『甘き人生』 マザコン男の覚醒と救い
『ポケットの中の握り拳』『眠れる美女』などのマルコ・ベロッキオの最新作。
原作はイタリアではベストセラーになったジャーナリストの自伝小説。
原題は「Fai Bei Sogni」で、「よい夢を」といった意味合い。

マッシモ(ダリオ・ダル・ペーロ)は9歳のとき母親を喪う。あまりの突然のことにマッシモはその死を受け入れることができない。成長してジャーナリストとなったマッシモ(ヴァレリオ・マスタンドレア)は、父親の死後、母親が亡くなった場所でもある家を相続することになり過去と向き合うことになる。
この作品は1969年のトリノと、1990年代のローマでの出来事を行ったり来たりしながら進んでいく。マッシモにとってのトラウマは、母親が消えるようにいなくなってしまったこと。それが原因なのかマッシモは他人との間に壁をつくってしまい、女性との関係もうまくいかなかったりするし、夢のなかを彷徨っているように生きている(劇中ノスフェラトゥの姿が登場するのはマッシモのイメージなのかも)。
イタリア人の男性はマザコンであるというのはよく聞く話。この映画の主人公マッシモも母親との日々と忘れることができず父親(グイド・カプリーノ)を困らせることになるし、成長してからも友人エンリコとその母親(エマニュエル・ドゥヴォス)の関係を羨んでいるようでもある。
ジャーナリストになってからは、「母を愛せない」という読者投稿欄の返答として、幼くして母を亡くした自らの境遇を告白し、「母親がそばにいることは素晴らしいことじゃないか。今すぐ帰って母親を抱きしめろ」といった内容の記事を書くことになる。これは社会で大反響を呼んでしまい、マッシモはかえって困惑することになる。
※ 以下、ネタバレもあり!

マッシモの母親が亡くなった日の描写は、母親の決意めいたものを感じさせるものになっている。それでも母親の死の真相は明かされることなく物語は進み、マッシモはあちこち彷徨ったあげくエリーザ(ベレニス・ベジョ)と出会うことになる。エリーザとの歓喜のダンスシーンもあってこのまま大団円で終わるのかとも思っていると、最後の最後で真相が明かされることになる。実はマッシモの母親は病気を苦に自殺していたのだ。カトリックの国であるイタリアでは自殺は罪とされるため、その事実はマッシモに伝えられることがなかったのだ。
新聞投稿の「母を愛せない」という言葉に反応して「母親を抱きしめろ」と煽ったマッシモだが、そんな自分は母親に見捨てられていたのかもしれないと30年後にようやく気がつくことになる。マッシモがその真相に気がつかないというのはちょっと間が抜けているような気もするけれど、最後になって梯子を外すという展開はなかなか意地が悪い。ベロッキオ監督は処女作『ポケットの中の握り拳』では主人公に母親を崖から突き落とさせたりしているわけで、マザコン礼賛で終わるわけがないとも言えるのかもしれない。
ただこの作品では一度は母親との過去の想い出を否定したようでいて、同時にマッシモを救っているのは母親を思わせるエリーザという女性であるという点で、母親に対する複雑な感情を吐露しているようにも思える。
エリーザと母親が似ているというのは、面影が似ているといった意味合いではなく、ふたりの姿が重ね合わせるように描かれているということで、冒頭の母親とマッシモのダンスシーンはラスト近くでエリーザとマッシモとの間で繰り返される。
母親の投身自殺そのものは描かれることはない。それでもマッシモはナポレオン像を外に投げ落としたり、壁のオブジェを落として割ってしまったりと、落下のイメージは何度も登場する。そして飛び込み台から落下することになるエリーザがそのあとマッシモのそばに寄りそうことになるのは、母親が復活したかのようなイメージとして描かれているということなのだろう(少年時代のマッシモはベルフェゴールという悪魔に母親が戻ってくることを願ってもいた)。
ラストの母親とマッシモのかくれんぼも美しい想い出として描かれていて、若かりしころの『ポケットの中の握り拳』のような残酷さは薄れたとしても、老境に達したベロッキオ監督の円熟味を感じさせる作品となっているんじゃないだろうか。

マルコ・ベロッキオの作品

原作はイタリアではベストセラーになったジャーナリストの自伝小説。
原題は「Fai Bei Sogni」で、「よい夢を」といった意味合い。

マッシモ(ダリオ・ダル・ペーロ)は9歳のとき母親を喪う。あまりの突然のことにマッシモはその死を受け入れることができない。成長してジャーナリストとなったマッシモ(ヴァレリオ・マスタンドレア)は、父親の死後、母親が亡くなった場所でもある家を相続することになり過去と向き合うことになる。
この作品は1969年のトリノと、1990年代のローマでの出来事を行ったり来たりしながら進んでいく。マッシモにとってのトラウマは、母親が消えるようにいなくなってしまったこと。それが原因なのかマッシモは他人との間に壁をつくってしまい、女性との関係もうまくいかなかったりするし、夢のなかを彷徨っているように生きている(劇中ノスフェラトゥの姿が登場するのはマッシモのイメージなのかも)。
イタリア人の男性はマザコンであるというのはよく聞く話。この映画の主人公マッシモも母親との日々と忘れることができず父親(グイド・カプリーノ)を困らせることになるし、成長してからも友人エンリコとその母親(エマニュエル・ドゥヴォス)の関係を羨んでいるようでもある。
ジャーナリストになってからは、「母を愛せない」という読者投稿欄の返答として、幼くして母を亡くした自らの境遇を告白し、「母親がそばにいることは素晴らしいことじゃないか。今すぐ帰って母親を抱きしめろ」といった内容の記事を書くことになる。これは社会で大反響を呼んでしまい、マッシモはかえって困惑することになる。
※ 以下、ネタバレもあり!

マッシモの母親が亡くなった日の描写は、母親の決意めいたものを感じさせるものになっている。それでも母親の死の真相は明かされることなく物語は進み、マッシモはあちこち彷徨ったあげくエリーザ(ベレニス・ベジョ)と出会うことになる。エリーザとの歓喜のダンスシーンもあってこのまま大団円で終わるのかとも思っていると、最後の最後で真相が明かされることになる。実はマッシモの母親は病気を苦に自殺していたのだ。カトリックの国であるイタリアでは自殺は罪とされるため、その事実はマッシモに伝えられることがなかったのだ。
新聞投稿の「母を愛せない」という言葉に反応して「母親を抱きしめろ」と煽ったマッシモだが、そんな自分は母親に見捨てられていたのかもしれないと30年後にようやく気がつくことになる。マッシモがその真相に気がつかないというのはちょっと間が抜けているような気もするけれど、最後になって梯子を外すという展開はなかなか意地が悪い。ベロッキオ監督は処女作『ポケットの中の握り拳』では主人公に母親を崖から突き落とさせたりしているわけで、マザコン礼賛で終わるわけがないとも言えるのかもしれない。
ただこの作品では一度は母親との過去の想い出を否定したようでいて、同時にマッシモを救っているのは母親を思わせるエリーザという女性であるという点で、母親に対する複雑な感情を吐露しているようにも思える。
エリーザと母親が似ているというのは、面影が似ているといった意味合いではなく、ふたりの姿が重ね合わせるように描かれているということで、冒頭の母親とマッシモのダンスシーンはラスト近くでエリーザとマッシモとの間で繰り返される。
母親の投身自殺そのものは描かれることはない。それでもマッシモはナポレオン像を外に投げ落としたり、壁のオブジェを落として割ってしまったりと、落下のイメージは何度も登場する。そして飛び込み台から落下することになるエリーザがそのあとマッシモのそばに寄りそうことになるのは、母親が復活したかのようなイメージとして描かれているということなのだろう(少年時代のマッシモはベルフェゴールという悪魔に母親が戻ってくることを願ってもいた)。
ラストの母親とマッシモのかくれんぼも美しい想い出として描かれていて、若かりしころの『ポケットの中の握り拳』のような残酷さは薄れたとしても、老境に達したベロッキオ監督の円熟味を感じさせる作品となっているんじゃないだろうか。
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マルコ・ベロッキオの作品

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