『メッセージ』 避けられない事態をどう扱うか?

 監督は『複製された男』『ボーダーライン』などのドゥニ・ヴィルヌーヴ
 原作はテッド・チャン『あなたの人生の物語』
 原題は「Arrival」

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『メッセージ』 宇宙船はこの位置からは柿の種のように見えるのだが……。主人公のルイーズ(エイミー・アダムス)と同僚のイアン(ジェレミー・レナー)。

 異星人とのファーストコンタクトを描いた作品。人類が初めて出会った地球外生命体とのコミュニケーションを丁寧に描いていくのだが、そのことが主人公に何をもたらすことになるのかという部分が見どころとなっている。
 原作はSFの有名な賞を受賞している感動作なのだが、由緒正しきタコ型エイリアンはB級っぽくなりそうで敬遠されそうだし、重要な要素として映像化の難しい異星人の言語を扱っているために、映画化は難しいんじゃないかというのが大方の予想だったのではないだろうか。
 今回の映画版である『メッセージ』は原作の驚きの部分は残しつつ、異星人とのやり取りを巡る国際情勢なんかも取り入れてサスペンスフルな展開を見せる。ヘプタポッド(七本脚)と名付けられた異星人との遭遇場面では、彼らの声は『フラッシュバック・メモリーズ 3D』で演奏されていたディジュリドゥみたいに響き、それに合わされるヨハン・ヨハンソンの音楽は能舞台で聴く類いのもののようで妖しい雰囲気を演出していた。
 また主人公ルイーズ(エイミー・アダムス)が研究することになるヘプタポッドの文字は、墨汁で一筆書きに描いた円のような独特なものだったし、ヘプタポッドの乗る宇宙船(?)の造形は巨大な米粒のようでもあり柿の種のようでもあり、一部ではお菓子の「ばかうけ」に似ているとして話題を提供している。

 以下、原作と映画版の違いについて。ネタバレもあり!

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『メッセージ』 宇宙船内の謁見の間。透明な壁の向こうに異星人が現れる。


◆避けられない事態
 原作者のテッド・チャンはこの原作を「人が避けられない事態に対処する話」と要約している(文庫本の「作品覚え書き」より)。「避けられない事態」とはルイーズの場合は、彼女の娘ハンナが若くして亡くなってしまうことだろう。そして、原作ではその対処の仕方として物理学の変分原理(フェルマーの最小時間の原理)が持ち出されるわけだけれど、それによって「避けられない事態」がどうにかなるわけではない。ここが大きなポイントだろう。
 「避けられない事態」、これは一切変更することはできないのだ。不幸な未来が見えたからそれを回避するというのでは、それは現実とはまったく乖離した絵空事になってしまうわけで、原作は「避けられない事態」に関してはまったく変更していないのだ。
 一方の映画版である『メッセージ』を観ると、ルイーズの決断によって未来が変わったかのようにも見えてしまう。ルイーズは中国のシャン上将を翻意させることで地球や人類を救うことになるのだが、ルイーズの行動がきっかけとなってシャン上将が考えを変えたように見えてしまうのだ。

◆視点の差異
 また、原作と映画ではルイーズの視点にも違いがある。
 原作ではルイーズはすべてを見通した視点から語り始める。読者はルイーズがすべてのことが終わった時点から(つまりはハンナが死んだあとから)語っているのだと勘違いする。実際にはハンナを産む前の時点が現在時として示されていて、そこから物語は語られていることが明らかになる。
 映画版では視点がちょっと違う。冒頭にダイジェスト版でハンナの人生が描かれることになる。ここはすべてを見通した視点から描かれているのだが、その後の異星人が現れる部分から物語はルイーズが体験する現在時を辿っていくことになる。
 冒頭のハンナの人生はルイーズの過去の出来事だとミスリードされているわけだが、しばらくハンナは登場しない。ルイーズがヘプタポッドの独特な言語を少しずつ理解する段階になって、間歇的にハンナの姿が現れることになる。それでもルイーズはハンナの姿を自分の娘とは理解していない。徹夜続きの疲れた頭が見せた幻影か何かのようにしか見ていないのだ。そして、映画版ではルイーズが覚醒する瞬間が描かれ、それによってハンナの姿は実はルイーズの未来の出来事であると判明することになる。

 原作は過去を振り返るような視点で物語られるのに対し、映画版では冒頭以外はヘプタポッドとの交渉に従事するという現在がリアルタイムで追われていくことになる。原作はヘプタポッドのようにすべてを見通した視点から語られるのに、映画版では途中までは未来のことを知りえない人間的な視点で描かれていくのだ。
 人間的な視点では、原因があって結果があるという因果関係が重要だ。それまで戦争に傾いていた国際情勢がルイーズの行動によって変わったとなれば、ルイーズの行動が原因となって新しい結果が生じたと考えるのが普通だろう(だからこそ最後にルイーズがハンナを産むという決断をすることが感動的にもなるのだ)。
 しかし、実際にはルイーズの行動しなかった未来が示されるわけではないし、ルイーズが何を見ていたのかもわからないわけで、未来が変化したのかどうかはわからない。その後のシャン上将との会話ではルイーズは自分がやったことを把握していないかのようにも描かれているから、映画版でも一応はルイーズの選択によって未来が変わったのか否かという部分は曖昧にされているとも言える。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『メッセージ』 ヘプタポッドの文字。どころなくウロボロスを思わせなくもないような……。

◆因果律的/目的論的
 だが、原作では「未来を知ることは自由意志を持つことと両立しない」と明確に書かれているのだ。ルイーズの決断によってハンナが生まれるのであれば、未来は変えられることになり、未来を変えられるならばハンナが死なないことだってあり得るということになってしまうわけで、では最初に見たはずの未来は何だったのかということになってしまう。つまりはパラドックスが生じるわけだ。
 原作では「避けられない事態」はまったく変わらない。では何が変わるのかと言えば、ルイーズの認識である。原作者のテッド・チャンは変分原理というものでわれわれの考え方そのものを揺さぶることになる。
 人間は過去があって現在があり、その先に未来があると世界を把握している。そんな順番でしか理解できないのだ。原因があって結果が生じるというのが因果律で、人間はそれによって世界を把握しているからだ。したがって人間の言語も因果律に基づいていて、人間は物事を逐次的に把握していくことになる(逐次的認識様式)。
 ヘプタポッドの言語はそれとは異なる。現在・過去・未来を見通す彼らは、同時にそれらすべてを把握する。彼らにとって未来はすでに決まっている。その決まったところへ目的論的に進むことになる。ヘプタポッドにとってはすでに目的地はわかっていて、それに向かって最短の道筋を通るように進んでいくことになる。現在・過去・未来を同時に見通すならば、そんな世界の把握の仕方になるということだ(同時的認識様式)。
 因果律的な見方と目的論的な見方。それによって事象が異なるものになるわけではないし、「避けられない事態」にも何の変化もない。ただ、見方が異なると事象の捉え方も変わってくるのではないか。テッド・チャンはそんな別の視点を提示しているのだ。

◆ヘプタポッドとトラルファマドール星人
 テッド・チャン『あなたの人生の物語』は、カート・ヴォネガット『スローターハウス5』と比較して語られることも多い。というのも、ヘプタポッドのように現在・過去・未来のすべて見通す目を持っている異星人は『スローターハウス5』にすでに登場しているからだ。
 しかし、ヴォネガットはすべてを見通す異星人(トラルファマドール星人)の存在を主人公ビリーの妄想のように描いている。第二次大戦の生き残りであるビリーのPTSDが、現在も過去も未来も一緒くたにしてしまうという症状として表れているということだ。
 一方の『あなたの人生の物語』は、そんな異星人の認識を物理学で説明しようとするのだ。大森望によれば「トラルファマドール星人の時間意識に科学的裏付けを与えた話」ということになる。テッド・チャンは変分原理を利用して、人間とは別の見方もあり得るのだと読者を納得させることに成功しているのだ。

 すべてを見通す目を獲得したものの、「避けられない事態」はどうしようもない。結末を知っていながらもそれに向けて着々と生きていくというのでは自動人形と同じではないか。そんなツッコミも当然あるだろう。
 『スローターハウス5』はどちらかと言えば悲観的で、「そういうものだ」というつぶやきに特徴的なように諦念に満ちている。(*1)しかし『あなたの人生の物語』はもっと前向きなものを感じさせる。子供が何度も同じおとぎ話を聞きたがるように、積極的に同じ道筋を辿ることもあり得るのではないか。そんなことを思わせる読後感になっている。

 自由は幻想ではない。逐次的意識という文脈において、それは完璧な現実だ。同時的意識という文脈においては、自由は意味をなさないが、強制もまた意味をなさない。文脈が異なっているにすぎず、一方の妥当性が他方より優れているとか劣っているとかではない。    『あなたの人生の物語』 p.263


 「避けられない事態」というものは誰にでも起こりうる。その受け入れ方も様々だろう。たとえばルイーズのように大切な人を亡くした人はどうするだろうか? ギリシャ神話の時代なら冥界まで亡くなった人を迎えに行けばいいのかもしれないし、SF映画だったらタイムトラベルでもって遠い未来に行って解決策を探してくればいいのかもしれない。ただ、どちらもあまりに現実からはかけ離れているとも言える。
 そんななかで『あなたの人生の物語』は「避けられない事態」への対処方法として、とてもスマートな解釈をしてみせたということになると思う。見方が変われば「避けられない事態」はそのままに受け入れるということがあり得るかもしれないのだ。
 しかし、映画版ではそうした認識の変容を描くのは難しい。どうしても主人公のアクション(行動)として物語を描いていく必要があったわけで、変分原理の部分を省いて構成するほかなかったということだろう。映画版を先に見ていたとしたら絶賛していたのかもしれないのだけれど、原作が好きなものだから微妙な違いが気になった。とはいえ、この作品の設定において自由意志の有無は、大きな違いなんじゃないかとも思うのだ。

(*1) ヴォネガットは『スローターハウス5』において、「自由意志といったものが語られる世界は、地球だけだったよ」とトラルファマドール星人に語らせている。また、『タイムクエイク』は10年間の時が巻き戻され、もう一度同じ10年間を寸分違わずに繰り返すという話だが、この作品も自由意志が問題となっている。

『メッセージ』(オリジナル・サウンドトラック)


あなたの人生の物語


スローターハウス5 (ハヤカワ文庫SF ウ 4-3) (ハヤカワ文庫 SF 302)


タイムクエイク (ハヤカワ文庫SF)


スポンサーサイト
Date: 2017.05.28 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (12)

『ボーダーライン』 善悪の境界とは関係なく、ごく個人的な復讐

 『プリズナーズ』『複製された男』などのドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の最新作。
 原題は「Sicario」であり、スペイン語で「殺し屋」を意味する。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『ボーダーライン』 日本版のポスターのコピーはこんな感じ。


 誘拐事件を担当していたFBI捜査官のケイト・メイサー(エミリー・ブラント)は、捜査中に麻薬カルテルのアジトに踏み込み大量の死体を発見する。仕事の成果が評価されたケイトは国防総省のマット・グレイヴァー(ジョッシュ・ブローリン)の特殊チームに加わり、麻薬カルテル撲滅のための作戦に参加することとなる。

 冒頭から派手な展開で驚かせる。麻薬カルテルのアジトへの突入は家を壊さんばかりだし、そのアジトからは壁に埋め込まれた死体が次々と発見される。特殊チームに派遣されたケイトが連れて行かれるのはファレスというメキシコの街で、そこでは見せしめとして首がない死体が高架線から吊られていたりもする地獄のような場所だ。
 ケイトは自分が何をすべきかもまったくわからずにチームに編成され、何の説明もされずにただ引き回されることになる。ケイトの視点は麻薬カルテルや危険な国境地帯など知るはずもない観客の視点そのものとなっていて、重低音を響かせるヨハン・ヨハンソンの劇伴はいやがうえにも緊張感を煽り、何が起きるかわからない不安を駆り立てられたまま物語は進んでいく。

 ※ 以下、ネタバレもあり!


『ボーダーライン』 ケイトたち特殊チームはトンネルのなかへと入っていく。

 邦題は『ボーダーライン』となっていて、アメリカとメキシコの国境を思わせ、同時に善悪の境界をも示しているようだ。というのも、マットが率いる特殊チームは麻薬カルテルを潰すためには超法規的な捜査も辞さないからだ。チームのコンサルタントとされているアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)は、実は妻と娘を殺された私怨によって動いている殺し屋なわけで、アメリカはそれを知っていて利用しているのだ。
 何も知らないケイトは生真面目に法の遵守に忠実であろうとするのだが、結局マットたちには無視される。FBIのケイトが特殊チームに編成されているのはCIAの都合によるもので、ケイトはただその場にいることだけしか求められていないのだ。ケイトは観客のための案内役みたいなもので、本当の主人公Sicario(=殺し屋)であるアレハンドロが敵地へ乗り込んでからはほとんど役割を終えてしまうのだ。
 だからケイトが善悪などと悩んだところで意味がないわけで、邦題は余計なバイアスがかかったものと思えた。この作品では空撮を使って盛んに国境の街を映しているけれど、国境線の様子が強調されることはない。麻薬カルテルは国境線を無効化するトンネルを保持していて、ケイトたち特殊チームが地平線の下の暗闇へと消えていくあたりには境界線を感じなくもない(ロジャー・ディーキンスの撮影が見事)。ここではアメリカは善と悪のグレーのラインでうろついているというよりは、完全に黒に染まっているとも言えるのかもしれない。

 そんなわけでこの映画は善悪のボーダーラインに悩むケイトが主人公なのではなく、アレハンドロという男の復讐の物語なのだ。だからやはり原題の「Sicario」のほうがこの映画には相応しいだろう。麻薬カルテルのボスの屋敷に乗り込むアレハンドロの姿にはある種の美学みたいなものが感じられた。クライム・サスペンス映画としてとても見応えがある作品だったと思う。
 ちなみにこの作品には続編が計画されているらしい。その題名は「Sicario2」と予定されている。今回の作品のラストでケイトがアレハンドロを撃つことができなかったのは、アレハンドロのやり方を完全に否定できなかったからだろう。ケイトが続編でもさらにそんなボーダーラインに悩むとは考えにくいから、アレハンドロと共闘することになるのだろうか。
 それから妙に印象に残るメキシコ人警官のエピソードだけれど、ラストではその息子が銃声に耳を澄ましているわけで、親を殺されたその息子が新たな殺し屋になる可能性を示していたのかもしれず、もしかすると続編に絡んできたりもするのかもしれない。

ボーダーライン [Blu-ray]


ボーダーライン [DVD]


Date: 2016.04.14 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (12)

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『複製された男』 女という蜘蛛の巣

 原作はノーベル賞受賞作家ジョゼ・サラマーゴ。監督は『灼熱の魂』『プリズナーズ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『複製された男』 アダムとアンソニーの二役を演じわけるジェイク・ギレンホール


 歴史教師のアダム(ジェイク・ギレンホール)は同僚に薦められた映画を観て、自分とそっくりの役者を発見する。アンソニー(ジェイク・ギレンホールの二役)というその男は、身長・体重や声までアダムと瓜二つなのだ。アンソニーとは一体何者なのか?

 たとえば一卵性の双子ならばもともとの遺伝的形質は同じだが、アダムには兄弟すらいないはずだ。万が一、母親が嘘つきで本当は双子だったのだとしても、アダムはもう30代の大人であり、それだけの長い年月があれば、環境により違いが生じそうなものだが、ふたりは胸にできた傷痕までそっくり同じなのだ。だからこれは生き別れた双子の話ではない。彼らはまるでついさっき複製されたような存在なのだ。
 どこか哲学者・永井均が論じるような思考実験を思わせないでもない。自分とまったく同じ肉体と記憶を持つコピーが作製されたとして、それを自分と同じ存在として考えられるのだろうか? 自分が自分であることのすべてをそのコピーは持っているはずなのだけれど、やはりそれを自分とは認められないだろう。理由はともかく何となく嫌な感じがするからだ。そんな不気味な存在と出会ってしまうのが、『複製された男』という映画だ。
 果たしてどんな理由によってその男が複製されたのだろうか?

 ※ 以下、ネタバレもあり。

『複製された男』 トロントの街に巨大な蜘蛛が出現。画面の色合いも特徴的。

 この映画はそんな問いに答えるつもりはまったくないようだ。そもそも「複製された男」という題名すらミスリードなもので、アダムは複製などされていないのだ。『プリズナーズ』でも犯人探しとは別のところに物語の真意があったわけで、この映画も「複製された男」について最後まで合理的な説明があるわけではないし、そうした謎解きとは別なところに主題はあるようだ。私も観終わった直後は狐につままれたような感覚だったが、振り返ってみれば同じ写真をふたりが共有していたり、ヒントも与えられているし、濃密に構成された“わからなさ”には魅かれるものがある。
 公式サイトには、「ラストは口にするな」と言いながらも、監督自身の解釈が丁寧にも載せられている。たしかにそのように解釈すれば納得できるところも多いのだが、それですべて矛盾がないというものでもない。「カオスとは未解読の秩序である」というのが最初に引用される言葉だが、この言葉通り、この映画もカオスのままに留まっているのだろう。

 監督はこの映画を「1+1=1」という等式で説明している。この等式は『灼熱の魂』を説明することも可能なものであり、『複製された男』ではアダムもアンソニーも実は同じ人間だというのがオチだ。つまりアンソニーはアダムの幻想なのだ(だからといって辻褄が合うわけではないが)。
 冒頭の秘密クラブから始まって、蜘蛛のイメージはアダムを捕らえて離さない。この蜘蛛はラストでも唖然とさせてくれるわけだけれど、その象徴するものは女の存在に関わっている。アダムは歴史の授業で「支配の方法」について語っている(同じ台詞は二度も繰り返され強調される)。支配には教育や情報統制など様々な方法があるが、母親(イザベラ・ロッセリーニ)の手段は愛情と言えるだろう。アダムにとってそれは束縛であり、アダムは母親という女に支配されている。
 ちなみにレンタルビデオ屋のシーンでは、『妖怪巨大女』というC級映画のポスターが貼られている。この選択はもちろん監督の意図的なものだ。この巨大女というのは母親のような女であり、作品中に何度も現れる蜘蛛と同様のイメージなのだろう。
 母親はブルーベリーを食べることをアダムに勧めるが、アダムはそれを嫌っている。一方でアンソニーはブルーベリーを好んで食べている。アダムは母親の支配から逃れようと思い、アンソニーは受け入れているということだろう。また、メアリーという彼女(メラニー・ロラン)はいるけれども独身を通しているアダムに対して、アンソニーは結婚していて妻ヘレン(サラ・ガドン)が妊娠しているのも、アダムの支配から逃れようとする欲望を感じさせる。(*1)
 アダムはアンソニーとホテルで初めて相対したとき、「これは良くないことだ。間違ったことだ」と拒絶しているが、これは自分と同じ存在がいるという不快感ではなく、自分の隠された欲望を見せつけられたような不快感だったのだろう。最後には妻という蜘蛛の巣に絡め取られることを選ぶわけで、アダムがため息と共に安堵の表情を浮かべているようにも見えるのは、さらに逸脱していきそうな自分の欲望を、支配されることで押さえつけることに成功したことの安堵だったのかもしれない。

 砂塵にまみれたような黄色い画調が印象的な『複製された男』は、蜘蛛という象徴もあって、『渦』というヴィルヌーヴの過去作品を思い出させる。“渦”という象徴と青い水のイメージが鮮烈だった『渦』は、一度劇場で観ただけで詳細はほとんど覚えていないのだが、アマゾンでも中古品しか扱ってないようだ。昨年閉館した銀座テアトルでは、最後のラインナップに『渦』が入っていたし、やはり評判はよかったのだろう。ドゥニ・ヴィルヌーヴがこうして注目されていることだし、再ソフト化してほしいものだ。多分レンタル屋ではエロチック・サスペンスといった棚にひっそりと置かれることになるのかもしれないけれど……。

(*1) アダムとアンソニーの女の趣味は似通っている。妻役で妊婦ヌードを披露するサラ・ガドンも、彼女役のメラニー・ロランも、金髪碧眼という点は共通している。ただ妻はこれから母親という蜘蛛=巨大女になる存在であり、アダムはそうした支配から逃げ出したかったのだろう。

複製された男 (日本語、吹替用字幕付き) [Blu-ray]


複製された男 (日本語、吹替用字幕付き) [DVD]


ドゥニ・ヴィルヌーヴの作品
Date: 2014.07.26 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (8)
プロフィール

Nick

Author:Nick
新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

最新記事
最新トラックバック
最新コメント
月別アーカイブ
07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03 
カテゴリ
カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

タグクラウド

広告



検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
このブログをリンクに追加する
Powered By FC2ブログ


ブログランキングに参加しました。

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

QRコード
QR