『キャロル』 テレーズのまだ見ぬ世界は……
『ベルベット・ゴールドマイン』『エデンより彼方に』などのトッド・ヘインズの最新作。
原作は『リプリー』『殺意の迷宮』(映画版は『ギリシャに消えた嘘』)などのパトリシア・ハイスミス。

舞台は50年代のニューヨーク。高級百貨店でアルバイトとして働くテレーズ(ルーニー・マーラ)は、お客として現れたキャロル(ケイト・ブランシェット)に目を奪われる。キャロルもその視線に気づき、ふたりは売り子と客としてクリスマス・プレゼントを介して接する。たまたまキャロルが手袋を忘れ、それをテレーズが自宅へ郵送したことからふたりは親しくなっていく。
トッド・ヘインズあるいは脚本家のフィリス・ナジーは、この映画を同性愛を描いたものというよりも純粋な恋愛物として意識しているようだ。時代は50年代である。たとえば同じトッド・ヘインズの『エデンより彼方に』では、同性愛は病気として治療の対象となり差別的扱いを受けていたのだが、『キャロル』ではそんな他者からの目線は極力排除されている。
レストランにしても、旅先のモーテルの部屋にしても、ほとんどキャロルとテレーズだけで話は進んでいく。ふたりだけの世界なのだ。旅先で車のフロントガラスのなかにふたりが並んで映る姿によく表れているように、閉ざされた空間にいるために外部からの視線は感じられないのだ。
ふたりだけの世界だから純粋なふたりの恋愛がある。ただそうなると障害によって燃え上がったりすることもないわけなので、ふたりの間に交わされる感情はあまり熱を帯びたものには感じられなかった。キャロルは夫の家族との気取ったやりとりを嫌悪するけれど、テレーズとの関係がその反対側へと乱れていくということもなかったようだ。ふたりの関係はとても上品で、ベッド・シーンのルーニー・マーラの裸もあくまで美しいものとして描かれていて妙に淡白だった。


ここまでは原作のことに関しては触れなかったのだが、原作を読んでから映画版を観ると、原作にあった大事なものが抜け落ちているようにも感じられる。「映画は原作とは別物なのだから」とは以前にどこかでも書いたのだけれど、やはり気になるところもあるので……。
まず映画版ではキャロルのウェイトが大きいけれど、原作ではあくまでテレーズが主人公である。タイトルに“キャロル”の名前が付けられているのは、テレーズの羨望の対象としてキャロルがいるからだ。
映画版ではキャロルの周囲の人物には顔の見える登場人物(夫ハージや娘リンディ、元カノであるアビーなど)がいるが、テレーズの周囲の男たちは彼氏のリチャードも含めてほとんど個性がなくて印象に残らない。だからキャロルの抱えた問題ばかりに注意が向き、テレーズはキャロルに振り回される受身ばかりの人物に見えてしまう。
また、原作ではテレーズの憧れであるキャロルの反対側に、ミセス・ロビチェクという人物が配置されている。ミセス・ロビチェクは百貨店で働く老婦人だが、テレーズは彼女の醜さに嫌悪感を抱く。うら若きテレーズは自分が遠い将来ミセス・ロビチェクのような女になるかもしれないということを恐れているのだ。ここで描かれるのはまだ何も知らない若い女性の将来に対する不安だ。
そして一方では完璧な美と優雅さを兼ね備えたキャロルがいる。キャロルは憧れであり、恋の対象であり、テレーズが望むすべてなのだ。テレーズは自分の性的指向もわかっていないわけで、キャロルとの関係は大きな不安と淡い希望のなかにある。
さらにキャロルとの関係が先に進めば、夫の指示を受けた探偵の姿が現れ、ふたりの未来に不安の影を落とすようになる。こんなふうに原作では若きテレーズのまだ見ぬ世界への不安というものが丁寧に描かれているのだ。原作『キャロル』の解説では、原作者パトリシア・ハイスミスのことを「不安の詩人」(グレアム・グリーン)と評しているが、まさにその言葉通りの小説だったと思う。
そんな原作小説と比べると、映画版のテレーズは写真家としての将来をさほど心配していない様子だし、テレーズを演じたルーニー・マーラがあまりにかわいいからか、自分が醜い存在になるかもしれないなどとはゆめゆめ感じていないようなのだ。そんなわけでテレーズの関心はすべてがキャロルだけに向けられていて、純粋に恋愛だけにテーマを絞っているのかもしれないけれど、そうして描かれる恋愛は妙に淡白なわけで、ちょっともの足りないような印象ばかりが残った。



原作は『リプリー』『殺意の迷宮』(映画版は『ギリシャに消えた嘘』)などのパトリシア・ハイスミス。

舞台は50年代のニューヨーク。高級百貨店でアルバイトとして働くテレーズ(ルーニー・マーラ)は、お客として現れたキャロル(ケイト・ブランシェット)に目を奪われる。キャロルもその視線に気づき、ふたりは売り子と客としてクリスマス・プレゼントを介して接する。たまたまキャロルが手袋を忘れ、それをテレーズが自宅へ郵送したことからふたりは親しくなっていく。
トッド・ヘインズあるいは脚本家のフィリス・ナジーは、この映画を同性愛を描いたものというよりも純粋な恋愛物として意識しているようだ。時代は50年代である。たとえば同じトッド・ヘインズの『エデンより彼方に』では、同性愛は病気として治療の対象となり差別的扱いを受けていたのだが、『キャロル』ではそんな他者からの目線は極力排除されている。
レストランにしても、旅先のモーテルの部屋にしても、ほとんどキャロルとテレーズだけで話は進んでいく。ふたりだけの世界なのだ。旅先で車のフロントガラスのなかにふたりが並んで映る姿によく表れているように、閉ざされた空間にいるために外部からの視線は感じられないのだ。
ふたりだけの世界だから純粋なふたりの恋愛がある。ただそうなると障害によって燃え上がったりすることもないわけなので、ふたりの間に交わされる感情はあまり熱を帯びたものには感じられなかった。キャロルは夫の家族との気取ったやりとりを嫌悪するけれど、テレーズとの関係がその反対側へと乱れていくということもなかったようだ。ふたりの関係はとても上品で、ベッド・シーンのルーニー・マーラの裸もあくまで美しいものとして描かれていて妙に淡白だった。


ここまでは原作のことに関しては触れなかったのだが、原作を読んでから映画版を観ると、原作にあった大事なものが抜け落ちているようにも感じられる。「映画は原作とは別物なのだから」とは以前にどこかでも書いたのだけれど、やはり気になるところもあるので……。
まず映画版ではキャロルのウェイトが大きいけれど、原作ではあくまでテレーズが主人公である。タイトルに“キャロル”の名前が付けられているのは、テレーズの羨望の対象としてキャロルがいるからだ。
映画版ではキャロルの周囲の人物には顔の見える登場人物(夫ハージや娘リンディ、元カノであるアビーなど)がいるが、テレーズの周囲の男たちは彼氏のリチャードも含めてほとんど個性がなくて印象に残らない。だからキャロルの抱えた問題ばかりに注意が向き、テレーズはキャロルに振り回される受身ばかりの人物に見えてしまう。
また、原作ではテレーズの憧れであるキャロルの反対側に、ミセス・ロビチェクという人物が配置されている。ミセス・ロビチェクは百貨店で働く老婦人だが、テレーズは彼女の醜さに嫌悪感を抱く。うら若きテレーズは自分が遠い将来ミセス・ロビチェクのような女になるかもしれないということを恐れているのだ。ここで描かれるのはまだ何も知らない若い女性の将来に対する不安だ。
そして一方では完璧な美と優雅さを兼ね備えたキャロルがいる。キャロルは憧れであり、恋の対象であり、テレーズが望むすべてなのだ。テレーズは自分の性的指向もわかっていないわけで、キャロルとの関係は大きな不安と淡い希望のなかにある。
さらにキャロルとの関係が先に進めば、夫の指示を受けた探偵の姿が現れ、ふたりの未来に不安の影を落とすようになる。こんなふうに原作では若きテレーズのまだ見ぬ世界への不安というものが丁寧に描かれているのだ。原作『キャロル』の解説では、原作者パトリシア・ハイスミスのことを「不安の詩人」(グレアム・グリーン)と評しているが、まさにその言葉通りの小説だったと思う。
そんな原作小説と比べると、映画版のテレーズは写真家としての将来をさほど心配していない様子だし、テレーズを演じたルーニー・マーラがあまりにかわいいからか、自分が醜い存在になるかもしれないなどとはゆめゆめ感じていないようなのだ。そんなわけでテレーズの関心はすべてがキャロルだけに向けられていて、純粋に恋愛だけにテーマを絞っているのかもしれないけれど、そうして描かれる恋愛は妙に淡白なわけで、ちょっともの足りないような印象ばかりが残った。
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