反映のようだった。
 このすれ違いの演出は『ロミオ+ジュリエット』の逆パターンのようだ。原作とは異なるラストを用意したラーマン版『ロミオ+ジュリエット』では、本来すれ違うはずのふたりが一瞬だけ時を共にする。(*2)そして間違いを犯したことに気づいて絶望的に死んでいく。反対に『華麗なるギャツビー』では、すれ違うことでギャツビーの偉大な部分は汚されず、希望を抱いたまま死んでいったのではないか。

(*2) 原作では、薬で眠っているジュリエットを見たロミオが毒薬を飲んで死に、その後で意識を回復したジュリエットがロミオの死体を見て後を追う。ふたりはすれ違っている。

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バズ・ラーマンの作品
ディカプリオの主演作品
Date: 2013.06.22 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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