『ハッピーエンド』 今度は皮肉が含まれている
『白いリボン』『愛、アムール』などのミヒャエル・ハネケ監督の最新作。

『ハッピーエンド』ではフランス北部の町カレーのブルジョア一家が描かれる。家長のジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)はすでに引退しており、娘のアンヌ(イザベル・ユペール)がその建設会社を受け継いでいる。その弟のトマ(マチュー・カソヴィッツ)は医者で、二度目の妻と暮らしていたのだが、トマの最初の結婚のときの娘エヴ(ファンティーヌ・アルデュアン)が訳あって一緒に暮らすことになる。
家業の建設会社では現場で大きな事故があり、アンヌやその息子が対応に追われているのだが、彼らはそれ以外にも様々問題を抱えている。トマは浮気をしているし、ジョルジュは自殺を試みたりもする。しかしながら、彼らはひとつ屋根の下に居ながらもそれらの問題を面と向かって話し合ったりすることはなく、SNSなどのコミュニケーションツールでのほかの誰かとのやりとりで憂さを晴らしている。
エヴは元々母親と暮らしていたのだけれど、口うるさい母親に嫌気がさしたのか、ハムスターを薬で「静かにさせた」のと同様に、母親のことも「静かにさせた」などと恐ろしい内容をSNSにアップしたりもしている。作品内では実際に母親に薬を盛るシーンはないものの、母親は病院送りとなり死んでしまうことになる。
◆『愛、アムール』の続編?
『愛、アムール』以来の5年ぶりのミヒャエル・ハネケの新作。この作品でも『愛、アムール』の主演だったジャン=ルイ・トランティニャンが登場し、娘役にはイザベル・ユペールという『愛、アムール』と同じ組み合わせとなっている(役名まで同じ)。
さらにジョルジュが抱えた秘密が後半で明らかになるのだが、これも『愛、アムール』のジョルジュを引き継いだような形ともなっていて、まるで『愛、アムール』の続編のような趣きとなっている(実際にはまったく別の話)。
『愛、アムール』では、ジョルジュは愛するがゆえに妻を殺してしまう。私は勝手にジョルジュも死んだんじゃないだろうかと推測していたのだけれど、『ハッピーエンド』のジョルジュは妻を殺しつつも生き永らえているという設定となっている。
※ 以下、ネタバレもあり!

◆「現実」と「撮影された映像」
ハネケ作品では「作品内の現実」とは別の「撮影された映像」が度々導入されることになる。もちろん映画はすべてが「撮影された映像」であるから、それを区別することができない場合もあって、それが『隠された記憶』ではうまく機能していた(『ミヒャエル・ハネケの映画術』のレビュー参照)。
この作品でも冒頭に登場するのは、エヴがスマホで撮影した母親やハムスターの映像だ。チラシにも使用されている細長い画面は、スマホの映像をそのまま取り入れているから。ほかにも建設現場の監視カメラの映像のなかでは、土砂崩れが発生する瞬間が捉えられる。スマホの画像はその形状からも明らかだし、監視カメラの映像も画面に時間が表示されることで、「作品内の現実」とは明確に区別がなされている。
そのためこの作品では『隠された記憶』のように「作品内の現実」と「撮影された映像」のレベルが混沌としてくるようなことはない。それでもこの作品のキモであるジョルジュとエヴの対話のなかでは、「作品内の現実」と「撮影された映像」との違いが語られることになる。
◆ジョルジュがエヴに伝えたかったこと
エヴは父親のトマが浮気をしていることを知り、自分が棄てられるのではないかと恐れ、自殺をすることで父親の注意を引く。トマはそんなエヴのことが理解できずに、ジョルジュに助けを求め、ジョルジュがエヴと話し合うことになる。
ジョルジュはエヴのSNSなど知るはずもないのだけれど、自殺を仕出かした者同士だからか、彼女のことをすべてお見通しであるかのように語りかける。そこで語られることになるのが、ジョルジュがかつて自分の妻を殺したという事実だ。
そしてそれに続くのが、野生の鳥の話だ(『愛、アムール』でも鳩のエピソードが印象的だった)。野生のなかでは大きな鳥は小さな鳥を餌とする。たとえばそれをテレビのドキュメンタリー番組として見るならば、弱肉強食の野生の掟を示すものとして理解できる。しかしそれが実際に自分の目の前で起きている現実だとすると震えてしまう。そんなことをジョルジュは告白するのだ。
「現実」と「撮影された映像」との差異がジョルジュの告白のなかには示されている。「撮影された映像」となれば何となく受け入れてしまうこともできるけれど、むき出しの現実には震える。ジョルジュはそんなふうに語りかけるのだ。
エヴがSNSでやっていることはむき出しの現実を直視しようとはせず、スマホのカメラを通して現実を受け入れやすくするということなのかもしれないのだ(別の言い方をすれば現実逃避とも)。最後にジョルジュはエヴの手を借りて再び自殺を図ることになるのだけれど、エヴはジョルジュに怨みはないわけでその行動に戸惑ってもいる。エヴがその自殺の様子をスマホで撮影するのは悪趣味とも言えるけれど、エヴなりのむき出しの現実に対する対処の仕方だったようにも思えるのだ。
一方でジョルジュはむき出しの現実と向き合ってきたという自負があるのかもしれない。だからこそ過去をエヴに語ることも辞さなかったし、それを悔いることもない(自殺は自由が奪われてしまうのを拒むということであって、妻を殺したことを悔いるからではないのだろう)。ジョルジュとしては老婆心ながら、むき出しの現実とぶつかることのススメをエヴに説いたということなのだろう。
これはいつも不快な映画ばかり撮ると言われているハネケの姿勢そのものでもあるのだろう。老夫婦の幻想が描かれる『愛、アムール』は例外的な作品であり、『ハッピーエンド』も嫌な現実を見せつけられる作品となっている。当然、タイトルには皮肉が含まれてもいるのだろう。ラストの青空はハッピーエンドにふさわしい色合いだけれど、起きている出来事はスッキリさせてくれるようなものではないのだ。
『少女ファニーと運命の旅』ではしっかり者の姉と無邪気な妹の間で、美形でもちょっと影が薄かったファンティーヌ・アルデュアンだけれど、今回の作品では作品の核となる微妙な年頃の少女そのものといった感じでインパクトを残したと思う。


ミヒャエル・ハネケの作品


『ハッピーエンド』ではフランス北部の町カレーのブルジョア一家が描かれる。家長のジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)はすでに引退しており、娘のアンヌ(イザベル・ユペール)がその建設会社を受け継いでいる。その弟のトマ(マチュー・カソヴィッツ)は医者で、二度目の妻と暮らしていたのだが、トマの最初の結婚のときの娘エヴ(ファンティーヌ・アルデュアン)が訳あって一緒に暮らすことになる。
家業の建設会社では現場で大きな事故があり、アンヌやその息子が対応に追われているのだが、彼らはそれ以外にも様々問題を抱えている。トマは浮気をしているし、ジョルジュは自殺を試みたりもする。しかしながら、彼らはひとつ屋根の下に居ながらもそれらの問題を面と向かって話し合ったりすることはなく、SNSなどのコミュニケーションツールでのほかの誰かとのやりとりで憂さを晴らしている。
エヴは元々母親と暮らしていたのだけれど、口うるさい母親に嫌気がさしたのか、ハムスターを薬で「静かにさせた」のと同様に、母親のことも「静かにさせた」などと恐ろしい内容をSNSにアップしたりもしている。作品内では実際に母親に薬を盛るシーンはないものの、母親は病院送りとなり死んでしまうことになる。
◆『愛、アムール』の続編?
『愛、アムール』以来の5年ぶりのミヒャエル・ハネケの新作。この作品でも『愛、アムール』の主演だったジャン=ルイ・トランティニャンが登場し、娘役にはイザベル・ユペールという『愛、アムール』と同じ組み合わせとなっている(役名まで同じ)。
さらにジョルジュが抱えた秘密が後半で明らかになるのだが、これも『愛、アムール』のジョルジュを引き継いだような形ともなっていて、まるで『愛、アムール』の続編のような趣きとなっている(実際にはまったく別の話)。
『愛、アムール』では、ジョルジュは愛するがゆえに妻を殺してしまう。私は勝手にジョルジュも死んだんじゃないだろうかと推測していたのだけれど、『ハッピーエンド』のジョルジュは妻を殺しつつも生き永らえているという設定となっている。
※ 以下、ネタバレもあり!

◆「現実」と「撮影された映像」
ハネケ作品では「作品内の現実」とは別の「撮影された映像」が度々導入されることになる。もちろん映画はすべてが「撮影された映像」であるから、それを区別することができない場合もあって、それが『隠された記憶』ではうまく機能していた(『ミヒャエル・ハネケの映画術』のレビュー参照)。
この作品でも冒頭に登場するのは、エヴがスマホで撮影した母親やハムスターの映像だ。チラシにも使用されている細長い画面は、スマホの映像をそのまま取り入れているから。ほかにも建設現場の監視カメラの映像のなかでは、土砂崩れが発生する瞬間が捉えられる。スマホの画像はその形状からも明らかだし、監視カメラの映像も画面に時間が表示されることで、「作品内の現実」とは明確に区別がなされている。
そのためこの作品では『隠された記憶』のように「作品内の現実」と「撮影された映像」のレベルが混沌としてくるようなことはない。それでもこの作品のキモであるジョルジュとエヴの対話のなかでは、「作品内の現実」と「撮影された映像」との違いが語られることになる。
◆ジョルジュがエヴに伝えたかったこと
エヴは父親のトマが浮気をしていることを知り、自分が棄てられるのではないかと恐れ、自殺をすることで父親の注意を引く。トマはそんなエヴのことが理解できずに、ジョルジュに助けを求め、ジョルジュがエヴと話し合うことになる。
ジョルジュはエヴのSNSなど知るはずもないのだけれど、自殺を仕出かした者同士だからか、彼女のことをすべてお見通しであるかのように語りかける。そこで語られることになるのが、ジョルジュがかつて自分の妻を殺したという事実だ。
そしてそれに続くのが、野生の鳥の話だ(『愛、アムール』でも鳩のエピソードが印象的だった)。野生のなかでは大きな鳥は小さな鳥を餌とする。たとえばそれをテレビのドキュメンタリー番組として見るならば、弱肉強食の野生の掟を示すものとして理解できる。しかしそれが実際に自分の目の前で起きている現実だとすると震えてしまう。そんなことをジョルジュは告白するのだ。
「現実」と「撮影された映像」との差異がジョルジュの告白のなかには示されている。「撮影された映像」となれば何となく受け入れてしまうこともできるけれど、むき出しの現実には震える。ジョルジュはそんなふうに語りかけるのだ。
エヴがSNSでやっていることはむき出しの現実を直視しようとはせず、スマホのカメラを通して現実を受け入れやすくするということなのかもしれないのだ(別の言い方をすれば現実逃避とも)。最後にジョルジュはエヴの手を借りて再び自殺を図ることになるのだけれど、エヴはジョルジュに怨みはないわけでその行動に戸惑ってもいる。エヴがその自殺の様子をスマホで撮影するのは悪趣味とも言えるけれど、エヴなりのむき出しの現実に対する対処の仕方だったようにも思えるのだ。
一方でジョルジュはむき出しの現実と向き合ってきたという自負があるのかもしれない。だからこそ過去をエヴに語ることも辞さなかったし、それを悔いることもない(自殺は自由が奪われてしまうのを拒むということであって、妻を殺したことを悔いるからではないのだろう)。ジョルジュとしては老婆心ながら、むき出しの現実とぶつかることのススメをエヴに説いたということなのだろう。
これはいつも不快な映画ばかり撮ると言われているハネケの姿勢そのものでもあるのだろう。老夫婦の幻想が描かれる『愛、アムール』は例外的な作品であり、『ハッピーエンド』も嫌な現実を見せつけられる作品となっている。当然、タイトルには皮肉が含まれてもいるのだろう。ラストの青空はハッピーエンドにふさわしい色合いだけれど、起きている出来事はスッキリさせてくれるようなものではないのだ。
『少女ファニーと運命の旅』ではしっかり者の姉と無邪気な妹の間で、美形でもちょっと影が薄かったファンティーヌ・アルデュアンだけれど、今回の作品では作品の核となる微妙な年頃の少女そのものといった感じでインパクトを残したと思う。
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