『母という名の女』 良妻賢母はもう死語?
『父の秘密』『或る終焉』のミシェル・フランコ監督の最新作。
カンヌ国際映画祭のある視点部門で審査員賞を受賞した作品。
原題は「Las Hijas De Abril」で、「アブリルの娘たち」といった意味。

バレリア(アナ・バレリア・ベセリル)は17歳で身籠っている。姉のクララ(ホアナ・ラレキ)とふたりだけの生活は自由なもので、お腹ははちきれんばかりなのに朝からマテオ(エンリケ・アリソン)とセックスに励んでいる。一方の姉は、そのあえぎ声を聞きながら平然と(?)朝食を作り、汚れたシーツの後始末をする。
バレリアは母に妊娠のことを知られたくはなかったようだ。それでもクララは妹のことが心配だったのか、そのことを母親アブリル(エマ・スアレス)に知らせたのだろう。ふたりが暮らす海辺の家に疎遠だった母親が突然姿を現す。
それまでは母親のことを嫌がっていたバレリアだが、妊娠という初めての経験もあってか、彼女のことを頼りにするようになる。そして子供が産まれて世話をしていくうちに、バレリアは子育ての大変さに根を上げるようになり、アブリルにその世話は回ってくるようになり、アブリルは予想もしなかった行動に出ることに……。
※ 以下、ネタバレもあり!

カンヌ映画祭でパルム・ドールを獲得した『万引き家族』は「家族のあり方」を問う作品だったわけだが、『母という名の女』は「母親という女のあり方」を問う作品となっている。かつては家族にしても母親にしてもどこかで普遍的なものが存在しているように感じられていたのかもしれないのだが、近頃ではそうした感覚はあやしくなっているようだ。絵に描いたような家族もあるかもしれないし、良妻賢母の女性だっているかもしれないのだが、そうじゃない場合のほうが多いんじゃないか。そんな多様性の感覚のほうが一般的になってきたということだろうか。
この作品ではアブリルという母親が自分の娘バレリアから子供を奪い取り、それを餌にして娘の旦那であるマテオまで手に入れ、まるで新婚生活のようなひと時を過ごすことになる。まだ17歳という未熟なふたりだけに、子供を養子に出すという行為はあり得ない話ではないのかもしれないが、何の相談もなく決行するのは常識ハズレなのは言うまでもない。
なぜアブリルがこんな行動に出たのか。この作品はそうしたことをわかりやすく説明してくれる作品ではない。原題は「アブリルの娘たち」。複数形になっているということは、バレリアと共にクララのことも指しているのだろう。
ふたりは対照的だ。母親を嫌っているバレリアとは違い、クララは完全に母親の支配下にある。アブリルはクララに対してやさしく接しているけれど、それはクララが従順なときだけなのかもしれない。バレリアの子供を養子に出す手配も、アブリルの指示のもとに、クララが書類作成を手伝っている。クララが母親の行動をどう思ったのかは知らないけれど、クララは唯々諾々と従ったのに対し、バレリアは当然のごとく反発する。そんな関係だから、アブリルは女としての対抗意識を燃やしたということなのだろうか。アブリルは二児の母とはいえ、ヨガのインストラクターとして活躍し、未だに美しい容貌を保っているのだ。
アブリルの企みがバレリアに知られてしまったときのアブリルの行動もおもしろい。バレリアからすれば母親アブリルから苦し紛れの言い訳くらい聞きたかったんじゃないかと思うのだが、アブリルはそんなやさしさを持ち合わせているはずもなく、すべてを捨てて逃亡することになる。もはや母親と娘の関係というよりは、子供をさらった誘拐犯とその被害者の関係みたいなものだからなのだろう(見知らぬ飲食店に置き去りにされる子供の泣き声が壮絶だった)。
ミシェル・フランコの演出は即物的だ。カメラはミディアムサイズで人物を捉えているが、逆光だったりして登場人物の表情は明らかになることのほうが少ない。だから表情から登場人物の心情を読み取ることも難しいわけで、観客は登場人物の行動を追うほかない。そんなときに印象に残るのが移動シーンで、『父の秘密』でも『或る終焉』でも車での移動や登場人物が誰かを追っていく場面などがあった。
ミシェル・フランコ監督はインタビューで「車内シーンがよく登場するのは?」という質問に対してこんなふうに答えている(こちらのサイトから引用)。
本作でも最後のバレリアの行動は「移動する」ことだった。彼女がどこに向かっていて何を目指しているのかが明らかになるのは、その行動にようやく一区切りがついて彼女が安堵の笑みを浮かべたときになる。『或る終焉』のラストを見ている観客としては何が待ち受けているのかハラハラしながら見守っていたのだけれど、最後はホラー映画で得体の知れないモンスターから逃げ出してきた女の子といった感じだった。

カンヌ国際映画祭のある視点部門で審査員賞を受賞した作品。
原題は「Las Hijas De Abril」で、「アブリルの娘たち」といった意味。

バレリア(アナ・バレリア・ベセリル)は17歳で身籠っている。姉のクララ(ホアナ・ラレキ)とふたりだけの生活は自由なもので、お腹ははちきれんばかりなのに朝からマテオ(エンリケ・アリソン)とセックスに励んでいる。一方の姉は、そのあえぎ声を聞きながら平然と(?)朝食を作り、汚れたシーツの後始末をする。
バレリアは母に妊娠のことを知られたくはなかったようだ。それでもクララは妹のことが心配だったのか、そのことを母親アブリル(エマ・スアレス)に知らせたのだろう。ふたりが暮らす海辺の家に疎遠だった母親が突然姿を現す。
それまでは母親のことを嫌がっていたバレリアだが、妊娠という初めての経験もあってか、彼女のことを頼りにするようになる。そして子供が産まれて世話をしていくうちに、バレリアは子育ての大変さに根を上げるようになり、アブリルにその世話は回ってくるようになり、アブリルは予想もしなかった行動に出ることに……。
※ 以下、ネタバレもあり!

カンヌ映画祭でパルム・ドールを獲得した『万引き家族』は「家族のあり方」を問う作品だったわけだが、『母という名の女』は「母親という女のあり方」を問う作品となっている。かつては家族にしても母親にしてもどこかで普遍的なものが存在しているように感じられていたのかもしれないのだが、近頃ではそうした感覚はあやしくなっているようだ。絵に描いたような家族もあるかもしれないし、良妻賢母の女性だっているかもしれないのだが、そうじゃない場合のほうが多いんじゃないか。そんな多様性の感覚のほうが一般的になってきたということだろうか。
この作品ではアブリルという母親が自分の娘バレリアから子供を奪い取り、それを餌にして娘の旦那であるマテオまで手に入れ、まるで新婚生活のようなひと時を過ごすことになる。まだ17歳という未熟なふたりだけに、子供を養子に出すという行為はあり得ない話ではないのかもしれないが、何の相談もなく決行するのは常識ハズレなのは言うまでもない。
なぜアブリルがこんな行動に出たのか。この作品はそうしたことをわかりやすく説明してくれる作品ではない。原題は「アブリルの娘たち」。複数形になっているということは、バレリアと共にクララのことも指しているのだろう。
ふたりは対照的だ。母親を嫌っているバレリアとは違い、クララは完全に母親の支配下にある。アブリルはクララに対してやさしく接しているけれど、それはクララが従順なときだけなのかもしれない。バレリアの子供を養子に出す手配も、アブリルの指示のもとに、クララが書類作成を手伝っている。クララが母親の行動をどう思ったのかは知らないけれど、クララは唯々諾々と従ったのに対し、バレリアは当然のごとく反発する。そんな関係だから、アブリルは女としての対抗意識を燃やしたということなのだろうか。アブリルは二児の母とはいえ、ヨガのインストラクターとして活躍し、未だに美しい容貌を保っているのだ。
アブリルの企みがバレリアに知られてしまったときのアブリルの行動もおもしろい。バレリアからすれば母親アブリルから苦し紛れの言い訳くらい聞きたかったんじゃないかと思うのだが、アブリルはそんなやさしさを持ち合わせているはずもなく、すべてを捨てて逃亡することになる。もはや母親と娘の関係というよりは、子供をさらった誘拐犯とその被害者の関係みたいなものだからなのだろう(見知らぬ飲食店に置き去りにされる子供の泣き声が壮絶だった)。
ミシェル・フランコの演出は即物的だ。カメラはミディアムサイズで人物を捉えているが、逆光だったりして登場人物の表情は明らかになることのほうが少ない。だから表情から登場人物の心情を読み取ることも難しいわけで、観客は登場人物の行動を追うほかない。そんなときに印象に残るのが移動シーンで、『父の秘密』でも『或る終焉』でも車での移動や登場人物が誰かを追っていく場面などがあった。
ミシェル・フランコ監督はインタビューで「車内シーンがよく登場するのは?」という質問に対してこんなふうに答えている(こちらのサイトから引用)。
劇中で移動するのが好き、ということが一つあります。あと車内というのは親密な空間なので、それを好んでいるというのもあります。車内の設定だと、セリフがないような場面であっても、観客がキャラクターと密着してより親密な空間に身を置くことができるからです。キャラクター達自身が自分の人生を変えるべく、また自分の人生を再訪するべく移動していく物語だとおもうので、移動するということは重要だと思っています。
本作でも最後のバレリアの行動は「移動する」ことだった。彼女がどこに向かっていて何を目指しているのかが明らかになるのは、その行動にようやく一区切りがついて彼女が安堵の笑みを浮かべたときになる。『或る終焉』のラストを見ている観客としては何が待ち受けているのかハラハラしながら見守っていたのだけれど、最後はホラー映画で得体の知れないモンスターから逃げ出してきた女の子といった感じだった。
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