『フォックスキャッチャー』 大富豪はなぜ金メダリストを殺したのか?
アメリカの大富豪が犯した殺人事件という実話をもとにした映画。
監督は『カポーティ』『マネーボール』のベネット・ミラーで、アカデミー賞の監督賞にもノミネートされているし、カンヌ国際映画祭では見事監督賞を受賞した。
キャストにはスティーヴ・カレル、チャニング・テイタム、マーク・ラファロなど。アカデミー賞ではスティーヴ・カレルが主演男優賞、マーク・ラファロが助演男優賞に共にノミネートされた。

ロス五輪(1985年)のレスリング金メダリストのマーク・シュルツ(チャニング・テイタム)は、次のオリンピックまであと1年というころ、デュポン財閥から突然呼び出される。財閥の御曹司ジョン・デュポン(スティーヴ・カレル)はマークのレスリングに支援を申し出る。「アメリカはきみに栄誉を与えていない。ふたりで偉大なことを成し遂げよう」と……。
デュポン財閥はアメリカでも3本の指に入る勢力なのだそうだ。広大な敷地に大邸宅、自家用ヘリやジェット機まであって金で手に入らないものは何もない。誰でもがそんな金持ちになりたいものだと思うが、たまたまそんな家に生まれついた人にとってはそれほど愉快でもないらしい。
時代は冷戦期。ソ連が国を挙げてスポーツを後押ししていることに対し、デュポン家の御曹司ジョンは愛国心を燃やす。ただ、ジョンのしていることはレスリングや愛国心より先に母親に認めてもらいたいということであり、誰かに必要とされたいということだったのかもしれない。母親が馬をコレクションするように、ジョンは「フォックスキャッチャー」というレスリング・チームに優秀な人材を集めようとする。しかし世の中には金で買えるものばかりではないわけで、ジョンの憂鬱は次第に狂気へと向かっていく。
事実をもとにした『フォックスキャッチャー』だが、まだ存命の人物からは批判の声が挙がっているようだ。事実を捻じ曲げて伝えているというのが、その批判の論点だ。実際にそうなのかもしれない。事件はジョン・デュポンの精神的な病が引き起こしたということに尽きるのかもしれないからだ。しかし、映画では事実を忠実に再現するというよりも、事件のあらましを借りながらも、男たちの様々な葛藤が蠢く、静かながらも目が離せない心理劇となっている。

冒頭近く、マークとデイヴ(マーク・ラファロ)の兄弟がレスリングをする場面がある。この部分が映画全体を象徴しているように思えた。
マークとデイヴがふたりだけで練習を始める。デイヴはマークのトレーナーでもあり、マークの身体の調子を確かめるように筋肉をほぐしていく。いたわるようなストレッチはどこか艶かしいのだが、それはそのまま激しい乱取り稽古へと移行する。
この段階ではまだふたりの背景はよくわからないものの、複雑な感情が蠢いていることはわかる。マークは乱取り中に熱くなり、反側技まで繰り出すものの、デイヴは頭突きで鼻血を流しながらも怒りもせずに、レスリングの技だけでマークをマットにねじ伏せる(デイヴもロス五輪の金メダリストである)。
この間、ふたりはほとんど会話もない。ただ身体のぶつけ合うことがその代わりになっている。マークにとってデイブは憧れでもあると同時に、決して越えられない壁だ。そしてデイヴにとってマークは、自分が父代わりとして育ててきた愛おしい存在だ。ふたりの間には愛情があり、嫉妬があり、敵対心がある。それを身体のぶつかり合いだけで示しているのだ。
この映画は言葉で何かを説明することは少ない。のちに事件へのきっかけになったかもしれない場面(デイヴがジョンを押し留めるところ)でも、ふたりの会話は示されず、扉越しの身振りだけで表現されることになる。そのあたりがこの作品が静かな怖さを醸し出すことに成功している要因かもしれない。
マークとデイヴの間に割って入るのがジョンであり、彼はまずマークを口説き落とす。ジョンは名目上レスリングのコーチになっているが、実際には単なるパトロンである。ジョンは憂鬱な気分を紛らす遊び相手が欲しかっただけにも見え、ふたりが夜にレスリングの練習をするあたりは同性愛的なものを仄めかしている。
『フォックスキャッチャー』では女性はほとんど排除されている。ジョンの母親は唯一存在感があるが、この母親は離婚して話題なることもない父の代わりとして、母でありながら父のような存在だ(“承認欲求”というのは通常父性に向かうはず)。またマークの周囲にも女の姿はない。男たちばかりの物語になっているわけで、同性愛的なものを感じるのは意図的なものだ。(*1)
後半はジョンの鬱屈も静かに進み、いつ爆発するのかとハラハラさせる。ではなぜジョンが殺したのが最初にチームに誘ったマークではなく、デイヴだったのかと言えば、デイヴが一番活きのいい獲物だったからだろう。
チーム名の由来にもなっているキツネ狩りは、“ブラッド・スポーツ”と呼ばれる貴族の遊戯であり見せ物であったのだとか。「フォックスキャッチャー」というチームの設立自体、母親への対抗心が始まりであったわけで、見せ物として虚勢を張るには一番いい獲物が必要とされ、そのためにはジョン自身が駄目にしてしまったマークではなく、全てにおいて勝者であるデイヴでなければならなかったということだろう。
スティーヴ・カレルの佇まいがこの映画のキモだ。睥睨するようなそっくり返った態度は傲慢さを感じさせるが、唯一の友達だと思っていた人物が金で買われていたということを告白するあたりには大富豪の孤独を見せる。それでいて自分でも金の力を過信し、思う通りにならないことがあることなど決して信じることができないという狂気をも見事に体現していたと思う。
『マジック・マイク』でも肉体美を披露したチャニング・テイタムは、この映画でもレスリングシーンをその身体能力の高さで難なくこなしている。チャニング・テイタム演じるマークが篭絡されて駄目になっていくあたりがとてもよかったと思う(ソダーバーグの『恋するリベラーチェ』を思い出した)。それからヒゲ面でちょっと髪も薄いけれど、レスリングでも人間性でも誰にも負けないというデイヴは、いつもは色男を演じるマーク・ラファロが扮していて、内に秘める自信のようなものに説得力を感じた。
(*1) 実際にはジョン・デュポンは一度結婚しているとのこと。当時を知るマーク・シュルツ本人が事実と異なると批判しているのも、同性愛的な暗示に関してである。


監督は『カポーティ』『マネーボール』のベネット・ミラーで、アカデミー賞の監督賞にもノミネートされているし、カンヌ国際映画祭では見事監督賞を受賞した。
キャストにはスティーヴ・カレル、チャニング・テイタム、マーク・ラファロなど。アカデミー賞ではスティーヴ・カレルが主演男優賞、マーク・ラファロが助演男優賞に共にノミネートされた。

ロス五輪(1985年)のレスリング金メダリストのマーク・シュルツ(チャニング・テイタム)は、次のオリンピックまであと1年というころ、デュポン財閥から突然呼び出される。財閥の御曹司ジョン・デュポン(スティーヴ・カレル)はマークのレスリングに支援を申し出る。「アメリカはきみに栄誉を与えていない。ふたりで偉大なことを成し遂げよう」と……。
デュポン財閥はアメリカでも3本の指に入る勢力なのだそうだ。広大な敷地に大邸宅、自家用ヘリやジェット機まであって金で手に入らないものは何もない。誰でもがそんな金持ちになりたいものだと思うが、たまたまそんな家に生まれついた人にとってはそれほど愉快でもないらしい。
時代は冷戦期。ソ連が国を挙げてスポーツを後押ししていることに対し、デュポン家の御曹司ジョンは愛国心を燃やす。ただ、ジョンのしていることはレスリングや愛国心より先に母親に認めてもらいたいということであり、誰かに必要とされたいということだったのかもしれない。母親が馬をコレクションするように、ジョンは「フォックスキャッチャー」というレスリング・チームに優秀な人材を集めようとする。しかし世の中には金で買えるものばかりではないわけで、ジョンの憂鬱は次第に狂気へと向かっていく。
事実をもとにした『フォックスキャッチャー』だが、まだ存命の人物からは批判の声が挙がっているようだ。事実を捻じ曲げて伝えているというのが、その批判の論点だ。実際にそうなのかもしれない。事件はジョン・デュポンの精神的な病が引き起こしたということに尽きるのかもしれないからだ。しかし、映画では事実を忠実に再現するというよりも、事件のあらましを借りながらも、男たちの様々な葛藤が蠢く、静かながらも目が離せない心理劇となっている。

冒頭近く、マークとデイヴ(マーク・ラファロ)の兄弟がレスリングをする場面がある。この部分が映画全体を象徴しているように思えた。
マークとデイヴがふたりだけで練習を始める。デイヴはマークのトレーナーでもあり、マークの身体の調子を確かめるように筋肉をほぐしていく。いたわるようなストレッチはどこか艶かしいのだが、それはそのまま激しい乱取り稽古へと移行する。
この段階ではまだふたりの背景はよくわからないものの、複雑な感情が蠢いていることはわかる。マークは乱取り中に熱くなり、反側技まで繰り出すものの、デイヴは頭突きで鼻血を流しながらも怒りもせずに、レスリングの技だけでマークをマットにねじ伏せる(デイヴもロス五輪の金メダリストである)。
この間、ふたりはほとんど会話もない。ただ身体のぶつけ合うことがその代わりになっている。マークにとってデイブは憧れでもあると同時に、決して越えられない壁だ。そしてデイヴにとってマークは、自分が父代わりとして育ててきた愛おしい存在だ。ふたりの間には愛情があり、嫉妬があり、敵対心がある。それを身体のぶつかり合いだけで示しているのだ。
この映画は言葉で何かを説明することは少ない。のちに事件へのきっかけになったかもしれない場面(デイヴがジョンを押し留めるところ)でも、ふたりの会話は示されず、扉越しの身振りだけで表現されることになる。そのあたりがこの作品が静かな怖さを醸し出すことに成功している要因かもしれない。
マークとデイヴの間に割って入るのがジョンであり、彼はまずマークを口説き落とす。ジョンは名目上レスリングのコーチになっているが、実際には単なるパトロンである。ジョンは憂鬱な気分を紛らす遊び相手が欲しかっただけにも見え、ふたりが夜にレスリングの練習をするあたりは同性愛的なものを仄めかしている。
『フォックスキャッチャー』では女性はほとんど排除されている。ジョンの母親は唯一存在感があるが、この母親は離婚して話題なることもない父の代わりとして、母でありながら父のような存在だ(“承認欲求”というのは通常父性に向かうはず)。またマークの周囲にも女の姿はない。男たちばかりの物語になっているわけで、同性愛的なものを感じるのは意図的なものだ。(*1)
後半はジョンの鬱屈も静かに進み、いつ爆発するのかとハラハラさせる。ではなぜジョンが殺したのが最初にチームに誘ったマークではなく、デイヴだったのかと言えば、デイヴが一番活きのいい獲物だったからだろう。
チーム名の由来にもなっているキツネ狩りは、“ブラッド・スポーツ”と呼ばれる貴族の遊戯であり見せ物であったのだとか。「フォックスキャッチャー」というチームの設立自体、母親への対抗心が始まりであったわけで、見せ物として虚勢を張るには一番いい獲物が必要とされ、そのためにはジョン自身が駄目にしてしまったマークではなく、全てにおいて勝者であるデイヴでなければならなかったということだろう。
スティーヴ・カレルの佇まいがこの映画のキモだ。睥睨するようなそっくり返った態度は傲慢さを感じさせるが、唯一の友達だと思っていた人物が金で買われていたということを告白するあたりには大富豪の孤独を見せる。それでいて自分でも金の力を過信し、思う通りにならないことがあることなど決して信じることができないという狂気をも見事に体現していたと思う。
『マジック・マイク』でも肉体美を披露したチャニング・テイタムは、この映画でもレスリングシーンをその身体能力の高さで難なくこなしている。チャニング・テイタム演じるマークが篭絡されて駄目になっていくあたりがとてもよかったと思う(ソダーバーグの『恋するリベラーチェ』を思い出した)。それからヒゲ面でちょっと髪も薄いけれど、レスリングでも人間性でも誰にも負けないというデイヴは、いつもは色男を演じるマーク・ラファロが扮していて、内に秘める自信のようなものに説得力を感じた。
(*1) 実際にはジョン・デュポンは一度結婚しているとのこと。当時を知るマーク・シュルツ本人が事実と異なると批判しているのも、同性愛的な暗示に関してである。
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