『ノー・エスケープ 自由への国境』 砂漠のゼロ・グラビティ
『ゼロ・グラビティ』の共同脚本を担当していたホナス・キュアロンの監督デビュー作。
父のアルフォンソ・キュアロンはプロデュースのほうに関わって息子ホナスをサポートしたものらしい。
この作品を一言で言えば砂漠を舞台にした『ゼロ・グラビティ』ということになるだろうが、もともとの脚本は『ノー・エスケープ』のほうが先にできていたということで、父のアルフォンソ・キュアロンは危機また危機というアイディアだけをいただいて、それを革新的な3D撮影技術とうまく絡めてアカデミー賞の監督賞まで獲得してしまったということになるのだろう。
原題は「Desierto」で、「砂漠」とのこと。ちなみに『ノー・エスケイプ』(1994)という紛らわしい作品もあるようだが、まったく別の作品。

舞台はメキシコ国境の砂漠地帯。メキシコからの不法移民が国境を示す有刺鉄線をくぐってアメリカ合衆国へと侵入する。広大な砂漠地帯には国境を警備する警察もいるのだが、摂氏50度を超えるという暑さにあまりやる気もなさそうで、その代わりというわけではないのだがライフルを持った狂った男が不法移民たちを狩りの獲物のごとく狙ってくる。
砂漠にはほとんど隠れる場所はない。ひたすら逃げ惑うばかりの移民たちは動物たちほど俊敏ではないわけで、次々に銃弾に倒れていくことになる。周囲には誰も助ける者はいない。通信手段もない。この絶体絶命の状況から逃げ出すことはできるのか。
不法移民の側の15人は、アメリカにあるはずの自由を求めてメキシコから渡ってくる。まだ若いアデラ(アロンドラ・イダルゴ)は故郷の町が麻薬などであまりにも物騒だから、親が彼女を安全なアメリカへと逃がすことを決めたらしい。モイセス(ガエル・ガルシア・ベルナル)はアメリカに息子を残してきていて、息子との約束を果たすために再び国境を越えることになる。
一方の自分勝手な独り自警団のサム(ジェフリー・ディーン・モーガン)は、自分の庭を荒らされたとばかりに不法移民たちを問答無用で殺していく。サムの背景が詳しく描かれるわけではないのだが、不法移民を許すことができない愛国者というよりも、自分の不幸を外部の敵のせいにしているだけのように見える。そんなサムもかつてはこの場所が好きだったとも愛犬に語ったりもしていて、アメリカが誇ったアメリカン・ドリームも「今は昔」で、そんな夢が誰にでも行き渡るほどの余裕がなくなったからこそ勝手に自国へ入り込んでくる移民のことが目障りになったのかもしれない。
※ 以下、ネタバレもあり!


サムの狂気が露わになってからは狙われた獲物たる移民たちはひたすら逃げるしかない。『ノー・エスケープ 自由への国境』は、ただそれだけで約90分間を見せてしまう。砂漠といっても本作の砂漠はゴツゴツとした岩山のアップダウンや、多少のサボテンなどもある。そうしたわずかな場所に身を隠したりしながらも逃げ続けるのだが、サムの相棒にはジャーマン・シェパードのトラッカーがいて、この忠犬は獲物の匂いを嗅ぎ取り、ものすごい勢いで獲物を追いつめていくからほとんど安堵できる場というものはない。トラッカーの荒野を走り抜ける乾いた足音がハラハラさせて、さすがに『ゼロ・グラビティ』ほどではなかったにしても初監督作としては要所を押さえていたんじゃないだろうか。
描写はなかなか容赦がなくて、ライフルの弾は移民たちの頭を破壊するし、トラッカーは移民の首元をカブリとやって息の根を止めてしまう。そんなサスペンスの一番の盛り上げ役でもあったトラッカーの最期もあまりに悲惨なもので、動物愛護団体の人が見たら卒倒するんじゃないかと思う。
それから主人公たるモイセスも、自分が助かるために傷を負ったアデラを置いてきぼりにして逃げてしまうという展開もシビアだった。それだけにラストの希望に満ちた描写がちょっと浮いているような気もする。モイセスが瀕死のアデラを抱えて見たハイウェイの光は果たして本物だったのだろうか。絶望のなかで幻影が見えてしまうというのは砂漠ではよくあるネタでもあるし、『ゼロ・グラビティ』においても主人公は幻影に救われた部分もあったわけで、モイセスの見たものも幻影だったのかもしれない。
主人公の名前がMoises(モイセス)というのは、ユダヤ教の預言者であるモーゼを意識しているのだろう。モーゼはユダヤ民族をエジプトから脱出させて砂漠へと導いたわけだが、その後ユダヤ民族は長らく砂漠を彷徨うことになる。そしてモーゼ自身はカナンの地へと入る前に亡くなることになるわけで、それを踏まえるとモイセスが見たのはやはり……。


父のアルフォンソ・キュアロンはプロデュースのほうに関わって息子ホナスをサポートしたものらしい。
この作品を一言で言えば砂漠を舞台にした『ゼロ・グラビティ』ということになるだろうが、もともとの脚本は『ノー・エスケープ』のほうが先にできていたということで、父のアルフォンソ・キュアロンは危機また危機というアイディアだけをいただいて、それを革新的な3D撮影技術とうまく絡めてアカデミー賞の監督賞まで獲得してしまったということになるのだろう。
原題は「Desierto」で、「砂漠」とのこと。ちなみに『ノー・エスケイプ』(1994)という紛らわしい作品もあるようだが、まったく別の作品。

舞台はメキシコ国境の砂漠地帯。メキシコからの不法移民が国境を示す有刺鉄線をくぐってアメリカ合衆国へと侵入する。広大な砂漠地帯には国境を警備する警察もいるのだが、摂氏50度を超えるという暑さにあまりやる気もなさそうで、その代わりというわけではないのだがライフルを持った狂った男が不法移民たちを狩りの獲物のごとく狙ってくる。
砂漠にはほとんど隠れる場所はない。ひたすら逃げ惑うばかりの移民たちは動物たちほど俊敏ではないわけで、次々に銃弾に倒れていくことになる。周囲には誰も助ける者はいない。通信手段もない。この絶体絶命の状況から逃げ出すことはできるのか。
不法移民の側の15人は、アメリカにあるはずの自由を求めてメキシコから渡ってくる。まだ若いアデラ(アロンドラ・イダルゴ)は故郷の町が麻薬などであまりにも物騒だから、親が彼女を安全なアメリカへと逃がすことを決めたらしい。モイセス(ガエル・ガルシア・ベルナル)はアメリカに息子を残してきていて、息子との約束を果たすために再び国境を越えることになる。
一方の自分勝手な独り自警団のサム(ジェフリー・ディーン・モーガン)は、自分の庭を荒らされたとばかりに不法移民たちを問答無用で殺していく。サムの背景が詳しく描かれるわけではないのだが、不法移民を許すことができない愛国者というよりも、自分の不幸を外部の敵のせいにしているだけのように見える。そんなサムもかつてはこの場所が好きだったとも愛犬に語ったりもしていて、アメリカが誇ったアメリカン・ドリームも「今は昔」で、そんな夢が誰にでも行き渡るほどの余裕がなくなったからこそ勝手に自国へ入り込んでくる移民のことが目障りになったのかもしれない。
※ 以下、ネタバレもあり!


サムの狂気が露わになってからは狙われた獲物たる移民たちはひたすら逃げるしかない。『ノー・エスケープ 自由への国境』は、ただそれだけで約90分間を見せてしまう。砂漠といっても本作の砂漠はゴツゴツとした岩山のアップダウンや、多少のサボテンなどもある。そうしたわずかな場所に身を隠したりしながらも逃げ続けるのだが、サムの相棒にはジャーマン・シェパードのトラッカーがいて、この忠犬は獲物の匂いを嗅ぎ取り、ものすごい勢いで獲物を追いつめていくからほとんど安堵できる場というものはない。トラッカーの荒野を走り抜ける乾いた足音がハラハラさせて、さすがに『ゼロ・グラビティ』ほどではなかったにしても初監督作としては要所を押さえていたんじゃないだろうか。
描写はなかなか容赦がなくて、ライフルの弾は移民たちの頭を破壊するし、トラッカーは移民の首元をカブリとやって息の根を止めてしまう。そんなサスペンスの一番の盛り上げ役でもあったトラッカーの最期もあまりに悲惨なもので、動物愛護団体の人が見たら卒倒するんじゃないかと思う。
それから主人公たるモイセスも、自分が助かるために傷を負ったアデラを置いてきぼりにして逃げてしまうという展開もシビアだった。それだけにラストの希望に満ちた描写がちょっと浮いているような気もする。モイセスが瀕死のアデラを抱えて見たハイウェイの光は果たして本物だったのだろうか。絶望のなかで幻影が見えてしまうというのは砂漠ではよくあるネタでもあるし、『ゼロ・グラビティ』においても主人公は幻影に救われた部分もあったわけで、モイセスの見たものも幻影だったのかもしれない。
主人公の名前がMoises(モイセス)というのは、ユダヤ教の預言者であるモーゼを意識しているのだろう。モーゼはユダヤ民族をエジプトから脱出させて砂漠へと導いたわけだが、その後ユダヤ民族は長らく砂漠を彷徨うことになる。そしてモーゼ自身はカナンの地へと入る前に亡くなることになるわけで、それを踏まえるとモイセスが見たのはやはり……。
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