『カニバル』 食べることと愛すること
題名の通りカニバリズムを題材とした映画である。スペインではゴヤ賞において、作品賞や監督賞など8部門にノミネートされた。
監督はマヌエル・マルティン・クエンカ。主人公のカニバリスト役には、『アイム・ソー・エキサイテッド!』ではオカマ役だったアントニオ・デ・ラ・トレ。
今年5月に劇場公開され、今月になってDVDがリリースされた。

冒頭、主人公・カルロスはガソリンスタンドのカップルを遥か遠くから眺めている。獲物を狙うハンターのようだ。カルロスは狙いを定めた車を無理やり事故に遭わせ、カップルに瀕死の重傷を負わせる。そのあと誰もいない山小屋へと女だけを連れ帰り、解体作業に入る。そして、きれいに切り分けられた女の肉は、ラップに包まれて行儀良く冷蔵庫のなかに並ぶ。
最初に描かれるのはカルロスの裏の顔だ。カルロスは狙った女を殺し、それを食べるというおぞましい秘密を持つ。だが一方で、カルロスの表向きの顔は、街の仕立て屋である。『仕立て屋の恋』という映画もそうだったが、カルロスも孤独な男だ。しかし仕事には熱心で、客からの信頼も厚く、教会から仕事を請け負ったりもしている。仕立て屋だけにスーツの着こなしはエレガントで、いつも清潔感の漂う風貌を保っている。完全に一市民として社会に融け込んでいるのだ。(*1)
カルロスの晩の食事は、冷蔵庫に収められた女の肉を丁寧に焼いて、ワインと一緒にいただくものだ。やっていることはえげつないのだが、描写は静的で、生臭さを感じさせない。切り分けられた女の肉も、スーパーで用意したそれのようにしか見えない。ただその肉がなくなると、獲物を探しに街へ出て、誰もいない山の上の小屋で新たな食糧にするのだろう。
そんなカルロスの前にアレクサンドラという女が現れる。彼女は上の階に引っ越してきて、そこでマッサージの仕事をしているという。カルロスの経営する仕立て屋にも、そのチラシを置いてくれと顔を出す。カルロスがそんなアレクサンドラを獲物を狙う目付きで追っていると、ある夜、トラブルを理由にアレクサンドラが助けを求めてやってくる。
このあと場面は変り、別の女・ニーナが訪ねてくる。ニーナはアレクサンドラの双子の姉で、アレクサンドラの姿が消えたから探しているのだという。カルロスはニーナに近づく。それはカルロスがアレクサンドラを殺したことがばれていないかを確かめるためだ。そのためにニーナに親しくし、助けてやりもするようになる。しかし、そうしているうちにニーナのことが気になりだす。
※ 以下、ネタバレあり。結末にも触れていますので、ご注意を!

ここで結末を述べてしまうが、カルロスはニーナも殺そうとするものの、それを果たせない。それはニーナを愛してしまったから(ポスターには“A Love Story”とある)。たしかにそういう面もあるのだろうが、それだけではないという気もする。
『カニバリズム論』
という本には、こんなことが書かれている。
書きぶりは小難しいが、要は、一般的には愛と呼ばれる“生殖”と、愛する者を食べるという“カニバリズム”とは、両極端ではあるけれど肉欲の表れという点では通じているということだろう。
カルロスは獲物を選んでいる。誰でもいいわけではないのだ。仕立て屋としての仕事の同僚は女性で、彼女とは親しいのだが食べようとはしない。カルロスは狙った(愛する)獲物だけを食べるのだ。ただアレクサンドラとニーナは双子である(どちらもオリンピア・メリンテという女優が演じている)。性格などは違うものの、外見は似通っている。カルロスはアレクサンドラを食べたあと、ニーナに会い、ニーナを愛するようになる。多分、カルロスのなかでは、食べることは愛することの同じなのだと思う。ただ食べることが先に来ていたのだが、食べたあとにまた同じ女が現れ、それを愛するようになったのだ。
実際にカルロスが肉を扱う手付きはとても丁寧だ。愛情を込めてその肉に調味料をすりこんでいる。これと似た場面がある。それはニーナがカルロスにマッサージをしてやる場面だ。ニーナは援助のお礼として、カルロスの背中にオイルを塗って、やさしくマッサージするのだ。それは愛情のこもったものだし、性的な臭いも感じられる。(*2)ニーナはカルロスを愛してしまったからマッサージをするのだし、カルロスは愛したからその肉を丁寧に扱う(そして食す)。そういう意味でカルロスにとって、食べることは愛することと同じなのだ。
ラストに到る展開はちょっと意外なものかもしれない。すべてを告白したカルロスだが、ニーナはカルロスを恐れて逃げ出すわけでもないのだ(告白を聞いたときの、ニーナの表情の移り変わりは絶妙だった)。そのあとニーナは自殺のような行動に走るのだが、アレクサンドラと同じように食べてもらいたいとでも考えたのだろうか?
キリスト教とカニバリズムに関しては、その類似性が論じられることがある。なぜかと言えば、教会での儀式でパンを食べ、ワインを飲むのは、キリストの身体を食べ、その血を飲むことだとされているからだ。この『カニバル』でも、教会の場面で神父によってそのことが語られている。もちろん一般的にはパンがキリストの身体であり、ワインが血だということは比喩として受け止められている。(*3)おそらくキリストの教えが血となり、肉となるといったことなのだと思う。この映画では、カニバリストのカルロスがキリストの姿に感じ入ったような表情で終わる。
ラストは教会の祭事の場面だ。カルロスは自分たちが仕上げたケープをまとったマリア像が練り歩く様子を見つめている。その前には十字架にかかったキリスト像がある。その姿は痛々しいと同時に艶かしい。カルロスはそれら姿を見て、何とも複雑な表情を見せるのだ。キリストの自己犠牲は人類の罪を贖ったとされるわけだが、ニーナやアレクサンドラが死なねばならなかったのも、カルロスにとっては同じような犠牲として受け止められているのだろうか? そうだとすればかなり自分勝手な話なのだが……。
(*1) カルロスの二面性の象徴かどうかはわからないが、部屋のなかの暗い場面と光溢れる外の対比も印象的だった(特に、闇に包まれた山小屋から覗く白い雪山が)。舞台はスペインのグラナダである。
(*2) カルロスはこのあと意味もなく人を殺す。性的な興奮が殺人へと結びついていくのだろう。
(*3) 『キリスト教とカニバリズム』
という本では、実際にイエスの肉を食べ、その血を飲んだのではないかという仮説のもとに論を展開している。これは「つきもの信仰に基づく聖霊移転行為」とのことだが、やはり一般的に受け入れられているものではないようだ。

監督はマヌエル・マルティン・クエンカ。主人公のカニバリスト役には、『アイム・ソー・エキサイテッド!』ではオカマ役だったアントニオ・デ・ラ・トレ。
今年5月に劇場公開され、今月になってDVDがリリースされた。

冒頭、主人公・カルロスはガソリンスタンドのカップルを遥か遠くから眺めている。獲物を狙うハンターのようだ。カルロスは狙いを定めた車を無理やり事故に遭わせ、カップルに瀕死の重傷を負わせる。そのあと誰もいない山小屋へと女だけを連れ帰り、解体作業に入る。そして、きれいに切り分けられた女の肉は、ラップに包まれて行儀良く冷蔵庫のなかに並ぶ。
最初に描かれるのはカルロスの裏の顔だ。カルロスは狙った女を殺し、それを食べるというおぞましい秘密を持つ。だが一方で、カルロスの表向きの顔は、街の仕立て屋である。『仕立て屋の恋』という映画もそうだったが、カルロスも孤独な男だ。しかし仕事には熱心で、客からの信頼も厚く、教会から仕事を請け負ったりもしている。仕立て屋だけにスーツの着こなしはエレガントで、いつも清潔感の漂う風貌を保っている。完全に一市民として社会に融け込んでいるのだ。(*1)
カルロスの晩の食事は、冷蔵庫に収められた女の肉を丁寧に焼いて、ワインと一緒にいただくものだ。やっていることはえげつないのだが、描写は静的で、生臭さを感じさせない。切り分けられた女の肉も、スーパーで用意したそれのようにしか見えない。ただその肉がなくなると、獲物を探しに街へ出て、誰もいない山の上の小屋で新たな食糧にするのだろう。
そんなカルロスの前にアレクサンドラという女が現れる。彼女は上の階に引っ越してきて、そこでマッサージの仕事をしているという。カルロスの経営する仕立て屋にも、そのチラシを置いてくれと顔を出す。カルロスがそんなアレクサンドラを獲物を狙う目付きで追っていると、ある夜、トラブルを理由にアレクサンドラが助けを求めてやってくる。
このあと場面は変り、別の女・ニーナが訪ねてくる。ニーナはアレクサンドラの双子の姉で、アレクサンドラの姿が消えたから探しているのだという。カルロスはニーナに近づく。それはカルロスがアレクサンドラを殺したことがばれていないかを確かめるためだ。そのためにニーナに親しくし、助けてやりもするようになる。しかし、そうしているうちにニーナのことが気になりだす。
※ 以下、ネタバレあり。結末にも触れていますので、ご注意を!

ここで結末を述べてしまうが、カルロスはニーナも殺そうとするものの、それを果たせない。それはニーナを愛してしまったから(ポスターには“A Love Story”とある)。たしかにそういう面もあるのだろうが、それだけではないという気もする。
『カニバリズム論』

肉欲の至高の表現は、愛する者を滅ぼし、これを食いつくすことにありはしないだろうか。性が形而下の目的として生殖すなわち有を一方の極におくならば、一方の極には、完全な無があるはずだ。
書きぶりは小難しいが、要は、一般的には愛と呼ばれる“生殖”と、愛する者を食べるという“カニバリズム”とは、両極端ではあるけれど肉欲の表れという点では通じているということだろう。
カルロスは獲物を選んでいる。誰でもいいわけではないのだ。仕立て屋としての仕事の同僚は女性で、彼女とは親しいのだが食べようとはしない。カルロスは狙った(愛する)獲物だけを食べるのだ。ただアレクサンドラとニーナは双子である(どちらもオリンピア・メリンテという女優が演じている)。性格などは違うものの、外見は似通っている。カルロスはアレクサンドラを食べたあと、ニーナに会い、ニーナを愛するようになる。多分、カルロスのなかでは、食べることは愛することの同じなのだと思う。ただ食べることが先に来ていたのだが、食べたあとにまた同じ女が現れ、それを愛するようになったのだ。
実際にカルロスが肉を扱う手付きはとても丁寧だ。愛情を込めてその肉に調味料をすりこんでいる。これと似た場面がある。それはニーナがカルロスにマッサージをしてやる場面だ。ニーナは援助のお礼として、カルロスの背中にオイルを塗って、やさしくマッサージするのだ。それは愛情のこもったものだし、性的な臭いも感じられる。(*2)ニーナはカルロスを愛してしまったからマッサージをするのだし、カルロスは愛したからその肉を丁寧に扱う(そして食す)。そういう意味でカルロスにとって、食べることは愛することと同じなのだ。
ラストに到る展開はちょっと意外なものかもしれない。すべてを告白したカルロスだが、ニーナはカルロスを恐れて逃げ出すわけでもないのだ(告白を聞いたときの、ニーナの表情の移り変わりは絶妙だった)。そのあとニーナは自殺のような行動に走るのだが、アレクサンドラと同じように食べてもらいたいとでも考えたのだろうか?
キリスト教とカニバリズムに関しては、その類似性が論じられることがある。なぜかと言えば、教会での儀式でパンを食べ、ワインを飲むのは、キリストの身体を食べ、その血を飲むことだとされているからだ。この『カニバル』でも、教会の場面で神父によってそのことが語られている。もちろん一般的にはパンがキリストの身体であり、ワインが血だということは比喩として受け止められている。(*3)おそらくキリストの教えが血となり、肉となるといったことなのだと思う。この映画では、カニバリストのカルロスがキリストの姿に感じ入ったような表情で終わる。
ラストは教会の祭事の場面だ。カルロスは自分たちが仕上げたケープをまとったマリア像が練り歩く様子を見つめている。その前には十字架にかかったキリスト像がある。その姿は痛々しいと同時に艶かしい。カルロスはそれら姿を見て、何とも複雑な表情を見せるのだ。キリストの自己犠牲は人類の罪を贖ったとされるわけだが、ニーナやアレクサンドラが死なねばならなかったのも、カルロスにとっては同じような犠牲として受け止められているのだろうか? そうだとすればかなり自分勝手な話なのだが……。
(*1) カルロスの二面性の象徴かどうかはわからないが、部屋のなかの暗い場面と光溢れる外の対比も印象的だった(特に、闇に包まれた山小屋から覗く白い雪山が)。舞台はスペインのグラナダである。
(*2) カルロスはこのあと意味もなく人を殺す。性的な興奮が殺人へと結びついていくのだろう。
(*3) 『キリスト教とカニバリズム』

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