『ミヒャエル・ハネケの映画術』 ハネケのインタビュー集を読む

 昨年11月に発売されたミヒャエル・ハネケのインタビュー集である。
 プロフィールから始まってテレビ作品や演劇時代のこと、それから映画監督となってからの作品それぞれに関して、ハネケは作品のイメージとは違ってなかなか饒舌に語っている。
 ハネケは“耳の人間”と自称しているのが興味深かった。ハネケ作品にはほぼ劇伴は使われていないが、作品内の音やリズムには非常に気を使っているようだ。静かな場面が続くのにだらけないのは、そうしたリズムによるのかもしれない。
 心底イヤな気持ちにさせるということで名高い作品『ファニーゲーム』に関しては、それがパゾリーニ『ソドムの市』と比較されたのを喜びながらも、ハネケ自身は『ソドムの市』を1回しか観てないと答えているところがおもしろい。どちらの作品も観客を挑発するという目的を見事に達成しているわけだけれど、ハネケもそうした映画を繰り返し観ようとは思わないようだ。私も『ファニーゲーム』を1回しか観ていないし、セルフリメイクである『ファニーゲーム U.S.A.』も観るのも遠慮しているのだが、そうした態度は『ファニーゲーム』みたいな作品の正しい受け止め方ということなのかもしれない。

『ミヒャエル・ハネケの映画術―彼自身によるハネケ』



◆『隠された記憶』の罠
 この本と合わせて初めて観た初期の作品『セブンス・コンチネント』『71フラグメンツ』には、テレビ放映の映像が効果的に使われていた。また、『ベニーズ・ビデオ』では少年が犯した殺人が描かれるが、その一部始終はビデオに録画されていて少年の両親はそれを見せられることになる。
 こんなふうにハネケ作品では作品内の現実のなかに、撮影された映像が入り混じり、見ている映像のレベルの違いを意識させるものとなっている。『ベニーズ・ビデオ』ではビデオに撮られた映像は画質が粗いものだったから、観客はそれを作品内の現実において再生されているビデオ映像だということを間違えることはなかった。しかし、その後の『隠された記憶』では、作品内の現実と撮影されたビデオ映像に画質の違いをなくすことで観客を騙すこと成功している。
 『隠された記憶』の冒頭の監視カメラのような映像は、実は犯人が送りつけてきたビデオである。観客は作品内の現実を見ているつもりだったのに、録画された映像を見ていたことに気づかされる。その後も犯人は様々な場面を隠し撮りするようにして主人公に送りつけるので、観客は今見ている映像が作品内の現実なのか、犯人が撮影したビデオ映像なのかを疑うようになっていく。
 ハネケは『隠された記憶』のラストに関してこんなふうに答えている。

 ただし、映像の正体についての疑念は二つの方向に働きます。現実だと思っていたものがビデオ録画だったということがあるとしたら、当然、その逆も可能です。

 
 ラストの映像は真犯人の姿を映しているのかもしれない。ただ、それが隠しカメラのような映像であるために、観客はその撮影を画策した犯人がほかにいるのではないかとも疑ってしまう。ここでは作品内の現実とビデオ映像のレベルが曖昧なものになってしまっている。ハネケは『ファニーゲーム』においては、作品内の現実そのものを巻き戻してしまう禁じ手まで披露しているし、その登場人物には映画という虚構が「現実と同じくらい現実だ」とまで語らせているわけで、『隠された記憶』のレベルの曖昧化は意図されたものだ。
 われわれは映画を観ているとき、その映像が誰の視点からなのかとはあまり考えない(POV方式のものは別だが)。『隠された記憶』では主人公が歩き回る様子を追っていく場面もあるわけで、それは作品内の現実として捉えられている(それが誰かの視点からの映像だとすると、それは誰なのかわからなくなる)。たとえば、スーパーマンが宇宙を飛ぶ姿が映像として捉えられたとき、それを見ているのは誰なのかとは考えないのと同じだ。わざわざ神の視点など持ち出さなくても、視点人物のない非人称の映像として当たり前のように観客には受け入れられている。
 しかし『隠された記憶』の場合はそうした前提が混乱してくる。それまで繰り返し騙されている観客は、見ている映像を疑ってかかっているため、ラストの映像に関してもそれを撮影している犯人を想像してしまうのだ。ハネケの術中にまんまとはまってしまっているというわけだ。

『隠された記憶』のラストシーン。

◆『愛、アムール』の意外なラストについて
 『白いリボン』のレビューでは「むきだしの真実は人を不快にさせる」と書いたのだが、その後の『愛、アムール』では意外にも幻想が老いた主人公の救いになっているように見えた。それ以前の作品にも『セブンス・コンチネント』ではオーストラリアへの移住のイメージが、『タイム・オブ・ザ・ウルフ』のラストにも「ここではないどこかへ」と向かうイメージがあり、それらには希望を感じさせる部分もあったかもしれない。とはいえ『愛、アムール』のラストの幻想は例外的なものであったようで、この本のインタビュアーも「幸福な瞬間とは言わないにしても、少なくとも登場人物たちが人生のよい面を楽しめる瞬間を描くことができるようになったかのようです」という言葉をハネケに投げかけている。それに対してハネケはこんなふうに応えている。

 デビュー以来、幸せな瞬間を映すことに一切反対する気はありませんでした。ですが、私の印象では「メインストリーム」の映画があまりにそれを濫用してきたために、駄作に堕することなくそれらを撮影することが難しいように思われたのです。本当のことを言えば、駄作にならずにポジティヴな物事を映す力は、人が手にしている芸術的な力に比例して増大するのだと思います。


 カンヌ映画祭で二年連続してパルムドールを獲得した後のインタビューだからだろうか、その言葉は自信に満ちている。

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Date: 2016.01.16 Category: 映画の本 Comments (0) Trackbacks (0)

『愛、アムール』 この題名は決して皮肉ではない(のだと思う)

 アカデミー外国語映画賞及びカンヌのパルムドールも受賞したミヒャエル・ハネケ作品。パルムドール受賞は『白いリボン』に続いて2作品連続。
 主演は『男と女』のジャン=ルイ・トランティニャンと『二十四時間の情事』のエマニュエル・リヴァ

 今回のテーマは“愛”だが、なかなか甘いものではない。男女のロマンスなどではなく、老いた夫婦の愛だからだ。『ファニーゲーム』『ピアニスト』(*1)から不快な映画の印象が強いハネケだが、今回は“愛”がテーマだけに、感動的ですらあるし、多くの人に受け入れやすい作品かもしれない。

ミヒャエル・ハネケ『愛、アムール』 主演のジャン=ルイ・トランティニャンとエマニュエル・リヴァ

 『愛、アムール』の登場人物はごく少ない。元音楽教師の老夫婦とその娘が主要人物だ。仲むつまじい老夫婦の生活は、妻アンヌの突然の病によって新たなステージへと向かう。
 老老介護の現実は厳しい。アンヌは半身不随となった身体について人に訊かれるのを嫌がる。介護するジョルジュも娘にアンヌの病状のことばかり訊かれると「話題を変えよう」とそれを阻止する。さらには突然訪ねてきた娘を母親に会わせようとせず「見せるようなものではない」とまで言う。介護の現実から目を逸らそうとしているようにも感じられる。だがやはりそれは叶わない。アンヌの病は進行し、現実は否応なしにジョルジュに襲いかかるからだ。
 こんな状況では、やはり行き着くところは限られる。多分常識的にはもっと違う方向性があるだろう。日本映画ならもっと湿っぽくなったり感情的になったりしつつ、最後には皆で助け合ったりするかもしれないが、ハネケ映画ではそうはならない。
 この映画で常識の部分を代表しているのが娘エヴァ(イザベル・ユペール)の存在で、母親の衰えを受け入れられず父ジョルジュに向かって抗議する。ほかに方法があるはずだと。それでも「じゃあ、真剣に話し合おう」と返されると確たる答えは持っていない。「ホスピスに入れるのか」などと提案されてもそれ以上返す言葉はないのだ。ラストシーンのエヴァのように、常識的な人間は厳しい現実を前に佇むことしかできないのかもしれない。しかしジョルジュは違った。それは「愛があるから」というのが、この映画での説明となるだろう。(*2)

 『愛、アムール』は室内劇だ。世界はほとんどアパルトマンのなかだけ。そのアパルトマンの玄関を出るシーンでは、ホラー映画のような悪夢が描かれる。突然、肩越しに出てきた腕に絡めとられる。この場面は老夫婦の逃げ場のなさを示しているのと同時に、アパルトマンの外部はこの世(われわれが住まう現実)ではないことをも示しているのかもしれない。だから、ふたりが連れ立ってアパルトマンから出てゆくという幻想は、ふたりがこの世のものでなくなったことを暗示する。ジョルジュは亡くなったアンヌを花で飾り自分なりに葬ってから、自らも命を絶ったものと思われる。(*3)
 この映画でちょっと意外だったのは、愛ゆえにアンヌに手をかけることになるジョルジュにとって、幻想が救いになっていることだ。意外というのは、『白いリボン』のときにも記したが、見たくない真実を突きつけ観客を揺さぶるのがハネケ映画だと思っていたからだ。
 スリラー映画のパロディ『ファニーゲーム』では、よくあるスリラーの筋をリアリズムで描いていた。通常、スリラーあるいはホラーなどのジャンルは、観客は当然安全な場所にいて、ポップコーンでも食べながら殺人鬼の残虐行為を眺める。描かれる猟奇殺人が虚構の代物だとわかっているからこそ、観客はそれを笑いながら楽しむことができる。『ファニーゲーム』はスリラー映画によくあるこけおどし的な手法を廃し、リアリズムに徹して描くことでスリラー映画をパロディにしている。すると何とも後味の悪く、恐ろしく不快な映画になったわけだ。確かに現実であんな事件に直面したら笑ってはいられないだろう。
 ハネケはインタビューで「いかに奈落に突き落とすような恐ろしい物語を作ってみても、我々に襲いかかる現実の恐怖そのものに比べたら、お笑い草にすぎないでしょう」(参考1)と語っている。しかし『愛、アムール』では現実だけで終わらせなかったのだ。観客に現実を突きつけて揺さぶるだけではなく、そこに幻想を挿入して救いを与えているのだ。
 夫婦の愛について、さらに介護問題の現実の過酷さは、ハネケもそれをそのまま提示するのは憚られたのだろうか。それともテーマが“愛”だけに、幻想が必要とされるという認識なんだろうか。

(*1) 今回、改めて『ピアニスト』を見返したが、主人公エリカの心情の機微は私には到底理解しがたいものだったし、後味の悪さもかつて観たときと変わらなかった。ラスト、エリカが自分を傷つける前に一瞬表情を崩すところは“すごい”。とにかく“すごい”としか言いようがないようなシーンで、一瞬何が起きたのかと戸惑うほどだ。

(*2) 鳩がアパルトマンに舞い込んでくるシーン。一度目は窓から逃がしてやるが、二度目は捕まえて愛おしい様子で抱きしめる。これは老夫婦の関係を象徴しているのだろう。最初は自由にしてやった鳩を、次には自分の手のなかに抱え込む。老いた妻の存在を自分の責任で抱え込むということだ。

(*3) 冒頭に亡くなって花に囲まれたアンヌが示されているから、この結末はある程度予想がつく。展開に驚きはない。それよりもそこまでの過程をじっくり見せる作品になっている。

(参考1) 引用元はこちら


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ミヒャエル・ハネケの作品
Date: 2013.03.17 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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