モーリス・ピアラ 『愛の記念に』ほか ソフィー・マルソーにつられて……
日本ではあまり知られていないモーリス・ピアラの4作品が、ようやく昨年12月にレンタルも開始された。モーリス・ピアラは本国フランスでは評価が高く、ゴダールも『ヴァン・ゴッホ』の際にその作品を賛辞する手紙をピアラに送っているのだとか。

『愛の記念に』
今回観ることのできた4作品のなかで、特に気に入ったのは『愛の記念に』。この作品はピアラが日本で初めて紹介された作品とのこと。
主人公シュザンヌ(サンドリーヌ・ボネール)の奔放な男性遍歴の話とも言えるし、シュザンヌの家族たちの話とも言えるのだが、その展開はかなり混沌としている。
シュザンヌはひとりの青年を愛しているのだけれど、彼と寝ることはせずにほかの男ばかりを相手にする。行きずりの男とは寝ても、そのあとに彼に怒られると涙を見せたりする。自分のやっていることがよくわかっていないのだ。それと同じようにこの映画の展開も混沌としているのかもしれない。
父親(モーリス・ピアラ本人が演じる)が「うんざりした」と言い出して突然家出をしてしまうと、家族の関係もおかしくなる。母親は狂いだし、家長を任された兄は父親の役割をしようとしてかシュザンヌに強権的に振舞うようになる。このあたりの家族の壊れっぷりは凄まじい。シュザンヌに結婚相手が決まり、ようやく家庭に落ち着きが戻ったころ、父親がふらりと戻ってくる。そして、場をわきまえない発言をして家族たちをやりこめていく。
モーリス・ピアラは『悪魔の陽の下に』という作品でカンヌ映画祭のパルムドールを獲得したときの発言が有名とのこと。観客のブーイングに対して、ピアラは「あなた方が私を嫌うなら、私もあなた方が嫌いだ」だと言い放ったらしいのだが、その偏屈なところが『愛の記念に』もよく出ている気がする。人間嫌いというか、決まりきった社会規範みたいなものにうんざりしているのだろうか。ピアラ本人が演じる父親は、母親や兄よりも自由奔放でトラブルメーカーのシュザンヌには優しい顔を見せる。そのあたりに共感できる人にはお薦めかと思うが、ほどよく常識的な感覚の持ち主には反感を買うかもしれない。私はもちろん共感した。



『ポリス』
この作品は以前にビデオで販売されていて、かつては『ソフィー・マルソーの刑事物語』という題名だった(結局ソフトは『ソフィー・マルソーの刑事物語』という昔の名前で出ている)。私もその昔ソフィー・マルソー目当てで観た記憶はあるのだけれど、『ラ・ブーム』のようなソフィー・マルソーとはまったく違っていてがっかりだったような……。
今回久しぶりに観直してみると、後半のソフィー・マルソーとジェラール・ドパルドューのふたりに焦点が合ってきてからがよかった(前半は登場人物も多く、ドパルドューはあちこちの女に気を回しているし、何だかよくわからない)。ソフィー・マルソー演じる主人公は麻薬を扱うアラブ人たちと、その悪徳弁護士と、それを追う刑事とを、それぞれ手玉に取るような悪い女なのだけれど、それを自覚しているようでもない。
変な髪形とおしゃれとはかけ離れた衣装で、周囲の男たちを振り回すほどの魅力のあるようには見えないのだ。それでも保身のためにドパルドューに身を任せるようになると、それを自身が本気で信じてしまっているようにも感じられ、「愛なんて」と語っていたドパルドューでなくとも引き込まれるところがあったと思う。


『悪魔の陽の下に』
神とか悪魔とか奇跡とか、日本に住む凡庸な人間としてはなかなか共感性に乏しい作品。寒々しい雰囲気の撮影はよかったと思う(カメラはウィリー・クラン)。
それから独特の編集にはまごついた。ドパルドュー演じる神父が視線を上げると、その視線の先に登場するのがサンドリーヌ・ボネールなのだが、実際に神父が彼女を見ているわけではなく、まったく別の場面が展開している(その後、ふたりは出遭うことになるわけだけれど)。ほかの作品にもそうした編集はあって、ピアラ作品独特のものらしい。
『ポリス』や『愛の記念に』にも登場するサンドリーヌ・ボネールは、この作品でもどこか邪悪なものを感じさせる。パトリス・ルコント『仕立て屋の恋』なんかではとてもきれいという印象しかなかったのだが、ピアラ作品のサンドリーヌ・ボネールは邪悪なものを感じさせつつ、どこか無垢なものを残しているという厄介な存在のようだ。人間がそうした両極端な部分を持つからこそ、神とか悪魔とかが題材とされているのだろうか?


『ヴァン・ゴッホ』
ピアラ後期の傑作とされる作品。
ゴッホの最後の2週間を描いているのだが、自殺することになるゴッホは、酒場でのダンスなど充実した生活をしているようにも見える。印象派の絵画のような美しい場面が続く(印象派のことはよく知らないけれど)。
ゴッホを「親しい人だった」と振り返るマルグリットを演じたアレクサンドラ・ロンドンが個人的には好みだった。



『愛の記念に』
今回観ることのできた4作品のなかで、特に気に入ったのは『愛の記念に』。この作品はピアラが日本で初めて紹介された作品とのこと。
主人公シュザンヌ(サンドリーヌ・ボネール)の奔放な男性遍歴の話とも言えるし、シュザンヌの家族たちの話とも言えるのだが、その展開はかなり混沌としている。
シュザンヌはひとりの青年を愛しているのだけれど、彼と寝ることはせずにほかの男ばかりを相手にする。行きずりの男とは寝ても、そのあとに彼に怒られると涙を見せたりする。自分のやっていることがよくわかっていないのだ。それと同じようにこの映画の展開も混沌としているのかもしれない。
父親(モーリス・ピアラ本人が演じる)が「うんざりした」と言い出して突然家出をしてしまうと、家族の関係もおかしくなる。母親は狂いだし、家長を任された兄は父親の役割をしようとしてかシュザンヌに強権的に振舞うようになる。このあたりの家族の壊れっぷりは凄まじい。シュザンヌに結婚相手が決まり、ようやく家庭に落ち着きが戻ったころ、父親がふらりと戻ってくる。そして、場をわきまえない発言をして家族たちをやりこめていく。
モーリス・ピアラは『悪魔の陽の下に』という作品でカンヌ映画祭のパルムドールを獲得したときの発言が有名とのこと。観客のブーイングに対して、ピアラは「あなた方が私を嫌うなら、私もあなた方が嫌いだ」だと言い放ったらしいのだが、その偏屈なところが『愛の記念に』もよく出ている気がする。人間嫌いというか、決まりきった社会規範みたいなものにうんざりしているのだろうか。ピアラ本人が演じる父親は、母親や兄よりも自由奔放でトラブルメーカーのシュザンヌには優しい顔を見せる。そのあたりに共感できる人にはお薦めかと思うが、ほどよく常識的な感覚の持ち主には反感を買うかもしれない。私はもちろん共感した。
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『ポリス』
この作品は以前にビデオで販売されていて、かつては『ソフィー・マルソーの刑事物語』という題名だった(結局ソフトは『ソフィー・マルソーの刑事物語』という昔の名前で出ている)。私もその昔ソフィー・マルソー目当てで観た記憶はあるのだけれど、『ラ・ブーム』のようなソフィー・マルソーとはまったく違っていてがっかりだったような……。
今回久しぶりに観直してみると、後半のソフィー・マルソーとジェラール・ドパルドューのふたりに焦点が合ってきてからがよかった(前半は登場人物も多く、ドパルドューはあちこちの女に気を回しているし、何だかよくわからない)。ソフィー・マルソー演じる主人公は麻薬を扱うアラブ人たちと、その悪徳弁護士と、それを追う刑事とを、それぞれ手玉に取るような悪い女なのだけれど、それを自覚しているようでもない。
変な髪形とおしゃれとはかけ離れた衣装で、周囲の男たちを振り回すほどの魅力のあるようには見えないのだ。それでも保身のためにドパルドューに身を任せるようになると、それを自身が本気で信じてしまっているようにも感じられ、「愛なんて」と語っていたドパルドューでなくとも引き込まれるところがあったと思う。
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『悪魔の陽の下に』
神とか悪魔とか奇跡とか、日本に住む凡庸な人間としてはなかなか共感性に乏しい作品。寒々しい雰囲気の撮影はよかったと思う(カメラはウィリー・クラン)。
それから独特の編集にはまごついた。ドパルドュー演じる神父が視線を上げると、その視線の先に登場するのがサンドリーヌ・ボネールなのだが、実際に神父が彼女を見ているわけではなく、まったく別の場面が展開している(その後、ふたりは出遭うことになるわけだけれど)。ほかの作品にもそうした編集はあって、ピアラ作品独特のものらしい。
『ポリス』や『愛の記念に』にも登場するサンドリーヌ・ボネールは、この作品でもどこか邪悪なものを感じさせる。パトリス・ルコント『仕立て屋の恋』なんかではとてもきれいという印象しかなかったのだが、ピアラ作品のサンドリーヌ・ボネールは邪悪なものを感じさせつつ、どこか無垢なものを残しているという厄介な存在のようだ。人間がそうした両極端な部分を持つからこそ、神とか悪魔とかが題材とされているのだろうか?
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『ヴァン・ゴッホ』
ピアラ後期の傑作とされる作品。
ゴッホの最後の2週間を描いているのだが、自殺することになるゴッホは、酒場でのダンスなど充実した生活をしているようにも見える。印象派の絵画のような美しい場面が続く(印象派のことはよく知らないけれど)。
ゴッホを「親しい人だった」と振り返るマルグリットを演じたアレクサンドラ・ロンドンが個人的には好みだった。
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